第十話「銀月の契り、深淵の剣舞」
その日の夜は、月が綺麗な夜だった。まるで明日からの旅の成功を予言するかのように、穏やかで、暖かい。母親のような月。
リリスティアは明日の出発に備え、早い内から自分の部屋で剣を磨いていた。と言っても、布で汚れを拭き取るくらいのものだが。
窓の外から差し込む月の光が美しく、リリスティアは剣を鞘にしまうと、思わずその光の中に身を投じた。
「真っ白」
光に照らされると、リリスティアの髪は銀に映える。長い睫も光に透き通り、その身に纏う肩の出た袖の無い白のワンピースは僅かな夜風にふわふわと波を打つ。
その姿はまるで、夜の女神が月を愛でているかのような幻想的な光景だった。
「っくしゅ」
温暖な気候になったとはいえ、さすがに夜風は冷たい。リリスティアは窓を閉めると、壁に用意されていたローブを羽織った。
「早いけど寝よう」
旅の準備は全て侍女がやっている。リリスティアがすることといえば、剣を磨くことぐらいだ。それならばさっさと床につき、明日に備えるのが得策だと考えたリリスティアは、ベッドに向かった。
大きなベッドの枕元に置いてある、洒落たランプの橙色の淡い光はそのままに、さあ寝ようとシーツをめくった時だった。
扉をノックする音とともに、彼の声がした。
「起きているか?」
途端、リリスティアは硬直した。声の主は誰か、顔を見ずとも分かりきっている。なんと返事をしていいのか分からず、リリスティアはその場から動かず扉をただ見つめていた。
「リリスティア?」
扉の向こうから再び声をかけられる。リリスティアは扉の前まで歩み寄ってはみたが、そのノブを回すことは出来ない。
「……寝ているのか」
扉の向こうの人物は小さく呟き、立ち去ろうとその扉から離れようと足を進めた時だった。
カチャ、という静かなドアノブが回される音とともに、扉は開かれた。
「何か用……?」
扉の隙間から、頬を赤くしたリリスティアの顔が見えた。それが何とも可愛らしく、ヒルは思わず目尻を下げた。
「はは、いるならちゃんと返事をしろ」
ヒルもまた、就寝前だったのか、非常に楽な服装をしていた。薄い灰色のシャツに、黒のズボン。普段の気の張ったような装いとは違う所為か、彼自身いつもよりはどこか楽そうに見える。
リリスティアは部屋を明るくしようと、消されていた部屋の灯りに手を伸ばしたが、ヒルがそれを止めた。
「このぐらいが話しやすい」
闇の中で、優しい瞳がそう言った。しかしこのままでは、部屋の灯りはベッドの枕元にあるランプと、窓から差し込む月の光だけ。それにあのランプはどちらかというと部屋に暖かみを持たせるだけのインテリア的な役割を持ったものだ。
だが、リリスティアは素直にそれに従った。何故なら、おかげで互いの顔がはっきりとは見えない状況になっていたからだ。
ヒルに気まずい思いを感じているリリスティアにとっても、この方が話しやすいと判断したからだ。
それでも、とてつもなく緊張する自分がいる。リリスティアはこんな寝間着姿のままヒルを迎えたことを少し後悔した。大きく開いた胸元を、恥じるようにローブで隠す。
「明日、出発だな」
先にヒルが喋ってくれたおかげで、リリスティアの緊張が幾分かほどけた。
「うん、予定よりは遅れたけど」
「ライザーやシャジャがついているなら大丈夫だ。シャジャもああ見えて力のある竜だからな」
「“竜族を見た目で判断するな”だっけ」
「ああ」
ふっと笑うヒルだが、その表情がよく見えない。リリスティアは落ち着かない様子で、こう言った。
「ヒル、あの。話があるなら座らない?」
そう言ってリリスティアは二つあるソファを指さしたが、ヒルは首を横に振る。
「大した話は無い。なんとなく、お前が緊張しているだろうと思って様子を見に来ただけだから」
「……そんな子供じゃない」
リリスティアがふいっと横を向く。ヒルはそんな態度にも変わらず笑みを返してくる。
「じゃあ、また明日な」
「え?」
ヒルはそのままリリスティアに背を向けた。明日出発すれば、しばらくは会えなくなるというのに、やけに冷たく感じてしまうのは何故だろうか。
