第一話「翡翠は、泥の中に」
「そうだな、きっと疲れてるんだよ。もうあまりウロウロしないでくれ」
リリーは自分の頭を疑った。だが、あれは幻覚という言葉で片付けるにはやけにリアルだった。
ヴァイスを前にして緊張しているのか、とも考えたが、どうも腑に落ちない。
耳に残るのは、「恐れ」という言葉。
リリーは色々な仮説をたててはみたものの、あの人物の謎は解けないまま、宿についてしまった。
* * *
宿に戻ると、アミーが一番にリリーに駆け寄ってきた。続いてバルトも、手に革靴を持ってかまえている。二人とも、もう少ししたら探しに行こうとしていたのだという。
少しいなかったくらいでここまで心配をされて、リリーは戸惑うことしか出来なかった。安堵したり、冗談を言ったり。何故こんなにも、自分に対して素直に接してくれるのかが分からなかった。
「お風呂に入ってきたら」
アミーの提案を半分に、リリーは腕をさすった。
何故あの男は、自分の名前を知っていたのだろうか。
名前を呼ばれた瞬間に、縛られたように体が強張ってしまった。
体はすっかり冷え込んでいたが、ひとつだけ、熱を持って忘れられない言葉があった。
“この先に道を見出したいのならば、恐れを捨てることだリリー”
――その日、リリーは夢を見た。
姉妹が、花畑を走り回る夢。
なんとも幸せそうで、なんとも生暖かい夢だ。
もう、夢でしか会えないのかな。
頬を伝う涙が、枕に染み込む。早く乾けと、手を擦りつけた。
* * *
眩しい朝の陽が部屋全体を包み込む。静かな朝の風景を裂くように、リリーは窓を開け放つ。準備を進める仲間たちにも、どこか緊張の色が見えた。
「……行かなきゃ」
アルヘナ山脈に入山するには通らなければいけない場所があり、そこは「霧の谷」と呼ばれる峡谷だ。
枯れた木々を孕むおどろおどろしい谷だが、空気は澄んでいる。街道は比較的整備されており、視界の悪ささえ除けば「歩くだけなら」問題はない。
そんな霧深い谷を、一行は注意深く進む。辺りはしんとしているも、時折聞こえる獣の鳴き声がいやに気味が悪かった。
「……あのさ」
マティスがリリーに話し掛けると、彼女は前を向いたまま返事をした。
「昨日は、どこに行ってたんですか?」
「酒場」
「さっ…………!?」
「そんなに驚くこと?」
「夜の酒場なんて行ったのか?!」
リリーは、マティスの言葉の意味が分からず眉を潜めた。少し振り返り彼の顔を見ると、唖然とした様子でこちらを見ている。
「女の子が一人で行くところじゃないよ!?」
「女の子?」
リリーはぴたりと立ち止まりマティスに向き直った。
明らかに嫌悪に満ちた瞳で、呟いてみせた。
「マティス、私は貴方の周りにいるような……そう、ドレスを着て茶会を楽しむような女たちとは違う。そういう扱いは必要ない。酒場なんて十三の頃には出入りしていたし、別に危険だと思ったことも無い」
腰に手を当て、リリーは胸をはった。
確かに、娘という言葉は今の彼女には似合わない。
リリーからは化粧っ気も色気も伺えない。あるのは聖騎士の風格、そして殺伐とした雰囲気だけ。
「だけど貴方は」
マティスが何かを言いかけると、リリーは首を振った。
「ご心配どうも、貴方の思ってるようなことは起こらなかったから安心して」
ふいっと前を向くと、リリーはまた歩きだした。さっきよりも早足に。
それを見てマティスは、彼女は何か無理をしているんじゃないだろうかと思ったが、それもまた「くだらない」と言われそうな考えだったので、すぐに頭から消した。
二人の様子を見守っていたバルドとアミーは、互いに顔を見合わせて肩を竦めていた。
「しっかし冷えるなあ」
リリーとマティスの後ろを進むバルドが、辺りを見回しながら囁いた。
馬も、どことなく怯えているように見える。
「それだけヴァイスに近いってことよ。凍り付いてんでしょ。あそこ」
アミーが口元を隠しながら言うと、バルドは声を震わせた。
「霧が深い上に寒いって最悪じゃねえか。リリーちゃんは寒くないかい?」
にっとリリーに笑いかける。リリーは、一瞥して視線を外した。
「あんまり若い女の子に話しかけてると娘さんが怒るわよー」
アミーがそう言うと、バルドはぐっと唸る。
「だよなあ……ただでさえここに来る前に怒られたっつうのに」
