第四話「反逆の産声、黒き羽音」
彼女の立居振舞はお手本のように品で、黒地のワンピースに白く清楚なエプロンが貞淑さを物語る。ミリアは軽くお辞儀をした後、リリーの傍に歩み寄った。
「何か用?」
「はい、これから私が陛下の身の回りのお世話をさせて頂きます」
ミリアは、にっこり笑うと、深々お辞儀をする。
「へ、陛下って、まだ何もしていないのに」
「私は前王妃様の侍女を務めておりました。本来ならば貴方様は王女として大切に大切にたいっせつに育てられるべきだった御方。ですから、私を含め皆は然るべき態度を取るべきなのです。取らせてください。取りたいのです。よろしくお願いします」
おっとりとした声に反して矢継ぎ早に言われ、リリーはたじろいだ。
参った。陛下と言われても、今は何も分からない。それ以前に、こういう持ち上げられ方をされたことがないからどう振る舞って良いものか分からない。
リリーは頭を捻らせたが、結局いつも通りの自分でいることにした。
「呼び方だけ、リリーでお願いしたいのだけど。呼ばれ慣れないから……」
「ふふ、では公の場以外ではリリー様と呼ばせて頂きますね」
「うん……」
にこにこと微笑まれ、リリーは軽くため息を吐いた。
あからさまな好意を向けられることに、まだ慣れない。
「ところで、お部屋に戻られるのですか?」
「あ、えっと。先に中に入ってくれって、ヒルが」
「まあ、ヒルシュフェルト様が?」
「あと、その。もしよかったらなんだけど、……ふ、風呂を借りることはできるだろうか」
リリーは少し汚れてしまった自分の体を気にし、腕を隠すように後ろ手に回した。
「借りるだなんてそんな!!」
ミリアが勢いよく声を上げると、周りの侍女たちが作業の手を止める。だがさっと顔を逸らして、また自分の仕事に戻った。
「な、何?」
「――大声を出して失礼致しました。では、すぐに湯浴みの用意を。準備が出来ましたらお声を掛けさせて頂きます」
「そんな大げさなことしなくていい!」
「いいえ。あのような一般の客室の湯を浴びさせるわけにはいきません!」
ミリアの急な強気の態度に、リリーは一歩足を引いた。
「ライザー様もライザー様ですわ! 私に何の相談もなくあんな部屋にリリー様を押し込めて! しかもお召し物もヒル様が勝手に! 私を差し置いて!」
「あの……ミリア」
「許せません!! 王族の在り方は高貴で! 華麗で! 優雅でなくては!」
「…………あの」
最早リリーが目の前にいることわ忘れているかのような陶酔ぷりのミリアを見ながら、リリーはヴァイスの国民性を疑い始めた。
「……やっぱり今日は、風呂はいいかも」
「ええ!? 今日は薔薇の香りに染まる湯にしようと思いましたのに!」
リリーは薔薇風呂に浸からせられる自分を想像し、ぞっと青ざめた。
「いや……普通に入るなら今でも構わないけど」
「良かった! では早速薔薇を取り除きます。それは他の侍女に命じますので、私は陛下の寝室を整えて参ります。ああ~楽しみです。湯浴みを手伝うなんて久しぶりすぎて……ふふ。では廊下左奥が湯浴み場です! ご案内できなくて申し訳ございませんが、一度失礼致しますね!」
まるで小鳥が一斉に飛びかかってきたようにぺらぺらと喋り倒したミリアは、スカートを翻し立ち去っていった。唖然としながらも、リリーは力無く頷いた。
とりあえず言われた通りに部屋で待つことにしたリリーは、先ほど自分に宛がわれていた部屋へと向かった。
しかし、この屋敷はとことん広い。そして似たような装飾が並ぶのは、侵入者対策だろうか。よく見ると二階に上がる階段は数か所あるものの、それぞれが決まった階層にしか上がれないようになっている。
少しの冒険心を刺激されたリリーは、廊下に咲く花を生けた花瓶や、絵画。良く分からないモニュメントを興味深げに見て回った。
「薔薇が多い。ヴァイスは薔薇が好きな民が多いのかな」
窓の外を見ると、春を取り戻した庭に薔薇の枝が伸びていた。蔦状のものから、すっと真っ直ぐに育ったものまで様々だ。いつかあれら全てが蕾を付けて咲き誇るのだろうか。
