第八話「月下、孤独の盾を棄てて」

 再度小さく彼の名を呼んでみる。すると、ヒルはやっとその腕の力を緩め、リリスティアの背中に回していた両手を二の腕に滑らせ、距離を置いた。

「悪い。けど、本当に嬉しいんだ。使命を果たせるから」

 そう言うヒルの瞳は、申し訳なさそうに歪んでいた。
 それに、何故か辛そうに見えるのは気のせいか。リリスティアはどう答えていいか分からず、無言で頷いた。二の腕に置かれたままの手のひらは熱く、自然とまたリリスティアの頬が紅潮する。

「お前は私に軽はずみな行動を取りすぎる」

「え?」

「変なことを言ったり、今みたいに抱きしめたり。そんなことをするものじゃないでしょう。そ、その……王と家臣……なのに」

 言いながらも、リリスティアの顔はますます熱を帯びる。
 ヒルはそれの言い訳を探す為黙り込むでもなく、すぐに言葉を返した。

「王と家臣なら、抱きしめ合ってはいけないのか?」

「そうではなくて!」

「普通だろう。お前も、いつでもしたい時に触れてくれていい。俺に」

「はぁ!?」

 リリスティアはつい素っ頓狂な声を上げてしまい、気が抜けたように目を丸くした。対してヒルは口元に意地の悪い笑みを湛えている。
 含み笑いを浮かべるヒルに、リリスティアは嫌悪感いっぱいに眉をひそめた。初めて会った時に見たような意地の悪い笑みに、心が苛立った。

「しかし、背の割には本当に細いな。朝飯をちゃんと食べないからそうなるんだ」

 ヒルは片手をリリスティアの口元にやり、そのまだ汚れのない唇をついっと撫でた。その仕草をする時のヒルはどこかカイムにも似た意地の悪い顔で。
 あまり冷静ではない心境のリリスティアは瞬時にその手を思い切り払いのけた。きつく払われたヒルの手が僅かに赤みを帯びる。

「何を見ている何を!」

「体を見ていた」

 即答されると何故かますます腹が立つ。リリスティアは彼を睨み倒す。

「怒るなリリスティア。そんなに嫌だったのか?」

 ヒルが僅かに悲しそうに眉を下げるものだから、リリスティアは睨みながらも返す言葉に詰まる。

「気にいらない!」

「気にいらない?」

「知らないから分からない! その……お前みたいに経験豊富な男には分からないだろうけど!」

 リリスティアは頬を染めたまま、まるで自分が自分ではないような感覚に襲われていた。胸の中でやけに五月蠅く響く鼓動が耳障りだ。片手でその胸を抑えてみても、音が小さくなる気配はない。
 ああ、鏡を見たい。私は今一体どんな顔をしている?
 こんな私は知らない。私はもっと、冷めた人物だった筈。

「いい加減にして……は、恥ずかしい……から」

 リリスティアはその両手を胸の前で組み合わせ、絞り出すような切ない声でそう発した。
 以前の彼女を知る者が、今の彼女を見たならきっと疑念に満ちた声を漏らすだろう。何故なら今ここにいる彼女は、本当にどこにでもいそうなくらい、まるでかよわい女性にしか見えないのだ。
 気恥ずかしそうに目を逸らし、頬を紅潮させ、自分を守っているかのような体勢で。

「見るな!」

「そう言われてもだな」

「勉強は終わりだ! 私は戻る!」

 精一杯に毅然とした態度をとろうとしているのだろうが、その表情のままでは棘のある台詞も効果が無い。

「リリスティア、聞け」

 部屋を出ようとするリリスティアの前にヒルが立ちはだかり、扉をふさぐ。

「わ、分かったからもう退いて。私は部屋に戻る」

「リリスティア」

「退け! これは、お、王としての命令だ!」

 リリスティアは感情のままに言葉をぶつけた。
 王という立場を利用してでも、今はここから離れたい。こんな自分を認めたくはないから。
 彼から離れさえすれば、きっと元の私を取り戻せる。だが、そんな簡単な物ではないと、頭の隅でシグナルが鳴っている事に彼女は気づいていただろうか。
 それでも動かないヒルを押し退けるようにして、リリスティアはその後ろの扉のドアノブに手をかけた。早く早くと急かす心のままに、それを押そうとした刹那。
 彼がその扉の上部に手のひらを思い切り叩きつけ、大きな音を鳴らした。それにより驚いたリリスティアの動きは静止した。音の余韻だけが残る沈黙した部屋の中、ヒルの穏やかな声が響いた。

