第一話「翡翠は、泥の中に」
街道を歩く足音が、空しく響く。それまで軽い会話を交わそうとしていたバルドも、目下黙り続けていた。
あの後、谷を抜けるのは容易であった。あの木の化け物はそれ以降出ることはなく、街道は静寂に包まれていた。
それでも、いつどこから襲われるともしれない恐怖がつきまとっていたが、なんとか無事に谷を抜けることが出来た。
ずっと先頭を歩いているリリーは、三人を顧みることなく歩いているが、背中からは緊張が伝わってきた。
彼女を心配そうに見つめていたアミーは、いつでも抜けるようにと、腰の剣を傾けた。
そうしてしばらくすると、遠目に悠然とそびえ立つ白い山脈が見えてきた。
「あれは……」
白く銀色に輝く山脈を見た瞬間、リリーは微かに笑みを浮かべた。
「あれを越えると、悪魔の地ね」
「ということは、あれが国境とも言うべき山脈アルヘナか」
マティスが、手で瞳に影を作り、その山脈を見上げた。
悪魔と人間の世界を隔てる、絶対境界線アルヘナ山脈。
堂々とそびえるそれは、高さはそれほどでもないが、横にはどこまでも続きそうなほど長い。
警戒を緩めれば、それは死に繋がる。山を見上げていた一行は、互いの顔を見合わせて頷いた。
幸いにも空は晴れていた。だが、気温の上昇で雪崩が起こりやしないかとリリーは心配した。
山越えとなると、ここで馬は置いていかなければならない。バルドが酷く寂しそうだったが、仕方のないことだった。
訓練された馬は、放たれると同時にリュシアナの方向に向かって真っ直ぐ走り始めた。寂しそうに見送るバルドを促し、四人は国境、アルヘナ山脈へと踏み入った。
外の世界をあまり知らないマティスにとっては、まさにそこは未知の世界だった。山に入ると、銀色の雪を被った木々が陽の光で輝いている。時折顔をのぞかせる雪兎に、心が和む。
樹氷を見たことがなかったのか、アミーがしきりに周囲を見つめて微笑んでいる。余裕のある人だな、とリリーは思っていた。
山はまるで二人を拒むかのように、厳しさを湛えている。道は悪く、少し間違えば足を踏み外して落下してしまような悪所だ。
時折遠くで雪崩の起きる音がした。マティスは立ち止まりそれを気にしたが、リリーの「早く」という声に急いでまた歩みだした。
頂上付近まで来ると、山も徐々に優しさを見せはじめる。相変わらず厳しい寒さではあったが、近くなった陽の光が、白亜の光景を銀に光らせていた。
登りきった者が見るその光景は、アーリアの全てを手に入れたかのような気分にさせてくれる、なんとも素晴らしい物だった。大鷲が空を舞い、歌を歌う。その蒼く突き抜ける空に軌跡を残しながら。
なんと、自分は小さい生き物だろうか。
そう考えてしまうほどに、そこから見える景色は広く、雄大であった。
「すごい」
感嘆の声を漏らすマティスだが、その感動を噛み締めたのも束の間だった。
いくら大きくとも、いくら美しくとも、そこは彼の地『ヴァイス』。リュシアナ側とは、明らかに空気が違っていた。
ヴァイスの大地はひどく鬱蒼としていた。枯れた木々に、凍りついた湖面。さっきまで晴れていた空が一瞬の内に一転し、黒雲が全てを覆う。その雲が陽の光を遮り、そこに植物が芽吹くことを許してはいなかった。
「すんなり来れるなんて」
その光景を前にしてもリリーは冷静だった。ローブ軽く羽織り直すと、横で愕然としているマティスを見てため息を吐いた。
「しっかりして。まずは地形と位置を確認しないと」
軽く叱咤を混ぜた言葉をかけ、リリーは鞄からまだ真白の地図を取り出した。
「二手に分かれようか。西周りと、東周りに、双眼鏡で地形の確認。魔導師がいれば、目測だってもっと楽だろうけど」
マティスの提案に、リリーは頷く。
