第一話「翡翠は、泥の中に」
そして、リュシアナの領土を出てから三日が経った。
相変わらずいい天気ではあるが、風があからさまに冷たくなっている。馬にも疲れが見え始めた。
「――いい天気だなあ」
青く澄み渡った空を見上げながら、マティスは気持ち良さそうに瞳を閉じた。その様子を見ていたリリーが怪訝そうに言葉をもらした。
「余裕ね。ヴァイスに行けば死ぬかもしれないのに」
「気を付けるよ」
爽やかに笑みを返すマティスに呆れたリリーは、それ以上何も言わなかった。
「ヴァイスまで、どれくらいかな。もうだいぶ来た気がする」
アミーが、マティスに尋ねる。
「国境のアルヘナ山脈までもう近いよ。ほら、そろそろ見えてくる筈だ」
彼方を見つめると、地平線ばかりの中にうっすらと白い影が見える。
恐らくあれがそうだろうと、バルトが言った。
「ヴァイスか……悪魔の居城があるくらいだから、やっぱり雷とかが絶えず鳴り響いているのかな?」
素っ頓狂なマティスの問いに、眉をひそめながらもリリーが答える。
「おとぎ話の読みすぎ」
「ば、場を和ませようとしただけだって」
そんな彼の努力も空しく、リリーとマティスを除いた二人の足取りは段々と重くなっていた。
アミーはどことなく顔が強張り、時折胸を押さえるような仕草を見せた。
聖騎士である者にとって、この北の大地がどれほど恐ろしいものかはよく分かっている。あのおぞましい化け物が、一匹でも厄介なあの悪魔が、この先にはごまんといると言われているのだ。
悪魔に直接対峙した者でなければ、この胃の奥から突き上げてくるような恐怖は説明できないだろう。
対してバルドは、何か悲愴感のようなものが漂っていた。怖がっているというよりも、何か腹を据えかねているような雰囲気だ。ぐっと喉を締め、唇を結んでいる。
その様子を見て、リリーが前を指差す。
「偵察任務だからといって、そう急いでヴァイス入りすることはないと思う」
「えっ」
予想外の言葉に、マティスが目を丸くする。リリーは彼を見遣り、何か目配せのようなものをした。
「この先に名前のない小さな村があった筈。そこへ行けば、宿くらい貸してもらえるでしょう。優しいマティスのことだから許可してくれるでしょ」
少し悪戯めいた表情で光る翡翠の瞳に、マティスは弱ってしまう。
向こうでは、期待に満ちた顔でこちらを見るアミーとバルドがいた。
「いや、一応予定にはあるけど、泊ま……。うん……まあ、いいか」
久々の宿と風呂に歓声を上げたアミーたちは、馬を急いで走らせる。
嘶きが彼らの喜びの声に聞こえて響く中、マティスは眉を寄せた。
「リリーって意外とそういう配慮をするんだね。先を急ごうって言うのかと」
「だって、すぐ死ぬかもしれないし」
リリーは、無感情に言い放った。他人のことなど、どうでもいいのが本音だろうか。
マティスはそんな彼女の冷めた表情を、その青い瞳に映していた。
* * *
限りなくヴァイスに近いその村は、小さいながらも整ったレンガ道が敷かれていた。
黒く染まる空に色を入れるように橙色の光がぽつりぽつりと揺らめいて、旅人を温かく迎え入れる。
街を覆う壁は高く積まれ、外部からの進入を警戒している。
人気は僅かにあるものの、活気はない。
「せいきし様ようこそ。よくぞきてくださいました」
一行が村に入ると、小さな女の子がすごすごと頭を垂れて近づいてきた。
幼い娘は、リリーに北の地では珍しい野花を差し出した。続いてマティス、アミーと手渡し、最後にバルドにも渡した。
「よく聖騎士だって分かったわねえ」
アミーが頭を撫でてやると、少女は誇らしげに答えた。
「あおいかみのお姉さん、腕に「もんしょう」! かっこいいからすぐわかった!」
聖騎士は必ず体のどこかに証の刺青を彫る。それはリュシアナ領土内に住まうものなら誰もが知っている事だ。
リリーは二の腕の目立つ位置にそれを彫っているので、誰が見ても『聖騎士』だと解る。ローブを払って歩く時に、目についたのだろう。
「へえ、綺麗だ。有難う。リリーほら、俺が持っていても仕方ないし」
差し出された花を無感情に見つめていたリリーだが、仕方なく少女の手からそれを受け取った。