リリスティアの心にもやもやとした黒い雲がかかる。その背中を睨んでみたが、彼が振り返る様子は無い。静かに、扉の方に歩んでいく。
何か声をかけようとしたが、言葉が出ない。引き留める必要があるのかと、冷静な自分が訴えかけてくるからだ。
「どうした?」
ヒルが振り返る。まるで、分かっているかのような、ひどく優しい声色に身が震えた。
「あ、あの」
言葉に迷い、体が強張る。リリスティアは息を飲み込むと、意を決して言葉を発した。
「は、話をしたいんだけど……」
「話?」
意外そうな顔で、ヒルが言う。リリスティアは、無駄に大きく高鳴る胸を押さえながら、頷いた。
「明日、その。他国に行くことは初めてだから、色々聞きたいことがある。駄目……?」
自分でも呆れるくらい、意味の無い理由に頭痛がした。彼が今、どんな面持ちでこちらを見ているかなど考えたくもない。
じゃあ話そうか。そう言われたとして、こんな夜更けに何を話せばいいのか。色々聞きたいこととは、一体何なのか。
巡る想いに潰されそうになっているリリスティアに、ヒルは、そっと近づいた。
「そうだな。少し話そうか。……眠るまで」
さすがに、夜更けに部屋で二人きりというのはよろしくない。
ヒルのその提案により、二人は城の中庭に出ていた。静かな夜のヴァイス城には、見張りの兵士意外に人影は無い。動くものといえば、夜に遊ぶ梟くらいのものだろう。
氷の牢獄から蘇った城だが、緑の美しさはリュシアナに劣ることはなく、燦然と輝いていた。
夜露に濡れた光蘭珠の花が、月の光を浴びて宝石と成る。夜摘んでしまうと、純度が下がるので、早朝に摘むのが適切だとヒルが説明をした。
低く落ち着いたヒルの声は、耳の奥までよく響く。それ故に、リリスティアは時折そっと耳を押さえ、疲れたような小さい息を吐くのだった。
「寒くはないか」
ヒルが気遣うと、リリスティアは首を振った。
「寒さは平気」
「そうだな。あんな格好で氷漬けのヴァイスに来たくらいだ」
ヒルが、笑いながら言う。
「あの格好は慣れていたから……別に本当に平気だったわけじゃ」
大きく肌を露出した服に、ローブを一枚という姿を思い出して、リリスティアは今更ながら己を恥じた。確かに、今考えればよくそんな服装でやってのけたものだ。
そんなリリスティアも、今はミリアが用意した質の良い服を身に纏っている。寒さを防ぐ絹地のローブは、リリスティアの髪に合うように染められた濃紺の綾だった。
手触りの良いそれが、芝生を引きずる。高価な生地独特の衣擦れの音が、リリスティアの歩みを彩った。
「さて、何の話をしようか」
先程、明日のことについてと言ったのに。リリスティアは、自分の心を悟っているかのようなヒルの発言に、唇を軽く結んでから答えた。
「ユア・ラムダに行ったことがあるの?」
「実際に足を運んだことはない。他国には、数えるほどしか出ていないんだ」
「……そうなの?」
「王たちの傍を離れるわけにはいかなかったからな」
夜の空気の中でも、しっかりと聞こえるヒルの声は、穏やかだった。だが、横顔にどこか寂しそうな感情が伺える。リリスティアは、彼の近くまで歩み寄ると、心配そうに見上げた。
「その……大変だったね」
「やるべきことをやっていただけだ。大丈夫だよ。ありがとう」
優しく答え、ヒルは少し足を進めた。それに続くように、リリスティアも歩き出す。
どちらからともなく、中庭を歩きだす。ぼんやりと淡く光る灯りが、月の光を落としたかのようだ。草の香りに花をくすぐられながら、二人はゆっくりと、静寂の時を楽しんだ。
「俺が、この国の軍部務めになったのはちょうどジオリオ陛下とユティリア殿下がご成婚なされた時だった」
ヒルが、不意に言葉を発する。
「親父が、ジオリオ陛下の剏竜として仕えていて。式の時も、二人の婚姻を認める役として傍に立っていた」
「結婚式……」
興味深そうにリリスティアが言ったのを見て、ヒルはまた語り始めた。
