第一話「翡翠は、泥の中に」
偵察任務に出発をする朝が来た。
空はいつもどおり美しい青に染まり、厚着をしていると汗ばむくらいの陽気だった。
「暑い」
そう言いながらも、リリーの服装はいやに軽装だった。聖騎士として支給されている装いに、軽い布地のローブ。使い慣れていそうな、変わった片刃の剣。荷物はというと、洒落っ気の欠片も無い皮袋ひとつだった。
それでも、蒼い髪と翠の瞳が郡を抜いて美しいので、道行く人が彼女を見ているのが分かった。
時計の針は、午前十一時を指そうとしている。そろそろ昼食の準備をするために、女たちが早足になる時間だ。
ざわめき立つ町の中、リリーは一人、橋の欄干に腰を預けた。
リリーたちの待ち合わせ場所は、小さな国境の町だった。リュシアナの北にあるこの町は、首都に近いながらも少々田舎臭さの残る場所だ。
かといって、何も見所がないわけではない。町中には、名産である花が色とりどりに咲き誇り、そこら中に胸を撫でるような優しい香りを放っている。
勾配が多い町ではあるが、民家や商店の壁には必ず花が咲き誇っているので、楽しみながら歩くことが出来るというわけだ。
水路も充実しており、今リリーが腰掛けている橋も、その水路のひとつに架けられている。
流れる水路の水は美しく、リリーの陰鬱な表情さえ、水面の光に消してくれる。
綺麗だな、と素直に思えることが出来た自分に、リリーは少し安心した。
「お待たせしました」
喧騒の中から、声がした。顔を上げると、そこにはマティスがいた。近衛兵らしい少し洒落た服装で、合わせたかのように爽やかな笑顔を見せている。
彼の後ろには、同じ調査隊として抜擢された人物が二人いた。一人は少し年配の男で、もう一人は、二十代後半の女性だった。
いずれも、一目では軍人と分からないような旅装をしているが、雰囲気が一般の人間とは違うのは明らかだった
「あんたがリリー・ウルビアか」
短く切り揃えられた濃い藍色の髪をした男が、驚いた様子で言う。さっぱりとした印象だが、年はそれなりに重ねていそうだ。扱いやすそうな片手剣には、獅子の紋章が刻まれている。
「俺はリュシアナ軍部、騎馬隊のバルト。こっちは……」
「聖騎士のアミー。貴方は……噂のリリーちゃんだね。若い若い」
悪意のない声でそう言った娘は、けらけらと快活に笑う。乱雑にまとめられた紅葉色の髪には、耳を覆うようにして大きな布飾りが巻かれており、それを留めるように変わった簪を差していた。
重そうな皮袋を背負い、旅装をしっかりと整えた二人の中で、マティスだけが非常によく目立つ。弱々しい瞳で視線を逸らす彼に、リリーは声をかけた。
「マティス……約束の時間は十一時より前だったと思うのだけれど」
リリーが言うと、マティスは気まずそうに後ろの二人を見た。
「彼らの家族と少し話をしていまして。すみません」
ああ、とリリーは悟った顔をする。年配の方の兵士が、咳払いをした。
「突然の出張なもんで、家族に言うのが今日になっちまった。すまん、遅れたのは俺のせいだ」
恐らく、リリーより二十歳は上であろうこの男だが、非常に腰の低い態度で頭を下げる。
居心地の悪くなったリリーは、「いえ」と小声で返事をした。
「リリーちゃんは時間きっちりだったんだね? 噂なんてほんとアテになんないね。真面目な子じゃない」
笑顔を絶やさず、娘が言う。唇に乗った紅が、成熟した大人の印象を与える。
「リリーでいいです」
思わず敬語になるリリーに、マティスが驚く。畏まった態度に肩を竦めた。
「リリーちゃんの方が可愛いじゃない! ね、あたしのことも好きに呼んでいいよ」
とは言っても、短いその「アミー」という名前をどう捩ればいいのかとリリーは悩む。
困り顔をしていると、アミーは嬉しそうに笑った。
「はは! 良い呼び方、考えといてよ」
「――さて、出発前に準備は要りませんか? 買い物があるなら、ついていきますよ」
マティスは気を利かせて言ったつもりなのだろうが、リリーは怪訝な顔をして首を振る。
「準備が出来ていないとでも思ったの?」
「やっ、えっと、そういう意味じゃなくって。ほら、やっぱりローブの一枚くらいはあった方がいいと思うから」
