第五話「戴冠の調べ、蒼き誓いのリリスティア」

 誰も貴方に逆らわない。誰も貴方を貶めたりはしない。
 その御手はあまりに遠く、手を伸ばしても届く事はないというのに。
 嗚呼、貴方よ。何故そんなにも。何故そんなにも、我らを恐れるのか。
 ――遠ざけるのか。


 春を取り戻したヴァイスの朝は、心地良い日差しに包まれていた。すぐそこに軍勢が迫っているなどと、想えない程に空が青く美しい。
 屋敷の庭には様々な植物が生い茂り、花を咲かせている。
 薔薇も、芳しい薫りは放ち、アーチに大輪の花を咲かせていた。
 極寒の地を一瞬で春の空気漂う大地に変えてしまう力。先王にはなかった、奇跡的な力だ。

 レオンは執務室で、先を案じていた。
 王国軍はあまりにも堂々と進軍してきている。当初より数は増え続け、制圧部隊も追加されたとの報告が上がっている。

「一度滅んだ国に三万人も投入しマスか普通」

「竜を警戒しているんだろう」

 ヒルは地図を見つめ、腕を組んでいる。

「前線部隊には『彼女』が行ってくれマシたが、結果は言わなくても分かりマスね」

「大地が元通りになったとはいえ、こちらの民の安否はまだ確認できていない。城にはライザーが行ったが、……まだ連絡はない」

「こっちの軍隊は使えないってことデスか」

 人差し指で机をトントンと叩く。苛立ちより、面倒だという様子だ。

「レオン、足止めもいつまで保つか分からないぞ」

 分かったような口ぶりでヒルが言う。
 彼は昔から試すような言葉でレオンをからかう。
 それを分かっているレオンは、軽い口調で肩をすくめた。

「うへえ。ひっじょーに不本意デスが、やっぱ彼らにお願いするしかないデスねえ」

 途端、ガタガタと屋敷の窓枠が揺れた。連動するように全ての窓ガラスが震え、巨大な影が窓を横切る。
 二人は目線だけ外にやると、何もない青空の様子を伺った。

「ありゃ、もう来たんデスかね?」


  * * *


 轟音が耳に鳴る。遠くで、地鳴りが聞こえる。戦いが迫っていることを示す空気の震えだ。
 もしもの時に腰に備えている細身の剣の鞘を握りしめた。そうすると、少し心が強くなる気がする。
 リリーは屋敷の薔薇の庭園にいた。目が早く覚めすぎて、だがベッドにいると体が気持ち悪くて外へと出ていた。
 黙って部屋を出たつもりだったのに、いつの間にか二人ほど侍女が付き従っていたので、彼女らがただ者ではないことを感じ取った。

「リリー様」

 ミリアがブランケットを差し出しながら、近づいてきた。
 相変わらず優しい笑顔で、リリーの体を気遣う。

「常春を取り戻してくださりありがとうございます。しかし風に当たりすぎると、お体に障ります」

 ミリアの言う通り、風は冷たい。誓約を交わしてから、何故かずっと体がだるいので、確かに良くはないだろう。
 だが、一人部屋でじっとしているのが落ち着かなかった。うろうろしたからといって、何かできるわけではないのは百も承知しているのだが。

「ありがとう。ところで、聖王国軍は今どこまで来ているのか知ってる?」

「はい。既にアルゲオ山脈を越えたと伺っております」

「えっ!?」

 落ち着いた様子で答えるミリアに、リリーは驚嘆した。
 サービングカートに紅茶とケーキまで用意している彼女に、あたふたとして言う。

「こんなことしている場合じゃないでしょう。ヒルは……、レオンはどこにいるの?」

「お二人は、確か執務室にいらっしゃるかと」

「行ってくる!」

「あっ! リリー様!」

 リリーはミリアの横をすり抜け走り出した。赤い花びらが、彼女の後を追うように舞う。
 ミリアはブランケットを畳み直しながら、他の侍女と揃って、深々とお辞儀をした。
 庭園の薔薇を左右に、ブーゲンビリアの並木を越えていく。色彩豊かな庭園はまさに春の楽園。その美しさに、目が眩みそうになる。
 振り切るように走りぬけていると、行く手を阻むように突風が吹き荒れた。

「っ!?」

 空が暗くなったかと思うと、薔薇の花弁が一気に舞い上がり、ざわざわと音を立てて揺らいだ。
 突然の突風に重心が揺らぎ、体勢を崩す。
 耐え切れず転びかけたリリーだったが、何者かの手が彼女を支えた。

