第一話「翡翠は、泥の中に」
手紙の一番上には、リュシアナが誇る獅子の刻印が押されていた。獅子が天を望むその姿が象られた刻印は、リリーの目に懐かしく映る。
「リュシアナ王の召文……。なんで今更、私を」
手紙には、形式的な挨拶の後、短くこう記されていた。
“至急、王都アルフォンスへ”
この一文だけでは、何のことか全く意味が分からない。
リリーは軽く首を振ると、手紙を元に戻した。
「聖騎士として登録はない国の召文、応える義務はあるのか」
「だから私が来たのです。貴方を何としても、王都へ連れていく為に」
「理由も言えず、連れ去るようにと王が?」
すると、マティスが急に黙り込んだ。やけに表情が暗い。
「……アストレイア様のことで御用に伺いました」
「姉さんの?」
「大事な話です」
深刻な様子で言うマティスに、リリーは姿勢を正した。
「実は……アストレイア様が、発見されました」
リリーの体中の神経がざわついた。全身の毛が逆立つのを感じながら、リリーはマティスに詰め寄った。
「姉さんはどこ!?」
リリーの目が、喜びに輝く。
だが、マティスは、答える前に周囲を気にした。
片田舎のこの風景に、真白い近衛兵の服装は目立って仕方がない。
「落ち着いて。ですから、すぐに来て頂きたいのです」
「そう……そうね。分かった」
「では、出来ればすぐに」
マティスは支度を急ぐように告げると、外にある白馬を見せた。
彼以外に兵の姿が見えないことを不審に思ったリリーは、眉を潜める。
「一人で来たの? 王の近衛兵が?」
「一般兵に任せられない。だから私が任されました」
馬を撫でながら、マティスが言う。
「よほど信用されているのね」
「名前だけですよ。信用があるのは俺ではなく、家名の方です」
「家名?」
「センシディア伯爵の長男ですって言えば、大体はちやほやしてくる」
白い馬は、彼によく懐いている。その馬を見つめるマティスの横顔は、どこか寂しげであった。
「お互い、家名に嫌な思いをしているのね」
リリーは、言うつもりはなかった心の声を零していた。
「そうかな」
マティスは、困ったように微笑んだ。
馬に乗り、村を出る。駆けるほど速く、進むほど遠く。手綱を握るマティスが焦っているのか、それともリリーの心が焦っているのかは分からなかった。教会の鐘を遠くに聞きながら、不安のままに瞳が乾いていくのを感じていた。
「マティス、姉さんは王都にいるの?」
風を切る音に負けないように、少し声を張って問いかける。
マティスは背中側にいるリリーに顔を見せることはなく、前に向かって答えた。
「王都にいます」
「ねえ、姉さんは誰が見つけてくれたの? 怪我はしていないのか?」
「……怪我、は」
「姉さん、昔と変わっていないのなら、無茶ばかりしていたに違いない。強いからって、やりすぎるんだあの人」
草原を駆け抜ける時、黒い衣を纏った人々とすれ違う。異質なそれを見つめながら、リリーは独り言のように続けた。
「けど……強いから。やっぱり、ちゃんと帰ってきた」
王都に近づくにつれ、黒い衣の人々の数が段々と増えていく。胸がどくりと、重い空気を飲んだように跳ねたが、リリーは気付かないふりをした。
「姉さんはやっぱり、強いんだ」
リュシアナは獅子を崇め、神を崇める国だ。黒を纏うのは、何かが失われた時だけだと記憶している。だから国民は、普段はこれでもかと言わんばかりに白を纏う。現に、このマティスも、ローブを留める宝石以外は全てが白で統一されている装いだ。
「姉さんは、姉さんは……」
美しく、神を愛した王都アルフォンス。城を中心に、放射線状に整備された大通りのひとつを馬で駆けていく。
祝福の都に、黒衣の人々が列を成して何かを目指していた。
彼らの向かう先には、王がおわす城ではなく、巨大な白き塔が在った。太陽の僅かな光で荘厳に輝くそれは、全てが聖石(せいせき)で造られた、人々の信仰の対象だ。
「創世神の塔……」
リリーがそれを見るのは、数週間ぶりだったが、まるでもう何年も見ていなかったかのような感覚に襲われた。
動く景色の中、巨大な城だけが悠然としてそこにある。近づくにつれ光を増す塔は、届かぬ神の姿を現しているようだった。
すると、塔の方角から、花片が風と共に舞い散ってきた。まるで、リリーの到着を待っていたかのように。
花びらは黒く、布のようになめらかな質感を持っている。手を伸ばすと容易に掴むことが出来たそれは、雫に濡れていた。
「これ、失われた時に咲く花の色。ねえ、マティス。ねえ、これは……」
問いかけに、マティスは答えなかった。ただ馬を走らせる彼の背中から、緊張が伝わってきた。
「マティス」
黒い花びらが、リリーを塔の元へと導く。門番は誰一人として阻むことはなく、馬は滑るようにして塔の前へと進んだ。
頂きが霞む塔の下に、黒衣の人々が集中していた。どこからともなく降り注ぐ黒い花びらは、雨のような静かさを以って辺りを包み込む。悲壮な泣き声が響く。怒号のような言い合う声が聞こえる。
歩む度に不安さだけが増すこの道を、どうしてこの男は、私を連れて進むのだろうか。
その内に、群集の一人が、大きく何かを叫んだ。その言葉が俄かに聞き取れず、リリーは耳を澄ました。しかし、それはするべき行為ではなかった。届けられる言葉が全て、リリーにとって信じがたいものばかりであった。
馬から降りることも考えず、リリーは周りから目を逸らす。手の平に、自然と力が入っていた。
「大丈夫かい?」
マティスが、そっと声をかける。軍服の腰辺りが、きつく皺を刻んでいた。
「俺の役目は、アストレイア様のところへ、ちゃんと君を連れていくことだから。気分が悪くなったら、すぐに言って」
マティスの気遣いが、重くリリーに響く。そんなことを言われなければいけないほどの何があるというのか。
今から待ち受けているのは、姉妹の再会。それは喜ばしいことであり、リリーの長く辛い一人の日々が終わりを告げる瞬間でもある。
そう、疑ってはいけないと、きつく言い聞かせているというのに。
お帰り、姉さん!
