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ドーンパープル

 月が照らす薄明かりの道路も、煙が昇る先端が赤い煙草も、何度脱色したのか分からない白に近い髪の毛も。全て私には遠い世界のものに思え、一人でに怖がり、そして興味に似たような感情を抱いていた。
中学三年生の十五歳。年相応の平々凡々とした生活を送る私の部屋から見える、夜道を一人で歩く同じクラスの男の子。
私は今宵も、彼に見入るのであった。



 
 
 今日は塾、明日はピアノ、明々後日はスイミング。
まるでお嬢様みたいだね、なんていつも友達にからかわれる。手帳に真っ黒になるまで細かく書き込まれた習い事の予定を見て、私は小さくため息をついた。
三十人あまりの人間が集まるこの狭い教室。私は派手な女の子でも、率先してクラスを引っ張っていくような人間でもない。目立たないグループに属しているけれど、虐められることも浮くこともない。どこにでもいる人間だった。
スピーカーから流れた授業の始まりを知らせるチャイムに従い、私は手帳を机の中にしまい込んだ。その数秒後には先生が教室へと足を踏み入れ、さっきまで騒がしかったクラスメイト達も自分の席へと戻っていく。
静かになる教室、日直の起立と礼を促す声、それに何の不満も抱かずに従う私達。全員が椅子に腰を下ろす頃には、先生がつまらない教科書を読み上げている。
外の運動場からの笛の音、離れた席に座る男子達の小さな私語。そんなありふれた日常の中に突然。この柔らかい空気さえも張り詰めさせる人物がやってくる。
廊下から聞こえてくる足音。それに気がつき私語をやめる男子達、先生は目線を机の教科書から教室の扉へと向けた。廊下の足音は教室の後ろの入り口辺りで止んだかと思われた。けれど次に聴こえてきた音は、ガラガラと教室の扉を開ける音だった。
クラスのみんなが一斉に扉の方を向き、彼を見たかと思えばまたすぐに黒板やら机の上に視線を落とした。遅刻してきたのに謝りもしない、授業中なのに全く気にしない。亜久津君はいつも通り、何食わぬ顔で教室へと足を踏み入れた。
先生が亜久津は遅刻、と一言呟き名簿に何かを書き入れ、対して注意もせずに教科書の音読を続けた。
亜久津君は何も言わずに堂々と自分の席に座ると、鞄を枕にするように机に顔を伏せた。寝るのだろうか、今登校してきたばかりなのに。
私はこの色んな人間がいる教室の中で、王様のような態度をとる亜久津君が怖かった。いや、こんな態度をとれるような人間だからこそ怖いのだろう。私とは違う世界に生きる、銀髪の彼が私には遠い世界の住民に思えた。





 時間が日付を跨ごうとしている二十四時前。
私の部屋の窓から見える夜の風景は、決して面白いものではない。私は大量にある塾の宿題を何とかこなし、明日の学校の準備も今さっき終えた。お風呂にも入ったし、携帯に充電器も差したし、布団にでも入ってしまえばすぐにでも眠りにつけるだろう。
ベッドに寝転ぶ前。私はなんとなく部屋の窓のカーテンをそっと開け、暗闇に包まれた外を見た。私の家の前には街灯がポツンとひとつだけ立っていて、住宅街の中の何もない暗い道を静かに照らしてくれていた。
現実に白い服を着た髪の長い女のお化けなんてものが存在していたら、今この街灯によってはっきりと肉眼で捉えてしまうだろう。夜だからこそ浮かんでくる馬鹿けた恐怖に、私は自分自身をごまかすように心の中で笑った。
そしてお化けではない。また今日も彼がこの道を通るのが見えた。何に対しても怯まない、恐れることも謝る事さえもしない。私が勝手に「教室の王様」と命名した亜久津君は、こんな時間だというのに一人で堂々と夜道を出歩いている。
この大して面白くない風景をものにしてしまう彼には、どこか優れた貫禄や風貌があるのだろう。やはり教室の王様は王様らしく堂々と歩くのだと変に納得し、私はただ歩いているだけの亜久津君を上から見ていた。
そしてふと、目があった。亜久津君は突然顔を上げ、寝巻きのままの私と窓越しに数秒見つめ合った。
月が照らす薄明かりの道路も、何度脱色したのか分からない白に近い髪の毛も。それらに心臓が一瞬跳ね、私は思わず目を逸らした。
亜久津君はクラスメイトの私だと気がついただろうか。恐らく私の事なんて眼中にないだろうから、どこか知らない家の窓から変な女が自分の事を見ていると思っただろう。私が恐る恐る目線を戻すと、もう彼は私の家の前を通り過ぎていた。
お化けなんかよりも怖い亜久津君が通る道が、たまたま自分の家の前なのを私は複雑な気持ちで眺めている。そしてもう、銀色の髪の王様の姿はどこかへと消えていってしまった。
彼の姿がない夜の風景は、やはり大して面白いものではなかった。




