第一話「翡翠は、泥の中に」
「ということは、この気候は故意に引き起こされている。魔導術には詳しくないけど、氷のような、なにか……閉じこめてしまうような、魔導術……」
「詳しいねリリー」
「友達に魔導師がいるの。よく、気候や事象と魔導術の関連性について勝手に語るから嫌でも覚えた。でもこれは凄いことよマティス。この天候をどうにかできれば兵を集めやすい」
輝いていた表情が、ゆっくりと憎悪に染まる。凍った水面を掴むようにして指を突きたてた。
「姉さんを殺した悪魔を討つことだって出来る……!」
「リリー……」
呼び戻すように、肩に触れる。ゆっくりと元の表情を取り戻したリリーは、軽く頭を振った。
「そろそろ、次へ行きましょう」
細い体が、ゆっくりと立ち上がる。頼りなく見えるその背中に、今は何を背負っているのか、まるで象られているかのように感じ取る事が出来る。
マティスは己の手のひらを見つめ、ひそかな心配を持ちながらも、彼女の後を歩き始めた。
* * *
「あまり深く入り込むのはやめましょうか」
妙に暗くなり始めた空を心配し、アミーが言った。
傍らで地図を記していたバルドも、顎先をペンでいじりながら頷く。
「まあなあ~こんな状況じゃこっちの体力が持たねえし。もうちょっと細かく分かれば、先々で役に立つと思うんだが」
「偵察はこれ一回で終わるわけじゃないし、それにリリーちゃんたちのことも心配だわ。ついているのはあのおぼっちゃんだしねぇ」
「マティスさんもああ見えて真面目なおぼっちゃんだよ。軍部じゃ言いたい放題言われてるけどな……」
「軍部、か。聖騎士には関係の無い話ね」
どこか自虐的に言うアミーに、バルドが驚いたように返す。
「あ、何言ってんだ。聖騎士と軍部が連携して作戦を実行するらしいぞ」
「……そんなこと聞いてないわよ?」
「まあお前ら聖騎士に向けての正式な通知はまだみたいだけど、前線部隊のほとんどを聖騎士で固めるって話だぞ」
「それって――」
瞬間、アミーは背後に寒気を感じた。こちらを絡み取るような視線と、低く胃の底に響く獣の声。今まで、何度も経験したことがある「あの」気配だった。
剣を抜くと同時に、バルドを押し退けて振り返る。体をひねる直前、黒い吐息が首元をくすぐられた。
「アミー!」
鋼の弾ける音が、大平原に響き渡った。
* * *
慟哭を遠くに聞き、リリーたちの間に緊張が走った。聞こえる筈のない距離、だが確かに耳には響いた。
「今の……」
マティスが、平原の彼方を見る。いつの間にか雷雲を孕んだ空の向こうから、雨が迫っている。
「遭遇したようね。撤退しましょう」
「撤退って……助けにいかないと!」
リリーの正面に回りこみ、道を阻む。
「何を言っているの。これは国の今後を決める戦いに備えた偵察任務。全員がここで死ねば、悪魔どもに私たちの計画を悟られる。幸い、私たちはアルヘナに近い位置にいる。このまますぐに山を抜けてリュシアナに――」
「リリー! アミーは君と同じ聖騎士で、バルドは俺と同じリュシアナに仕える者だ!」
「……それがどうしたの」
「それがって……」
「私は姉さんを探す為に聖騎士になった。でももう姉さんはいない! 私が今やりたいことは、悪魔を殺すことだけだ!!」
「そんな自分勝手な!」
「姉さんを一人で往かせたお前たちに言われたくない!!」
それは、彼女の心から、叫ぶように放たれた悲しい意志だった。
もう何も無いのだ。残っていないのだと、リリーは己の内に渦巻く絶望に苛まれていた。
マティスはそこで初めて、彼女と自分の間にある、埋めようの無い溝に気付くこととなった。誰に期待されることのない、名前に押しつぶされそうな日々を送っている、同じ人間だと思っていた。
だが、彼女が抱えている孤独は、彼の想像を遥かに超えていた。明日をも知れない日々がどんなものか、貴族である彼には分からない。肉親が突然いなくなる喪失感が、彼には分からない。
そんな、暗闇すらまだ温いと感じるような辛い日々の中で、一体彼女はどれだけの悪魔と戦ってきたのだろうか。