それを合図にするかのように、家から次々と村人が飛び出しリリーに貢ぎ物を差し出し始めた。花に服に酒にと、無遠慮に押し付けられる。
「こっ、この村では聖騎士は崇拝対象にあるみたいだな」
たじろぎながら、バルドが言う。
「田舎に行くほど神に対する信仰心が強いってね。でもこれはちょっと……」
肉や魚を押し付けられながら、アミーが苦笑いを浮かべる。
嫌悪感を示したリリーは、ついに人波を掻き分けた。
「ちょ、ま、待って!」
逃げるようにマティスも後を追う。
「騎士様ぁ」
「ああ聖騎士様、貴女は神の刄だ」
「今度こそあのおぞましい悪魔共を…………」
わさわさ群れる村人もそれに続き、村の大きな通りは一時異様な光景になった。
だが、これが聖騎士の正しい崇められ方であるという。聖騎士であるが故に、無条件で期待を背負わされるのだ。
縋り付く村人の手を振り払い、一行は逃げるように宿屋へと滑りこんだ。
辺境の町にしては洒落たその宿屋は、門の前に白い百合の花が植えてある。暖かい季節に咲くはずのその花は、この冷えた空気の中でも生き生きとしてた。
花を見ることはなく、四人は急いで宿屋に逃げ込むと、後ろ手に扉を閉めた。
全員が同時にため息を吐く。マティスはクスリと笑ったが、反してリリーは眉を潜めた。
その様子を見ていた宿屋の太った主人が、その巨体を揺らしながら鍵を差し出した。
「囲まれたのかい騎士様。年寄連中は聖騎士様を神様の使いだと本気で信じてるから気をつけないとな」
ぐわはははと、宿の主人は豪快に笑う。笑うと腹の脂肪がたぷりと揺れる。
「馬を預けて……とりあえず部屋にあがりましょう」
アミーに急かされ、宿の二階へと足を進めた。ぎしぎしと古い音を鳴らす階段だが、木造ならではの情緒がある。
蜘蛛の巣が遠くに見えるのも、また愛嬌だ。
だが四人は、部屋の前で立ち尽くしていた。
男が二人に女が二人に対し、番号の書かれた鍵はたった一つ。
「何これ、バルドたちと一緒? きっついわね」
アミーが鍵を差し込むと、部屋の中には二段ベッドが二つ置かれていた。辺境の村ならではの、まるで個人宅のような装飾にどこか安心感を覚える。部屋の中は割りと広く、美しい花が飾られていた。花に関してはおそらく、あの主人の趣味ではないだろう。
「内装はいいけど部屋が一緒なんて。リリーちゃんも嫌よね?」
そういえばと、リリーは下の階にある食事処がやけに賑やかだったのを思い出していた。
この時期に色々な集団が北へ向かうのは、分かりきっていた筈だったのに。
「神様の使いとして崇められてくっかあ? そしたら部屋くらい用意してくれるんじゃねえか」
とりあえ早く座りたいといったように、バルドはソファーへと進む。
「あ、えっとその、部屋が余ってないか聞いてくるよ」
階下に戻ろうとするマティスだったが、それをリリーが止めた。
「別に問題は無い」
リリーはアミーの手から鍵を取り上げると、さっさと中へ入っていった。
鍵を分かりやすい棚の上に置き、自分の荷物を壁際に放り投げた。
「問題ないって……」
リリーは長旅にしては少ない荷物から、何か小物入れのようなものを取り出すと、そのままきびすを返し部屋のドアに向かった。
「どこへ?」
「化粧室」
「あっ」
気まずそうに言葉を濁らせるマティスに、振り向きもせずリリーは部屋を出た。
マティスは何かしら不謹慎なことを考えていた先程の自分に我慢が出来ず、ベッドにそのまま飛び込んだ。バルドとアミ―が、その情けない頭を優しく撫でさすった。
部屋を出たリリーは、化粧室に入らずに何故か外へと向かった。
外は、少し肌寒い。宿の軒下に白い花の芳香が、冷たさと重なって空をたゆたう。
リリーは宿の入り口に敷かれた石畳の上に座りこんだ。凍えるような感覚をローブで凌ぎながら、リリーは気持ちを必死に抑えていた。
聖王国を発ってからの道中、至って冷静だったリリーだが、今になって悪魔への限りない憎悪が行き場をなくすほど蠢きはじめた。
明日中には奴らの居城を目にする。いざ悪魔を目の前にしたなら、これは偵察任務だということを忘れてしまいそうだ。
「おーい、だいじょうぶ?」
