第一話「翡翠は、泥の中に」
線の細い体が、震えながら意地を貫く。
必死に手首を捻らせ、ヒルから逃れようともがいている。それはまりに痛々しく、無知な様であった。
だが、ヒルは彼女を包んだ。暖かな、その腕で。
「っ……」
突然の事に、リリーは体を硬直させた。
だが、ヒルは決して無理強いはせず、リリーの体を抱きしめていた。
そっと背中に触れた手は大きく、優しく。リリーの涙ごと、抱きしめた。
「すまない。出来るなら、時を取り戻したい」
「な……」
「本当は、こんな紋章も傷も必要ない。守るべきだった。何の不安の無い場所で、ずっと」
「離して……」
「お前を、迎えに行くべきだった……」
ヒルの声が、リリーの耳元で響く。
リリーはいつの間にか緊張を解き、その声に体を委ねていた。
視界が、全て彼に埋め尽くされている。大きなその体に、私など存在しないかのように。隠れてしまっている。
リリーの手が、無意識にそっと上げられた。縋るように、求めるように。
そうして、ヒルの背中を掴もうとした、その時だった。
「ヒル!」
けたたましく家の扉が外から開き、一人の男が入ってきた。
その男は血塗れで、何かから逃げるように必死だった。
よく見ると、先程ヒルがライザーと呼んでいた男だ。
「ライザー?」
その様子に驚いたヒルが、ライザーに駆け寄ろうとした瞬間だった。
ライザーの背後から、鋭い刄が空を切り裂き彼を襲った。
「チッ!」
ライザーはそれに気付きすんでのところで太刀を避けはしたが、腕を僅かにかすめまた鮮血が流れ出でた。
開いた扉の向こうは闇だった。すると、闇から抜けるようにライザーを傷つけた者は静かに家の中に入ってきた。
灯りに照らされると、ついにその正体が明らかになった。
突然のことに動きが止まっていたリリーだったが、その者を見て安心と混乱が入り交じった声を出した。
「マティス!?」
「無事か!?」
白いマントに、紅い血がついている。だがそれは彼のものではなく、彼の手によって斬られた者の返り血だった。
「貴方が斬ったの?」
リリーの問いに、マティスは平然と答えてみせた。
「なんで? 悪魔は俺たちの敵だろう。君を助けにきたんだよ。武器も取り返した」
マティスは腰にくくりつけていた剣をリリーに投げ渡した。リリーはそれをしっかり受け取ったが、素直に次の行動には出れなかった。
「……“何者”だ?」
ヒルは傷ついたライザーを庇うように前に立つと、マティスを睨んだ。
リリーが何も答えられずにいると、代わりに答えるようにマティスが言った。
「これなら悪魔も大したことはない。さあ、脱出しよう」
マティスは嘲笑すると、リリーに手を差し出した。血に染まった、右手を。
「駄目だ」
ヒルは、行くなと言わんばかりに厳しい目線をリリーに投げ掛けた。
「早く。今なら逃げれる」
尚もマティスは手を差し出した。
「わ、私は…………」
リリーは剣を握り締めたまま、二人を交互に見る。
そこに、いつもの冷静な彼女はいなかった。リリーは今、迷いと、恐れと、混乱の中にあった。
なぜ、マティスは騎士でもないのに、こんな実力を持っているのか。
何故、アストレイアを殺したのは、悪魔じゃないのか。
待て、もしかしたらヒルの言うことは全て嘘で、今取るべき手はマティスの手かもしれない。
まて、真実を識るならば、今取るべきはヒルの手じゃないのか?