 私はほぼ毎日、同じような過ごし方をする。
朝は遅刻しないように余裕を持って起床し、校則に引っかからないように身嗜みを整え登校する。そして学校では友人とたわいもない会話を弾ませ、真面目に授業を受けながらも放課後に待つ習い事について一人静かに憂鬱になる。
たまには学校や習い事をサボってみたいなあ、なんて非現実的な願望を持っては自分の考えを謹み、私はいつも通りの生活を送る。自分にはこういう普通の生活のほうが似合っているのだろうと、授業中だというのに机に顔を突っ伏し睡眠を取る王様を見て思った。
亜久津君は学校を大体遅刻してくる。授業も真面目に受けない、習い事どころか私が眠りにつく時間に外を出歩いている。
私とは正反対の生活をなぜ送れる事ができるのかという疑問や、教室など場の雰囲気を悪くするあの態度に対する嫌悪感。彼に対するそういう類の感情はとうに通り過ぎ、なんだかもう逆に尊敬してしまっていた。
先生が黒板をチョークで叩く音、男子達の小さな話し声、聞こえてこない亜久津君の寝息。そんな日常の中、私は今日の放課後に待ち構えるピアノの先生に怒られないように今のうちから気をを引き締めた。昨日は塾、今日はピアノ、明日はスイミング。
亜久津君の様に自由奔放に生きれたらどれだけ人生楽しいのだろうと、私は音もたてずに上下する王様の背中を見た。彼にもまた、私と同じ様な悩みなんてものがあるのだろうか。きっと彼には怖いものも悩みなんてものもないのだろうと、私は亜久津君から黒板へと目線を移す。やはり今日の授業も、いつもと変わらず退屈だった。



 
 塾で出された、学校よりも多い宿題を何とか終えた二十四時前。当然のごとく外は暗闇に包まれ、きっと私の部屋のカーテンからは光がもれている事だろう。
私は固まってしまった背中をうんと伸ばし、力を抜くと椅子にうなだれてため息をついた。机の上に置いた教科書達になんだかうんざりしながら、急に襲ってきた睡魔に瞼が重くなった。
欠伸をしつつ私はのろのろと立ち上がり、部屋の電気を消そうとした。
何気なく外が気になり、窓際へと行くと暗闇に包まれた道路を眺めた。あー今日は王様通らないんだ。なんてどうでもいい事を考えながら、私は自然と彼の姿を探していた。
そして数分後、遠くから歩いてくる一人の人影に私は小さな声をもらす。あれは亜久津君なのか、それとも違う人なのか。窓に反転する自分の顔の向こう側に目を凝らすと、だんだんとこちらへと近づいてくる彼が見えた。
彼が私の家の前の街灯に近づく頃にはその姿は更にはっきりと見え、亜久津君が火のついた煙草を吸っているのが見えた。うわあ中学生なのに煙草吸ってる、なんて私は思い高揚感で胸がいっぱいになり妙にドキドキとした。
そしてまた偶然か必然か、王様と目が合う。街灯の下から私の顔ははっきりと見えるのだろうか。私は気まずくなり目をそらそうとしたけれど、その前に亜久津君が私に向かって口を動かした。
彼が何か私に喋りかけている。こっち見るなとか、誰だお前とか文句を言っているのだろうか。知らない家の窓からずっと誰かに見られていたのだ。確かに気味や気分が悪くなり、文句の一つや二つでも言いたくなるだろう。私は怒鳴られる事を覚悟し、鍵をあけそっと窓を開けた。部屋とは違う、外の匂いがする。

「なに見てんだよ」

ほら、やっぱり彼は不機嫌な顔で文句を言った。ごめんね、私は謝罪をすると続きの言葉に困り果てた。たいして話したこともなく、誰か共通の友人がいるわけでもない。けれど何故か、やけにこの夜道が似合う彼から目が離せなかった。その自由さと堂々とした態度に、羨ましさに近い感情を抱いた私は言葉を口にした。

「亜久津君、いつも何してるの?」

まさか私が話しかけるとは思っていなかったのだろう。というか、私をクラスメイトだと認識しているのだろうか。亜久津君は少し驚いたように、普段より目を見開いたように見えた。暗闇の中の街頭に照らされる亜久津君の光る髪、白い肌、鋭い眼光。彼は再度訪れた数秒の静寂を切り裂き、ゆっくりと口を開いた。

「何もしてねえ」

王様は焦る事なく、平然と答えた。こんな夜中に一人で出歩いて何もしていないだなんて。日が沈む前には帰宅する私には信じられず、目的を知られたくないからついた嘘なのだろうとさえ思えた。

「…お散歩?」

「お前に関係あんのか」

言い返す言葉がない。私は口ごもり、王様の横暴さと威圧感に負けそうになっていた。再び訪れる静寂。あの教室の騒がしい男子達も、女の子達の雑談も今は聞こえない。深夜の外は車の音さえせず、この時間帯がやけに静かな事を嫌でも知れた。