焦ったのか、マティスは敬語を崩して言う。
そこで、はっとしたリリーは自身の体を見つめた。
「そうか……これじゃあ少し寒いか」
首を傾げ、リリーは自身の胸元に手を当てる。
「ごめん。ローブだけ買わせてもらいたい。いい?」
妙に素直に謝ったことに、マティスは僅かながら驚きを見せた。
どうやら、彼女の棘のある言い方は、ある種の「癖」らしいということに気付く。
少し頬を赤くしたマティスは、リリーに手を差し出した。
「この先に、店がありました。きっとリリーが好きそうな物があると思います」
「……“リリー”?」
呼び捨てにいち早く反応したリリーは、横目にマティスを睨む。
「あ、えっと、その」
「別にいいけど……」
そう言いながらも、リリーの横顔は明らかに嫌悪に満ちている。
勿論、マティスの手は宙をひらひらと舞い、ポケットに悲しそうに仕舞われることになった。
「なんっか……印象違うなあ。いや生意気は生意気だけど、なんつうか」
バルドが、冷や汗混じりに言う。
「リリーちゃん、って呼んだ時はあそこまで嫌がらなかったのに」
アミーが首を傾げる。
「そうだね……可愛いのに勿体無い」
マティスがぽつりと漏らした言葉に、アミーたちが色めき立ったのは言うまでも無かった。
* * *
リリー達の偵察部隊は順調に北上を続けていた。バルドが世話をする馬も、この寒さに負けず元気に走ってくれている。
時折、異形の悪魔が襲いかかってくることもあったが、どれも人間程度の大きさしかない、いわゆる「小物」であった。そのほとんどをバルドが倒し、アミーが補助をする形だった。
リリーはというと、マティスがやけに壁となっている為、その腰にある変わった形の剣を振るうことはあまりなかった。
「今日はここらへんで落ち着こうぜ」
バルドが、馬を気遣いながらそう言った。
周りを見ても街の光は既になく、北へ続く街道だけがどんよりとして続いている。
暗い夜空の下、穏やかな炎が優しい音を立てて揺れている。大きな木が二つほどそびえ立つそこは、雨風もしのげそうで具合がいい。
その屋根のような枝と葉が決めてとなり、本日はここで野営となった。
「厄介なのは人型だよなあ」
座りこんでくつろいでいたマティスが、疲れた声で呟いた。
「人型なんかいた?」
りんごをかじりながらアミーが尋ねると、バルドが代わるように答えた。
「また人型の話かよ。やめようぜそれ」
年に似合わず若々しい瞳をしている彼だが、疲れが少々滲んでいた。
「あれは他と見分けがつかないから後味が悪いものね」
同意するように言葉を続けたリリーに、バルドが表情を明るくする。
「だよなあ。軍部でもさあ、顔はかっこいい人型がいるだなんだって女どもがキャーキャー言ってんだよ。さすがに呑気すぎるだろ」
「見た目が似ていると、まるで人殺しをした気分になるから嫌」
なんの抑揚もなく言い放つリリーに、バルドが喉を詰まらせる。
焚き火の光に染まるその横顔に、悔やむような感情は見えなかった。
「えっと……そうそう。聞きたかったんだけど、その剣はやっぱりアストレイア様から習ったものなのか?」
マティスが、リリーの傍らにある剣を差して尋ねる。
リリーの右隣、荷物との間には、包丁を長くしたような片刃の剣があった。柄には布が幾重にも巻かれているが、雑ではない。間隔を違うことなく交互に巻かれ、模様のようになっている。
「これは違う」
リリーはそっけなく答えた。
「それって、リュシアナのじゃないわよね。不思議な形」
「五年ほど前、師に剣を教えてもらっていた。その時に譲りうけた」
「へえ、士官学校とか?」
「誰もが貴方みたいに学校に通ってちゃんとした勉強をしているわけじゃない。師は旅をしている人だったから、今はどこにいるか分からない」
嫌味を言われたにも関わらず、マティスはそれを意に介せず、言葉を続ける。
「それって、男?」
「そんなことを聞いてどうするの?」
「好奇心だよ」
「男。東の方の民族の、旅の人。もういい?」
「そっかあ……うん、もういいよ。ありがとう」
一体何を聞きたかったのかと、リリーは眉根を寄せる。
その後も、マティスは他愛のない話をリリーに投げかけ、その度に溜息を吐かれるのだが、彼の好奇心がおさまることはなかった。
