第一話「翡翠は、泥の中に」
だが、手首を掴む手はびくともしない。力を入れても、それ以上の力で握られる。悪魔だからとか、そういうことではなく。純粋に腕力の差で敵わないのだ。
悔しい――。
意気揚揚とヴァイスに来たがこのざまか。
これでは自分を疎む議員達を喜ばせているだけだ。
リリーの様子を見た男は、嫌がるリリーをわざと抱き寄せた。
顔を近づけ、唇を重なりそうなほど近くにリリーをさらに引き寄せる。
「なんもできねえんだな人間ってのは」
「殺してやる……」
「あ?」
「殺してやる……絶対に殺してやる……姉さんを殺したお前らを、絶対に殺してやる!!」
「……姉さん?」
その時だった。男の手が緩んだ一瞬の隙をつくように、リリーは体当たりをした。
だが、自身が重心を崩してそのまま地面に倒れこんでしまった。
益々不利な状況になってしまったリリーだが、悪魔に対する強い憎悪を弱らせることはなかった。上体を起こし、男に食ってかかる。
だが、すぐに男が足をリリーの肩にかけ、あっさりと蹴り飛ばしてしまう。踏み潰すようにリリーの腹に足をかけた男は、瞳を歪ませた。
「誰それの仇だ、誰それの恨みだ、お前ら人間は本当に飽きねえよな」
「くっ……」
「守れなかったのは誰だよ。人のせいにしてんじゃねえよ」
硬いブーツの底が、リリーの腹を嬲る。両手で払いのけようと足を掴むが、全く動く気配がない。
そうしていると、男はリリーに対して更に強い力をかけた。空気と胃液が喉に戻るような感覚に襲われ、リリーはひどく咳き込む。
苦しむリリーを目にした男は、楽しそうに笑ってみせた。
「そんなんで俺たちを殺すつもりだったのかよ。お前本当に聖騎士か?」
「っ……私は……」
男の容赦ない力に、リリーは屈することしか出来なかった。悔しさで目の前が滲み、歯が砕けそうなほどに音を立てる。
足を払いのけようと必死に縋り付く手のひらから、段々と力が奪われていくのが分かった。
「逆らってみろよ。聖騎士なんだろうが。お綺麗な神様とやらの使いなんだろ。俺たちを殺して当然っていうんなら、やってみろよ!!」
「――何をしているライザー」
その時だった。凍てつく景色の中、やけに耳に響く声が聞こえた。低く、だがよく通るその声は、一瞬で男の動きを止めた。
ライザーと呼ばれた男は、声がした方に振り返る。足の力は弱めていないが、どこか臆したような顔をしていた。
そこに現われたのは、深くローブを被った長身の男だった。ライザーよりも遥かに背は高く、リリーの体全部を影で隠せてしまうほどだった。
「お前は……!」
顔は見えずとも、その雰囲気と姿から、リリーは瞬時に彼を認識した。
するとその人物は口端を上げ微笑んだ。
「来たんだな」
ローブの影の中で吊り上る唇から、優しげな声がリリーにかけられた。
「なんだよ、こいつ知ってんのか」
リリーを捕まえていた男は、ライザーというらしい。ライザーは急に現われたその人物に嫌悪感を示すと、続けて言った。
「この女、聖騎士だ」
ライザーはリリーの二の腕をぐいと引っ張りその人物に見せた。
この二人は、どうやら知り合いのようだ。それを悟ったリリーは、先ほどまで頭にかかっていた嫌な雲を掃うように瞼をぎゅっと閉じた。
「……幻覚ではなかったのね」
「当たり前だ。しかし、まさか本当にヴァイスに来るとはな」
リリーは昨夜出会った人物が幻ではなかったことを認識したが、まさか悪魔だとは思ってもみなかった。
悪魔が人間の村にいて、しかも酒を飲むなどありえないからだ。そんな温厚な種族ではない筈だ。
「お前ら知り合いか」
ライザーは双方の顔を交互に見ながら問い掛けた。
「知り合いというわけではないがな。まあ……少し、昨夜な」
「ふざけるな! お前とは何もない!」
「ああその通りだ。何もない」
その人物は、くすくすと笑いながら深くかぶっていたローブをゆっくりと脱いだ。
現われたのは、深い緋色の瞳と、燃えるような紅い髪の青年。くっきりとした二重に、高い鼻。頬には、何か紋章のようなものが刻まれている。黒い軍服の下の体は逞しく、屈強な線が浮き出ている。
