第十話「銀月の契り、深淵の剣舞」
千年の時を経て尚、君に会うと心が揺れる。
幾年の時を超えても、あなたがそこにいることが幻ではないかと疑う。
先の見えない霧の向こうに、きっとあなたがいるのだと。
信じていたのに、もう見えない。
飛んでいくことすらできないこんな翼など、最初から──。
「ユア・ラムダに行くと聞いたが、そこは遠いのか」
急に背後から声をかけられ、リリスティアは警戒しながら振り向いた。が、すぐにそれが見知った人物だと知ると、砕けた表情を見せた。
「昴! びっくりした……いつの間に」
昴は腰に刀を携え、回廊の真ん中で腕組みをしていた。訓練の後だろうか、黒い着物の裾が土で汚れている。はっとした昴は少々身なりを整え、腕を解いた。
「……かつての教え子とはいえ、突然声をかけるべきではなかったな。無作法ですまん」
「違う違う、そういう意味じゃないわ」
リリスティアは苦笑いを浮かべる。昴はどうも生真面目過ぎるところがあり、気をつけないと誤解を与えてしまうことがしばしばあった。
「ユア・ラムダまでは結構距離があるみたい。一度ノーブル領を抜けて、そこから入国するらしいわ」
「そうか……分かった」
昴は無表情にそう言うと、リリスティアの横をすり抜けさっさと歩き出した。それを見送ろうとしていたリリスティアだったが、何かを思い出したように引き留める。
「あ、そうだ昴」
「ん?」
「貴方に貰った、あの剣のことだけど、その」
リリスティアはその続きをなかなか言えず、昴と目を合わせたまま、まごつく。昴はその続きを察知し、「ああ」と頷くと僅かに口端を上げた。
「心配するな、ちゃんと預かっておいてやる。新しい剣に早く慣れるがいい」
「ありがとう……」
今のリリスティアの腰には、送り主が誰だか分からないあの剣があった。昴が謎の人物からリリスティアにと預かったという剣だ
ヒルによれば、人の世界でもヴァイスでも見かけない不思議な細工だという。勿論、世闇でも見たことがないと聞いた。
光輝く銀の柄だけを見ると、おおよそ戦いには向いてないようにも見えるのだが、刃の部分は見事に研がれている。
「俺と手合わせをした割には、その剣には傷があまりついていないな」
「本当だ。昴、結構本気でやっていたのに」
「本気など、お前相手に出すわけがない」
昴が余裕たっぷりにそう言うと、リリスティアは少し不機嫌に眉を寄せる。
「四戦目あたりは、切羽詰まっていたように見えたわ」
昴は無言のまま、リリスティアの追従に答える様子は無かった。その子供のような反応が可笑しくて、リリスティアはつい笑いを洩らしてしまう。それを見て昴の無表情な顔の一部分に深い皺が刻まれるのをわかっていても。
「ところで、ユア・ラムダへの出発はいつだ」
「明日に決まった」
リリスティアは明日、ユア・ラムダの地に住まうという純血の有翼人の元へと旅に出る。
その目的は、同盟の申し入れだ。ユア・ラムダの有翼人は排他的で、閉鎖的な種族。彼らを制圧、または国交を求め、今まで数々の王国がその地に赴いたが、未だ提携を結んだ国は無い。
だが、今でも世界の国々は彼らの力を狙っている。有翼人の純血種の力というのは、それほどまでに魅力的なのだ。
だからといって、何の繋がりもない国へいきなり行くというのはどうかと思ったが、あのカイムが強く推すと同時に、ヒルがレオンを説得し、決めたという。
「しかし、いきなり王を行かせるなどとあのレオンという宰相も大胆だな」
「ヴァイスが悪魔でないことを証明するためには、小さな機会も逃すわけにはいかないからだと思う」
リリスティアの脳裏に、高笑いをするバロンの顔が揺らめく。かと思うと、ふいにそれは、聖者のような笑みを浮かべたアルフレッドの顔に変わる。
「情けない話、この国はまだ私がいなくても大丈夫なの。だから……」
理由のない戦いを止める為に。世界に歴史の真実を知らしめる為に王である自分が動かなければ。
リリスティアが強く拳を握りしめていることに気付いた昴は、その頭に大きな手を優しく置いた。