探したんだよ。ずっと探していたんんだよ。
待ってた方が良かったかな。賢くはなかったかもしれないね。
ねえ、でも姉さん。私はこんなに大きくなったよ。こんなに、強くなったよ。
こんなに、強くなったから、姉さんと一緒に、一緒に。
悪魔を――。
男に案内された、塔の前。道を造るように、神を称える白い百合の彫刻が並ぶ。ここが世界の別れの場所であるのだと示すかのように、両側では黒衣の人々が膝を折る。
そして、そっと置かれた硝子の棺。まるで御伽噺のお姫様。
長い睫毛、ブロンドの髪。凍り付いた、美しい顔。掲げられた十字架の下で、青白い肌が光る。
額には、「アストレイア」と書かれた複雑な紋章。
棺の傍らで、泣き崩れる男がいた。金髪の長い巻き毛の、まるで王子のような風貌を持った青年。
彼の口付けで目を覚ます筈の人は、もうこの世にはいない。
「姉さん」
黒く、夜よりも暗く、失われた人を送る花が空に舞う。
リリーの膝は、自然と大地に落ちていた。
──ここから。ここからだったんだ。
世界が、私が、貴方が。
全ての真実に向かって歩み始めたのは。
この瞬間、私という人物は初めて失われ、そしてまた産声を上げ、生き始めたのだ。
「リュシアナ王の召文……。なんで今更、私を」
手紙には、形式的な挨拶の後、短くこう記されていた。
“至急、王都アルフォンスへ”
この一文だけでは、何のことか全く意味が分からない。
リリーは軽く首を振ると、手紙を元に戻した。
「聖騎士として登録はない国の召文、応える義務はあるのか」
「だから私が来たのです。貴方を何としても、王都へ連れていく為に」
「理由も言えず、連れ去るようにと王が?」
すると、マティスが急に黙り込んだ。やけに表情が暗い。
「……アストレイア様のことで御用に伺いました」
「姉さんの?」
「大事な話です」
深刻な様子で言うマティスに、リリーは姿勢を正した。
「実は……アストレイア様が、発見されました」
リリーの体中の神経がざわついた。全身の毛が逆立つのを感じながら、リリーはマティスに詰め寄った。
「姉さんはどこ!?」
リリーの目が、喜びに輝く。
だが、マティスは、答える前に周囲を気にした。
片田舎のこの風景に、真白い近衛兵の服装は目立って仕方がない。
「落ち着いて。ですから、すぐに来て頂きたいのです」
「そう……そうね。分かった」
「では、出来ればすぐに」
マティスは支度を急ぐように告げると、外にある白馬を見せた。
彼以外に兵の姿が見えないことを不審に思ったリリーは、眉を潜める。
「一人で来たの? 王の近衛兵が?」
「一般兵に任せられない。だから私が任されました」
馬を撫でながら、マティスが言う。
「よほど信用されているのね」
「名前だけですよ。信用があるのは俺ではなく、家名の方です」
「家名?」
「センシディア伯爵の長男ですって言えば、大体はちやほやしてくる」
白い馬は、彼によく懐いている。その馬を見つめるマティスの横顔は、どこか寂しげであった。
「お互い、家名に嫌な思いをしているのね」
リリーは、言うつもりはなかった心の声を零していた。
「そうかな」
マティスは、困ったように微笑んだ。
馬に乗り、村を出る。駆けるほど速く、進むほど遠く。手綱を握るマティスが焦っているのか、それともリリーの心が焦っているのかは分からなかった。教会の鐘を遠くに聞きながら、不安のままに瞳が乾いていくのを感じていた。
「マティス、姉さんは王都にいるの?」
風を切る音に負けないように、少し声を張って問いかける。
マティスは背中側にいるリリーに顔を見せることはなく、前に向かって答えた。
「王都にいます」
「ねえ、姉さんは誰が見つけてくれたの? 怪我はしていないのか?」
「……怪我、は」
「姉さん、昔と変わっていないのなら、無茶ばかりしていたに違いない。強いからって、やりすぎるんだあの人」
草原を駆け抜ける時、黒い衣を纏った人々とすれ違う。異質なそれを見つめながら、リリーは独り言のように続けた。
「けど……強いから。やっぱり、ちゃんと帰ってきた」