あの美しい翡翠は、何度涙に濡れたのだろうか。
魅了されていることに気付かず、マティスはリリーに激昂した。腕を掴み、拙い強い言葉を吐く。
「そんなんじゃ駄目だリリー! アストレイア様のことはそう思うのは当然だけど、でも、そんな風に生きていくのはよくない! リュシアナだって、陛下だってちゃんと動いてくれる!」
「知ったかぶりをするな!」
「なんでそう考えるんだよ! そんなんじゃ……」
「──待って」
リリーがマティスの口を遮る。すらりと線をなぞるように瞳を動かす。
背後に、気配が立ち昇った。
「うっせえなあ、おい。何喚いてんだよ人の土地で」
低く、けだるげな声が聞こえた。言い合っていた二人はすぐさま口を閉じ、声のする方に振り返る。
だがそこには何もなく、静かな平原が広がるばかりだった。
すると、先ほどまでそこにいた筈のマティスの姿が消えた。一瞬前までは、正面にいた筈のマティスが、少し目を離した瞬間にいなくなってしまった。
「マティス!」
それを最後に、リリーは声が出なくなった。何者かがリリーの背後に立ち、その首に冷たい指を這わせてきたのだ。
「お前ら、聖騎士だな」
背後の存在はにやっと笑い、肩越しに顔を突き出して、リリーを見つめた。
その男は、明るい金の髪を顎下まで延ばし、耳には幾つもピアスをつけていた。顔は人間よりも美しく整い、鋭い灰色の瞳は鈍く光っている。薄青の衣服の前ははだけており、鍛えられた胸板がのぞいていた。
「聞きたいことがある。答えろよ」
気付けば、傍らでマティスが別の男に羽交い絞めになっていた。剣を地面に落とした上で、そつなく口を塞いでいる男が、にやにやしながらこちらを見ている。もがくマティスを見ながら、リリーはすぐに悟った。
今自分達がいる場所は、『ヴァイス』。
自分達以外にここにいるのは、悪魔しかいない。
「人型の、悪魔……!」
リリーが今まで見た悪魔のほとんどは、まるで人間が突然変異したような異形の姿をしたものばかりだった。どれも知恵があり、力が強く厄介なものばかり。
だが、憎い悪魔が自分と似たような姿を持っているというだけで、リリーの感情は一気に燃え上がった。
腰に携えていた剣を、背後の男に向かって振り向きざまに抜いた。しかし、それは彼を斬ることはなかった。
「しょうもねえ」
彼は剣を素手で掴んでいる。剣を振り切ろうとするがまったく動かない。
落ち着け。冷静さを事欠くな。
リリーは必死に自分に言い聞かせる。なんとか剣を男の手から離そうとするが、押しても引いても動く気配はなかった。
それどころか、彼は剣を持ったままリリーに近づいてきた。
「人間が何をしにきたんだ?」
男は、リリーの白い頬を指で撫でる。
「おいおい、俺もそっちがいいんだが」
マティスを抑えている男が、目を細めながら言う。
「先にこいつらに気付いたのは俺だろ。文句言うなよ」
リリーの二の腕を掴み上げ、金髪の男は嘲笑した。
「やっぱ『聖騎士』か。成る程な、俺らを討伐しにきたわけか」
金髪の男は、リリーの顎をくいと持ち上げまじまじとリリーを観察した。
そして何か満足げに鼻を鳴らすと、マティスを抑えている男に向かって手をひらひらと振った。
「おい、てめーはその野郎を連れてけ」
「はあ? 独り占めかよ!」
「いや空気読めよ。いいから行け」
二人の意志を無視した会話は進み、マティスを抑えていた男は仕方なさそうにマティスもろとも空間に泡のように溶けて消えた。
「マティス!!」
「他人の心配する余裕あんのかお前」
そう言って男はリリーの剣をいとも簡単に取り上げ、両手首を片手で拘束した。
「泣かねえな。女は大概このあたりで命乞いしてくるんだけどな」
リリーは押し黙ったまま答えなかった。
だが、深緑の瞳は彼を捉え、その内の激しい怒りと憎しみをぶつける。
男はそれを見て眉を潜めた。
「次から次へと沸いてきやがって」
気に入らなねぇ目付きだと付け足し、リリーの両頬を押しつぶすように掴む。リリー以上に、憎悪と怒りに染まった瞳がそこにあった。
