第一話「翡翠は、泥の中に」
かっと頬を赤くしたリリーは、震えながら下を向いた。
あれほど意気込んでいたのに、目の前の悪魔を殴ることすら出来ない。
頭の奥が疼くほどに恥を感じ、リリーは地面を睨みつけた。
凍りついた大地、視界の端に、僅かに男の軍靴が見える。年月を重ねた革の表面に、白い雪が重なった。
雷雲が消え、灰色の空から雪が降る。冬の粒が首元に落ちるのを感じながら、リリーは震えていた。
ふと、背中に温もりが合わさった。大きな影がリリーを包み込む。男の、宵闇のローブが彼女にかけられたのだ。
ヒルは、こちらを見て微笑んでいた。
「な……」
「お前は何も知らなすぎる。お前がこれから先、……お前自身が居る世界を、少しでも変えたいと思うのなら話を聞いてくれないか」
ヒルは真っ直ぐ、揺るぎない決意を秘めた瞳でリリーを見つめた。
リリーはそれ以上、彼に対してぶつける言葉を無くした。いや、その感情自体消え去ったのか。
二人は視線を合わせたまま、しばらく静止していた。ヴァイスの冷たい風がリリーの髪を軽く揺らす。
「……世界を?」
一言小さく呟く。すると何故か脳裏に浮かぶ姉の顔。
男の向こうに、姉の姿が見える。だが、目の前に居るのは「悪魔」だ。
魅入られてはならない、聞いてはならないと何かが止める。
だが、リリーの翡翠の瞳の奥に、今育ちつつある熱があった。それは彼女自身が求めた答えへの布石なのか、それとも、終わりの為への誕生なのか。
どちらにせよ、リリーに否定の言葉を紡ぐことは出来なかった。
差し出された男の手に、彼女の未来があった。
ヒルに守られるように、そのローブに包まれると、周囲の世界が変わるのをリリーは感じた。
暖かい懐の中、大事なものを扱うように背中に回された手が、いつか見た姉の夢を思い出させた。
十四年、誰に頼ることもなく生きてきたその体はひどく傷つき、心は痩せていた。
だが、どうしてだろうか。
この悪魔の言葉が、心の奥を救うように、木霊するのは。
「――どういうこと……」
傷ついた体を引きずりながら、女は唇を震わせた。驚嘆の瞳が見たものは、見知らぬ男に寄りそう「あの」少女の姿。
既に意識を失いかけている仲間の体を支えていた女は、力なくその膝を折った。
「なんで、あの子が悪魔に……」
* * *
暗闇の中、激しい剣撃の音が鳴り響く。一人の男が圧倒的剣技を以て、対峙する相手をねじ伏せていた。
白い剣先が、倒れた男の喉を狙う。そしてそのまま静止し、伺うように煌いた。
「きっ、貴様…………」
倒された男は、唸りながら相手を見上げた。
足を震わせ、床に這う。
「弱いな。こんなものか?」
剣を持つ男は、相手の顎を剣先でくいと持ち上げた。
「……っおまえは……一体」
「その傷でまだ喋るのか?」
鮮血を腹より流す相手に向かって、男は無感情に言い放った。
「邪魔をしないでくれ」
男は口角をあげ微笑むと、相手に向かって、剣を振り下ろした。
生々しい音と共に、膝まづいていた相手はついに全身を地に打ち付けるように倒れこんだ。
鉄の異臭が辺りに拡がる。意識を手放した相手はもう喋る事はなかった。
剣についた血を払い、男は何かに向かって話し始めた。
ひどく短い受け答えのみの会話を終えると、男はどこかへと歩きだした。
* * *
何故、私はこいつといるんだ?