軽く見渡しただけなら、以前書いたと見られる地図と相違はなさそうに見えるが、進軍の妨げになるものがあれば大問題だ。
「じゃああたしとバルドは東周り。マティスさんとリリーちゃんは西から行く?」
時間を惜しむように、アミーが提案を出す。
「まあ無難だろうな。悪魔慣れしてる聖騎士さんを固めるよりかは安全だ」
ばつの悪そうな顔で、バルドが言う。アミーは優しくバルドの肩を軽く叩いた。
「聖騎士っても、英雄聖騎士以外の待遇なんて似たりよったりよ。酷いとこじゃ差別だってあるし」
小さく付け足した最後の言葉に、バルドが眉を寄せた。
「差別?」
「あっ、う、ううん。こっちの話。まあでも、リリーちゃんのあの強さなら、いずれ上位騎士くらいになれそうよね」
「なる気はない。ところで、それでいいなら出発しましょう」
冷静に指示するリリーを見て、マティスは呆れたように問い掛けた。
「リリーは恐いものとかないのかい?」
「恐いものくらいある」
「参考までに教えてくれるか?」
「……肌荒れとか。なんか治らないし」
思ってもみなかった答えに、マティスは吹き出しそうになるのをぐっと抑えた。
二手に分かれた一行は、寒波が支配するヴァイスの地を歩きだした。
落ち合う時刻を決め、何かあった時はとにかく己の身を守る為、そして事の事態をリュシアナに知らせる為に最善を尽くすこと。それを強く約束して別れた。
リリーは、地図を見つめ直しアルヘナの位置を記入し始めた。支給されたインクの出が悪いらしく、時折ぶんぶんと乱暴に振るっている。
「寒いからインクが出ないみたいだね」
「そうね」
「暖めてみようか。手の平でこう……」
「それよりちゃんと周りを見ていて」
彼女との会話は先ほどからこのような受け答えが主で、何か怒られているような気分になってしまう。
それでもなんとか会話の糸口がないものかと努力するマティスだったが、リリーは相変わらずの態度であった。
マティスはそのやり取りの中で気付いたのだが、どうやら彼女自身が「会話」というものに興味がないらしい。
セイレを探して、十四年も孤独に過ごしてきたのなら、普通の子女が通うような学校には、満足に行けていないはずだ。剣術だって、この年で戦えるようになるまでどれだけ鍛錬を重ねてきたのだろか。
それでも、その悲しみを小さな胸の内に押し込めているのだろうかと考えると、マティスは不思議な気持ちになった。
凍り付いた大地を煽るように、冷たい風が吹き荒ぶ。二人はあたりを警戒しながらも、順調に地形を描き取っていった。
大平原の中、リリーは前方に大河を見つけた。
平原を渡る巨大な蛇のような河には、かつて人が通ったであろう橋の残骸も見える。
「運河だ……」
遠くから見るとそうでもなかったが、それは近寄るととても大きな運河だった。もちろん、この北の地では凍り付いいる。
「川底まで凍ってるわね。見て」
リリーがそれに手を触れながらマティスに川を見るよう促した。
「これは!?」
川の中には、まさに今にも泳ぎだしそうな魚たち。
そして、水精の姿があった。半人半魚の美しい娘の姿をしたそれは、苦悶の表情を浮かべている。まるで何かに助けを求めるように手を伸ばしたまま。
「何故、水精霊が?」
マティスはリリーに答えを求めた。リリーは氷中のそれらを見つめたまま思考を重ねたが、その答えには至らなかった。
「精霊ってこんなはっきり見えるものなのね」
一言そうこぼすと、リリーは凍り付いた川に耳を当ててみた。
氷をつたい、何かが聞こえる。
それは、まぎれもない生命の鼓動。血流の音だった。
「生きている……?」
リリーは耳を離し、勢い良く立ち上がりマティスの方を向いた。
「マティス! この中の魚や水精霊達は生きている!」