「派手な式ではなかったが、幸せそうだった。誰もが二人を祝福していた。ミリアなんかは大泣きしていたんだぞ」
リリスティアは明日の出発に備え、早い内から自分の部屋で剣を磨いていた。と言っても、布で汚れを拭き取るくらいのものだが。
窓の外から差し込む月の光が美しく、リリスティアは剣を鞘にしまうと、思わずその光の中に身を投じた。
「真っ白」
光に照らされると、リリスティアの髪は銀に映える。長い睫も光に透き通り、その身に纏う肩の出た袖の無い白のワンピースは僅かな夜風にふわふわと波を打つ。
その姿はまるで、夜の女神が月を愛でているかのような幻想的な光景だった。
「っくしゅ」
温暖な気候になったとはいえ、さすがに夜風は冷たい。リリスティアは窓を閉めると、壁に用意されていたローブを羽織った。
「早いけど寝よう」
旅の準備は全て侍女がやっている。リリスティアがすることといえば、剣を磨くことぐらいだ。それならばさっさと床につき、明日に備えるのが得策だと考えたリリスティアは、ベッドに向かった。
大きなベッドの枕元に置いてある、洒落たランプの橙色の淡い光はそのままに、さあ寝ようとシーツをめくった時だった。
扉をノックする音とともに、彼の声がした。
「起きているか?」
途端、リリスティアは硬直した。声の主は誰か、顔を見ずとも分かりきっている。なんと返事をしていいのか分からず、リリスティアはその場から動かず扉をただ見つめていた。
「リリスティア?」
扉の向こうから再び声をかけられる。リリスティアは扉の前まで歩み寄ってはみたが、そのノブを回すことは出来ない。
「……寝ているのか」
扉の向こうの人物は小さく呟き、立ち去ろうとその扉から離れようと足を進めた時だった。
カチャ、という静かなドアノブが回される音とともに、扉は開かれた。
「何か用……?」
扉の隙間から、頬を赤くしたリリスティアの顔が見えた。それが何とも可愛らしく、ヒルは思わず目尻を下げた。
「はは、いるならちゃんと返事をしろ」
ヒルもまた、就寝前だったのか、非常に楽な服装をしていた。薄い灰色のシャツに、黒のズボン。普段の気の張ったような装いとは違う所為か、彼自身いつもよりはどこか楽そうに見える。
リリスティアは部屋を明るくしようと、消されていた部屋の灯りに手を伸ばしたが、ヒルがそれを止めた。
「このぐらいが話しやすい」
闇の中で、優しい瞳がそう言った。しかしこのままでは、部屋の灯りはベッドの枕元にあるランプと、窓から差し込む月の光だけ。それにあのランプはどちらかというと部屋に暖かみを持たせるだけのインテリア的な役割を持ったものだ。
だが、リリスティアは素直にそれに従った。何故なら、おかげで互いの顔がはっきりとは見えない状況になっていたからだ。
ヒルに気まずい思いを感じているリリスティアにとっても、この方が話しやすいと判断したからだ。
それでも、とてつもなく緊張する自分がいる。リリスティアはこんな寝間着姿のままヒルを迎えたことを少し後悔した。大きく開いた胸元を、恥じるようにローブで隠す。
「明日、出発だな」
先にヒルが喋ってくれたおかげで、リリスティアの緊張が幾分かほどけた。
「うん、予定よりは遅れたけど」
「ライザーやシャジャがついているなら大丈夫だ。シャジャもああ見えて力のある竜だからな」
「“竜族を見た目で判断するな”だっけ」
「ああ」
ふっと笑うヒルだが、その表情がよく見えない。リリスティアは落ち着かない様子で、こう言った。
「ヒル、あの。話があるなら座らない?」
そう言ってリリスティアは二つあるソファを指さしたが、ヒルは首を横に振る。
「大した話は無い。なんとなく、お前が緊張しているだろうと思って様子を見に来ただけだから」
「……そんな子供じゃない」
リリスティアがふいっと横を向く。ヒルはそんな態度にも変わらず笑みを返してくる。
「じゃあ、また明日な」
「え?」
ヒルはそのままリリスティアに背を向けた。明日出発すれば、しばらくは会えなくなるというのに、やけに冷たく感じてしまうのは何故だろうか。