部屋の温もりがリリーを包んだ。
オレンジ色のランプの光が、部屋の中でゆらゆらと揺れる。茶色い壁の殺風景な部屋の中、それだけが唯一温かみのある物だった。
ヒルは、リリーを自身の家らしき所に招いていた。このヴァイスの大平原のどこにあるかは分からないが、木々のふもとにある、そう大きくない家だった。彼一人が生活するくらいなら問題はないだろうが、それでも少し手狭に思う。
体の大きな彼が、この小さな空間でうろうろしているのを見ると、リリーは何故か可笑しくなってしまった。
ふと、赤い髪が揺れる。大きな男が、こちらに振り返ったのだ。
「何か飲むか? 口に合えばいいが」
リリーは警戒を解かないまま、部屋の入り口で立ち尽くしていた。
「どうした、そんなとこにいつまでもいるな。異様だぞ」
ヒルはリリーを促すが、リリーはそのまま動かない。
――どうかしている。悪魔の言葉にのこのこついてきている自分。ありえない。
冷静なリリーのとる行動には思えないものだったが、何かが彼女の背を押した。「識りたければ進め」と。
連れ去られたマティスの事を考えてみたが、無事でいる可能性は低いだろう。
実践経験の乏しい彼が、悪魔に勝てるわけが無い。だがリリーは小さくため息をつくと、悲しむこともしなかった。「仕方ない」と心で呟くだけで。
「おい、口が無いのかお前は」
考え込むリリーの顔の前に、急にヒルの顔が間近に現れた。
「っ!!」
「すごい眉間のしわだな。心配するな、俺は何もしない」
ヒルはリリーから離れると軽く笑ってみせた。そのまま部屋の中の椅子にゆっくり腰掛けると、向かい合った椅子に座るようリリーに促した。
「いいから座れ。別に立ったままでも構わんが」
「そうさせてもらう」
ヒルを睨むと、リリーはそのまま腕を組んで壁にもたれかかった。
「やれやれ」
ヒルはわざとらしく首をふると、先程自分の為にいれた水を一口飲んだ。
「さて、何から話そうか」
ヒルは目を細め懐かしむようにリリーを見る。
居心地が悪い視線に、リリーは横を向いた。
ヒルはリリーの態度に怒りはしなかった。むしろそれを当たり前かのように暖かく扱う。
カップを置いたヒルは、頬杖をつきながら語りだした。
「あいつの事はよく知っている。まあ、誰でも知っているんだがな。……俺は、それだけじゃない」
一呼吸於いて、ヒルは低く語る。
「最高位聖騎士にして、人間たちの希望アストレイア」
次にリリーを見据え、こう言った。
「そして、人間達の可哀相な操り人形、アストレイア」
リリーはまた感情を高ぶらせた。が、ヒルがすぐさま言葉を次いだ。
「おい、人の話は最後まで聞け」
「……わかった」
リリーは素直に応じた。謎めいたヒルの喋り方が気に入らないが、今は我慢を決める。
「今から話すことはお前にとってとても大事なことだ」
リリーは黙って耳を傾けた。
「ただ、この先も識るかどうか決めるのはお前だ。俺は無理に聞かせる気はない」
ヒルは再度警告をした。だが、自身の中で対立する二つの感情。
知ってはいけないという何か。
識りなさいと背を押す何か。
だが、リリーの答えは決まっていた。
「識りたい」
翡翠の瞳が、ヒルを見据えた。
「わかった」
少しの沈黙のあと、ヒルはセイレについて語りだした。
「アストレイアと俺が出会ったのは十四年前。あいつが聖騎士として、俺たちを討伐に来た時だ」
ゆっくり、言葉の欠片を組み合わせるようにしてヒルは話す。
「俺たちは驚愕した。それまではこの地に侵入するくらいなら何人もいたが、まさか本拠地の城まで辿り着くなんて…………ありえなかったからな」
「十四年前…………」
リリーは自分が見たセイレの最後の姿を思い出していた。
流れる金髪。優しい顔。姉はいつだって美しかった。
「あいつは強かった。誰がやっても刃が立たなかった。すると、俺たちの「王」が重い腰をあげた」
王というと、悪魔たちの王のことだろうか。