「お前は、若い頃の俺に似ている。世闇も昔、とある人間達といがみ合っていた時期があった。俺はそれを止めるのに躍起になっていたんだ。……丁度、今のお前のように」
昴の瞳が少し歪むと、リリスティアも呼応したかのように眉を下げた。
「お前はやはりまだ若い。目的を見失い、自滅するのは若者によくあることだ。だがそうならないようにするためには──」
それでも必死にリリスティアを見据え喋る昴だったが、そこまで言うとふいに言葉を止めた。リリスティアではない別の場所に視線を置くと、溜息をついた。
「喋りすぎた」
意味が分からずきょとんとするリリスティアを省みることはなく、昴はリリスティアの元からさっさと立ち去った。
「ちょっと、昴」
「邪魔をしたつもりはなかったんだがな。すまない」
穏やかで、優しい声が、リリスティアの神経を震えさせた。振り向くことを拒否するかのように強ばる体を無理に動かし、リリスティアは背後に目を遣った。
「ヒル」
そこには、いつもと変わらないヒルがいた。リリスティアは胸がきつく締め付けられるような感覚に襲われたが、そんな素振りは微塵も見せず、自分なりの威厳を以て言い放った。
「そんなに大事な話はしていなかったら平気」
「そうか」
どこか居心地の悪い沈黙に、リリスティアは少々機嫌悪く俯いてみせる。
ヒルは返事の代わりに笑みを見せると、軽く頭を下げ、リリスティアの横を通り過ぎた。
瞬間、微かに香るあの時と同じ匂いに、胸が軽く痛んだ。
リリスティアはこんな風になる自分が嫌いだった。悶々として、女々しく頭を悩ませる。いつもの自分がどんなだったかさえ、思い出せなくなっている。
遠ざかるヒルの後ろ姿を見ながら、リリスティアは唇を結んだ。
* * *
「今宵もまた、銀の月が巡る……」
空に浮かんだ月の所為で、白く照らし出されるその唇が震えるように言葉を紡ぐ。
月をまるで愛しい恋人を見るような瞳で見つめるその人物は、ゆっくり、手を空にかざす。
「貴方は誰……?」
尋ねるも答える者は誰もおらず、それを見かねた一人の青年が側にひざまづく。
「中へお入り下さい」
その青年の言葉を素直に聞き入れるのかと思いきや、
「いいえ」
そう言ってその者は動こうとはしなかった。
青年は諦めたのか、恭しく頭を下げた。
「もうすぐ……もうすぐだから」
鈴の鳴るような声が、空に吸い込まれ、消えた。
* * *
「――どうしたの?」
シャジャの不意の問いかけに、カイムは僅かに目を大きくさせた。
首を傾げるシャジャにカイムはいつも通りの皮肉った笑みを返した。
「いや?」
ヴァイスの城の屋上で、月を愛でる二匹の竜がいた。
カイムは仰向けに寝そべり、シャジャは側で本を読みながらうっとりとしていた。
が、カイムが妙に怪訝な顔をしていたことに気づいたシャジャは、また何を思って機嫌を悪くしているのかと、眉を寄せた。
「何か怒ってる?」
「満月だな」
答えず、カイムはそのまま横向きに寝返りをうつ。シャジャはため息をつくと、その見事に丸い月を見上げ、顔を緩める。
「おまんじゅう食べたくなるね……」
「丸くなるぞ」
「ならないよ……」
不機嫌に頬を膨らますシャジャ。その愛らしい様子を見ることもなく、カイムの視線は天空に浮かぶ月に向けられたままだった。
その夜の月の白さと眩しさときたら、異常なほどだった。深く暗い夜空の中で、存在を主張するかのように雲さえも切り裂く光だった。カイムでなくとも、自然と目が痛くなる。
「俺は月は嫌いだ」
月の光をその赤い瞳に映しながら、忌々しそうにカイムは呟いた。そんな彼の言葉を聞き、シャジャは手に持った本の冊子を静かに閉じた。
「ユア・ラムダへの旅……大丈夫? カイムさん」
「お前が心配するようなことは何もない」
カイムは間髪入れずにさらりと答える。瞳はまだ、月を捉えたままで。
「そう……だね。うん、そうだね」
同じように、夜空を見上げる。変わることのない月の輪郭が、二匹の竜の眼をなぞる。不意に風がそよいだ時、ヴァイスの空に星が流れた。
* * *