近くに立つと、その背は大きく。首を思いきり上げてやっと顔の全てが見れるほど。
彼は、まさに"男"そのものだった。
「俺はヒルシュフェルト。ヒルでいい」
「は……」
リリーは、消え行くように言葉を失った。その血色にも似た瞳の色が、こちらを、リリーの心を瞬時に捉えて離さなかった。
そんなリリーを見て、男もまた、静かに言葉を失ったようだった。血色の瞳に悲しみを讃え、じっとリリーを見る。
リリーの中で、何かが踊り跳ねた。その挙動にリリー自身は気付かず、妙な気恥ずかしさと戸惑いに襲われたまま、動けなくなってしまった。
ふと、ヒルはライザーに言った。
「なあライザー。その娘、俺に譲ってくれないか?」
「ああ!? いきなり来て何言ってんだ!!」
噛みつくように言うライザーに、ヒルは微笑んで言った。
「まあそういきり立つな。俺が言いたいのは、いくら聖騎士とはいえ女を“やつあたり”でそんな風に扱うのはどうかと思ってな」
ヒルはその瞳を鋭くし、ライザーに向ける。
臆したように、ライザーはぐっと言葉を飲んだ。
「分かったか?」
「……お前ほんとそういうとこ……」
折れたのはライザーだった。ヒルに向かってリリーの背中を乱暴に押す。
リリーはよろけて、そのままヒルの胸にぶつかった。
「案外軽いな」
ヒルはリリーを抱き留めると、自身よりも遥かに小さい彼女に向かって言った。ライザーは悔しそうに顔を歪めると、地面を軽く足で蹴った。
「ライザー、早く散れよ」
ヒルは先程のライザーの口振りを真似すると、意地悪く、楽しそうに笑みを浮かべた。
「うっせえな! 言われなくても消えてやるよクソが!」
ライザーは何かぶつぶつと呟く。すると、彼の目の前に小さな扉が出現した。それはまるで虹がかかるように自然に、そして薄ぼんやりとして現われた。
彼が更に何か言うと、不思議な力がその扉を開き、彼を招き入れた。いつの間にか、ちゃっかりリリーの剣を奪っていたライザーは、去り際にしたり顔で笑うと、その狭間の暗闇に姿を溶かした。
あまりに自然にそんなことをするものだから、リリーは口をあんぐりと開けたまま暫く動けずにいた。
この世界には魔導師という者がいて、確かに未知の力を使うものだが、ここまで自然な動きで「魔法」を使うところを見たのは初めてだった。
「最近めっきり聖騎士が来ないと思ったら、あいつの所為か。仕方のないやつだ」
ヒルはその様子を見ながらふん、とあきれ気味に鼻息をもらす。そしてリリーを見ると、その腹にそっと触れた。
「可哀相に、痛かったか?」
「……どういうつもりだ」
リリーはその手を払い除け、問い掛ける。
「手当てを」
「ふざけるな!」
リリーはカッとなってヒルの体から離れた。これ以上無いというくらいの憎しみを持ってヒルを見る。
姉を殺した悪魔。本来ならば言葉を交わすのも汚らわしい。
「悪魔が何を企んでいる! 惑わして取り込むつもりなら、……っ私は屈しない!」
腹をかばうように前かがみになりながら距離を取るリリーに、ヒルは呆れ顔をする。
「自由のきかない体でよくもまあ……。とりつくしまもないな」
「黙れ!!」
「なぜそんなに俺を憎む。俺がお前に何かしたか?」
「お前たちは姉を殺した!!」
ヒルはぴくりと反応した。それは、先程ライザーが見せた挙動と同じだった。
頭に血が上ったままのリリーはそれを気にせず、ありったけの感情をヒルにぶつけた。
「アストレイアは皆の希望だった!! そんな姉さんを殺したお前たちを私は許さない!!」
大平原にリリーの声が響き渡った。轟々と鳴る風が、二人の間をすり抜けていく。
少しの静寂のあと、ヒルが口を開いた。緋色の瞳は、目の前の人物に対して、なんともいえない悲しみを称えて。
「希望、か」
ヒルは躊躇うように、リリーから視線を外す。
「お前は、知らなければいけない」
「……は?」
リリーは顔を歪めた。ヒルは構わず言葉を続ける。
「ついてこい」
「ついてこいだと? ふざけるな!! 何を言いだ…………」
