第三話「雪原の孤独、薔薇の残り香」

 一瞬、ベリーは我が目を疑った。マティスが差すその書類の全てに、門外不出の調印が押されている。そんなものを持ち出せるのは組合上層部か、はたまた政治的権力の強い人物だけである。

「聖王国は神の国。そしてヴァイスは”永久凍土の”悪魔の国。でも別に、昔から凍っていたわけではなかったようだけど……」

 マティスの瞳は冷たかった。書類の、ある項目を指差す。
 ベリーはぐっと息を呑み、だが振り切るように心を立て直した。

「君は、リュシアナ以外に生きる場所なんてあるのかい」

「それは……」

 揺るぎなく、まっすぐマティスを見つめる瞳は、彼に衝撃を与えただろうか。
 マティスもまた彼女をまっすぐ見つめ返した。

「でも『私』は、自分をこれ以上偽れない!」

 ベリーはそう吐き捨てると、桜色の髪を翻し、部屋から走り去った。
 その姿が消えるのを追い掛けることもなく見つめていたマティスであったが、不意に痛んだ頬を押さえて、嘲笑った。

「偽ることは、生きるためだろうに」

 空っぽになっているような胸の辺りを押さえながら、彼は書類の端を整えた。にもかかわらず、乱暴に机の上に叩きつける。そして、深い溜め息を吐いた。

「リリー。君と次に会う時はどんな俺で話せばいいのかな……」


 * * *


 静かだった。音もなく、空気さえ止まってしまったかのような静謐だった。
 あまりにも現実味がないその部屋で、リリーは痛みと共に目を覚ました。
 肌触りの良い白いベッドの寝かされているらしいと気付くまでは、そう時間はかからなかった。自分が置かれた状況を認識すると、疼くように腕の痛みが押し寄せてくる。強制的に意識を覚醒させられたリリーは、周囲を見渡した。
 そうして広がった視界の先に、紅い髪が波打っていた。

「なっ……」

 リリーは咄嗟にベッドの左端に逃げた。リリーの目線の先には、すやすやとよく眠る紅い髪の男がいる。椅子に座ってはいるが、ベッドに上半身をうつぶせに預けている。

「ヒル……」

 リリーは、硬直したまま動けなかった。混乱しないはずもなく、しまいには油汗をかき始めた。
 見覚えのない広い部屋。古さが残るが、可愛らしい花の装飾が施された家具が置かれている。寝かされていた白いベッドは、洗濯したての爽やかな香りがしており、足の裏に心地よさを与えてくれる。天井まで伸びている大きな窓の外は曇っており、低く呻くような風の音がする。外は、かなり寒いのだろうか。
 リリーは音を立てないよう、そろっとベッドから降りる。ヒルの様子を伺い、起こさずに済んだことにほっとする。
 ベッドから降りたときに、自分が着ている服がいつのまにか真白な前合わせの寝巻に変わっていることに気付き、瞬間的にヒルを睨んだ。

「まさか……」

 リリーはもしそうなら叩き起こして殴り付けようかなどと模索していたが、ハッと何かに気付くと慌ただしく部屋の中を見回した。

「あ!」

 ベッド脇に、自分の剣が置かれていた。掻き抱くように急いで手に持ち、ほうっと安堵の息をもらした。
 大切な剣。いつからか、武器を腰に携えていないと不安になっていた。
 剣を持ったまま、窓の外に再び目をやる。曇りがかった窓から見える外は、見覚えのある風景だった。

「ヴァイス?」

 その言葉には以前のような憎しみはこもっておらず、新たに芽生えた感情にあふれていた。
 凍り付いた平原、木々。生き物の気配がしない。まるで時間も凍り付いたかのように、笛のような風の音だけが響いている。

「そうか、私は――」

 意識が落ちる寸前に見た、あの赤い光景が蘇る。
 微笑む人に、驕る人。侮蔑の視線に、それを切り裂く最期の救い。
 彼は、何故私を庇ったのだろうか。

 起こったこと全てが異質で、不安でしかなかった。体が震えるのは、この寒さのせいだろうか。人が死ぬ場面はもう何度も見た筈なのに、リリーは恐怖に心が押しつぶされそうだった。心の闇に、屍が立つ。恨むような瞳で、リリーを見つめる。