「お許しください、陛下」

「な……」

「抱きしめずにはいられなかったのです。陛下が、そんな顔をなさるから」

 その一言が、リリスティアの何かを縛り付けたかなど言うまでも無かった。
 あとはもう、ただ必死に扉を開けて、駆け出すことしかできなかった。

 逃げたというのだろうか、これは。
 何から逃げたのかは分からない。だけど、私は現に"彼"の前から逃げるように走ってきたじゃないか。

 熱が冷めやらぬ頬に右手を当てたまま、リリスティアは城の中のどこへ続くとも分からない回廊を歩いていた。太陽はまだ高く、昼間の所為もあってか城の中は割と人気が多い。すれ違うのはあの戦いで共に戦地に赴いた兵士や、ミリアが着ていたような衣服を着た女性。皆リリスティアを見ると頭を下げていく。

「慣れない」

 与えられた名前に未だついていけてない自分が歯がゆいのか、リリスティアは自然と早足になった。そんな自分に、みんな甘すぎるのではないか。
 リリスティアの頭にヒルの顔が浮かび、また頬が熱くなった。

「……意味が分からない」

 リリスティアはそのまま窓枠に顔を伏せこんだ。 その瞬間だった。

「わっ!!」

 背後から突如大声がしたかと思うと、同時に両肩を強く叩かれた為、リリスティアは飛び上がった。油断していた為、驚きに満ちた顔を見せる。

「はっはー、してやったりッス!」

「びっくりした……レイムか……」

 リリスティアが訝しげに振り返ると、悪戯が成功した事を満面の笑みで喜ぶレイムが居た。体中至る所に真新しい包帯が巻いてあるが、怪我人らしくない動きを見せる。

「何してたんスか?」

「別に……」

「女王様がんなとこでボーッとしてちゃダメッスよ!」

「貴方こそ、怪我はいいの?」

 話を変える為、リリスティアは彼の体に目をやった。するとレイムは腕を上に上げ、ぶんぶんと振り回す。

「どうッスか!?」

「無駄な心配だったみたいね」

 とことん呆れた顔でリリスティアは言ったのだが、レイムはまるで気にした様子はない。

「さっき訓練してて軍師に連れ戻されたんスけど、なんか呼び出されてどっか行っちゃったから抜け出してきたッス! よかったら、後で一緒に訓練場に行かないッスか? 楽しいッスよ!」

「そうね。いいかもしれない」

 このレイムという男の底抜けの明るさは、リリスティアには眩しすぎるものだった。
 何故なら彼には影が見えない。
 ベリーとは違い、心のままに発言し、行動している。相手がどう思おうが、構わない。いつまでも引きずらない。気にしない。
 ただ単純なだけなのだろうが、それは"純粋"と紙一重のものだ。全く持って竜族の性質は理解しがたい、とリリスティアは思った。

「ああそうだ! あの、陛下には心配かけて申し訳無かったッス。」

 急にレイムがしょげた表情で、頭上に上げていた手を下げた。

「謝ることは……」

「でもおかげで陛下を守れたッス!」

 レイムが心から嬉しそうに微笑む。橙色の髪色と相俟って、太陽のように。

「私にもっと指揮能力があれば、ああはならなかった」

「それは俺も同じッスよ! でも、誰も死なない戦いなんて無いッスよ」

 それは、かつて一度は自分の頭の中で思ったことのある台詞なのだが、他人に言われると、やけにダメージを喰らう。
 死者が出るのが当たり前、それが戦争。 それを割り切ってやったのだが、リリスティアは、どうにも捨てられない自分の甘さが嫌になった。たとえ攻められたから反撃した、と言っても、第三者から見ればどちらも好んで剣を取った、としか見えないだろう。

「レイムはなぜ私によくしてくれるの?」

「女王様は不思議な質問をするッスねえ。う~ん」

 レイムは人差し指で頬を掻いた後、リリスティアの横に移動し、窓枠に背を向けた状態で体重を預けた。そしてリリスティアの顔をのぞき込むように背を屈めた。

「俺がなんでこの国にいるか、聞いたッスか?」

「いいえ、貴方のことは、カイムの弟ということしか聞いていない」

 首を横に振るリリスティアを見て、レイムはあっけらかんとした様子で話し始めた。
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