「すまない、ヒル……」

 ヒルだろうかと、そっと振り返る。だが、そこには誰もいない。
 見ると、視界の下の方で何かがはためいた。そこには、陽に照らされて紫に揺らめく大きい対の蝙蝠羽根があった。

「大丈夫、ですか」

 蝙蝠羽根の持ち主は、幼い少女だった。少女は薄紅色の髪を耳の上で二つに結び、肩と足が大きく出た衣服を纏っている。ぷっくりと丸みを帯びた頬の横には、尖った耳。髪と同じ色をした瞳は、瞳孔が縦に割れていた。
 背はリリーの胸のあたりまでしかなく華奢で頼りない。だが、腕はリリーをしっかりと支えており、その重心が揺らぐ様子はない。

「あ、ありがとう」

 リリーは身なりを整えつつ、少女に向き直る。

「転ばなくてよかった、です。地面は痛いから」

 少女はたどたどしい口調で喋る。言葉の発音が少し違う気がした。

「えっと……」

 リリーが言葉を探していると、少女はその大きな目を少し伏せた。

「……私はこれで」

「ま、待って!」

 リリーは思わず少女の手首を掴む。
 少女はぎょっとして、リリーと、掴まれた己の手を交互に見た。
 爬虫類のような瞳孔と、背中に生えた蝙蝠羽根。そのような特徴を持つ種族は僅かだ。
 仄暗い炎を思わせる紅(くれない)の瞳が戸惑っているのが目に見えたが、思わず聞かずにはいられなかった。

「あ、その、お前は、……お前も、竜なの?」

「……そう、です」

 怯えたように、少女は答える。
 リリーは、少女の手をそっと離した。
 風がふわりと優しく吹き、ブーゲンビリアの花が舞う。

「そう、か」

 短く発した一言を、笑顔で飾った。
 春の陽射しに、揺れる蒼い髪。遠く白んだ記憶が、少女の瞼に蘇る。

 "そう、貴方も竜なの"

 響く声は温かく、陽だまりの中にいるようだった。
 そこにいたはずのひと、いなくなったひと。少女の記憶にある情景が、リリーと重なった。
 急に黙り込んでしまたった少女を気遣い、リリーは首を傾げた。

「えと、私はリリー。その、お前は……」

「お~い、リリーちゃ~ん」

 リリーの問いを遮るように、石畳の向こうからレオンが歩いてきた。
 飄々とした様子で、紙束を持った手を左右に振っている。
 レオンの方に振り返ったリリーは、彼の余裕綽々の様子を見て苛立つ。

「なに笑ってるんだあいつ……」

 駆け寄ろうとして、ふと振り返る。
 だがそこには、もう少女の姿はなかった。地に落ちた紅のブーゲンビリアの花びらが、所在なさげに風に揺れていた。

「……いない」

「誰かいたんデスか?」

 歩み寄ってきたレオンが、リリーの向こう側をのぞき込む。

「今、小さな女の子がいたんだ。羽根の生えた……こう、髪を結った感じの」

「おやまあ」

 レオンは何やら含んだ笑みを浮かべる。

「まあ、その子にはあとで会えると思いマスよ」

 尖った耳に、割れた瞳孔。あの特徴はカイムとよく似ている。
 もしかして彼女も──。

「ところでリリーちゃん、ちょっとこんな時になんデスけど」

「なに?」

「すこーし、お付き合いして頂きたい用事がありマシて」

 レオンに連れられて、リリーはとある部屋に案内された。
 花びらを模した洒落たランプが壁に光り、床の絨毯などは幾重にも連なる花の文様が織り込まれている。
 ランプの下に立てかけられた大きな鏡は、年季の入った金縁で。今にも鳴りだしそうな振り子時計は、不自然な時間で針が止まっていた。
 しばらく使われていなかったのだろう。ぼうっとしたランプの色が、他の部屋と違うように見えた。
 ミリアと同じ服装をした女性が二人ほど壁際に控えており、リリーを認めるなり恭しくお辞儀をしてみせた。

「この子たちはミリアさんの部下で、屋敷のメイドさんたちデス」

「よろしくお願いします」

 声を揃え、上品に笑みを浮かべる。リリーは、反射的に会釈を返した。

「何をするんだ?」

「お召替えデス」

「は?」

 レオンが言うや否や、メイドたちはリリーを椅子へと導いた。さっと手早く姿見を動かし、リリーの目の前にどんと据える。
 呆気にとられた顔で鏡に映る自分と目が合ったリリーは、居心地の悪さに口を歪めた。

「お召替えって、別にこのままでも」
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