第九話「白き百合、追憶の街角」
まどろみのひと時が、私にとっては何にも変えがたい時間だった。
どこに行くでもなく、傍らにある貴方の、その強い瞳を見つめながら花を摘む。
ただ見つめているだけで良かった。それこそが救いであった。
なのに。貴方はいなくなってしまった。
無機質な、石造りの城。だが、丸みを帯びた石肌には優しさが見える。
そこは、大平原に佇む、悠然たるヴァイス王国の名もなき城。
守るべき者、統べるべき者がいなくなったからと言って、城はまだ死んだわけではないのだ。
それはまるで、誰かの帰りを待っているかのように、しっかりと平原の彼方を見つめている。
遠くで、ゆっくりと歌う鳥の声が小さい。あれはきっと、どこかへ旅立つ鳥の声だ。
地平線の彼方から伝わってくる、得も知れぬ切なさを見つめ、人々は目を細めた。
吐く息が、まだ少しふんわりと白くなる。季節がすっかり変わってしまったことが分かった。
先ほどの鳥も、春の季節を迎えたことに気付き、喜びに震えたのだろう。
その日、ヴァイスの城は、いつもより少しだけ、夜明けの早さを感じていた。
まだ火の入りきらない長い回廊を、忍び足で歩く影がひとつ。音に気を遣う足取りが、滑稽な音楽のように城に響いていた。
星がまだ、夜に捉われたまま輝く東の空に、一番目の白い鳩が飛んでいく。鳴き声なく、朝を知らせる羽音に目を向ける見張りの兵士が、退屈そうに溜息を吐いた。
兵士は、人影に気付いているのだろうか。ちら、と回廊の方を見つめたその兵士だったが、まるで何事もなかったかのように背伸びをすると、再び表情を引き締めた。
調子をよくしたその人影は、速さを増して回廊を行く。曲がり角を滑るように走り、いくつかある扉の前で、申し訳程度に速さを緩めては一人笑う。
そうやって、ある部屋の前にたどり着いた時に、影は諸手を上げて叫ぶのだった。
「おっはよーございマスー!! ヒィル君!!」
レオンの高らかな声が、城中に響く。手に持っていた銀の鍵を扉に差し込んで回し、レオンは勢いよく部屋へと押し入った。
部屋の中に置かれたベッドには、毛布にくるまって眠る男が一人。紅い髪を模様のように広げて、すやすやと眠っている。
「……おや」
あれだけの大声と騒音の中、部屋の主であるヒルは、全くといっていいほど起きる気配がない。
ベッド脇まで歩み寄ったレオンは、彼の顔を覗きこんで、口を尖らせた。
「ヒルくーん。朝デスよ朝。オーーイ」
耳元で囁いてみるが、それでもヒルは寝息を立てたままだった。
レオンは一考した後、近くに放ってある本を一冊手に取った。
「起きてクダサイ!」
分厚い歴史書を、ヒルの頭上に振り下ろす。だが、ヒルは丁度寝返りをうち、反対側に向いてしまう。
「わざとらしい」と吐き捨てて、レオンは本の角でヒルを突いた。
「遅くまで仕事をしてくれた次の日で申し訳ないんデスけどね、今日はこの時間に起きてもらわないと困るんデスよ」
「ん……」
「君が起こせって言ったんデスよー。君が」
そこまで言い切って、ヒルはやっと薄く目を開く。
壁を虚ろに見つめた後、のっそりとした動きでレオンの方へと振り返った。
「レオンか……」
「なんて格好で寝てるんデスか。風邪引きマスよそれ」
呆れ顔のレオンを、霞んだ視界の中で見つめながら、ヒルは笑った。
「昨日寝たのが、二時過ぎだった。さすがに眠いな」
「寝させてあげたいんデスけどね、困るデショ、君が」
部屋の外は、まだ暗い。ひんやりとした空気が漂う窓の方に目を向けたレオンは、にっこりと笑った。
「行くんデショ。リーリエに」
* * *
ユア・ラムダに出発する日が決まる少し前、ヒルとレオンは、ヴァイスの周辺都市の整備を進めていた。人手も、資金源も足りない今の状況だが、せっかくの常春。今のうちに、蘇った都市を視察しておこうというわけだ。
何しろ、とてつもなく長い時間を、氷の中に閉じ込められていたのだから、きっと建物は傷み放題の筈。これからの事を考えると頭が痛いと唸るレオンの横で、ライザーが鼻を鳴らした。
「東の要所か。なんか潮臭ぇ記憶しかねえな」