想像しても、リリーは薔薇の美しさを知らない。
誰もが目に留めていただろう感動する景色を、リリーはまだ、見たことがなかった。
そんなことを考えながら廊下の角を左に曲がった時だった。
「わ……!」
自分の目の前に何か大きな障害物が現れたことを察知すると、咄嗟に歩みを止める。
なんとかぶつからずには済んだが、視界に飛び込んできた"それ"に息を呑んだ。
それは、男性の胸板であろう箇所に描かれた黒い龍の刺青。
リリーは目を奪われたまま静止してしまったが、すぐに上を見上げ、その刺青の持ち主の全貌を確認した。
漆黒の、まさに鴉の濡れ羽色の服。燃えるような長く真っ赤な髪はヒルのそれと似ているが、少し色味が違う。何より、瞳が今まで見たどんなものにも似ていなかった。爬虫類のような、鋭い瞳孔だ。
リリーは本能的な恐怖を感じ、急いでその男性から離れようとした。だが瞬間、手首を強く捕まえられ、それは叶わなかった。
「痛っ!」
リリーは手を振りほどこうと体をよじらせたが、その握力は尋常ではなかった。男はリリーを自分の方に引き寄せると、体中に視線を這わせた。
「お前がヴァイスの王か?」
低く、誘惑的な声。リリーは毅然として言葉を放つ。
「誰だお前は!」
リリーは凄んで見せたが、男は動じず観察を続ける。
「誰だと思う? 当ててみるんだな」
「ふざけっ…………ぐっ」
リリーが声を一層張り上げようとすると、男はリリーの口を素早くふさぎ壁に体を押しつけた。
「翡翠色の瞳か、美しいな。希なる瞳だ」
リリーにその言葉の意味は分からなかったが、なんとなく馬鹿にされているのは伝わった。
睨み付けて威嚇をしたつもりだが、男を益々喜ばせてしまう。
「ほう、威勢だけはいいな」
男の息が耳にかかり、リリーは体を強ばらせた。
この状況は、前にもあった。ライザーに押さえ込められ、抵抗できなかった時だ。だがこの男、ライザーとはまた違う。巨大な獣と対峙した時のような、得体のしれない恐怖を感じる。
男はリリーの口から手を離し、その唇を親指でなぞった。
「本当にヴァイスを再興させるつもりか?」
「離せ!」
腕は、まるで鉄の輪がはめられたかのように動かない。
足をあげて蹴り倒してやりたいと思っても、太腿の間に足を差し入れられ、身動きが取れなくなってしまった。
「それで、お前はどうやって国を立て直す? 人間たちはもうそこまで迫っている。魔導術も使えず、軍も持たないお前に何ができるんだ?」
「離せと言っている! お前に話す事は何もない!」
抗えば抗うほど、男は愉悦に顔を歪める。
圧倒的な力の差に屈しそうになる自分を奮い立たせ、リリーは親指に?み付いた。
「……ほう」
男の指には傷すら付かない。だがリリーはなんとか動く脚で、男の足の甲を踏み抜いた。
少し手が緩んだ隙に、リリーは倒れこむようにその場を逃れ、さっと体勢を立て直して男に向き直った。
少しはダメージを与えられたと思いたかったが、手が緩んだのは男の意志によるものだった。
「ふん、粗暴な野良猫だな」
そう言い放ち、男は再び距離を詰めてきた。
リリーはすぐにその場を逃げようとしたが、どういうわけか足が動かなかった。
「え……」
今まで、強くおぞましい異形を相手にしてきても逃げられないほどの恐怖を感じることはなかった。それなのに、今はこの男の瞳を見るだけで体が硬直する。何が違うのか、異形の方がよほど恐ろしい外見をしているというのに。
人であるのに、人ではない。男の本質に怯えている自分に気付いたリリーは、咄嗟に彼の名を呼んだ。
「ヒ……ル……、ヒル!!」
男が更にリリーとの距離を縮め、肌に触れようとした瞬間だった。
リリーの視界、男の肩越しに緋色の髪が見えた。
「何をしているんだ」
リリーは手を押し退け、素直にその名を呼んだ。
「ヒル!」
ヒルは背後から男の肩を掴み、リリーから離した。
不機嫌に顔を歪ませる男に、ヒルは呆れたような視線を遣る。
「正式な場で会うまで待てないのか、カイム」
「お前たちの道理に従えと?」
