第三話「雪原の孤独、薔薇の残り香」

 無造作に顔を伏せた枕からは、微かに薔薇の香りがした。こんな世界に珍しいと思いながら、瞳を閉じる。香りだけなら、春の世界だ。

「……どうして、こんなに凍りついてしまったのだろう」

 その言葉は、何に向けられたものだったのか。眠りに落ちるまでに、思考に答えが出ることはなかった。

 考えているうちに、朝が訪れた。
 といっても、メイドの一人が朝の訪れを教えてくれたに過ぎない。

「おはようございます」

 そう言って、暖かな湯桶と紅茶を持って入ってきたメイドは、夕べの食事の時にも見かけた気がする。栗色の髪を後ろで編み込んで綺麗に結い上げた、穏やかな雰囲気の女性だ。
 年の頃はリリーよりも上に見えるが、丸い瞳が愛らしい。足首まである長いスカートのメイド服は上品で、白いエプロンにはたっぷりとレースがあしらわれていた。
 メイドは、レースの波を揺らしながら、しずしずと部屋に入り、紅茶や湯桶をベッドサイドの丸いテーブルに置く。金があしらわれた白いそれは、よく丁寧に磨かれていた。
 寝癖を整えながら、リリーが軽く会釈をすると、メイドはゆっくりと口を開いた。

「申し訳ございません。少し水が足りなくて。午後になれば、お風呂を使えると思いますので、お許し下さい」

「え、いや、気にしなくても」

「ああ、でもその傷ではまだ難しいかもしれませんね」

「あ、うん。大丈夫だけど」

「大丈夫なんですか?」

「いや、大丈夫……なのか……これは。えっと」

 無表情を装うとしても、メイドの柔らかな雰囲気に絆される。
 リリーが気まずそうにしていると、メイドはリリーの近くまで歩み寄り、じっと視線を投げてきた。

「リリー様」

 様、などという呼ばれ方に慣れていなかったリリーは、返事を忘れる。
 ぼうっとメイドを見つめ、目を丸くする。
 するとメイドは、先ほど持ってきた紅茶のセットを手に取り、静かに用意を始めた。

「紅茶は、お好きですか?」

 その言葉が、あの時のマティスと重なる。苦い思い出を突っぱねるように、顔を強張らせた。

「紅茶は好きだった。けど、飲むのは……嫌だ」

「どうしてですか?」

「眠らされた。そうやって裏切られた」

 信用もしていなかったくせに、都合の良い言い方だとリリーは我ながらに思った。
 だが、信用しかけていた。それもまた、事実だった。
 悔しさに拳を握り締めていると、ふいに甘い香りが鼻をついた。

「薔薇の紅茶です」

 そう言って、メイドは紅茶を差し出した。
 この人物は、先ほどの自分の言葉を聞いていたのだろうか。
 嫌いだと言ったはずなのに、平然とした顔で紅茶を出してくる。
 怪訝な顔をしていると、メイドはこう言った。

「私の淹れた紅茶も、飲むと眠くなります」

「は……?」

「でも、その代わり、とっても甘くて美味しいんですよ。それはもう、二度寝をしたくなっちゃうくらい。そういう意味で眠くなりますが……やっぱり、飲みませんか?」

 終始、穏やかな笑みを浮かべた彼女は、リリーの心に優しく触れた。
 手前に差し出された紅茶の色は、今まで見たことがないような、薔薇の色。それも、真っ赤な薔薇ではなく、淡いピンクの、透き通る薔薇の色だった。
 湯気の向こうで、微笑む女性。リリーは、おそるおそる尋ねた。