日が出る前、談話室に用意された紅茶を飲みながら、ライザーは言った。
深い薔薇色のソファーに腰を深く沈め、けだるげに目を細める。
「海に近いの? でも、地図にある、これは何」
ライザーのすぐ傍のソファに座るリリスティアが、古びた地図を指差して言う。
リーリエと記された都市の東側には、無数の黒点が記されていた。
「それは岩礁だな。海面より出ているこの岩のおかげで、海岸に船をつけることは難しい。海からの攻撃を防いでくれているこれは、いわば城壁代わりだな」
リリスティアの肩の上から腕を伸ばし、ヒルが説明をする。
ヒルを見上げ、リリスティアは不思議そうに目を丸くした。
「海からの攻撃が過去にあったの?」
「まあ、相手は人間ではなかったが」
「まあまあそれより、さっさとお茶を終わらせて出発してクダサイよ。日の出前に着きたいって言ってたじゃないデスか」
話を遮るように、レオンが言う。
「そうだな。というわけでリリスティア、俺はリーリエに視察に行って来る。すまないが、城でちゃんと勉強をしていてくれよ」
「私が勉強嫌いみたいに言うな」
「嫌いだろ、実際。まあ分からないことがあれば、……俺がなんでも教えてやるから」
「い、いちいち耳元で言わなくても聞こえてる!」
耳を押さえながら身をよじらせるリリスティアに、ヒルは機嫌の良い顔を見せる。満足げにリリスティアの頭を撫でると、部屋からさっと出て行った。
既に出かける用意の整った服装と、腰に提げられた剣。それらが綺麗にまとまった様を見送りながら、リリスティアは密かに眉を下げた。
「気になるんならついていけよ」
刺すような口調で、ライザーが呟く。視線は、地図に定めたままだ。
「別にヒルの事は気になんて……」
「あ? そうじゃなくてリーリエ。東の要所だろ。見てきてもいいんじゃねえか」
かっと頬が熱くなるのを感じたリリスティアは、自分を叱咤するように咳払いをした。
「……行く予定は、ちゃんとレオンが組んでくれている。今日の私がすることは、勉強だ」
「そそ。陛下はまだまだひよこのひよちゃんなので、今日は俺とお勉強デス」
紅茶を飲み干したレオンが、嬉しそうに言う。
やるべきことだと分かってはいても、リリスティアは少々自信の無い顔を見せた。
「あの、レオン。私……午後から、昴と剣の」
「君が今鍛えるべきは頭の筋肉デス。よろしく」
ぴしゃりと話を切るレオンを、リリスティアは恨めしく見つめた。
そんなリリスティアを見ながら、ライザーは妙な懐かしさを感じていた。
勉強を嫌がる相手に、毅然とした態度で臨むレオン。それを、ぼうっと見つめる自分というこの空間に、ライザーは覚えがあった。
リリスティアに重なる、在りし日の妹の姿。今はもういない、家族の影を思い出し、苦くなった紅茶を啜った。
* * *
リリスティアとレオンが、勉強の為に執務室にこもったのは、あの後すぐだった。
ミリアはにこにことして、良い香りの紅茶を運んでいく。すれ違いざまに、「懐かしいですね」と呟かれたライザーは、どういう顔をすればいいか分からなくなってしまった。
ライザーの家族は、もういない。あの屋敷には、もうずっと前から、ライザーとミリアと、数人の侍従が住んでいるだけだった。
厳しい氷の世界を生き抜く為、日々の生活は苦労も多かったが、それ以上に孤独を感じる機会が、圧倒的に多い。
静かに燃える暖炉の火が、わざとらしく大きく響く大広間。飛び出してはすぐに消える火の粉を見ていると、まるで命のようだと、詩的な思いを持つこともあった。
早起きをしすぎたかと、欠伸をひとつ。もう少しすれば必要のなくなる暖炉の灯りをぼうっと見つめながら、ライザーは瞼を閉じた。
「おっはよ~!! キンパツ! 朝だよ朝~!!」
間延びした高い声に、瞳をきつく見開く。ライザーの、あからさまな機嫌の悪い顔など気にすることもなく、声の主は歩み寄ってきた。
「超早起きじゃ~ん。寝起きいいんだ?」
「朝っぱらからぎゃんぎゃんぎゃんぎゃんうっせえんだよお前は! 何か用か!」