陽が山の端に姿を隠し、ヴァイスに夜の帳が降りようとしていた。
幾年の時を超えても、あなたがそこにいることが幻ではないかと疑う。
先の見えない霧の向こうに、きっとあなたがいるのだと。
信じていたのに、もう見えない。
飛んでいくことすらできないこんな翼など、最初から──。
「ユア・ラムダに行くと聞いたが、そこは遠いのか」
急に背後から声をかけられ、リリスティアは警戒しながら振り向いた。が、すぐにそれが見知った人物だと知ると、砕けた表情を見せた。
「昴! びっくりした……いつの間に」
昴は腰に刀を携え、回廊の真ん中で腕組みをしていた。訓練の後だろうか、黒い着物の裾が土で汚れている。はっとした昴は少々身なりを整え、腕を解いた。
「……かつての教え子とはいえ、突然声をかけるべきではなかったな。無作法ですまん」
「違う違う、そういう意味じゃないわ」
リリスティアは苦笑いを浮かべる。昴はどうも生真面目過ぎるところがあり、気をつけないと誤解を与えてしまうことがしばしばあった。
「ユア・ラムダまでは結構距離があるみたい。一度ノーブル領を抜けて、そこから入国するらしいわ」
「そうか……分かった」
昴は無表情にそう言うと、リリスティアの横をすり抜けさっさと歩き出した。それを見送ろうとしていたリリスティアだったが、何かを思い出したように引き留める。
「あ、そうだ昴」
「ん?」
「貴方に貰った、あの剣のことだけど、その」
リリスティアはその続きをなかなか言えず、昴と目を合わせたまま、まごつく。昴はその続きを察知し、「ああ」と頷くと僅かに口端を上げた。
「心配するな、ちゃんと預かっておいてやる。新しい剣に早く慣れるがいい」
「ありがとう……」
今のリリスティアの腰には、送り主が誰だか分からないあの剣があった。昴が謎の人物からリリスティアにと預かったという剣だ
ヒルによれば、人の世界でもヴァイスでも見かけない不思議な細工だという。勿論、世闇でも見たことがないと聞いた。
光輝く銀の柄だけを見ると、おおよそ戦いには向いてないようにも見えるのだが、刃の部分は見事に研がれている。
「俺と手合わせをした割には、その剣には傷があまりついていないな」
「本当だ。昴、結構本気でやっていたのに」
「本気など、お前相手に出すわけがない」
昴が余裕たっぷりにそう言うと、リリスティアは少し不機嫌に眉を寄せる。
「四戦目あたりは、切羽詰まっていたように見えたわ」
昴は無言のまま、リリスティアの追従に答える様子は無かった。その子供のような反応が可笑しくて、リリスティアはつい笑いを洩らしてしまう。それを見て昴の無表情な顔の一部分に深い皺が刻まれるのをわかっていても。
「ところで、ユア・ラムダへの出発はいつだ」
「明日に決まった」
リリスティアは明日、ユア・ラムダの地に住まうという純血の有翼人の元へと旅に出る。
その目的は、同盟の申し入れだ。ユア・ラムダの有翼人は排他的で、閉鎖的な種族。彼らを制圧、または国交を求め、今まで数々の王国がその地に赴いたが、未だ提携を結んだ国は無い。
だが、今でも世界の国々は彼らの力を狙っている。有翼人の純血種の力というのは、それほどまでに魅力的なのだ。
だからといって、何の繋がりもない国へいきなり行くというのはどうかと思ったが、あのカイムが強く推すと同時に、ヒルがレオンを説得し、決めたという。
「しかし、いきなり王を行かせるなどとあのレオンという宰相も大胆だな」
「ヴァイスが悪魔でないことを証明するためには、小さな機会も逃すわけにはいかないからだと思う」
リリスティアの脳裏に、高笑いをするバロンの顔が揺らめく。かと思うと、ふいにそれは、聖者のような笑みを浮かべたアルフレッドの顔に変わる。
「情けない話、この国はまだ私がいなくても大丈夫なの。だから……」
理由のない戦いを止める為に。世界に歴史の真実を知らしめる為に王である自分が動かなければ。
リリスティアが強く拳を握りしめていることに気付いた昴は、その頭に大きな手を優しく置いた。