そんなやり取りを余所に、リリーはふとその歩みを止め辺りを見回した。だが、霧により視界は悪く、影のような木々がうっすら見えるばかり。
「もう谷を抜けてもいいはずだけど」
リリーの独り言に気付いたマティスが、彼女の側に歩み寄る。
「これは……」
その異変に気付いたマティスが、声を上げる。
「リリー!! 後ろを見てくれ!」
そう言われて後ろを向いたリリーは、我が目を疑った。今歩いてきたはずの道に、枯れた木たちが虫か何かのように集合し生い茂り、道を閉ざしているのだ。
そればかりか、こちらに気付いた木々は、その尖った枝先をゆっくりと伸ばし始めた。
そして、探すような仕草をしながら、バルドの足ににゅるりと巻きついたのだ。
驚いた馬たちが前脚を跳ね上げる。バルドはすぐさま飛び降りながら枝を斬り払った。だが、それは斬られたそばから再生し、枝をうねらせながらさらに深く生い茂っていった。
「な、なんだよこれえ!」
余りの事にバルドは持っていた剣をおろし、足を振りながら後ずさる。
マティスも剣を抜き、警戒を強める。
「これも悪魔?」
「さあ、植物型のは見たことないけど」
リリーはマティスと背中合わせに立ち、腰の剣に手をやった。
「警戒して」
霧深い谷の木々達は、一行を嘲笑うかのように急速に生い茂り始めた。
「まさか木に襲われるなんて思わなかったな……」
剣を構えたままのマティスが冗談混じりに笑う。リリーは目だけをマティスに向けこう言った。
「悪魔に見た目は関係ないのね」
鋭角化した木の枝はその切っ先をこちらに向け始めた。機を伺っているのか、一行の周囲をぐるぐると回り始める。
「一気に来るぞ」
刹那、細く尖った枝のひとつが隼のような速さで襲い掛かった。
バルドの構えた剣を掻い潜り、木々の刄はまっすぐ彼に狙いをつける。
「バルド!」
アミーが剣を後ろ手に引き、枝に斬りつけた。すんでのところでバルドは助かったが、今度は別の方向から枝が迫ってきた。
地面を這うように迫るそれは、地中から一気に姿を現す。大きく広げた手のように変化すると、マティスに覆いかぶさる。
よろけながら剣を構えるマティスだったが、その刃を使うことはなかった。
間に割って入ったリリーが、体をひねりながら木々を切り裂いたのだ。木は想像するそれではなく、まるで肉のような感触があった。
リリーはアミーの足元にある木々にも剣を突き立てると、木々の中心に向かって走り出した。
他よりも生い茂り、何かを守るようにうねる悪意の集合体。今まで戦ってきた悪魔と、同じ場所に弱点があるはずだ。
リリーは一気に走りだした。枝の切っ先を掻い潜り、枝が収束している場所を狙う。
その中心に剣を思い切り突き刺すと、そこからどす黒い色をした煙のようなものが洩れ始めた。
途端に、木がまるで獣のようなうめき声をあげ、生き物の皮が裂けるような音をたてた。
リリーが無言でさらに剣を深く根に突き刺すと、木はのうめきはつんざくような金切り声に変わる。
「なんて声」
そしてとどめといわんばかりに力を込めると、辺り一面に広がり一行を襲っていた木はついに黒い煙に包まれ、焼け焦げたようになって崩れ落ちた。
マティスはというと、残骸を避けながらこちらに帰ってくるリリーの姿を、ただ呆然と見るばかりだった。
微かに笑みを浮かべ、崩れゆく木々の中に佇むその姿は――。
「リ……」
ふと視線に気付いたリリーがこちらを向き、顔にかかってきたその青灰色の髪をふわりと掻き上げると、隠れていた美しい緑の瞳がマティスを写す。
「誰だよ“リリーちゃん”なんて言ったの」
怖ぇ、と付け足し、バルドが息を吐く。
「聖騎士ってなあ、あの若さでもあんなんかよ。なあアミー」
傍らで、無言のままその様子を見ていたアミーは、静かに首を振った。
「……鍛えないと無理」
リリーはというと、何気ない顔でさっさと剣をしまい、辺りにもう危険はないかと見回している。
どうやってあの木の急所を見分けたのか。あの判断力は一体。
田舎街でのんびりと最低限の討伐しか行っていなかった騎士にしては明らかに場慣れしている。
そう、あれは上位騎士のそれに似ている。
しかし、歴戦の勇士のような強さではない。彼女の強さには、必要に迫られ、仕方なく覚えているのだというような歪なものだった。
谷の霧が段々薄くなり、進むべき道が見えてきても、マティスは目に焼き付いた鮮烈なリリーの姿を忘れることは出来なかった。