カイムと呼ばれた男性は、獲物を前にして逃した獣のように落胆した表情でゆっくりとリリーから距離を取った。
「何か用?」
「はい、これから私が陛下の身の回りのお世話をさせて頂きます」
ミリアは、にっこり笑うと、深々お辞儀をする。
「へ、陛下って、まだ何もしていないのに」
「私は前王妃様の侍女を務めておりました。本来ならば貴方様は王女として大切に大切にたいっせつに育てられるべきだった御方。ですから、私を含め皆は然るべき態度を取るべきなのです。取らせてください。取りたいのです。よろしくお願いします」
おっとりとした声に反して矢継ぎ早に言われ、リリーはたじろいだ。
参った。陛下と言われても、今は何も分からない。それ以前に、こういう持ち上げられ方をされたことがないからどう振る舞って良いものか分からない。
リリーは頭を捻らせたが、結局いつも通りの自分でいることにした。
「呼び方だけ、リリーでお願いしたいのだけど。呼ばれ慣れないから……」
「ふふ、では公の場以外ではリリー様と呼ばせて頂きますね」
「うん……」
にこにこと微笑まれ、リリーは軽くため息を吐いた。
あからさまな好意を向けられることに、まだ慣れない。
「ところで、お部屋に戻られるのですか?」
「あ、えっと。先に中に入ってくれって、ヒルが」
「まあ、ヒルシュフェルト様が?」
「あと、その。もしよかったらなんだけど、……ふ、風呂を借りることはできるだろうか」
リリーは少し汚れてしまった自分の体を気にし、腕を隠すように後ろ手に回した。
「借りるだなんてそんな!!」
ミリアが勢いよく声を上げると、周りの侍女たちが作業の手を止める。だがさっと顔を逸らして、また自分の仕事に戻った。
「な、何?」
「――大声を出して失礼致しました。では、すぐに湯浴みの用意を。準備が出来ましたらお声を掛けさせて頂きます」
「そんな大げさなことしなくていい!」
「いいえ。あのような一般の客室の湯を浴びさせるわけにはいきません!」
ミリアの急な強気の態度に、リリーは一歩足を引いた。
「ライザー様もライザー様ですわ! 私に何の相談もなくあんな部屋にリリー様を押し込めて! しかもお召し物もヒル様が勝手に! 私を差し置いて!」
「あの……ミリア」
「許せません!! 王族の在り方は高貴で! 華麗で! 優雅でなくては!」
「…………あの」
最早リリーが目の前にいることわ忘れているかのような陶酔ぷりのミリアを見ながら、リリーはヴァイスの国民性を疑い始めた。
「……やっぱり今日は、風呂はいいかも」
「ええ!? 今日は薔薇の香りに染まる湯にしようと思いましたのに!」
リリーは薔薇風呂に浸からせられる自分を想像し、ぞっと青ざめた。
「いや……普通に入るなら今でも構わないけど」
「良かった! では早速薔薇を取り除きます。それは他の侍女に命じますので、私は陛下の寝室を整えて参ります。ああ~楽しみです。湯浴みを手伝うなんて久しぶりすぎて……ふふ。では廊下左奥が湯浴み場です! ご案内できなくて申し訳ございませんが、一度失礼致しますね!」
まるで小鳥が一斉に飛びかかってきたようにぺらぺらと喋り倒したミリアは、スカートを翻し立ち去っていった。唖然としながらも、リリーは力無く頷いた。
とりあえず言われた通りに部屋で待つことにしたリリーは、先ほど自分に宛がわれていた部屋へと向かった。
しかし、この屋敷はとことん広い。そして似たような装飾が並ぶのは、侵入者対策だろうか。よく見ると二階に上がる階段は数か所あるものの、それぞれが決まった階層にしか上がれないようになっている。
少しの冒険心を刺激されたリリーは、廊下に咲く花を生けた花瓶や、絵画。良く分からないモニュメントを興味深げに見て回った。
「薔薇が多い。ヴァイスは薔薇が好きな民が多いのかな」
窓の外を見ると、春を取り戻した庭に薔薇の枝が伸びていた。蔦状のものから、すっと真っ直ぐに育ったものまで様々だ。いつかあれら全てが蕾を付けて咲き誇るのだろうか。
想像しても、リリーは薔薇の美しさを知らない。