リリーも話には聞いていたが、その存在が本当にあるものだとは思っていなかった。だが、このヒルという男の出で立ちを見るに、悪魔にも「王制」というものがあるのだろうと予想した。
「俺たちの王の名前は、ジオリオ・アシュトレト・ヴァイス。穏やかで、争いを好まない方だった」
それを聞いたリリーが唇を噛み締めた。
「セイレを殺したのはその王…………」
「…………だから、最後まで聞け」
穏やかな顔が、ほんの少し強張る。リリーは、ぐっと言葉を飲み込んだ。
「ところで、話は長くなるぞ。いい加減素直に座ったらどうだ」
ヒルが呆れたように椅子を指差すと、リリーはようやく意地をはるのをやめ、椅子に腰掛けた。
「ああ、それで話しやすい。続けるぞ」
リリーが言葉無く頷いたのを確認すると、ヒルはまた話し始めた。
あれほど意気込んでいたのに、目の前の悪魔を殴ることすら出来ない。
頭の奥が疼くほどに恥を感じ、リリーは地面を睨みつけた。
凍りついた大地、視界の端に、僅かに男の軍靴が見える。年月を重ねた革の表面に、白い雪が重なった。
雷雲が消え、灰色の空から雪が降る。冬の粒が首元に落ちるのを感じながら、リリーは震えていた。
ふと、背中に温もりが合わさった。大きな影がリリーを包み込む。男の、宵闇のローブが彼女にかけられたのだ。
ヒルは、こちらを見て微笑んでいた。
「な……」
「お前は何も知らなすぎる。お前がこれから先、……お前自身が居る世界を、少しでも変えたいと思うのなら話を聞いてくれないか」
ヒルは真っ直ぐ、揺るぎない決意を秘めた瞳でリリーを見つめた。
リリーはそれ以上、彼に対してぶつける言葉を無くした。いや、その感情自体消え去ったのか。
二人は視線を合わせたまま、しばらく静止していた。ヴァイスの冷たい風がリリーの髪を軽く揺らす。
「……世界を?」
一言小さく呟く。すると何故か脳裏に浮かぶ姉の顔。
男の向こうに、姉の姿が見える。だが、目の前に居るのは「悪魔」だ。
魅入られてはならない、聞いてはならないと何かが止める。
だが、リリーの翡翠の瞳の奥に、今育ちつつある熱があった。それは彼女自身が求めた答えへの布石なのか、それとも、終わりの為への誕生なのか。
どちらにせよ、リリーに否定の言葉を紡ぐことは出来なかった。
差し出された男の手に、彼女の未来があった。
ヒルに守られるように、そのローブに包まれると、周囲の世界が変わるのをリリーは感じた。
暖かい懐の中、大事なものを扱うように背中に回された手が、いつか見た姉の夢を思い出させた。
十四年、誰に頼ることもなく生きてきたその体はひどく傷つき、心は痩せていた。
だが、どうしてだろうか。
この悪魔の言葉が、心の奥を救うように、木霊するのは。
「――どういうこと……」
傷ついた体を引きずりながら、女は唇を震わせた。驚嘆の瞳が見たものは、見知らぬ男に寄りそう「あの」少女の姿。
既に意識を失いかけている仲間の体を支えていた女は、力なくその膝を折った。
「なんで、あの子が悪魔に……」
* * *
暗闇の中、激しい剣撃の音が鳴り響く。一人の男が圧倒的剣技を以て、対峙する相手をねじ伏せていた。
白い剣先が、倒れた男の喉を狙う。そしてそのまま静止し、伺うように煌いた。
「きっ、貴様…………」
倒された男は、唸りながら相手を見上げた。
足を震わせ、床に這う。
「弱いな。こんなものか?」
剣を持つ男は、相手の顎を剣先でくいと持ち上げた。
「……っおまえは……一体」
「その傷でまだ喋るのか?」
鮮血を腹より流す相手に向かって、男は無感情に言い放った。
「邪魔をしないでくれ」
男は口角をあげ微笑むと、相手に向かって、剣を振り下ろした。
生々しい音と共に、膝まづいていた相手はついに全身を地に打ち付けるように倒れこんだ。
鉄の異臭が辺りに拡がる。意識を手放した相手はもう喋る事はなかった。
剣についた血を払い、男は何かに向かって話し始めた。
ひどく短い受け答えのみの会話を終えると、男はどこかへと歩きだした。
* * *
何故、私はこいつといるんだ?