怒号空しく、リリーはその場に膝をつく。腰が抜けたように、その場にへたりこむ。
悔しい――。
意気揚揚とヴァイスに来たがこのざまか。
これでは自分を疎む議員達を喜ばせているだけだ。
リリーの様子を見た男は、嫌がるリリーをわざと抱き寄せた。
顔を近づけ、唇を重なりそうなほど近くにリリーをさらに引き寄せる。
「なんもできねえんだな人間ってのは」
「殺してやる……」
「あ?」
「殺してやる……絶対に殺してやる……姉さんを殺したお前らを、絶対に殺してやる!!」
「……姉さん?」
その時だった。男の手が緩んだ一瞬の隙をつくように、リリーは体当たりをした。
だが、自身が重心を崩してそのまま地面に倒れこんでしまった。
益々不利な状況になってしまったリリーだが、悪魔に対する強い憎悪を弱らせることはなかった。上体を起こし、男に食ってかかる。
だが、すぐに男が足をリリーの肩にかけ、あっさりと蹴り飛ばしてしまう。踏み潰すようにリリーの腹に足をかけた男は、瞳を歪ませた。
「誰それの仇だ、誰それの恨みだ、お前ら人間は本当に飽きねえよな」
「くっ……」
「守れなかったのは誰だよ。人のせいにしてんじゃねえよ」
硬いブーツの底が、リリーの腹を嬲る。両手で払いのけようと足を掴むが、全く動く気配がない。
そうしていると、男はリリーに対して更に強い力をかけた。空気と胃液が喉に戻るような感覚に襲われ、リリーはひどく咳き込む。
苦しむリリーを目にした男は、楽しそうに笑ってみせた。
「そんなんで俺たちを殺すつもりだったのかよ。お前本当に聖騎士か?」
「っ……私は……」
男の容赦ない力に、リリーは屈することしか出来なかった。悔しさで目の前が滲み、歯が砕けそうなほどに音を立てる。
足を払いのけようと必死に縋り付く手のひらから、段々と力が奪われていくのが分かった。
「逆らってみろよ。聖騎士なんだろうが。お綺麗な神様とやらの使いなんだろ。俺たちを殺して当然っていうんなら、やってみろよ!!」
「――何をしているライザー」
その時だった。凍てつく景色の中、やけに耳に響く声が聞こえた。低く、だがよく通るその声は、一瞬で男の動きを止めた。
ライザーと呼ばれた男は、声がした方に振り返る。足の力は弱めていないが、どこか臆したような顔をしていた。
そこに現われたのは、深くローブを被った長身の男だった。ライザーよりも遥かに背は高く、リリーの体全部を影で隠せてしまうほどだった。
「お前は……!」
顔は見えずとも、その雰囲気と姿から、リリーは瞬時に彼を認識した。
するとその人物は口端を上げ微笑んだ。
「来たんだな」
ローブの影の中で吊り上る唇から、優しげな声がリリーにかけられた。
「なんだよ、こいつ知ってんのか」
リリーを捕まえていた男は、ライザーというらしい。ライザーは急に現われたその人物に嫌悪感を示すと、続けて言った。
「この女、聖騎士だ」
ライザーはリリーの二の腕をぐいと引っ張りその人物に見せた。
この二人は、どうやら知り合いのようだ。それを悟ったリリーは、先ほどまで頭にかかっていた嫌な雲を掃うように瞼をぎゅっと閉じた。
「……幻覚ではなかったのね」
「当たり前だ。しかし、まさか本当にヴァイスに来るとはな」
リリーは昨夜出会った人物が幻ではなかったことを認識したが、まさか悪魔だとは思ってもみなかった。
悪魔が人間の村にいて、しかも酒を飲むなどありえないからだ。そんな温厚な種族ではない筈だ。
「お前ら知り合いか」
ライザーは双方の顔を交互に見ながら問い掛けた。
「知り合いというわけではないがな。まあ……少し、昨夜な」
「ふざけるな! お前とは何もない!」
「ああその通りだ。何もない」
その人物は、くすくすと笑いながら深くかぶっていたローブをゆっくりと脱いだ。
現われたのは、深い緋色の瞳と、燃えるような紅い髪の青年。くっきりとした二重に、高い鼻。頬には、何か紋章のようなものが刻まれている。黒い軍服の下の体は逞しく、屈強な線が浮き出ている。