ぐるぐると、終わりなき考察がリリーを苦しめる。
自分は一体、今、何をしているのか。何をするためにここにいるのか。
何を、成す為に。
「リリー」
声がした。
振り向くと、緋色の瞳がリリーを射ぬく。彼は静かに微笑んでいた。
「お前がここへ来る前に何を見てきたかは、知らない。だが、俺はお前を識っている。俺はお前の敵ではない」
心臓がいつもよりやけに大きく脈打っている。
識れと、もう一人の自分が囁いた。
「俺は、お前を守る者だ」
「守る者……?」
戸惑うリリーに対し、微笑むヒル。その眼差しに、リリーの鼓動が早くなった。
「リリーって……こいつ、リリーなのか!? あの!?」
リリーの思考を遮るように、ライザーが声を出し、彼女を凝視した。
「マジかよ……ほんとに生きてたのか」
ライザーの声音が、先ほどとは明らかに違う。
生きてた? どういうことだ。
混乱の海を泳いでいるリリーだったが、自分の内に灯りがともったような感覚に襲われていた。
その様子を黙って見守っていたマティスだったが、ついにリリーの腕を掴み、ぐいと引き寄せ、自身の後ろに立たせた。
「悪魔の戯言になんか耳を貸さないで。貴女らしくない」
マティスは目だけでリリーを見てそう言うと、再びヒル達に向き直り自分の剣を向けた。
普段、と言っても付き合いは短いので分からないが、雰囲気の違うマティスにリリーは少し違和感を感じた。
「我らが聖騎士殿をたぶらかすのはやめてもらおうか、悪魔」
「てめえ……」
動くこともままならない体で食いかかるライザーをヒルは諫める。そして、マティスの肩越しに見えるリリーを静かに見つめた。
「……リリー。お前がどういう道をとるかは自由だ。だがな、お前は識ってしまった。もう戻れない」
そう言い終わるや否や、ヒルは腰にさしてあった剣をすらりと抜くと、マティスにぴたりと向けた。
「それと、マティスとやら。お前が誰だか知らないが、仲間を傷つけられて笑っていられるほど俺は紳士じゃない」
剣は鈍く銀に光る。その刀身から、いやヒルからは数多の戦場を潜り抜けてきたような威圧感が発せられている。
「……悪魔が」
マティスは苦い顔をして呟いた。
しかし二つの剣は交わることはなかった。
ふいにマティスがヒルに向かって近くにあった壺を投げ付けた。それは地に落ちる前にヒルの剣によって原型を失う。
マティスはその隙を狙って後ろの扉を素早く開け、リリーを突き飛ばすように外へ押し出した。
リリーは体勢を崩し外へとよろけ出る。マティスもそれを確認するとヒルたちに注意しながら後へと続くと、よろけたリリーの手を引きたくりその場から走り去った。
「待ちやがれコラァ!!」
ライザーが叫んで後を追い掛けようとしたが、ヒルがそれをまた止めた。
「やめておけ」
「ヒル!!」
「お前が行っても、またやられるだけだ。それより、何があった」
あまり聞かれたくないのか、ライザーは話すのをしぶったが、二人の走り去る姿を見ると喋り始めた。
「あの野郎、アンヘルが連れてった人間だよ。リリーと一緒にいたやつだ」
ヒルは昨夜リリーと別れ際に駆け寄ってきた人物を思い出した。弱々しい挙動をしていたが、意志の強い青の瞳を持った青年だ。
「ああ……そういえば居たな。で、アンヘルは?」
「殺られた。お前と別れた後、アンヘルのとこに行った。そしたら……くそ」
「なるほどな」
淡々とヒルが言うと、ライザーはぐっと眉根を寄せる。
「お前、あの女がリリーって知ってたのか?」
「少し変わっていたから、自信は無かったけどな」
「先に言えよ! てめぇが女欲しがるなんておかしいと思ったんだよ」
ヒルは無言で微笑むと剣を鞘にしまう。チン、と金属音がすると、殺気は消え穏やかな雰囲気に変わる。
「まず、お前の手当てだな。あの二人のことは任せとけ」
* * *
リリーとマティスは、ヴァイスの道無き道を走っていた。
手を引かれながら、リリーは後ろを振り返った。あの緋色の瞳の男、先程まで居た家は、もう見えなくなっていた。
