エピローグ
エピローグ
巨大なガラスの向こうに、滑走路が広がっている。エンジン音とアナウンスが交互に響く中、ロビーの椅子に並んで腰かける人々は、それぞれの物語を抱えていた。
藍良の引くキャリーケースの音について行きながら、一彩は自分の背にあるバックパックを背負い直す。
電光掲示板には世界中の都市の名前がずらりと並んでいた。チェックインカウンターの前では荷物の最終確認をする観光客や、パスポートを握りしめて不安そうにしている子ども、スマホで連絡をとるビジネスマンがいる。
その雑多な風景の中に、自分たちも混じっている。どこにでもいる「旅人」として。
だけど一彩の胸の奥には、ほんの少しだけ、秘密を持っているようなくすぐったさがあった。
いつもとは違う空気の密度と、胸の奥を押してくる小さな緊張感。ここは、日常の外にある空間だ。
一彩は藍良を頼りながらチェックインを済ませ、カフェカウンターで搭乗時間を待つ。
「楽しみだねェ、付いて来てくれてありがと、ヒロくん」
「約束だからね」
店員からサーブされたコーヒーを受け取り、一彩は息を吹きかけて温度を確かめる。
——いつか、一緒にフランスについて来て。
あの夜一彩が受け止めた、藍良の願い。それは、藍良の母方の祖母がいるフランスへ一緒に行くことだった。
振り返らずに走ってほしいといわれたあの夜、決意を固めるためのお守りとして、藍良の願いを聞いた。そうすれば、藍良が追いかけてくれると思ったから。追いついたとしても、願いを叶えるという約束を二人で確かめられるからだ。
藍良は自己プロデュースを重ねて、写真集の仕事を掴んだ。数か月前のライブフェスには、いつもお世話になっているというメディア関係者を招いていたらしい。その人が、藍良をフランスのメディアに紹介してくれたのだと聞いた。
そこから繋がった縁で、駆け出しのデザイナーたちが参加する企画に、モデルとして関わることになったそうだ。
撮影は日本で行われるのだが、藍良はフランスのファッション文化を肌で感じ、学ぶために旅行を決めた。
顔を赤らめながら、休みのスケジュールを相談してきた藍良を思わず抱きしめたのはついこの間のことだ。
カフェの席で藍良がスマホを取り出した。画面には、グループチャットの未読や通知がいくつか並んでいる。
一彩は隣でそれを横目に見ながら、黙ってコーヒーを啜った。
藍良の指が、慣れた手つきでメッセージを返していく。写真集の進行スケジュールや、次の撮影について。スタッフの言葉を確認する顔は、すっかり“アイドル・白鳥藍良”のそれになっていた。
休暇中にも仕事の連絡をしなければならないもどかしさは、一彩にも理解できる。けれど。
ふと胸の奥に、拗ねた気持ちが湧いてくる。だがそれは嫉妬というよりも、この旅の意味を知っているからこその、ささやかな独占欲だった。
「……藍良」
呼びかけると、スマホから顔を上げた。
隣にいる藍良の存在を、少しだけ独り占めしたくなった。
「この旅行の間だけは、僕だけの藍良でいて」
藍良はぱちりとまつげを揺らして、ほんのり頬を赤らめた。
「……調子に乗るな」
小さく笑ってスマホを閉じる。行き場を探している手を捕まえて、しっかり握った。藍良がちらりと周囲を確認する。
その流れのまま、ふたりの距離が、そっと近づいた。
周りのざわめきに紛れて、触れるだけのキスを交わす。
コーヒーの香りのなかに、かすかに感じるレモンの香り。それは一彩の胸にじんわりと染み込んでいった。
ほんの一瞬の、でも永遠に覚えていたい感触。
藍良の体温も、睫毛の影も、視線の奥のまっすぐな光も。
すべてが、今の自分の心を満たしていた。
——藍良は僕のこと、好き?