近くに立つと、その背は大きく。首を思いきり上げてやっと顔の全てが見れるほど。
彼は、まさに"男"そのものだった。
「俺はヒルシュフェルト。ヒルでいい」
「は……」
リリーは、消え行くように言葉を失った。その血色にも似た瞳の色が、こちらを、リリーの心を瞬時に捉えて離さなかった。
そんなリリーを見て、男もまた、静かに言葉を失ったようだった。血色の瞳に悲しみを讃え、じっとリリーを見る。
リリーの中で、何かが踊り跳ねた。その挙動にリリー自身は気付かず、妙な気恥ずかしさと戸惑いに襲われたまま、動けなくなってしまった。
ふと、ヒルはライザーに言った。
「なあライザー。その娘、俺に譲ってくれないか?」
「ああ!? いきなり来て何言ってんだ!!」
噛みつくように言うライザーに、ヒルは微笑んで言った。
「まあそういきり立つな。俺が言いたいのは、いくら聖騎士とはいえ女を“やつあたり”でそんな風に扱うのはどうかと思ってな」
ヒルはその瞳を鋭くし、ライザーに向ける。
臆したように、ライザーはぐっと言葉を飲んだ。
「分かったか?」
「……お前ほんとそういうとこ……」
折れたのはライザーだった。ヒルに向かってリリーの背中を乱暴に押す。
リリーはよろけて、そのままヒルの胸にぶつかった。
「案外軽いな」
ヒルはリリーを抱き留めると、自身よりも遥かに小さい彼女に向かって言った。ライザーは悔しそうに顔を歪めると、地面を軽く足で蹴った。
「ライザー、早く散れよ」
ヒルは先程のライザーの口振りを真似すると、意地悪く、楽しそうに笑みを浮かべた。
「うっせえな! 言われなくても消えてやるよクソが!」
ライザーは何かぶつぶつと呟く。すると、彼の目の前に小さな扉が出現した。それはまるで虹がかかるように自然に、そして薄ぼんやりとして現われた。
彼が更に何か言うと、不思議な力がその扉を開き、彼を招き入れた。いつの間にか、ちゃっかりリリーの剣を奪っていたライザーは、去り際にしたり顔で笑うと、その狭間の暗闇に姿を溶かした。
あまりに自然にそんなことをするものだから、リリーは口をあんぐりと開けたまま暫く動けずにいた。
この世界には魔導師という者がいて、確かに未知の力を使うものだが、ここまで自然な動きで「魔法」を使うところを見たのは初めてだった。
「最近めっきり聖騎士が来ないと思ったら、あいつの所為か。仕方のないやつだ」
ヒルはその様子を見ながらふん、とあきれ気味に鼻息をもらす。そしてリリーを見ると、その腹にそっと触れた。
「可哀相に、痛かったか?」
「……どういうつもりだ」
リリーはその手を払い除け、問い掛ける。
「手当てを」
「ふざけるな!」
リリーはカッとなってヒルの体から離れた。これ以上無いというくらいの憎しみを持ってヒルを見る。
姉を殺した悪魔。本来ならば言葉を交わすのも汚らわしい。
「悪魔が何を企んでいる! 惑わして取り込むつもりなら、……っ私は屈しない!」
腹をかばうように前かがみになりながら距離を取るリリーに、ヒルは呆れ顔をする。
「自由のきかない体でよくもまあ……。とりつくしまもないな」
「黙れ!!」
「なぜそんなに俺を憎む。俺がお前に何かしたか?」
「お前たちは姉を殺した!!」
ヒルはぴくりと反応した。それは、先程ライザーが見せた挙動と同じだった。
頭に血が上ったままのリリーはそれを気にせず、ありったけの感情をヒルにぶつけた。
「アストレイアは皆の希望だった!! そんな姉さんを殺したお前たちを私は許さない!!」
大平原にリリーの声が響き渡った。轟々と鳴る風が、二人の間をすり抜けていく。
少しの静寂のあと、ヒルが口を開いた。緋色の瞳は、目の前の人物に対して、なんともいえない悲しみを称えて。
「希望、か」
ヒルは躊躇うように、リリーから視線を外す。
「お前は、知らなければいけない」
「……は?」
リリーは顔を歪めた。ヒルは構わず言葉を続ける。
「ついてこい」
「ついてこいだと? ふざけるな!! 何を言いだ…………」
怒号空しく、リリーはその場に膝をつく。腰が抜けたように、その場にへたりこむ。