部屋の温もりがリリーを包んだ。
オレンジ色のランプの光が、部屋の中でゆらゆらと揺れる。茶色い壁の殺風景な部屋の中、それだけが唯一温かみのある物だった。
ヒルは、リリーを自身の家らしき所に招いていた。このヴァイスの大平原のどこにあるかは分からないが、木々のふもとにある、そう大きくない家だった。彼一人が生活するくらいなら問題はないだろうが、それでも少し手狭に思う。
体の大きな彼が、この小さな空間でうろうろしているのを見ると、リリーは何故か可笑しくなってしまった。
ふと、赤い髪が揺れる。大きな男が、こちらに振り返ったのだ。
「何か飲むか? 口に合えばいいが」
リリーは警戒を解かないまま、部屋の入り口で立ち尽くしていた。
「どうした、そんなとこにいつまでもいるな。異様だぞ」
ヒルはリリーを促すが、リリーはそのまま動かない。
――どうかしている。悪魔の言葉にのこのこついてきている自分。ありえない。
冷静なリリーのとる行動には思えないものだったが、何かが彼女の背を押した。「識りたければ進め」と。
連れ去られたマティスの事を考えてみたが、無事でいる可能性は低いだろう。
実践経験の乏しい彼が、悪魔に勝てるわけが無い。だがリリーは小さくため息をつくと、悲しむこともしなかった。「仕方ない」と心で呟くだけで。
「おい、口が無いのかお前は」
考え込むリリーの顔の前に、急にヒルの顔が間近に現れた。
「っ!!」
「すごい眉間のしわだな。心配するな、俺は何もしない」
ヒルはリリーから離れると軽く笑ってみせた。そのまま部屋の中の椅子にゆっくり腰掛けると、向かい合った椅子に座るようリリーに促した。
「いいから座れ。別に立ったままでも構わんが」
「そうさせてもらう」
ヒルを睨むと、リリーはそのまま腕を組んで壁にもたれかかった。
「やれやれ」
ヒルはわざとらしく首をふると、先程自分の為にいれた水を一口飲んだ。
「さて、何から話そうか」
ヒルは目を細め懐かしむようにリリーを見る。
居心地が悪い視線に、リリーは横を向いた。
ヒルはリリーの態度に怒りはしなかった。むしろそれを当たり前かのように暖かく扱う。
カップを置いたヒルは、頬杖をつきながら語りだした。
「あいつの事はよく知っている。まあ、誰でも知っているんだがな。……俺は、それだけじゃない」
一呼吸於いて、ヒルは低く語る。
「最高位聖騎士にして、人間たちの希望アストレイア」
次にリリーを見据え、こう言った。
「そして、人間達の可哀相な操り人形、アストレイア」
リリーはまた感情を高ぶらせた。が、ヒルがすぐさま言葉を次いだ。
「おい、人の話は最後まで聞け」
「……わかった」
リリーは素直に応じた。謎めいたヒルの喋り方が気に入らないが、今は我慢を決める。
「今から話すことはお前にとってとても大事なことだ」
リリーは黙って耳を傾けた。
「ただ、この先も識るかどうか決めるのはお前だ。俺は無理に聞かせる気はない」
ヒルは再度警告をした。だが、自身の中で対立する二つの感情。
知ってはいけないという何か。
識りなさいと背を押す何か。
だが、リリーの答えは決まっていた。
「識りたい」
翡翠の瞳が、ヒルを見据えた。
「わかった」
少しの沈黙のあと、ヒルはセイレについて語りだした。
「アストレイアと俺が出会ったのは十四年前。あいつが聖騎士として、俺たちを討伐に来た時だ」
ゆっくり、言葉の欠片を組み合わせるようにしてヒルは話す。
「俺たちは驚愕した。それまではこの地に侵入するくらいなら何人もいたが、まさか本拠地の城まで辿り着くなんて…………ありえなかったからな」
「十四年前…………」
リリーは自分が見たセイレの最後の姿を思い出していた。
流れる金髪。優しい顔。姉はいつだって美しかった。
「あいつは強かった。誰がやっても刃が立たなかった。すると、俺たちの「王」が重い腰をあげた」
王というと、悪魔たちの王のことだろうか。
リリーも話には聞いていたが、その存在が本当にあるものだとは思っていなかった。だが、このヒルという男の出で立ちを見るに、悪魔にも「王制」というものがあるのだろうと予想した。
「俺たちの王の名前は、ジオリオ・アシュトレト・ヴァイス。穏やかで、争いを好まない方だった」
それを聞いたリリーが唇を噛み締めた。
「セイレを殺したのはその王…………」
「…………だから、最後まで聞け」
穏やかな顔が、ほんの少し強張る。リリーは、ぐっと言葉を飲み込んだ。
「ところで、話は長くなるぞ。いい加減素直に座ったらどうだ」
ヒルが呆れたように椅子を指差すと、リリーはようやく意地をはるのをやめ、椅子に腰掛けた。
「ああ、それで話しやすい。続けるぞ」
リリーが言葉無く頷いたのを確認すると、ヒルはまた話し始めた。