「たまたま通りかかっただけじゃん。それとも、あたしはここに来ちゃいけないの~?」
どこに行くでもなく、傍らにある貴方の、その強い瞳を見つめながら花を摘む。
ただ見つめているだけで良かった。それこそが救いであった。
なのに。貴方はいなくなってしまった。
無機質な、石造りの城。だが、丸みを帯びた石肌には優しさが見える。
そこは、大平原に佇む、悠然たるヴァイス王国の名もなき城。
守るべき者、統べるべき者がいなくなったからと言って、城はまだ死んだわけではないのだ。
それはまるで、誰かの帰りを待っているかのように、しっかりと平原の彼方を見つめている。
遠くで、ゆっくりと歌う鳥の声が小さい。あれはきっと、どこかへ旅立つ鳥の声だ。
地平線の彼方から伝わってくる、得も知れぬ切なさを見つめ、人々は目を細めた。
吐く息が、まだ少しふんわりと白くなる。季節がすっかり変わってしまったことが分かった。
先ほどの鳥も、春の季節を迎えたことに気付き、喜びに震えたのだろう。
その日、ヴァイスの城は、いつもより少しだけ、夜明けの早さを感じていた。
まだ火の入りきらない長い回廊を、忍び足で歩く影がひとつ。音に気を遣う足取りが、滑稽な音楽のように城に響いていた。
星がまだ、夜に捉われたまま輝く東の空に、一番目の白い鳩が飛んでいく。鳴き声なく、朝を知らせる羽音に目を向ける見張りの兵士が、退屈そうに溜息を吐いた。
兵士は、人影に気付いているのだろうか。ちら、と回廊の方を見つめたその兵士だったが、まるで何事もなかったかのように背伸びをすると、再び表情を引き締めた。
調子をよくしたその人影は、速さを増して回廊を行く。曲がり角を滑るように走り、いくつかある扉の前で、申し訳程度に速さを緩めては一人笑う。
そうやって、ある部屋の前にたどり着いた時に、影は諸手を上げて叫ぶのだった。
「おっはよーございマスー!! ヒィル君!!」
レオンの高らかな声が、城中に響く。手に持っていた銀の鍵を扉に差し込んで回し、レオンは勢いよく部屋へと押し入った。
部屋の中に置かれたベッドには、毛布にくるまって眠る男が一人。紅い髪を模様のように広げて、すやすやと眠っている。
「……おや」
あれだけの大声と騒音の中、部屋の主であるヒルは、全くといっていいほど起きる気配がない。
ベッド脇まで歩み寄ったレオンは、彼の顔を覗きこんで、口を尖らせた。
「ヒルくーん。朝デスよ朝。オーーイ」
耳元で囁いてみるが、それでもヒルは寝息を立てたままだった。
レオンは一考した後、近くに放ってある本を一冊手に取った。
「起きてクダサイ!」
分厚い歴史書を、ヒルの頭上に振り下ろす。だが、ヒルは丁度寝返りをうち、反対側に向いてしまう。
「わざとらしい」と吐き捨てて、レオンは本の角でヒルを突いた。
「遅くまで仕事をしてくれた次の日で申し訳ないんデスけどね、今日はこの時間に起きてもらわないと困るんデスよ」
「ん……」
「君が起こせって言ったんデスよー。君が」
そこまで言い切って、ヒルはやっと薄く目を開く。
壁を虚ろに見つめた後、のっそりとした動きでレオンの方へと振り返った。
「レオンか……」
「なんて格好で寝てるんデスか。風邪引きマスよそれ」
呆れ顔のレオンを、霞んだ視界の中で見つめながら、ヒルは笑った。
「昨日寝たのが、二時過ぎだった。さすがに眠いな」
「寝させてあげたいんデスけどね、困るデショ、君が」
部屋の外は、まだ暗い。ひんやりとした空気が漂う窓の方に目を向けたレオンは、にっこりと笑った。
「行くんデショ。リーリエに」
* * *
ユア・ラムダに出発する日が決まる少し前、ヒルとレオンは、ヴァイスの周辺都市の整備を進めていた。人手も、資金源も足りない今の状況だが、せっかくの常春。今のうちに、蘇った都市を視察しておこうというわけだ。
何しろ、とてつもなく長い時間を、氷の中に閉じ込められていたのだから、きっと建物は傷み放題の筈。これからの事を考えると頭が痛いと唸るレオンの横で、ライザーが鼻を鳴らした。
「東の要所か。なんか潮臭ぇ記憶しかねえな」
日が出る前、談話室に用意された紅茶を飲みながら、ライザーは言った。