あの時した独りよがりな質問。今はもう、答えを聞かなくてもわかる。
触れた唇が、そのすべてを教えてくれた。
きっとこの旅の間に、もっとたくさん知るのだろう。藍良のことも、自分のことも。
お互いの足りないところも、それを補える物を二人が持っていることも。
搭乗案内のアナウンスが流れた。
「——じゃ、行こっか」
藍良が一彩の手を取る。
握られた手のあたたかさに、一彩はそっと力を込めた。
今だけじゃなく、この先も。
手を繋いだり、離れたり、ときにはすれ違ったりすることもあるだろう。
でもそのたびに、また隣に戻ってこられる関係でいたい。
そう願えるほどに、一彩にとって藍良は、まっすぐで、気まぐれで、誰よりも愛しい存在だった。
泣いて、笑って、怒って、全部を見せてくれる人。
そんな藍良と、一緒に歩いていけることが、一彩にとっての願いであり、幸せだった。
歩幅が揃わなくても、見ている景色が違っていてもかまわない。
それでもきっと、一緒に前へと進んでいける。
アイドルとしても、ひとりの人間としても。
隣に、藍良がいてくれるなら。
誰よりも大切な、たった一人の特別な人。
この旅は始まりで、終わりではない。
夢の続きを迎えに行くような気持ちで、一彩は藍良と並んで歩き出した。
Les Monique -レモニカ-
おわり
巨大なガラスの向こうに、滑走路が広がっている。エンジン音とアナウンスが交互に響く中、ロビーの椅子に並んで腰かける人々は、それぞれの物語を抱えていた。
藍良の引くキャリーケースの音について行きながら、一彩は自分の背にあるバックパックを背負い直す。
電光掲示板には世界中の都市の名前がずらりと並んでいた。チェックインカウンターの前では荷物の最終確認をする観光客や、パスポートを握りしめて不安そうにしている子ども、スマホで連絡をとるビジネスマンがいる。
その雑多な風景の中に、自分たちも混じっている。どこにでもいる「旅人」として。
だけど一彩の胸の奥には、ほんの少しだけ、秘密を持っているようなくすぐったさがあった。
いつもとは違う空気の密度と、胸の奥を押してくる小さな緊張感。ここは、日常の外にある空間だ。
一彩は藍良を頼りながらチェックインを済ませ、カフェカウンターで搭乗時間を待つ。
「楽しみだねェ、付いて来てくれてありがと、ヒロくん」
「約束だからね」
店員からサーブされたコーヒーを受け取り、一彩は息を吹きかけて温度を確かめる。
——いつか、一緒にフランスについて来て。
あの夜一彩が受け止めた、藍良の願い。それは、藍良の母方の祖母がいるフランスへ一緒に行くことだった。
振り返らずに走ってほしいといわれたあの夜、決意を固めるためのお守りとして、藍良の願いを聞いた。そうすれば、藍良が追いかけてくれると思ったから。追いついたとしても、願いを叶えるという約束を二人で確かめられるからだ。
藍良は自己プロデュースを重ねて、写真集の仕事を掴んだ。数か月前のライブフェスには、いつもお世話になっているというメディア関係者を招いていたらしい。その人が、藍良をフランスのメディアに紹介してくれたのだと聞いた。
そこから繋がった縁で、駆け出しのデザイナーたちが参加する企画に、モデルとして関わることになったそうだ。
撮影は日本で行われるのだが、藍良はフランスのファッション文化を肌で感じ、学ぶために旅行を決めた。
顔を赤らめながら、休みのスケジュールを相談してきた藍良を思わず抱きしめたのはついこの間のことだ。
カフェの席で藍良がスマホを取り出した。画面には、グループチャットの未読や通知がいくつか並んでいる。
一彩は隣でそれを横目に見ながら、黙ってコーヒーを啜った。
藍良の指が、慣れた手つきでメッセージを返していく。写真集の進行スケジュールや、次の撮影について。スタッフの言葉を確認する顔は、すっかり“アイドル・白鳥藍良”のそれになっていた。
休暇中にも仕事の連絡をしなければならないもどかしさは、一彩にも理解できる。けれど。
ふと胸の奥に、拗ねた気持ちが湧いてくる。だがそれは嫉妬というよりも、この旅の意味を知っているからこその、ささやかな独占欲だった。
「……藍良」
呼びかけると、スマホから顔を上げた。
隣にいる藍良の存在を、少しだけ独り占めしたくなった。
「この旅行の間だけは、僕だけの藍良でいて」
藍良はぱちりとまつげを揺らして、ほんのり頬を赤らめた。
「……調子に乗るな」
小さく笑ってスマホを閉じる。行き場を探している手を捕まえて、しっかり握った。藍良がちらりと周囲を確認する。
その流れのまま、ふたりの距離が、そっと近づいた。
周りのざわめきに紛れて、触れるだけのキスを交わす。
コーヒーの香りのなかに、かすかに感じるレモンの香り。それは一彩の胸にじんわりと染み込んでいった。
ほんの一瞬の、でも永遠に覚えていたい感触。
藍良の体温も、睫毛の影も、視線の奥のまっすぐな光も。
すべてが、今の自分の心を満たしていた。
——藍良は僕のこと、好き?
あの時した独りよがりな質問。今はもう、答えを聞かなくてもわかる。
触れた唇が、そのすべてを教えてくれた。
きっとこの旅の間に、もっとたくさん知るのだろう。藍良のことも、自分のことも。
お互いの足りないところも、それを補える物を二人が持っていることも。
搭乗案内のアナウンスが流れた。
「——じゃ、行こっか」
藍良が一彩の手を取る。
握られた手のあたたかさに、一彩はそっと力を込めた。
今だけじゃなく、この先も。
手を繋いだり、離れたり、ときにはすれ違ったりすることもあるだろう。
でもそのたびに、また隣に戻ってこられる関係でいたい。
そう願えるほどに、一彩にとって藍良は、まっすぐで、気まぐれで、誰よりも愛しい存在だった。
泣いて、笑って、怒って、全部を見せてくれる人。
そんな藍良と、一緒に歩いていけることが、一彩にとっての願いであり、幸せだった。
歩幅が揃わなくても、見ている景色が違っていてもかまわない。
それでもきっと、一緒に前へと進んでいける。
アイドルとしても、ひとりの人間としても。
隣に、藍良がいてくれるなら。
誰よりも大切な、たった一人の特別な人。
この旅は始まりで、終わりではない。
夢の続きを迎えに行くような気持ちで、一彩は藍良と並んで歩き出した。
Les Monique -レモニカ-
おわり