背後の扉から顔を出したのはアミーだった。
相変わらずいい天気ではあるが、風があからさまに冷たくなっている。馬にも疲れが見え始めた。
「――いい天気だなあ」
青く澄み渡った空を見上げながら、マティスは気持ち良さそうに瞳を閉じた。その様子を見ていたリリーが怪訝そうに言葉をもらした。
「余裕ね。ヴァイスに行けば死ぬかもしれないのに」
「気を付けるよ」
爽やかに笑みを返すマティスに呆れたリリーは、それ以上何も言わなかった。
「ヴァイスまで、どれくらいかな。もうだいぶ来た気がする」
アミーが、マティスに尋ねる。
「国境のアルヘナ山脈までもう近いよ。ほら、そろそろ見えてくる筈だ」
彼方を見つめると、地平線ばかりの中にうっすらと白い影が見える。
恐らくあれがそうだろうと、バルトが言った。
「ヴァイスか……悪魔の居城があるくらいだから、やっぱり雷とかが絶えず鳴り響いているのかな?」
素っ頓狂なマティスの問いに、眉をひそめながらもリリーが答える。
「おとぎ話の読みすぎ」
「ば、場を和ませようとしただけだって」
そんな彼の努力も空しく、リリーとマティスを除いた二人の足取りは段々と重くなっていた。
アミーはどことなく顔が強張り、時折胸を押さえるような仕草を見せた。
聖騎士である者にとって、この北の大地がどれほど恐ろしいものかはよく分かっている。あのおぞましい化け物が、一匹でも厄介なあの悪魔が、この先にはごまんといると言われているのだ。
悪魔に直接対峙した者でなければ、この胃の奥から突き上げてくるような恐怖は説明できないだろう。
対してバルドは、何か悲愴感のようなものが漂っていた。怖がっているというよりも、何か腹を据えかねているような雰囲気だ。ぐっと喉を締め、唇を結んでいる。
その様子を見て、リリーが前を指差す。
「偵察任務だからといって、そう急いでヴァイス入りすることはないと思う」
「えっ」
予想外の言葉に、マティスが目を丸くする。リリーは彼を見遣り、何か目配せのようなものをした。
「この先に名前のない小さな村があった筈。そこへ行けば、宿くらい貸してもらえるでしょう。優しいマティスのことだから許可してくれるでしょ」
少し悪戯めいた表情で光る翡翠の瞳に、マティスは弱ってしまう。
向こうでは、期待に満ちた顔でこちらを見るアミーとバルドがいた。
「いや、一応予定にはあるけど、泊ま……。うん……まあ、いいか」
久々の宿と風呂に歓声を上げたアミーたちは、馬を急いで走らせる。
嘶きが彼らの喜びの声に聞こえて響く中、マティスは眉を寄せた。
「リリーって意外とそういう配慮をするんだね。先を急ごうって言うのかと」
「だって、すぐ死ぬかもしれないし」
リリーは、無感情に言い放った。他人のことなど、どうでもいいのが本音だろうか。
マティスはそんな彼女の冷めた表情を、その青い瞳に映していた。
* * *
限りなくヴァイスに近いその村は、小さいながらも整ったレンガ道が敷かれていた。
黒く染まる空に色を入れるように橙色の光がぽつりぽつりと揺らめいて、旅人を温かく迎え入れる。
街を覆う壁は高く積まれ、外部からの進入を警戒している。
人気は僅かにあるものの、活気はない。
「せいきし様ようこそ。よくぞきてくださいました」
一行が村に入ると、小さな女の子がすごすごと頭を垂れて近づいてきた。
幼い娘は、リリーに北の地では珍しい野花を差し出した。続いてマティス、アミーと手渡し、最後にバルドにも渡した。
「よく聖騎士だって分かったわねえ」
アミーが頭を撫でてやると、少女は誇らしげに答えた。
「あおいかみのお姉さん、腕に「もんしょう」! かっこいいからすぐわかった!」
聖騎士は必ず体のどこかに証の刺青を彫る。それはリュシアナ領土内に住まうものなら誰もが知っている事だ。
リリーは二の腕の目立つ位置にそれを彫っているので、誰が見ても『聖騎士』だと解る。ローブを払って歩く時に、目についたのだろう。
「へえ、綺麗だ。有難う。リリーほら、俺が持っていても仕方ないし」
差し出された花を無感情に見つめていたリリーだが、仕方なく少女の手からそれを受け取った。