深い薔薇色のソファーに腰を深く沈め、けだるげに目を細める。
「海に近いの? でも、地図にある、これは何」
ライザーのすぐ傍のソファに座るリリスティアが、古びた地図を指差して言う。
リーリエと記された都市の東側には、無数の黒点が記されていた。
「それは岩礁だな。海面より出ているこの岩のおかげで、海岸に船をつけることは難しい。海からの攻撃を防いでくれているこれは、いわば城壁代わりだな」
リリスティアの肩の上から腕を伸ばし、ヒルが説明をする。
ヒルを見上げ、リリスティアは不思議そうに目を丸くした。
「海からの攻撃が過去にあったの?」
「まあ、相手は人間ではなかったが」
「まあまあそれより、さっさとお茶を終わらせて出発してクダサイよ。日の出前に着きたいって言ってたじゃないデスか」
話を遮るように、レオンが言う。
「そうだな。というわけでリリスティア、俺はリーリエに視察に行って来る。すまないが、城でちゃんと勉強をしていてくれよ」
「私が勉強嫌いみたいに言うな」
「嫌いだろ、実際。まあ分からないことがあれば、……俺がなんでも教えてやるから」
「い、いちいち耳元で言わなくても聞こえてる!」
耳を押さえながら身をよじらせるリリスティアに、ヒルは機嫌の良い顔を見せる。満足げにリリスティアの頭を撫でると、部屋からさっと出て行った。
既に出かける用意の整った服装と、腰に提げられた剣。それらが綺麗にまとまった様を見送りながら、リリスティアは密かに眉を下げた。
「気になるんならついていけよ」
刺すような口調で、ライザーが呟く。視線は、地図に定めたままだ。
「別にヒルの事は気になんて……」
「あ? そうじゃなくてリーリエ。東の要所だろ。見てきてもいいんじゃねえか」
かっと頬が熱くなるのを感じたリリスティアは、自分を叱咤するように咳払いをした。
「……行く予定は、ちゃんとレオンが組んでくれている。今日の私がすることは、勉強だ」
「そそ。陛下はまだまだひよこのひよちゃんなので、今日は俺とお勉強デス」
紅茶を飲み干したレオンが、嬉しそうに言う。
やるべきことだと分かってはいても、リリスティアは少々自信の無い顔を見せた。
「あの、レオン。私……午後から、昴と剣の」
「君が今鍛えるべきは頭の筋肉デス。よろしく」
ぴしゃりと話を切るレオンを、リリスティアは恨めしく見つめた。
そんなリリスティアを見ながら、ライザーは妙な懐かしさを感じていた。
勉強を嫌がる相手に、毅然とした態度で臨むレオン。それを、ぼうっと見つめる自分というこの空間に、ライザーは覚えがあった。
リリスティアに重なる、在りし日の妹の姿。今はもういない、家族の影を思い出し、苦くなった紅茶を啜った。
* * *
リリスティアとレオンが、勉強の為に執務室にこもったのは、あの後すぐだった。
ミリアはにこにことして、良い香りの紅茶を運んでいく。すれ違いざまに、「懐かしいですね」と呟かれたライザーは、どういう顔をすればいいか分からなくなってしまった。
ライザーの家族は、もういない。あの屋敷には、もうずっと前から、ライザーとミリアと、数人の侍従が住んでいるだけだった。
厳しい氷の世界を生き抜く為、日々の生活は苦労も多かったが、それ以上に孤独を感じる機会が、圧倒的に多い。
静かに燃える暖炉の火が、わざとらしく大きく響く大広間。飛び出してはすぐに消える火の粉を見ていると、まるで命のようだと、詩的な思いを持つこともあった。
早起きをしすぎたかと、欠伸をひとつ。もう少しすれば必要のなくなる暖炉の灯りをぼうっと見つめながら、ライザーは瞼を閉じた。
「おっはよ~!! キンパツ! 朝だよ朝~!!」
間延びした高い声に、瞳をきつく見開く。ライザーの、あからさまな機嫌の悪い顔など気にすることもなく、声の主は歩み寄ってきた。
「超早起きじゃ~ん。寝起きいいんだ?」
「朝っぱらからぎゃんぎゃんぎゃんぎゃんうっせえんだよお前は! 何か用か!」
「たまたま通りかかっただけじゃん。それとも、あたしはここに来ちゃいけないの~?」