その他短編
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午睡
「ぴーんぽーん」
陽の高さも落ち着いてきた昼下がり、座布団を枕に微睡んでいた私は、聞き慣れた男の声で目が覚めた。
一考した後、居留守を決め込むことにしたのだが、声の主は帰る気配がなく、一定の間隔でチャイムの物真似を続けている。
これは流石に近所迷惑なのではないだろうか。
如何したものかと思いつつも、寝直すことが出来ず、私は身を起こして煙草に火を点けようとした。しかし、マッチが湿気ているのか、中々火が点きはしない。寝損ねたことも手伝い、いよいよ苛立ってきた頃、玄関先の声の主が声を張り、連続して鳴らし続けられるチャイムの物真似(分かりづらいだろうが、私はこれ以外に表現を思い付かない)を始め、私の苛立ちがぷつんと音を立てて振り切れた。
点かぬマッチと煙草を卓袱台に叩き付け、大股で玄関へと向かう。
途中でいつもの鴨居に額をぶつけたが、今は構うものか。
私は苛立ちに任せ、ガチャガチャと鍵を外し、勢い良く玄関を開け放った。
扉の前に居たのは、やはりというか、予想通りの人物であった。
「やぁ、大木。調子は如何だい」
あれだけチャイムの物真似をしておきながら、まるで今来たばかりの様に穏やかに微笑うこの男は昏水愁という。一度会っただけでは誰も、昏水がチャイムの物真似をするなど思いもしないであろう。整った顔立ちに、色白で細く、柔らかそうな黒髪をふわふわと揺らす、所謂美形と云うやつだ。こんなことをしているより、図書館の窓辺で文庫でも読んでいる方が余程似合う。
そんな昏水は目下のところ、私の唯一の親友なのだが。
「やぁ。じゃあないだろう昏水。少しは近所迷惑も考えろ」
昏水の余りに白々しい物言いに、私の苛立ちも勢いを失ってしまった。
「何を言うんだい、大木が直ぐに扉を開けないのが悪いんじゃあないか」
他の客なら、二度三度返事がなければ帰るさ。と言いかけたが、昏水だと分かっていて開けなかったのは私である。これ以上玄関で問答をするのも阿呆らしいので、取り敢えず昏水を招き入れることにした。
「それで、何の用なんだ」
茶を淹れ、台所から戻って来ると、昏水はいつもの様に、私の愛猫である黒猫のヒメと遊んでいる。ヒメは何故か私より昏水に懐いているのだ。どうにも不服である。
一先ず卓袱台に茶を置き、ふと思い出してもう一度マッチを擦ってみれば、今度は点いた。
慌ただしい目覚めだったが、やっと一服出来そうだ。
「いやね、大木。キミ、まだ書かないのかい」
灰を落とす手が無意識に止まった。
昏水は右手で猫じゃらしを振りながら、来た時と同じ調子でにこやかに問う。
「な、にを」
下らない、と一蹴しようとして言葉が詰まった。昏水はそれを分かっていて更に続ける。
「折角、作家という夢を叶える機会があるのに書かないのか、と問うているんだよ」
子どもを宥める様な優しい口調だった。
私は、何と返して良いか分からず、再び煙草に口を付けた。
昏水の言う通り、私は作家を目指していながらここ一年、何も書いていない。何故かと、敢えて理由を探すなら父の死か。
私の父は大変に厳格な人で現実主義者だったが為に「作家などでは食っては行けぬ」と言われ続け、反発心からその頃の私は躍起になって書き続けた。然し昨年、その父が亡くなり、私の反発心は空気の抜けた風船の様に萎えてしまったのだ。折角、賞への応募を志していたのに、それも送らず終い。嗚呼、アレは何処へ行ったのか。
「なぁ、昏水。この様な時、答えは何処にあるのだろうか」
ぽつり、と下らない問いが口を突いて出た。
「なに、簡単なことだろう。答えは“無い”のさ」
予想し得なかった昏水の返答に、何となしに笑みが溢れた。
他の人間であれば下らない問いには下らない慰めを送るだろうに、この親友は容赦がない。
「お前は時々、厳しいことを言う」
敢えて言うなら一本取られたとでも言うべきか。
私は煙草を灰皿に押し付け、茶を啜る。すると、昏水も同じく茶を啜り、先程迄とは違う、実に無邪気な、幼さのある笑顔で口を開いた。
「仕方がない、私も、キミの答えは持っていないのだもの」
答えがない、只その一言で奇妙な程に私の心は穏やかになる。
やや西陽の差し始めた窓辺に目を向ければ、未だ捨てられはしなかった白紙の原稿用紙の束が、私に"早く"と強請っている様に見えた。
「さて、ここにありふれたカップ麺が有る」
用件の終わった昏水は、急に猫じゃらしを私に握らせたかと思うと、私の家の棚から勝手にカップ麺を持ち出し、あっという間に開封してしまった。
「おい、」
「コレが夢、そしてコレが希望だ」
そうして、どう見ても乾麺にしか見えないものを夢、具と調味料にしか見えないものを希望だと指し示す。
「さぁ、大木。愛を沸かしてくれ給え」
愛とは何だと問うと、湯に決まっているだろうと言われたが、決まっている筈がない。湯は湯だ。どうにも意図が掴めない。
「沸かしはするが、何故今なんだ」
私が怪訝な顔で問うと、昏水は無邪気に笑う。
「そりゃあね、大木。夢も希望も、愛を注がなければ食べられないからね」
もう落語家にでも弟子入りしたらどうかと思った。