先ほどまでの無表情はどこへいったのか。まるで子供のように嬉々としてこちらに振り返ったリリーに、マティスは目を瞠った。
あの後、谷を抜けるのは容易であった。あの木の化け物はそれ以降出ることはなく、街道は静寂に包まれていた。
それでも、いつどこから襲われるともしれない恐怖がつきまとっていたが、なんとか無事に谷を抜けることが出来た。
ずっと先頭を歩いているリリーは、三人を顧みることなく歩いているが、背中からは緊張が伝わってきた。
彼女を心配そうに見つめていたアミーは、いつでも抜けるようにと、腰の剣を傾けた。
そうしてしばらくすると、遠目に悠然とそびえ立つ白い山脈が見えてきた。
「あれは……」
白く銀色に輝く山脈を見た瞬間、リリーは微かに笑みを浮かべた。
「あれを越えると、悪魔の地ね」
「ということは、あれが国境とも言うべき山脈アルヘナか」
マティスが、手で瞳に影を作り、その山脈を見上げた。
悪魔と人間の世界を隔てる、絶対境界線アルヘナ山脈。
堂々とそびえるそれは、高さはそれほどでもないが、横にはどこまでも続きそうなほど長い。
警戒を緩めれば、それは死に繋がる。山を見上げていた一行は、互いの顔を見合わせて頷いた。
幸いにも空は晴れていた。だが、気温の上昇で雪崩が起こりやしないかとリリーは心配した。
山越えとなると、ここで馬は置いていかなければならない。バルドが酷く寂しそうだったが、仕方のないことだった。
訓練された馬は、放たれると同時にリュシアナの方向に向かって真っ直ぐ走り始めた。寂しそうに見送るバルドを促し、四人は国境、アルヘナ山脈へと踏み入った。
外の世界をあまり知らないマティスにとっては、まさにそこは未知の世界だった。山に入ると、銀色の雪を被った木々が陽の光で輝いている。時折顔をのぞかせる雪兎に、心が和む。
樹氷を見たことがなかったのか、アミーがしきりに周囲を見つめて微笑んでいる。余裕のある人だな、とリリーは思っていた。
山はまるで二人を拒むかのように、厳しさを湛えている。道は悪く、少し間違えば足を踏み外して落下してしまような悪所だ。
時折遠くで雪崩の起きる音がした。マティスは立ち止まりそれを気にしたが、リリーの「早く」という声に急いでまた歩みだした。
頂上付近まで来ると、山も徐々に優しさを見せはじめる。相変わらず厳しい寒さではあったが、近くなった陽の光が、白亜の光景を銀に光らせていた。
登りきった者が見るその光景は、アーリアの全てを手に入れたかのような気分にさせてくれる、なんとも素晴らしい物だった。大鷲が空を舞い、歌を歌う。その蒼く突き抜ける空に軌跡を残しながら。
なんと、自分は小さい生き物だろうか。
そう考えてしまうほどに、そこから見える景色は広く、雄大であった。
「すごい」
感嘆の声を漏らすマティスだが、その感動を噛み締めたのも束の間だった。
いくら大きくとも、いくら美しくとも、そこは彼の地『ヴァイス』。リュシアナ側とは、明らかに空気が違っていた。
ヴァイスの大地はひどく鬱蒼としていた。枯れた木々に、凍りついた湖面。さっきまで晴れていた空が一瞬の内に一転し、黒雲が全てを覆う。その雲が陽の光を遮り、そこに植物が芽吹くことを許してはいなかった。
「すんなり来れるなんて」
その光景を前にしてもリリーは冷静だった。ローブ軽く羽織り直すと、横で愕然としているマティスを見てため息を吐いた。
「しっかりして。まずは地形と位置を確認しないと」
軽く叱咤を混ぜた言葉をかけ、リリーは鞄からまだ真白の地図を取り出した。
「二手に分かれようか。西周りと、東周りに、双眼鏡で地形の確認。魔導師がいれば、目測だってもっと楽だろうけど」
マティスの提案に、リリーは頷く。
軽く見渡しただけなら、以前書いたと見られる地図と相違はなさそうに見えるが、進軍の妨げになるものがあれば大問題だ。