「お前は、若い頃の俺に似ている。世闇も昔、とある人間達といがみ合っていた時期があった。俺はそれを止めるのに躍起になっていたんだ。……丁度、今のお前のように」
昴の瞳が少し歪むと、リリスティアも呼応したかのように眉を下げた。
「お前はやはりまだ若い。目的を見失い、自滅するのは若者によくあることだ。だがそうならないようにするためには──」
それでも必死にリリスティアを見据え喋る昴だったが、そこまで言うとふいに言葉を止めた。リリスティアではない別の場所に視線を置くと、溜息をついた。
「喋りすぎた」
意味が分からずきょとんとするリリスティアを省みることはなく、昴はリリスティアの元からさっさと立ち去った。
「ちょっと、昴」
「邪魔をしたつもりはなかったんだがな。すまない」
穏やかで、優しい声が、リリスティアの神経を震えさせた。振り向くことを拒否するかのように強ばる体を無理に動かし、リリスティアは背後に目を遣った。
「ヒル」
そこには、いつもと変わらないヒルがいた。リリスティアは胸がきつく締め付けられるような感覚に襲われたが、そんな素振りは微塵も見せず、自分なりの威厳を以て言い放った。
「そんなに大事な話はしていなかったら平気」
「そうか」
どこか居心地の悪い沈黙に、リリスティアは少々機嫌悪く俯いてみせる。
ヒルは返事の代わりに笑みを見せると、軽く頭を下げ、リリスティアの横を通り過ぎた。
瞬間、微かに香るあの時と同じ匂いに、胸が軽く痛んだ。
リリスティアはこんな風になる自分が嫌いだった。悶々として、女々しく頭を悩ませる。いつもの自分がどんなだったかさえ、思い出せなくなっている。
遠ざかるヒルの後ろ姿を見ながら、リリスティアは唇を結んだ。
* * *
「今宵もまた、銀の月が巡る……」
空に浮かんだ月の所為で、白く照らし出されるその唇が震えるように言葉を紡ぐ。
月をまるで愛しい恋人を見るような瞳で見つめるその人物は、ゆっくり、手を空にかざす。
「貴方は誰……?」
尋ねるも答える者は誰もおらず、それを見かねた一人の青年が側にひざまづく。
「中へお入り下さい」
その青年の言葉を素直に聞き入れるのかと思いきや、
「いいえ」
そう言ってその者は動こうとはしなかった。
青年は諦めたのか、恭しく頭を下げた。
「もうすぐ……もうすぐだから」
鈴の鳴るような声が、空に吸い込まれ、消えた。
* * *
「――どうしたの?」
シャジャの不意の問いかけに、カイムは僅かに目を大きくさせた。
首を傾げるシャジャにカイムはいつも通りの皮肉った笑みを返した。
「いや?」
ヴァイスの城の屋上で、月を愛でる二匹の竜がいた。
カイムは仰向けに寝そべり、シャジャは側で本を読みながらうっとりとしていた。
が、カイムが妙に怪訝な顔をしていたことに気づいたシャジャは、また何を思って機嫌を悪くしているのかと、眉を寄せた。
「何か怒ってる?」
「満月だな」
答えず、カイムはそのまま横向きに寝返りをうつ。シャジャはため息をつくと、その見事に丸い月を見上げ、顔を緩める。
「おまんじゅう食べたくなるね……」
「丸くなるぞ」
「ならないよ……」
不機嫌に頬を膨らますシャジャ。その愛らしい様子を見ることもなく、カイムの視線は天空に浮かぶ月に向けられたままだった。
その夜の月の白さと眩しさときたら、異常なほどだった。深く暗い夜空の中で、存在を主張するかのように雲さえも切り裂く光だった。カイムでなくとも、自然と目が痛くなる。
「俺は月は嫌いだ」
月の光をその赤い瞳に映しながら、忌々しそうにカイムは呟いた。そんな彼の言葉を聞き、シャジャは手に持った本の冊子を静かに閉じた。
「ユア・ラムダへの旅……大丈夫? カイムさん」
「お前が心配するようなことは何もない」
カイムは間髪入れずにさらりと答える。瞳はまだ、月を捉えたままで。
「そう……だね。うん、そうだね」
同じように、夜空を見上げる。変わることのない月の輪郭が、二匹の竜の眼をなぞる。不意に風がそよいだ時、ヴァイスの空に星が流れた。
* * *
陽が山の端に姿を隠し、ヴァイスに夜の帳が降りようとしていた。