リリスティアの心にもやもやとした黒い雲がかかる。その背中を睨んでみたが、彼が振り返る様子は無い。静かに、扉の方に歩んでいく。
何か声をかけようとしたが、言葉が出ない。引き留める必要があるのかと、冷静な自分が訴えかけてくるからだ。
「どうした?」
ヒルが振り返る。まるで、分かっているかのような、ひどく優しい声色に身が震えた。
「あ、あの」
言葉に迷い、体が強張る。リリスティアは息を飲み込むと、意を決して言葉を発した。
「は、話をしたいんだけど……」
「話?」
意外そうな顔で、ヒルが言う。リリスティアは、無駄に大きく高鳴る胸を押さえながら、頷いた。
「明日、その。他国に行くことは初めてだから、色々聞きたいことがある。駄目……?」
自分でも呆れるくらい、意味の無い理由に頭痛がした。彼が今、どんな面持ちでこちらを見ているかなど考えたくもない。
じゃあ話そうか。そう言われたとして、こんな夜更けに何を話せばいいのか。色々聞きたいこととは、一体何なのか。
巡る想いに潰されそうになっているリリスティアに、ヒルは、そっと近づいた。
「そうだな。少し話そうか。……眠るまで」
さすがに、夜更けに部屋で二人きりというのはよろしくない。
ヒルのその提案により、二人は城の中庭に出ていた。静かな夜のヴァイス城には、見張りの兵士意外に人影は無い。動くものといえば、夜に遊ぶ梟くらいのものだろう。
氷の牢獄から蘇った城だが、緑の美しさはリュシアナに劣ることはなく、燦然と輝いていた。
夜露に濡れた光蘭珠の花が、月の光を浴びて宝石と成る。夜摘んでしまうと、純度が下がるので、早朝に摘むのが適切だとヒルが説明をした。
低く落ち着いたヒルの声は、耳の奥までよく響く。それ故に、リリスティアは時折そっと耳を押さえ、疲れたような小さい息を吐くのだった。
「寒くはないか」
ヒルが気遣うと、リリスティアは首を振った。
「寒さは平気」
「そうだな。あんな格好で氷漬けのヴァイスに来たくらいだ」
ヒルが、笑いながら言う。
「あの格好は慣れていたから……別に本当に平気だったわけじゃ」
大きく肌を露出した服に、ローブを一枚という姿を思い出して、リリスティアは今更ながら己を恥じた。確かに、今考えればよくそんな服装でやってのけたものだ。
そんなリリスティアも、今はミリアが用意した質の良い服を身に纏っている。寒さを防ぐ絹地のローブは、リリスティアの髪に合うように染められた濃紺の綾だった。
手触りの良いそれが、芝生を引きずる。高価な生地独特の衣擦れの音が、リリスティアの歩みを彩った。
「さて、何の話をしようか」
先程、明日のことについてと言ったのに。リリスティアは、自分の心を悟っているかのようなヒルの発言に、唇を軽く結んでから答えた。
「ユア・ラムダに行ったことがあるの?」
「実際に足を運んだことはない。他国には、数えるほどしか出ていないんだ」
「……そうなの?」
「王たちの傍を離れるわけにはいかなかったからな」
夜の空気の中でも、しっかりと聞こえるヒルの声は、穏やかだった。だが、横顔にどこか寂しそうな感情が伺える。リリスティアは、彼の近くまで歩み寄ると、心配そうに見上げた。
「その……大変だったね」
「やるべきことをやっていただけだ。大丈夫だよ。ありがとう」
優しく答え、ヒルは少し足を進めた。それに続くように、リリスティアも歩き出す。
どちらからともなく、中庭を歩きだす。ぼんやりと淡く光る灯りが、月の光を落としたかのようだ。草の香りに花をくすぐられながら、二人はゆっくりと、静寂の時を楽しんだ。
「俺が、この国の軍部務めになったのはちょうどジオリオ陛下とユティリア殿下がご成婚なされた時だった」
ヒルが、不意に言葉を発する。
「親父が、ジオリオ陛下の剏竜として仕えていて。式の時も、二人の婚姻を認める役として傍に立っていた」
「結婚式……」
興味深そうにリリスティアが言ったのを見て、ヒルはまた語り始めた。
「派手な式ではなかったが、幸せそうだった。誰もが二人を祝福していた。ミリアなんかは大泣きしていたんだぞ」