「もう起き上がって平気なのか?」

 ふいの声に、リリーはびくりと跳ね上がる。目をやると、眠っていたはずのヒルはしっかりと目を開けてリリーを見ている。ベッドに頬杖をつき、微笑みながら。

「……起きていたの?」

「一応伝えるだけだが、着替えをさせたのは俺じゃない。この屋敷の女性だ」

 リリーは独り言を聞かれていたことで微かに赤くなり、ふいっと顔を背けた。ヒルはそれを気にするでもなく、ゆっくり体を起こすと、立ち上がって肩をならした。

「よく寝ていたな」

「よく?」

「ああ、二日ほど」

「二日!?」

 リリーは驚いて目を丸くした。部屋の掛け時計を見ると、八時を指していた。

「ヴァイスは朝も夜もあまり変わらないから分かりにくいだろう。暗いしな」

 リリーは剣を抱きながら後退る。そんな優しい声で語り掛けないでほしいと訴えるように、目を細める。

「何を考えているんだ?」

 ヒルが問い掛けると、リリーは視線を合わすものの、何か気まずそうに口籠もる。

「無理して喋る必要はないが、何かあるならどうぞ」

 ヒルはそう言いながらくすくすと笑っている。リリーはムッと顔をしかめた。

「私がお前たちと同じ悪魔だって、最初から知っていたの?」

 するとヒルはぴたりと笑うのをやめ、真面目な顔つきでこう言った。

「お前は、俺たちの王の子だ」

 ヒルは、すべてを見通しているように澄んだ瞳をしていた。リリーは困惑しながらも、真実を自ら口にした。

「人ではないのね」

 拳を胸の前で軽く握る。ヒルは黙って頷いた。

「ああ、お前は人と寿命も、生まれ持った力も違う。この国の、純粋なヴァイスの民だ」

 はっきりと言い放つヒル。証拠などなくとも、リリーの感覚がそれを裏付ける。
 真実を識った後のここヴァイスの空気は、なんとも懐かしい香に満ちているのだ。
 泣き叫んで否定しようが、今まで聖騎士として同胞を殺し続けていたことを悔やもうが、リリーは間違いなく、ヴァイスの民なのだ。

「じゃあ……」

 リリーは自身の瞳を手でそっとおさえる。

「セイレは、私の姉さんではないのか」

 ぽつりと、消え入るような震えた声で言った。

「お前の頭にある疑問の答えは少しずつ話していくから、今はとりあえず傷を治すことに専念しろ、な」

 ヒルは優しく語り掛けると、歩み寄りリリーの肩にポンと手を置いた。

「……わかった」

「案外冷静だな」

「意味の無いことはしない」

 リリーはヒルの言うとおり冷静にぴしゃりと言い返したが、本当のところは定かではない。

「そうだ、ライザーたちに知らせてくる」

 ヒルは手をぽんとたたき、いそいそと扉に手を掛けた。

「ライザー?」

 リリーはあからさまに嫌そうな顔をした。するとヒルは意地悪い笑みをうかべて言った。

「ここはあいつの屋敷だ。世話になってるんだから、あいつには礼ぐらい言え」

「私があの男に礼を!?」

 リリーが嫌がるのも無理はない。あの時ライザーはリリーを縛り上げ、足蹴にし、屈辱的な言葉を吐きかけたのだから。

「あいつはあの時、お前がリリーだって知らなかったからだよ。知ってたらあんなことはしない。とにかく呼んでくるから、逃げるなよ」

 ヒルはリリーの思考を予測し、釘を刺しつつ出ていった。かと思うと顔だけ扉からのぞかせ、壁ぎわを指を差す。

「そこに新しい服がかかっている。ヴァイス仕立てだから気に入るかはわからんけどな」

「私が着ていた服は……」

「ああ、あれじゃあもう着れないだろ。あと薄着すぎる」

 ヒルはそう言うと部屋を後にした。彼の足音が聞こえなくなるのを確認すると、リリーはおそるおそるクローゼットに手を掛けた。ギィッと音がして、クローゼットの扉が開く。
 中のハンガーには、真新しい衣服がきちんとかけられていた。短いスカートに胸元のはだけたデザインを見て、これも薄着じゃないのかと首を傾げる。触ると、あきらかに聖王国製の衣服の材質とは違うのが分かった。
 リリーは、二日前まで聖騎士の紋章が在った箇所を触りながら、ため息をついた。

「ヴァイスの服、これを着ると……ヴァイスの民になるのかな」

 一言そう言うと、リリーは扉に内鍵をかけ、何かを振り切るように早々と着替え始めた。


 * * *


「や~! ヒル君! リリーちゃんの目が覚めたって?」
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