空はいつもどおり美しい青に染まり、厚着をしていると汗ばむくらいの陽気だった。
「暑い」
そう言いながらも、リリーの服装はいやに軽装だった。聖騎士として支給されている装いに、軽い布地のローブ。使い慣れていそうな、変わった片刃の剣。荷物はというと、洒落っ気の欠片も無い皮袋ひとつだった。
それでも、蒼い髪と翠の瞳が郡を抜いて美しいので、道行く人が彼女を見ているのが分かった。
時計の針は、午前十一時を指そうとしている。そろそろ昼食の準備をするために、女たちが早足になる時間だ。
ざわめき立つ町の中、リリーは一人、橋の欄干に腰を預けた。
リリーたちの待ち合わせ場所は、小さな国境の町だった。リュシアナの北にあるこの町は、首都に近いながらも少々田舎臭さの残る場所だ。
かといって、何も見所がないわけではない。町中には、名産である花が色とりどりに咲き誇り、そこら中に胸を撫でるような優しい香りを放っている。
勾配が多い町ではあるが、民家や商店の壁には必ず花が咲き誇っているので、楽しみながら歩くことが出来るというわけだ。
水路も充実しており、今リリーが腰掛けている橋も、その水路のひとつに架けられている。
流れる水路の水は美しく、リリーの陰鬱な表情さえ、水面の光に消してくれる。
綺麗だな、と素直に思えることが出来た自分に、リリーは少し安心した。
「お待たせしました」
喧騒の中から、声がした。顔を上げると、そこにはマティスがいた。近衛兵らしい少し洒落た服装で、合わせたかのように爽やかな笑顔を見せている。
彼の後ろには、同じ調査隊として抜擢された人物が二人いた。一人は少し年配の男で、もう一人は、二十代後半の女性だった。
いずれも、一目では軍人と分からないような旅装をしているが、雰囲気が一般の人間とは違うのは明らかだった
「あんたがリリー・ウルビアか」
短く切り揃えられた濃い藍色の髪をした男が、驚いた様子で言う。さっぱりとした印象だが、年はそれなりに重ねていそうだ。扱いやすそうな片手剣には、獅子の紋章が刻まれている。
「俺はリュシアナ軍部、騎馬隊のバルト。こっちは……」
「聖騎士のアミー。貴方は……噂のリリーちゃんだね。若い若い」
悪意のない声でそう言った娘は、けらけらと快活に笑う。乱雑にまとめられた紅葉色の髪には、耳を覆うようにして大きな布飾りが巻かれており、それを留めるように変わった簪を差していた。
重そうな皮袋を背負い、旅装をしっかりと整えた二人の中で、マティスだけが非常によく目立つ。弱々しい瞳で視線を逸らす彼に、リリーは声をかけた。
「マティス……約束の時間は十一時より前だったと思うのだけれど」
リリーが言うと、マティスは気まずそうに後ろの二人を見た。
「彼らの家族と少し話をしていまして。すみません」
ああ、とリリーは悟った顔をする。年配の方の兵士が、咳払いをした。
「突然の出張なもんで、家族に言うのが今日になっちまった。すまん、遅れたのは俺のせいだ」
恐らく、リリーより二十歳は上であろうこの男だが、非常に腰の低い態度で頭を下げる。
居心地の悪くなったリリーは、「いえ」と小声で返事をした。
「リリーちゃんは時間きっちりだったんだね? 噂なんてほんとアテになんないね。真面目な子じゃない」
笑顔を絶やさず、娘が言う。唇に乗った紅が、成熟した大人の印象を与える。
「リリーでいいです」
思わず敬語になるリリーに、マティスが驚く。畏まった態度に肩を竦めた。
「リリーちゃんの方が可愛いじゃない! ね、あたしのことも好きに呼んでいいよ」
とは言っても、短いその「アミー」という名前をどう捩ればいいのかとリリーは悩む。
困り顔をしていると、アミーは嬉しそうに笑った。
「はは! 良い呼び方、考えといてよ」
「――さて、出発前に準備は要りませんか? 買い物があるなら、ついていきますよ」
マティスは気を利かせて言ったつもりなのだろうが、リリーは怪訝な顔をして首を振る。
「準備が出来ていないとでも思ったの?」
「やっ、えっと、そういう意味じゃなくって。ほら、やっぱりローブの一枚くらいはあった方がいいと思うから」
焦ったのか、マティスは敬語を崩して言う。