それを合図にするかのように、家から次々と村人が飛び出しリリーに貢ぎ物を差し出し始めた。花に服に酒にと、無遠慮に押し付けられる。
「こっ、この村では聖騎士は崇拝対象にあるみたいだな」
たじろぎながら、バルドが言う。
「田舎に行くほど神に対する信仰心が強いってね。でもこれはちょっと……」
肉や魚を押し付けられながら、アミーが苦笑いを浮かべる。
嫌悪感を示したリリーは、ついに人波を掻き分けた。
「ちょ、ま、待って!」
逃げるようにマティスも後を追う。
「騎士様ぁ」
「ああ聖騎士様、貴女は神の刄だ」
「今度こそあのおぞましい悪魔共を…………」
わさわさ群れる村人もそれに続き、村の大きな通りは一時異様な光景になった。
だが、これが聖騎士の正しい崇められ方であるという。聖騎士であるが故に、無条件で期待を背負わされるのだ。
縋り付く村人の手を振り払い、一行は逃げるように宿屋へと滑りこんだ。
辺境の町にしては洒落たその宿屋は、門の前に白い百合の花が植えてある。暖かい季節に咲くはずのその花は、この冷えた空気の中でも生き生きとしてた。
花を見ることはなく、四人は急いで宿屋に逃げ込むと、後ろ手に扉を閉めた。
全員が同時にため息を吐く。マティスはクスリと笑ったが、反してリリーは眉を潜めた。
その様子を見ていた宿屋の太った主人が、その巨体を揺らしながら鍵を差し出した。
「囲まれたのかい騎士様。年寄連中は聖騎士様を神様の使いだと本気で信じてるから気をつけないとな」
ぐわはははと、宿の主人は豪快に笑う。笑うと腹の脂肪がたぷりと揺れる。
「馬を預けて……とりあえず部屋にあがりましょう」
アミーに急かされ、宿の二階へと足を進めた。ぎしぎしと古い音を鳴らす階段だが、木造ならではの情緒がある。
蜘蛛の巣が遠くに見えるのも、また愛嬌だ。
だが四人は、部屋の前で立ち尽くしていた。
男が二人に女が二人に対し、番号の書かれた鍵はたった一つ。
「何これ、バルドたちと一緒? きっついわね」
アミーが鍵を差し込むと、部屋の中には二段ベッドが二つ置かれていた。辺境の村ならではの、まるで個人宅のような装飾にどこか安心感を覚える。部屋の中は割りと広く、美しい花が飾られていた。花に関してはおそらく、あの主人の趣味ではないだろう。
「内装はいいけど部屋が一緒なんて。リリーちゃんも嫌よね?」
そういえばと、リリーは下の階にある食事処がやけに賑やかだったのを思い出していた。
この時期に色々な集団が北へ向かうのは、分かりきっていた筈だったのに。
「神様の使いとして崇められてくっかあ? そしたら部屋くらい用意してくれるんじゃねえか」
とりあえ早く座りたいといったように、バルドはソファーへと進む。
「あ、えっとその、部屋が余ってないか聞いてくるよ」
階下に戻ろうとするマティスだったが、それをリリーが止めた。
「別に問題は無い」
リリーはアミーの手から鍵を取り上げると、さっさと中へ入っていった。
鍵を分かりやすい棚の上に置き、自分の荷物を壁際に放り投げた。
「問題ないって……」
リリーは長旅にしては少ない荷物から、何か小物入れのようなものを取り出すと、そのままきびすを返し部屋のドアに向かった。
「どこへ?」
「化粧室」
「あっ」
気まずそうに言葉を濁らせるマティスに、振り向きもせずリリーは部屋を出た。
マティスは何かしら不謹慎なことを考えていた先程の自分に我慢が出来ず、ベッドにそのまま飛び込んだ。バルドとアミ―が、その情けない頭を優しく撫でさすった。
部屋を出たリリーは、化粧室に入らずに何故か外へと向かった。
外は、少し肌寒い。宿の軒下に白い花の芳香が、冷たさと重なって空をたゆたう。
リリーは宿の入り口に敷かれた石畳の上に座りこんだ。凍えるような感覚をローブで凌ぎながら、リリーは気持ちを必死に抑えていた。
聖王国を発ってからの道中、至って冷静だったリリーだが、今になって悪魔への限りない憎悪が行き場をなくすほど蠢きはじめた。
明日中には奴らの居城を目にする。いざ悪魔を目の前にしたなら、これは偵察任務だということを忘れてしまいそうだ。
「おーい、だいじょうぶ?」
背後の扉から顔を出したのはアミーだった。