平子真子逆トリ(仮)
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平逆トリ45(仮)
「もうええか」
たっぷり一時間半経ってやっと平子さんの手が引き抜かれる。やや上を向いていたので唾液は何とか飲み下せたものの、その代わりに平子さんの手が私の唾液と血でべったりだった。
「あの、手、すみません……」
「ん? あア、こんなん洗えばええわ。それより血ィ止まったか?」
「た、多分……」
ティッシュで唾液と血を拭いながら聞かれるが、正直、血が止まったかなんてイマイチ自信がない。鉄の味は薄まったから多分止まっているのだろう。
私が自信なく舌で確認している間にも、平子さんはてきぱきと手を洗い、冷凍ご飯をガーゼに包んで頬に当ててくれる。
「……しっかし、なんでまた親父さん来たんや?」
平子さんが不思議そうに眉をひそめて顎を手で摩った。
「恐らくですけど、帰りがまだ明るい時間だったので、夜笹さんと歩いているのでも見られたんじゃないかと……」
恐らく、というかそれ以外に思い当たる節が全く無い。
実家と然程遠くない場所に住むよう指定があったのもこうして見張るためなのだと今では分かる。実家とうちの中間辺りにあるスーパーの前ででも見かけたんじゃないかと予測まで出来てしまった。
「そないなことで?」
「うちの父にとってはそんなことも重大事件らしいので……娘が色気づいたとかなんとか」
そう父も母も私がスカートをはいたり化粧をすることを極端に嫌った。勿論、男の子と話すことも。
「自分の歳やったら普通のことやんか」
「ええまあ、それでも気に食わないそうなので」
眉を顰めて奥歯を噛む平子さんに、他に言えることが無い。もうどうしたってそういう人達なのだ。
「……俺にはよォ分からん考えの人間やてことだけ分かったわ」
ははは、と苦笑いで返すと、とすっと優しく頭に掌が乗せられて、わしわしと動かされる。
「髪がぐちゃぐちゃになりますっ」
「俺しか居らんねやからええやろ」
うっかりどきりと心臓が鳴った。また以前の距離感に戻れそうな予感がしてしまう。
「……ほんで? 今聞くことちゃうかもしれんけど、なんで別れたんや?」
久しぶりに踏み込んだ質問をされた。
それを嬉しく思ってしまう自分がいる。
けれど流石に、理由を言おうと思い浮かべると恥ずかしくなってしまう。私の顔は今きっと真っ赤だ。
平子さんは何故だか、そんな私の顔を見るなりとびきり優しく微笑んだ。
更に熱が顔に集まってくる。
「そない赤うなっとったらまた血ィ出んで」
ふっと笑われまた恥ずかしさに赤くなってしまう、エンドレスだ。誰か止めて。
そんな中、平子さんはツボにハマったのか口を押さえて笑っている。
何がおかしい。私か。
じとりと視線を送るとまた笑う。
「好きやで」
「え」
「紫雨のそういうとこ」
……。
……。
どきどきを返してください。
すぐ真っ赤になって面白いから好きと。はい、どうも。
むくれるとまた笑うものだから、相当お気に召したのだろう。もう知らん。
「むくれとんの?」
にやにやした顔が覗き込んでくる。
ムカつく。
目が合って跳ねる自分の心臓にもムカつく。
「もォ笑ろうたりせェへんから、機嫌直してーな」
「嫌です」
「なんでやねん」
口ではそう言いつつ語気は酷く柔らかい。私が嫌だというのが初めから分かっていたのだろうことは容易に理解出来た。
冷凍ご飯を頬に当てているのと反対の手で、緩く、下から掬うように手を握られる。自分の手が反射的に強ばったのが分かった。
なんだろう、やっぱり今日の平子さんは前みたいに距離感が近い気がする。謎に期待してしまう気持ちと今更触れられるのは恥ずかしい気持ちがごちゃごちゃしていて落ち着かない。
「頼むわ、許したって」
その声音があまりに柔らかすぎて、優しく肌を撫でられているような感覚に襲われる。平子さんはその伏せた目の奥でいったい何を考えて、どういう意図で、その弧を描く唇からそんな声を出しているのだろう。
目眩がしそうだ。
思わず唇を噛み締めていると、平子さんがふっと視線を上げる。私はその視線に絡め取られでもしたかのように身動ぎ一つ出来なくなってしまう。
呼吸が苦しい。
平子さんの瞳に気を取られていると、親指で手の甲を撫でられ、身体が跳ねた。目の端で平子さんの口角がクッと上がる。あ、と思った時にはもう平子さんの顔が近付いてきていて、軽く唇が触れた。
「……こういう時は目ェ閉じな」
息のかかる距離のまま平子さんが喋る。
そんなん知りませんよ唐突なんですから。
イライラする気持ちと嬉しい気持ちで複雑だ。
口を開けずに黙っていると、もう一度唇が触れて今度は唇を舐められた。無意識に口を開きかけたが、すぐにスっと唇が離れる。
「続きは傷が治ってからやな」
そう言ってニッと笑う。
「……なんでこんなことするんです?」
「しとうなったから」
私からすると答えになってない返事。
でも問い詰めるのもなんだか怖くて出来ない。今、以前みたいに「好きやない」なんて言われたらどういう顔をしていいのか分からない。結局、何がどうしても好きなことを再確認してしまったからもう逃げ場もないのだ。
こうして都合のいい女って出来上がるんだと理解した。