リリーは自分の頭を疑った。だが、あれは幻覚という言葉で片付けるにはやけにリアルだった。
ヴァイスを前にして緊張しているのか、とも考えたが、どうも腑に落ちない。
耳に残るのは、「恐れ」という言葉。
リリーは色々な仮説をたててはみたものの、あの人物の謎は解けないまま、宿についてしまった。
* * *
宿に戻ると、アミーが一番にリリーに駆け寄ってきた。続いてバルトも、手に革靴を持ってかまえている。二人とも、もう少ししたら探しに行こうとしていたのだという。
少しいなかったくらいでここまで心配をされて、リリーは戸惑うことしか出来なかった。安堵したり、冗談を言ったり。何故こんなにも、自分に対して素直に接してくれるのかが分からなかった。
「お風呂に入ってきたら」
アミーの提案を半分に、リリーは腕をさすった。
何故あの男は、自分の名前を知っていたのだろうか。
名前を呼ばれた瞬間に、縛られたように体が強張ってしまった。
体はすっかり冷え込んでいたが、ひとつだけ、熱を持って忘れられない言葉があった。
“この先に道を見出したいのならば、恐れを捨てることだリリー”
――その日、リリーは夢を見た。
姉妹が、花畑を走り回る夢。
なんとも幸せそうで、なんとも生暖かい夢だ。
もう、夢でしか会えないのかな。
頬を伝う涙が、枕に染み込む。早く乾けと、手を擦りつけた。
* * *
眩しい朝の陽が部屋全体を包み込む。静かな朝の風景を裂くように、リリーは窓を開け放つ。準備を進める仲間たちにも、どこか緊張の色が見えた。
「……行かなきゃ」
アルヘナ山脈に入山するには通らなければいけない場所があり、そこは「霧の谷」と呼ばれる峡谷だ。
枯れた木々を孕むおどろおどろしい谷だが、空気は澄んでいる。街道は比較的整備されており、視界の悪ささえ除けば「歩くだけなら」問題はない。
そんな霧深い谷を、一行は注意深く進む。辺りはしんとしているも、時折聞こえる獣の鳴き声がいやに気味が悪かった。
「……あのさ」
マティスがリリーに話し掛けると、彼女は前を向いたまま返事をした。
「昨日は、どこに行ってたんですか?」
「酒場」
「さっ…………!?」
「そんなに驚くこと?」
「夜の酒場なんて行ったのか?!」
リリーは、マティスの言葉の意味が分からず眉を潜めた。少し振り返り彼の顔を見ると、唖然とした様子でこちらを見ている。
「女の子が一人で行くところじゃないよ!?」
「女の子?」
リリーはぴたりと立ち止まりマティスに向き直った。
明らかに嫌悪に満ちた瞳で、呟いてみせた。
「マティス、私は貴方の周りにいるような……そう、ドレスを着て茶会を楽しむような女たちとは違う。そういう扱いは必要ない。酒場なんて十三の頃には出入りしていたし、別に危険だと思ったことも無い」
腰に手を当て、リリーは胸をはった。
確かに、娘という言葉は今の彼女には似合わない。
リリーからは化粧っ気も色気も伺えない。あるのは聖騎士の風格、そして殺伐とした雰囲気だけ。
「だけど貴方は」
マティスが何かを言いかけると、リリーは首を振った。
「ご心配どうも、貴方の思ってるようなことは起こらなかったから安心して」
ふいっと前を向くと、リリーはまた歩きだした。さっきよりも早足に。
それを見てマティスは、彼女は何か無理をしているんじゃないだろうかと思ったが、それもまた「くだらない」と言われそうな考えだったので、すぐに頭から消した。
二人の様子を見守っていたバルドとアミーは、互いに顔を見合わせて肩を竦めていた。
「しっかし冷えるなあ」
リリーとマティスの後ろを進むバルドが、辺りを見回しながら囁いた。
馬も、どことなく怯えているように見える。
「それだけヴァイスに近いってことよ。凍り付いてんでしょ。あそこ」
アミーが口元を隠しながら言うと、バルドは声を震わせた。
「霧が深い上に寒いって最悪じゃねえか。リリーちゃんは寒くないかい?」
にっとリリーに笑いかける。リリーは、一瞥して視線を外した。
「あんまり若い女の子に話しかけてると娘さんが怒るわよー」
アミーがそう言うと、バルドはぐっと唸る。
「だよなあ……ただでさえここに来る前に怒られたっつうのに」
そんなやり取りを余所に、リリーはふとその歩みを止め辺りを見回した。だが、霧により視界は悪く、影のような木々がうっすら見えるばかり。