リリーは悪魔が持っている自分の剣を見ながら、なんとかこの腕が自由にならないかと策を練っていた。
「詳しいねリリー」
「友達に魔導師がいるの。よく、気候や事象と魔導術の関連性について勝手に語るから嫌でも覚えた。でもこれは凄いことよマティス。この天候をどうにかできれば兵を集めやすい」
輝いていた表情が、ゆっくりと憎悪に染まる。凍った水面を掴むようにして指を突きたてた。
「姉さんを殺した悪魔を討つことだって出来る……!」
「リリー……」
呼び戻すように、肩に触れる。ゆっくりと元の表情を取り戻したリリーは、軽く頭を振った。
「そろそろ、次へ行きましょう」
細い体が、ゆっくりと立ち上がる。頼りなく見えるその背中に、今は何を背負っているのか、まるで象られているかのように感じ取る事が出来る。
マティスは己の手のひらを見つめ、ひそかな心配を持ちながらも、彼女の後を歩き始めた。
* * *
「あまり深く入り込むのはやめましょうか」
妙に暗くなり始めた空を心配し、アミーが言った。
傍らで地図を記していたバルドも、顎先をペンでいじりながら頷く。
「まあなあ~こんな状況じゃこっちの体力が持たねえし。もうちょっと細かく分かれば、先々で役に立つと思うんだが」
「偵察はこれ一回で終わるわけじゃないし、それにリリーちゃんたちのことも心配だわ。ついているのはあのおぼっちゃんだしねぇ」
「マティスさんもああ見えて真面目なおぼっちゃんだよ。軍部じゃ言いたい放題言われてるけどな……」
「軍部、か。聖騎士には関係の無い話ね」
どこか自虐的に言うアミーに、バルドが驚いたように返す。
「あ、何言ってんだ。聖騎士と軍部が連携して作戦を実行するらしいぞ」
「……そんなこと聞いてないわよ?」
「まあお前ら聖騎士に向けての正式な通知はまだみたいだけど、前線部隊のほとんどを聖騎士で固めるって話だぞ」
「それって――」
瞬間、アミーは背後に寒気を感じた。こちらを絡み取るような視線と、低く胃の底に響く獣の声。今まで、何度も経験したことがある「あの」気配だった。
剣を抜くと同時に、バルドを押し退けて振り返る。体をひねる直前、黒い吐息が首元をくすぐられた。
「アミー!」
鋼の弾ける音が、大平原に響き渡った。
* * *
慟哭を遠くに聞き、リリーたちの間に緊張が走った。聞こえる筈のない距離、だが確かに耳には響いた。
「今の……」
マティスが、平原の彼方を見る。いつの間にか雷雲を孕んだ空の向こうから、雨が迫っている。
「遭遇したようね。撤退しましょう」
「撤退って……助けにいかないと!」
リリーの正面に回りこみ、道を阻む。
「何を言っているの。これは国の今後を決める戦いに備えた偵察任務。全員がここで死ねば、悪魔どもに私たちの計画を悟られる。幸い、私たちはアルヘナに近い位置にいる。このまますぐに山を抜けてリュシアナに――」
「リリー! アミーは君と同じ聖騎士で、バルドは俺と同じリュシアナに仕える者だ!」
「……それがどうしたの」
「それがって……」
「私は姉さんを探す為に聖騎士になった。でももう姉さんはいない! 私が今やりたいことは、悪魔を殺すことだけだ!!」
「そんな自分勝手な!」
「姉さんを一人で往かせたお前たちに言われたくない!!」
それは、彼女の心から、叫ぶように放たれた悲しい意志だった。
もう何も無いのだ。残っていないのだと、リリーは己の内に渦巻く絶望に苛まれていた。
マティスはそこで初めて、彼女と自分の間にある、埋めようの無い溝に気付くこととなった。誰に期待されることのない、名前に押しつぶされそうな日々を送っている、同じ人間だと思っていた。
だが、彼女が抱えている孤独は、彼の想像を遥かに超えていた。明日をも知れない日々がどんなものか、貴族である彼には分からない。肉親が突然いなくなる喪失感が、彼には分からない。
そんな、暗闇すらまだ温いと感じるような辛い日々の中で、一体彼女はどれだけの悪魔と戦ってきたのだろうか。
あの美しい翡翠は、何度涙に濡れたのだろうか。