王都に近づくにつれ、黒い衣の人々の数が段々と増えていく。胸がどくりと、重い空気を飲んだように跳ねたが、リリーは気付かないふりをした。
「姉さんはやっぱり、強いんだ」
リュシアナは獅子を崇め、神を崇める国だ。黒を纏うのは、何かが失われた時だけだと記憶している。だから国民は、普段はこれでもかと言わんばかりに白を纏う。現に、このマティスも、ローブを留める宝石以外は全てが白で統一されている装いだ。
「姉さんは、姉さんは……」
美しく、神を愛した王都アルフォンス。城を中心に、放射線状に整備された大通りのひとつを馬で駆けていく。
祝福の都に、黒衣の人々が列を成して何かを目指していた。
彼らの向かう先には、王がおわす城ではなく、巨大な白き塔が在った。太陽の僅かな光で荘厳に輝くそれは、全てが聖石(せいせき)で造られた、人々の信仰の対象だ。
「創世神の塔……」
リリーがそれを見るのは、数週間ぶりだったが、まるでもう何年も見ていなかったかのような感覚に襲われた。
動く景色の中、巨大な城だけが悠然としてそこにある。近づくにつれ光を増す塔は、届かぬ神の姿を現しているようだった。
すると、塔の方角から、花片が風と共に舞い散ってきた。まるで、リリーの到着を待っていたかのように。
花びらは黒く、布のようになめらかな質感を持っている。手を伸ばすと容易に掴むことが出来たそれは、雫に濡れていた。
「これ、失われた時に咲く花の色。ねえ、マティス。ねえ、これは……」
問いかけに、マティスは答えなかった。ただ馬を走らせる彼の背中から、緊張が伝わってきた。
「マティス」
黒い花びらが、リリーを塔の元へと導く。門番は誰一人として阻むことはなく、馬は滑るようにして塔の前へと進んだ。
頂きが霞む塔の下に、黒衣の人々が集中していた。どこからともなく降り注ぐ黒い花びらは、雨のような静かさを以って辺りを包み込む。悲壮な泣き声が響く。怒号のような言い合う声が聞こえる。
歩む度に不安さだけが増すこの道を、どうしてこの男は、私を連れて進むのだろうか。
その内に、群集の一人が、大きく何かを叫んだ。その言葉が俄かに聞き取れず、リリーは耳を澄ました。しかし、それはするべき行為ではなかった。届けられる言葉が全て、リリーにとって信じがたいものばかりであった。
馬から降りることも考えず、リリーは周りから目を逸らす。手の平に、自然と力が入っていた。
「大丈夫かい?」
マティスが、そっと声をかける。軍服の腰辺りが、きつく皺を刻んでいた。
「俺の役目は、アストレイア様のところへ、ちゃんと君を連れていくことだから。気分が悪くなったら、すぐに言って」
マティスの気遣いが、重くリリーに響く。そんなことを言われなければいけないほどの何があるというのか。
今から待ち受けているのは、姉妹の再会。それは喜ばしいことであり、リリーの長く辛い一人の日々が終わりを告げる瞬間でもある。
そう、疑ってはいけないと、きつく言い聞かせているというのに。
お帰り、姉さん!
探したんだよ。ずっと探していたんんだよ。
待ってた方が良かったかな。賢くはなかったかもしれないね。
ねえ、でも姉さん。私はこんなに大きくなったよ。こんなに、強くなったよ。
こんなに、強くなったから、姉さんと一緒に、一緒に。
悪魔を――。
男に案内された、塔の前。道を造るように、神を称える白い百合の彫刻が並ぶ。ここが世界の別れの場所であるのだと示すかのように、両側では黒衣の人々が膝を折る。
そして、そっと置かれた硝子の棺。まるで御伽噺のお姫様。
長い睫毛、ブロンドの髪。凍り付いた、美しい顔。掲げられた十字架の下で、青白い肌が光る。
額には、「アストレイア」と書かれた複雑な紋章。
棺の傍らで、泣き崩れる男がいた。金髪の長い巻き毛の、まるで王子のような風貌を持った青年。
彼の口付けで目を覚ます筈の人は、もうこの世にはいない。
「姉さん」
黒く、夜よりも暗く、失われた人を送る花が空に舞う。
リリーの膝は、自然と大地に落ちていた。
──ここから。ここからだったんだ。
世界が、私が、貴方が。
全ての真実に向かって歩み始めたのは。
この瞬間、私という人物は初めて失われ、そしてまた産声を上げ、生き始めたのだ。