「じゃああたしとバルドは東周り。マティスさんとリリーちゃんは西から行く?」
時間を惜しむように、アミーが提案を出す。
「まあ無難だろうな。悪魔慣れしてる聖騎士さんを固めるよりかは安全だ」
ばつの悪そうな顔で、バルドが言う。アミーは優しくバルドの肩を軽く叩いた。
「聖騎士っても、英雄聖騎士以外の待遇なんて似たりよったりよ。酷いとこじゃ差別だってあるし」
小さく付け足した最後の言葉に、バルドが眉を寄せた。
「差別?」
「あっ、う、ううん。こっちの話。まあでも、リリーちゃんのあの強さなら、いずれ上位騎士くらいになれそうよね」
「なる気はない。ところで、それでいいなら出発しましょう」
冷静に指示するリリーを見て、マティスは呆れたように問い掛けた。
「リリーは恐いものとかないのかい?」
「恐いものくらいある」
「参考までに教えてくれるか?」
「……肌荒れとか。なんか治らないし」
思ってもみなかった答えに、マティスは吹き出しそうになるのをぐっと抑えた。
二手に分かれた一行は、寒波が支配するヴァイスの地を歩きだした。
落ち合う時刻を決め、何かあった時はとにかく己の身を守る為、そして事の事態をリュシアナに知らせる為に最善を尽くすこと。それを強く約束して別れた。
リリーは、地図を見つめ直しアルヘナの位置を記入し始めた。支給されたインクの出が悪いらしく、時折ぶんぶんと乱暴に振るっている。
「寒いからインクが出ないみたいだね」
「そうね」
「暖めてみようか。手の平でこう……」
「それよりちゃんと周りを見ていて」
彼女との会話は先ほどからこのような受け答えが主で、何か怒られているような気分になってしまう。
それでもなんとか会話の糸口がないものかと努力するマティスだったが、リリーは相変わらずの態度であった。
マティスはそのやり取りの中で気付いたのだが、どうやら彼女自身が「会話」というものに興味がないらしい。
セイレを探して、十四年も孤独に過ごしてきたのなら、普通の子女が通うような学校には、満足に行けていないはずだ。剣術だって、この年で戦えるようになるまでどれだけ鍛錬を重ねてきたのだろか。
それでも、その悲しみを小さな胸の内に押し込めているのだろうかと考えると、マティスは不思議な気持ちになった。
凍り付いた大地を煽るように、冷たい風が吹き荒ぶ。二人はあたりを警戒しながらも、順調に地形を描き取っていった。
大平原の中、リリーは前方に大河を見つけた。
平原を渡る巨大な蛇のような河には、かつて人が通ったであろう橋の残骸も見える。
「運河だ……」
遠くから見るとそうでもなかったが、それは近寄るととても大きな運河だった。もちろん、この北の地では凍り付いいる。
「川底まで凍ってるわね。見て」
リリーがそれに手を触れながらマティスに川を見るよう促した。
「これは!?」
川の中には、まさに今にも泳ぎだしそうな魚たち。
そして、水精の姿があった。半人半魚の美しい娘の姿をしたそれは、苦悶の表情を浮かべている。まるで何かに助けを求めるように手を伸ばしたまま。
「何故、水精霊が?」
マティスはリリーに答えを求めた。リリーは氷中のそれらを見つめたまま思考を重ねたが、その答えには至らなかった。
「精霊ってこんなはっきり見えるものなのね」
一言そうこぼすと、リリーは凍り付いた川に耳を当ててみた。
氷をつたい、何かが聞こえる。
それは、まぎれもない生命の鼓動。血流の音だった。
「生きている……?」
リリーは耳を離し、勢い良く立ち上がりマティスの方を向いた。
「マティス! この中の魚や水精霊達は生きている!」
先ほどまでの無表情はどこへいったのか。まるで子供のように嬉々としてこちらに振り返ったリリーに、マティスは目を瞠った。