誰もが目に留めていただろう感動する景色を、リリーはまだ、見たことがなかった。
そんなことを考えながら廊下の角を左に曲がった時だった。
「わ……!」
自分の目の前に何か大きな障害物が現れたことを察知すると、咄嗟に歩みを止める。
なんとかぶつからずには済んだが、視界に飛び込んできた"それ"に息を呑んだ。
それは、男性の胸板であろう箇所に描かれた黒い龍の刺青。
リリーは目を奪われたまま静止してしまったが、すぐに上を見上げ、その刺青の持ち主の全貌を確認した。
漆黒の、まさに鴉の濡れ羽色の服。燃えるような長く真っ赤な髪はヒルのそれと似ているが、少し色味が違う。何より、瞳が今まで見たどんなものにも似ていなかった。爬虫類のような、鋭い瞳孔だ。
リリーは本能的な恐怖を感じ、急いでその男性から離れようとした。だが瞬間、手首を強く捕まえられ、それは叶わなかった。
「痛っ!」
リリーは手を振りほどこうと体をよじらせたが、その握力は尋常ではなかった。男はリリーを自分の方に引き寄せると、体中に視線を這わせた。
「お前がヴァイスの王か?」
低く、誘惑的な声。リリーは毅然として言葉を放つ。
「誰だお前は!」
リリーは凄んで見せたが、男は動じず観察を続ける。
「誰だと思う? 当ててみるんだな」
「ふざけっ…………ぐっ」
リリーが声を一層張り上げようとすると、男はリリーの口を素早くふさぎ壁に体を押しつけた。
「翡翠色の瞳か、美しいな。希なる瞳だ」
リリーにその言葉の意味は分からなかったが、なんとなく馬鹿にされているのは伝わった。
睨み付けて威嚇をしたつもりだが、男を益々喜ばせてしまう。
「ほう、威勢だけはいいな」
男の息が耳にかかり、リリーは体を強ばらせた。
この状況は、前にもあった。ライザーに押さえ込められ、抵抗できなかった時だ。だがこの男、ライザーとはまた違う。巨大な獣と対峙した時のような、得体のしれない恐怖を感じる。
男はリリーの口から手を離し、その唇を親指でなぞった。
「本当にヴァイスを再興させるつもりか?」
「離せ!」
腕は、まるで鉄の輪がはめられたかのように動かない。
足をあげて蹴り倒してやりたいと思っても、太腿の間に足を差し入れられ、身動きが取れなくなってしまった。
「それで、お前はどうやって国を立て直す? 人間たちはもうそこまで迫っている。魔導術も使えず、軍も持たないお前に何ができるんだ?」
「離せと言っている! お前に話す事は何もない!」
抗えば抗うほど、男は愉悦に顔を歪める。
圧倒的な力の差に屈しそうになる自分を奮い立たせ、リリーは親指に?み付いた。
「……ほう」
男の指には傷すら付かない。だがリリーはなんとか動く脚で、男の足の甲を踏み抜いた。
少し手が緩んだ隙に、リリーは倒れこむようにその場を逃れ、さっと体勢を立て直して男に向き直った。
少しはダメージを与えられたと思いたかったが、手が緩んだのは男の意志によるものだった。
「ふん、粗暴な野良猫だな」
そう言い放ち、男は再び距離を詰めてきた。
リリーはすぐにその場を逃げようとしたが、どういうわけか足が動かなかった。
「え……」
今まで、強くおぞましい異形を相手にしてきても逃げられないほどの恐怖を感じることはなかった。それなのに、今はこの男の瞳を見るだけで体が硬直する。何が違うのか、異形の方がよほど恐ろしい外見をしているというのに。
人であるのに、人ではない。男の本質に怯えている自分に気付いたリリーは、咄嗟に彼の名を呼んだ。
「ヒ……ル……、ヒル!!」
男が更にリリーとの距離を縮め、肌に触れようとした瞬間だった。
リリーの視界、男の肩越しに緋色の髪が見えた。
「何をしているんだ」
リリーは手を押し退け、素直にその名を呼んだ。
「ヒル!」
ヒルは背後から男の肩を掴み、リリーから離した。
不機嫌に顔を歪ませる男に、ヒルは呆れたような視線を遣る。
「正式な場で会うまで待てないのか、カイム」
「お前たちの道理に従えと?」
カイムと呼ばれた男性は、獲物を前にして逃した獣のように落胆した表情でゆっくりとリリーから距離を取った。