「もう谷を抜けてもいいはずだけど」
リリーの独り言に気付いたマティスが、彼女の側に歩み寄る。
「これは……」
その異変に気付いたマティスが、声を上げる。
「リリー!! 後ろを見てくれ!」
そう言われて後ろを向いたリリーは、我が目を疑った。今歩いてきたはずの道に、枯れた木たちが虫か何かのように集合し生い茂り、道を閉ざしているのだ。
そればかりか、こちらに気付いた木々は、その尖った枝先をゆっくりと伸ばし始めた。
そして、探すような仕草をしながら、バルドの足ににゅるりと巻きついたのだ。
驚いた馬たちが前脚を跳ね上げる。バルドはすぐさま飛び降りながら枝を斬り払った。だが、それは斬られたそばから再生し、枝をうねらせながらさらに深く生い茂っていった。
「な、なんだよこれえ!」
余りの事にバルドは持っていた剣をおろし、足を振りながら後ずさる。
マティスも剣を抜き、警戒を強める。
「これも悪魔?」
「さあ、植物型のは見たことないけど」
リリーはマティスと背中合わせに立ち、腰の剣に手をやった。
「警戒して」
霧深い谷の木々達は、一行を嘲笑うかのように急速に生い茂り始めた。
「まさか木に襲われるなんて思わなかったな……」
剣を構えたままのマティスが冗談混じりに笑う。リリーは目だけをマティスに向けこう言った。
「悪魔に見た目は関係ないのね」
鋭角化した木の枝はその切っ先をこちらに向け始めた。機を伺っているのか、一行の周囲をぐるぐると回り始める。
「一気に来るぞ」
刹那、細く尖った枝のひとつが隼のような速さで襲い掛かった。
バルドの構えた剣を掻い潜り、木々の刄はまっすぐ彼に狙いをつける。
「バルド!」
アミーが剣を後ろ手に引き、枝に斬りつけた。すんでのところでバルドは助かったが、今度は別の方向から枝が迫ってきた。
地面を這うように迫るそれは、地中から一気に姿を現す。大きく広げた手のように変化すると、マティスに覆いかぶさる。
よろけながら剣を構えるマティスだったが、その刃を使うことはなかった。
間に割って入ったリリーが、体をひねりながら木々を切り裂いたのだ。木は想像するそれではなく、まるで肉のような感触があった。
リリーはアミーの足元にある木々にも剣を突き立てると、木々の中心に向かって走り出した。
他よりも生い茂り、何かを守るようにうねる悪意の集合体。今まで戦ってきた悪魔と、同じ場所に弱点があるはずだ。
リリーは一気に走りだした。枝の切っ先を掻い潜り、枝が収束している場所を狙う。
その中心に剣を思い切り突き刺すと、そこからどす黒い色をした煙のようなものが洩れ始めた。
途端に、木がまるで獣のようなうめき声をあげ、生き物の皮が裂けるような音をたてた。
リリーが無言でさらに剣を深く根に突き刺すと、木はのうめきはつんざくような金切り声に変わる。
「なんて声」
そしてとどめといわんばかりに力を込めると、辺り一面に広がり一行を襲っていた木はついに黒い煙に包まれ、焼け焦げたようになって崩れ落ちた。
マティスはというと、残骸を避けながらこちらに帰ってくるリリーの姿を、ただ呆然と見るばかりだった。
微かに笑みを浮かべ、崩れゆく木々の中に佇むその姿は――。
「リ……」
ふと視線に気付いたリリーがこちらを向き、顔にかかってきたその青灰色の髪をふわりと掻き上げると、隠れていた美しい緑の瞳がマティスを写す。
「誰だよ“リリーちゃん”なんて言ったの」
怖ぇ、と付け足し、バルドが息を吐く。
「聖騎士ってなあ、あの若さでもあんなんかよ。なあアミー」
傍らで、無言のままその様子を見ていたアミーは、静かに首を振った。
「……鍛えないと無理」
リリーはというと、何気ない顔でさっさと剣をしまい、辺りにもう危険はないかと見回している。
どうやってあの木の急所を見分けたのか。あの判断力は一体。
田舎街でのんびりと最低限の討伐しか行っていなかった騎士にしては明らかに場慣れしている。
そう、あれは上位騎士のそれに似ている。
しかし、歴戦の勇士のような強さではない。彼女の強さには、必要に迫られ、仕方なく覚えているのだというような歪なものだった。
谷の霧が段々薄くなり、進むべき道が見えてきても、マティスは目に焼き付いた鮮烈なリリーの姿を忘れることは出来なかった。