魅了されていることに気付かず、マティスはリリーに激昂した。腕を掴み、拙い強い言葉を吐く。
「そんなんじゃ駄目だリリー! アストレイア様のことはそう思うのは当然だけど、でも、そんな風に生きていくのはよくない! リュシアナだって、陛下だってちゃんと動いてくれる!」
「知ったかぶりをするな!」
「なんでそう考えるんだよ! そんなんじゃ……」
「──待って」
リリーがマティスの口を遮る。すらりと線をなぞるように瞳を動かす。
背後に、気配が立ち昇った。
「うっせえなあ、おい。何喚いてんだよ人の土地で」
低く、けだるげな声が聞こえた。言い合っていた二人はすぐさま口を閉じ、声のする方に振り返る。
だがそこには何もなく、静かな平原が広がるばかりだった。
すると、先ほどまでそこにいた筈のマティスの姿が消えた。一瞬前までは、正面にいた筈のマティスが、少し目を離した瞬間にいなくなってしまった。
「マティス!」
それを最後に、リリーは声が出なくなった。何者かがリリーの背後に立ち、その首に冷たい指を這わせてきたのだ。
「お前ら、聖騎士だな」
背後の存在はにやっと笑い、肩越しに顔を突き出して、リリーを見つめた。
その男は、明るい金の髪を顎下まで延ばし、耳には幾つもピアスをつけていた。顔は人間よりも美しく整い、鋭い灰色の瞳は鈍く光っている。薄青の衣服の前ははだけており、鍛えられた胸板がのぞいていた。
「聞きたいことがある。答えろよ」
気付けば、傍らでマティスが別の男に羽交い絞めになっていた。剣を地面に落とした上で、そつなく口を塞いでいる男が、にやにやしながらこちらを見ている。もがくマティスを見ながら、リリーはすぐに悟った。
今自分達がいる場所は、『ヴァイス』。
自分達以外にここにいるのは、悪魔しかいない。
「人型の、悪魔……!」
リリーが今まで見た悪魔のほとんどは、まるで人間が突然変異したような異形の姿をしたものばかりだった。どれも知恵があり、力が強く厄介なものばかり。
だが、憎い悪魔が自分と似たような姿を持っているというだけで、リリーの感情は一気に燃え上がった。
腰に携えていた剣を、背後の男に向かって振り向きざまに抜いた。しかし、それは彼を斬ることはなかった。
「しょうもねえ」
彼は剣を素手で掴んでいる。剣を振り切ろうとするがまったく動かない。
落ち着け。冷静さを事欠くな。
リリーは必死に自分に言い聞かせる。なんとか剣を男の手から離そうとするが、押しても引いても動く気配はなかった。
それどころか、彼は剣を持ったままリリーに近づいてきた。
「人間が何をしにきたんだ?」
男は、リリーの白い頬を指で撫でる。
「おいおい、俺もそっちがいいんだが」
マティスを抑えている男が、目を細めながら言う。
「先にこいつらに気付いたのは俺だろ。文句言うなよ」
リリーの二の腕を掴み上げ、金髪の男は嘲笑した。
「やっぱ『聖騎士』か。成る程な、俺らを討伐しにきたわけか」
金髪の男は、リリーの顎をくいと持ち上げまじまじとリリーを観察した。
そして何か満足げに鼻を鳴らすと、マティスを抑えている男に向かって手をひらひらと振った。
「おい、てめーはその野郎を連れてけ」
「はあ? 独り占めかよ!」
「いや空気読めよ。いいから行け」
二人の意志を無視した会話は進み、マティスを抑えていた男は仕方なさそうにマティスもろとも空間に泡のように溶けて消えた。
「マティス!!」
「他人の心配する余裕あんのかお前」
そう言って男はリリーの剣をいとも簡単に取り上げ、両手首を片手で拘束した。
「泣かねえな。女は大概このあたりで命乞いしてくるんだけどな」
リリーは押し黙ったまま答えなかった。
だが、深緑の瞳は彼を捉え、その内の激しい怒りと憎しみをぶつける。
男はそれを見て眉を潜めた。
「次から次へと沸いてきやがって」
気に入らなねぇ目付きだと付け足し、リリーの両頬を押しつぶすように掴む。リリー以上に、憎悪と怒りに染まった瞳がそこにあった。
リリーは悪魔が持っている自分の剣を見ながら、なんとかこの腕が自由にならないかと策を練っていた。