そこで、はっとしたリリーは自身の体を見つめた。
「そうか……これじゃあ少し寒いか」
首を傾げ、リリーは自身の胸元に手を当てる。
「ごめん。ローブだけ買わせてもらいたい。いい?」
妙に素直に謝ったことに、マティスは僅かながら驚きを見せた。
どうやら、彼女の棘のある言い方は、ある種の「癖」らしいということに気付く。
少し頬を赤くしたマティスは、リリーに手を差し出した。
「この先に、店がありました。きっとリリーが好きそうな物があると思います」
「……“リリー”?」
呼び捨てにいち早く反応したリリーは、横目にマティスを睨む。
「あ、えっと、その」
「別にいいけど……」
そう言いながらも、リリーの横顔は明らかに嫌悪に満ちている。
勿論、マティスの手は宙をひらひらと舞い、ポケットに悲しそうに仕舞われることになった。
「なんっか……印象違うなあ。いや生意気は生意気だけど、なんつうか」
バルドが、冷や汗混じりに言う。
「リリーちゃん、って呼んだ時はあそこまで嫌がらなかったのに」
アミーが首を傾げる。
「そうだね……可愛いのに勿体無い」
マティスがぽつりと漏らした言葉に、アミーたちが色めき立ったのは言うまでも無かった。
* * *
リリー達の偵察部隊は順調に北上を続けていた。バルドが世話をする馬も、この寒さに負けず元気に走ってくれている。
時折、異形の悪魔が襲いかかってくることもあったが、どれも人間程度の大きさしかない、いわゆる「小物」であった。そのほとんどをバルドが倒し、アミーが補助をする形だった。
リリーはというと、マティスがやけに壁となっている為、その腰にある変わった形の剣を振るうことはあまりなかった。
「今日はここらへんで落ち着こうぜ」
バルドが、馬を気遣いながらそう言った。
周りを見ても街の光は既になく、北へ続く街道だけがどんよりとして続いている。
暗い夜空の下、穏やかな炎が優しい音を立てて揺れている。大きな木が二つほどそびえ立つそこは、雨風もしのげそうで具合がいい。
その屋根のような枝と葉が決めてとなり、本日はここで野営となった。
「厄介なのは人型だよなあ」
座りこんでくつろいでいたマティスが、疲れた声で呟いた。
「人型なんかいた?」
りんごをかじりながらアミーが尋ねると、バルドが代わるように答えた。
「また人型の話かよ。やめようぜそれ」
年に似合わず若々しい瞳をしている彼だが、疲れが少々滲んでいた。
「あれは他と見分けがつかないから後味が悪いものね」
同意するように言葉を続けたリリーに、バルドが表情を明るくする。
「だよなあ。軍部でもさあ、顔はかっこいい人型がいるだなんだって女どもがキャーキャー言ってんだよ。さすがに呑気すぎるだろ」
「見た目が似ていると、まるで人殺しをした気分になるから嫌」
なんの抑揚もなく言い放つリリーに、バルドが喉を詰まらせる。
焚き火の光に染まるその横顔に、悔やむような感情は見えなかった。
「えっと……そうそう。聞きたかったんだけど、その剣はやっぱりアストレイア様から習ったものなのか?」
マティスが、リリーの傍らにある剣を差して尋ねる。
リリーの右隣、荷物との間には、包丁を長くしたような片刃の剣があった。柄には布が幾重にも巻かれているが、雑ではない。間隔を違うことなく交互に巻かれ、模様のようになっている。
「これは違う」
リリーはそっけなく答えた。
「それって、リュシアナのじゃないわよね。不思議な形」
「五年ほど前、師に剣を教えてもらっていた。その時に譲りうけた」
「へえ、士官学校とか?」
「誰もが貴方みたいに学校に通ってちゃんとした勉強をしているわけじゃない。師は旅をしている人だったから、今はどこにいるか分からない」
嫌味を言われたにも関わらず、マティスはそれを意に介せず、言葉を続ける。
「それって、男?」
「そんなことを聞いてどうするの?」
「好奇心だよ」
「男。東の方の民族の、旅の人。もういい?」
「そっかあ……うん、もういいよ。ありがとう」
一体何を聞きたかったのかと、リリーは眉根を寄せる。
その後も、マティスは他愛のない話をリリーに投げかけ、その度に溜息を吐かれるのだが、彼の好奇心がおさまることはなかった。