「まったくどうしたんだリリー! あんなことをして……殺されてしまうよ!」
息を切らしながらマティスが言う。リリーはキッとマティスの顔を睨み付けると、精一杯足を踏張った。
「待ってマティス!」
珍しく声を張り上げたリリーに、マティスはついにその足を止め、掴んでいた手を離した。
「わ、悪い。痛かったかい?」
「そんなことはどうでもいい。聞きたいことがたくさんある」
リリーは身なりを整えると周りを確かめた。自分達以外に人の気配はない。
「アミーやバルドは……?」
「俺は合流していない」
「そう……」
少し心に引っかかるものを感じながら、リリーは溜息を吐いた。
「ところで、本題だけど」
「えっ、なんだい」
「貴方、実力を隠していたわね?」
必死に手首を捻らせ、ヒルから逃れようともがいている。それはまりに痛々しく、無知な様であった。
だが、ヒルは彼女を包んだ。暖かな、その腕で。
「っ……」
突然の事に、リリーは体を硬直させた。
だが、ヒルは決して無理強いはせず、リリーの体を抱きしめていた。
そっと背中に触れた手は大きく、優しく。リリーの涙ごと、抱きしめた。
「すまない。出来るなら、時を取り戻したい」
「な……」
「本当は、こんな紋章も傷も必要ない。守るべきだった。何の不安の無い場所で、ずっと」
「離して……」
「お前を、迎えに行くべきだった……」
ヒルの声が、リリーの耳元で響く。
リリーはいつの間にか緊張を解き、その声に体を委ねていた。
視界が、全て彼に埋め尽くされている。大きなその体に、私など存在しないかのように。隠れてしまっている。
リリーの手が、無意識にそっと上げられた。縋るように、求めるように。
そうして、ヒルの背中を掴もうとした、その時だった。
「ヒル!」
けたたましく家の扉が外から開き、一人の男が入ってきた。
その男は血塗れで、何かから逃げるように必死だった。
よく見ると、先程ヒルがライザーと呼んでいた男だ。
「ライザー?」
その様子に驚いたヒルが、ライザーに駆け寄ろうとした瞬間だった。
ライザーの背後から、鋭い刄が空を切り裂き彼を襲った。
「チッ!」
ライザーはそれに気付きすんでのところで太刀を避けはしたが、腕を僅かにかすめまた鮮血が流れ出でた。
開いた扉の向こうは闇だった。すると、闇から抜けるようにライザーを傷つけた者は静かに家の中に入ってきた。
灯りに照らされると、ついにその正体が明らかになった。
突然のことに動きが止まっていたリリーだったが、その者を見て安心と混乱が入り交じった声を出した。
「マティス!?」
「無事か!?」
白いマントに、紅い血がついている。だがそれは彼のものではなく、彼の手によって斬られた者の返り血だった。
「貴方が斬ったの?」
リリーの問いに、マティスは平然と答えてみせた。
「なんで? 悪魔は俺たちの敵だろう。君を助けにきたんだよ。武器も取り返した」
マティスは腰にくくりつけていた剣をリリーに投げ渡した。リリーはそれをしっかり受け取ったが、素直に次の行動には出れなかった。
「……“何者”だ?」
ヒルは傷ついたライザーを庇うように前に立つと、マティスを睨んだ。
リリーが何も答えられずにいると、代わりに答えるようにマティスが言った。
「これなら悪魔も大したことはない。さあ、脱出しよう」
マティスは嘲笑すると、リリーに手を差し出した。血に染まった、右手を。
「駄目だ」
ヒルは、行くなと言わんばかりに厳しい目線をリリーに投げ掛けた。
「早く。今なら逃げれる」
尚もマティスは手を差し出した。
「わ、私は…………」
リリーは剣を握り締めたまま、二人を交互に見る。
そこに、いつもの冷静な彼女はいなかった。リリーは今、迷いと、恐れと、混乱の中にあった。
なぜ、マティスは騎士でもないのに、こんな実力を持っているのか。
何故、アストレイアを殺したのは、悪魔じゃないのか。
待て、もしかしたらヒルの言うことは全て嘘で、今取るべき手はマティスの手かもしれない。
まて、真実を識るならば、今取るべきはヒルの手じゃないのか?