「貴方の、名前は」

「ミリアです。ミリア・ペリドット。この屋敷で、メイドをしています。少し前から」

「ミリア……さん」

「ミリアで結構ですよ。リリー様」

 そっと、ミリアの手から紅茶を取る。
 小さな花柄のカップは、柄が細く、折れてしまいそうだった。
 一口だけ流し込んだ紅茶は、甘い薔薇の香りがした。


 * * *


「おはよー! ございマッス!」

 声高らかに、朝の訪れを屋敷中に宣言したのはレオンだった。
 屋敷の玄関広間で、両手を振り上げて体操をしている。

「朝ー! あっさあさ! 朝デスね!」

 この地では珍しい新緑の髪が、雪などなんのそのといわんばかりに輝いている。
 知的な印象を与える眼鏡が光り、更に大声を上げようとしたところで制止が入った。

「うっせぇんだよレオン! 早起きすぎだろテメエ! 年寄りか!」

 耳を塞ぎながら、二階の階段から現れたのはライザーだった。
 寝ぼけ眼に、隈が浮かんでいる。

「おやライザー君。おはよーございマス」

 先ほどまでの高揚はどこへ行ったのか、一転して落ち着いた声で言うレオンに、ライザーは睨んで答える。

「おはよーじゃねえよ。こっちは寝不足だっつの……」

「あれ~? もしかしてリリーちゃんのこと考えて寝れなかったんデス~?」

「んなわけあるかバカ!」

 ライザーは、欠伸をしつつレオンの横を通り過ぎていく。
 軽く手を振りながら、レオンはそれを見送った。

「さて……と、今日はまずまずのお天気デスねえ」

 レオンは、玄関扉の両側にある、巨大な窓を見つめる。
 よく磨かれたガラスの向こう側は非常に寒そうではあるが、空はさほど暗くはない。
 反射した自身の顔を見つめ、レオンは何やら妖しげな笑みを浮かべた。

「――外へ行く?」

 朝の食事の席、突然の提案にヒルは驚いた顔を見せた。
 提案をしたのは、レオン。妙に上機嫌で、目玉焼きを口に運んでいる。

「ハイ。リリーちゃんを連れて、ちょっとヴァイス国内を見学にでも」

「いやいやいやお前待てよ。見学っつったって、外は雪だぜ?」

 ライザーが言うと、レオンは人差し指を左右に振る。

「バカ言っちゃいけマセンよ。ヴァイスにだって、観光のしがいがある場所くらいたくさんありマス」

「ほとんど凍ってんだろうが」

「そういえば、これだけ凍っているなら、他のヴァイスの民はどうなっているの?」

 リリーが言うと、皆は一様に食事の手を止めた。
 してはいけない質問だったのだろうかと、内心焦るリリーだったが、レオンの明るい声により打ち消された。

「ふっふふ~知りたいデスか~」

 ずい、とレオンがリリーに顔を近づける。直ぐにヒルがその頭を引き離したが、彼は雄弁を続けた。

「このヴァイスには! 実はまだまだたくさんの民の生き残りがいるんデス!」

「そうなのか……?」

「ハイ! 大魔法の影響で、もーそりゃ色んな場所に身を潜めてはいマスけど、たぶんきっとたぶん! 生きてマスよ~」

 本気なのか、冗談なのか分からない口ぶりに、リリーは助けを求めた。
 無意識に視線を送った先では、ヒルが美味しそうに茶を啜っていた。

「最初の大魔法で、王城とほとんどの大地が凍らされた。それから幾度となく行われた魔法攻撃で、人々は各地へと散った。その中でも、攻撃を奇跡的に避けられたのがここライザーの屋敷というわけだ」

 丁寧な説明に、リリーはほっとする。

「じゃあ、あく……ヴァイスの民は健在なのか」

「お前今悪魔って言いかけたろ。ふざけんなよ」

 ライザーの嫌味に、リリーはすぐに反応をする。

「言い間違えただけだ!」

「ハーイハイ、やめナサイ二人とも。ま、そんな中でも実は氷漬けになったままの民もいるんデスよね……」

 レオンが、悲しげに言う。
 すると、ヒルが深刻な声で続けた。

「ああ。我らが王城はまだ、凍ったままだ――……」

 悔いるような横顔が、彼の過去を映し出す。その深い紅の瞳から目が離せないまま、リリーの紅茶は冷めていった。

 朝食を終えたリリーは、屋敷の庭にいた。玄関を出るとすぐに広い庭があり、ところどころに鉄の柵があるものの、今は雪が積もって全容は分からない。庭の中央に据えられた噴水は、枯れてしまって見る影もない。
 見渡すと、アーチの骨組みがあり木のベンチがある。ただし、全て凍り付いており、雪がしんしんと降り積もっていた。雪がなければ、美しい花が咲き乱れていただろうのか。

「寒い…………」

 外は、吹雪いてはいなかったが、きんと張り詰めた空気に積もった雪が肌を凍てつかせる。持たされたコートを深く羽織り、寒さに耐える。

「魔法でこんなこともしてしまえるのか」

 遠くは暗く、近くは白い。空の厚い雲に嘆くように、風見鶏が鉄の鳴き声を上げている。

「昔はこの庭の花壇が好きデシて。よく昼寝にきマシたよ」

 リリーが振り向くと、そこにはレオンがいた。

「レオン」

「ハイ、レオンデス」

 レオンはにっと笑ったが、すぐに手足をぶるぶるとわざとらしく震え上がらせてみせた。
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