ぐるぐると、終わりなき考察がリリーを苦しめる。
自分は一体、今、何をしているのか。何をするためにここにいるのか。
何を、成す為に。
「リリー」
声がした。
振り向くと、緋色の瞳がリリーを射ぬく。彼は静かに微笑んでいた。
「お前がここへ来る前に何を見てきたかは、知らない。だが、俺はお前を識っている。俺はお前の敵ではない」
心臓がいつもよりやけに大きく脈打っている。
識れと、もう一人の自分が囁いた。
「俺は、お前を守る者だ」
「守る者……?」
戸惑うリリーに対し、微笑むヒル。その眼差しに、リリーの鼓動が早くなった。
「リリーって……こいつ、リリーなのか!? あの!?」
リリーの思考を遮るように、ライザーが声を出し、彼女を凝視した。
「マジかよ……ほんとに生きてたのか」
ライザーの声音が、先ほどとは明らかに違う。
生きてた? どういうことだ。
混乱の海を泳いでいるリリーだったが、自分の内に灯りがともったような感覚に襲われていた。
その様子を黙って見守っていたマティスだったが、ついにリリーの腕を掴み、ぐいと引き寄せ、自身の後ろに立たせた。
「悪魔の戯言になんか耳を貸さないで。貴女らしくない」
マティスは目だけでリリーを見てそう言うと、再びヒル達に向き直り自分の剣を向けた。
普段、と言っても付き合いは短いので分からないが、雰囲気の違うマティスにリリーは少し違和感を感じた。
「我らが聖騎士殿をたぶらかすのはやめてもらおうか、悪魔」
「てめえ……」
動くこともままならない体で食いかかるライザーをヒルは諫める。そして、マティスの肩越しに見えるリリーを静かに見つめた。
「……リリー。お前がどういう道をとるかは自由だ。だがな、お前は識ってしまった。もう戻れない」
そう言い終わるや否や、ヒルは腰にさしてあった剣をすらりと抜くと、マティスにぴたりと向けた。
「それと、マティスとやら。お前が誰だか知らないが、仲間を傷つけられて笑っていられるほど俺は紳士じゃない」
剣は鈍く銀に光る。その刀身から、いやヒルからは数多の戦場を潜り抜けてきたような威圧感が発せられている。
「……悪魔が」
マティスは苦い顔をして呟いた。
しかし二つの剣は交わることはなかった。
ふいにマティスがヒルに向かって近くにあった壺を投げ付けた。それは地に落ちる前にヒルの剣によって原型を失う。
マティスはその隙を狙って後ろの扉を素早く開け、リリーを突き飛ばすように外へ押し出した。
リリーは体勢を崩し外へとよろけ出る。マティスもそれを確認するとヒルたちに注意しながら後へと続くと、よろけたリリーの手を引きたくりその場から走り去った。
「待ちやがれコラァ!!」
ライザーが叫んで後を追い掛けようとしたが、ヒルがそれをまた止めた。
「やめておけ」
「ヒル!!」
「お前が行っても、またやられるだけだ。それより、何があった」
あまり聞かれたくないのか、ライザーは話すのをしぶったが、二人の走り去る姿を見ると喋り始めた。
「あの野郎、アンヘルが連れてった人間だよ。リリーと一緒にいたやつだ」
ヒルは昨夜リリーと別れ際に駆け寄ってきた人物を思い出した。弱々しい挙動をしていたが、意志の強い青の瞳を持った青年だ。
「ああ……そういえば居たな。で、アンヘルは?」
「殺られた。お前と別れた後、アンヘルのとこに行った。そしたら……くそ」
「なるほどな」
淡々とヒルが言うと、ライザーはぐっと眉根を寄せる。
「お前、あの女がリリーって知ってたのか?」
「少し変わっていたから、自信は無かったけどな」
「先に言えよ! てめぇが女欲しがるなんておかしいと思ったんだよ」
ヒルは無言で微笑むと剣を鞘にしまう。チン、と金属音がすると、殺気は消え穏やかな雰囲気に変わる。
「まず、お前の手当てだな。あの二人のことは任せとけ」
* * *
リリーとマティスは、ヴァイスの道無き道を走っていた。
手を引かれながら、リリーは後ろを振り返った。あの緋色の瞳の男、先程まで居た家は、もう見えなくなっていた。
「まったくどうしたんだリリー! あんなことをして……殺されてしまうよ!」
息を切らしながらマティスが言う。リリーはキッとマティスの顔を睨み付けると、精一杯足を踏張った。
「待ってマティス!」
珍しく声を張り上げたリリーに、マティスはついにその足を止め、掴んでいた手を離した。
「わ、悪い。痛かったかい?」
「そんなことはどうでもいい。聞きたいことがたくさんある」
リリーは身なりを整えると周りを確かめた。自分達以外に人の気配はない。
「アミーやバルドは……?」
「俺は合流していない」
「そう……」
少し心に引っかかるものを感じながら、リリーは溜息を吐いた。
「ところで、本題だけど」
「えっ、なんだい」
「貴方、実力を隠していたわね?」