「お前こそ毎日なにしてんの」

今度は亜久津君が私に話しかけた。毎日、とは彼は私がクラスメイトだと分かっているのだろう、そんな口ぶりだった。聞かれて考える。私って、毎日何してたっけ。

「…塾の宿題とか習い事とか」

「気つまらねえのか」

「そりゃあ、つまるよ」

本当は全部投げ捨ててみたいんだけどね、笑いながら呟く。しんとした夜の世界に私の笑い声が小さく響き、私はなんだか悪い事をしている気分になった。そんな中亜久津君は平然と煙草を吸う。悪い事をしているという、善悪の感情は彼にあるのだろうか。

「全部投げ捨ててみろよ」

「そんなのできないよ」

「できねえって誰が決めた」

「決められたわけじゃないけど…」

「気分転換させてやろうか」

「気分転換?」

「出てこい」

出るって、この家から?私は驚き聞き返すと、彼は何事もなかったかのように首を縦に振った。私は無理だよと笑って言う。けれど亜久津君のあの鋭い目線は本気だったし、私は王様みたいに堂々と悪い事をする度胸だって持ち合わせていない。

「だって親いるもん、こんな夜に出て行ったら怒られちゃう」

「ならそこから飛べ」

「え、どこ?」

「お前が今、顔を出してる窓」

そこからベランダつたれば塀に足ついて降りれるだろ、亜久津君は私の家の外壁を見てまた平然と呟く。何を言い出すんだろう。こんな夜中に外に出てこいだなんて、ご丁寧に脱走方法の指定付きで。さすが男の子だと、やんちゃな行動に私は驚きながらも小さく笑った。

「そんなの無理だよ」

「ならやめとけ」

そう言って亜久津君は去ろうとした。この人は別れる時にさようならとかまた明日ねとか、挨拶ができないのだろうか。私は初めて触れる彼の横暴とした態度に何度も驚かされ、それでいてなんだか楽しくなってきている。
王様はどんなふうにこの夜の時間を過ごしているのか、本当に何もしていないのか、暗闇に包まれた世界は面白いのか。私は頭のネジが何本か急に飛んでいってしまったのだろうか。咄嗟に亜久津君の名前を呼び、去ろうとする王様を引き止めた。彼は私の声を聴き足を止め、そして私と目を合わす。

「なんだ」

「…靴持ってくるから待ってて」

私は亜久津君の返事も聞かず窓際から離れ、音を立てないように部屋のドアをそっと開け廊下に出た。朝早く起きる両親はもう寝ているのだろうか。両親の寝室の扉からは読めない彼らの現状に、感じたことのない罪悪感と高揚感があった。
足音をたてないように、今までにないくらいそっと階段を降りる。自分の家だというのにまるで泥棒みたいだ。適当な靴を下駄箱から取り出すと、また同じように自分の部屋へと戻った。
靴を手に持ったまま窓際へ戻る。王様はまだ街灯の下にいた。あくつくん、小さく呼ぶと銀髪の髪を揺らし、あの鋭い目で私を捕らえた。
私は部屋の電気を切り、少ししか開けていなかった窓を全開にした。そしてベランダに出て靴を履き、そっと窓を閉める。
これが親にバレたらどうなるんだろう。私はちゃんとこの家に戻ってこれるだろうか。そんないくつもある細かな心配よりも、全てを投げだしこの夜を王様と一緒に過ごしてみたいと思った。
私はベランダから身を乗り出す。ひんやりとした夜の風と静寂が顔に当たる。亜久津君の言った通り、ベランダをつたっていけば家の塀に足がつきそうだった。私は落ちないように柵に腰掛けると、ゆっくりと外側に身を寄せてベランダをつたった。
こんな危ない事今までしたことない。真っ暗闇の中落ちないか不安になりながら、あっという間にたどり着いた我が家の塀にそっと着地をした。私意外と泥棒むいてるのかも、そんな馬鹿けた感想を心の中で述べたのも束の間。今度は地味に塀が高い事に気がつき、地面との高さに怖気付いた。

「これ、このまま飛び降りても大丈夫かな?」

「飛べ」

「でも」

「なんとかしてやる」

亜久津君は街灯の下から私の家の塀へと近付き、下から私の事を見ていた。なんとかって。その曖昧だけれど確信を抱いた言葉に、私は素直に踊らされてしまった。

「飛ぶからね」

「早くしろ」

私は彼の言葉を信じて飛んだ。
真っ暗闇の空に向かったシャンプーの香りのする髪の毛、数秒の浮遊感、感じた事のない全身にかかる風。亜久津君は落ちてきた私の身体を、煙草を持っていない方の手で引き寄せるように受け止めた。腰に回された硬い腕、靴が擦れた様な音、コンクリートの固い地面の衝撃によって痺れた足。
月が照らす薄明かりの道路も、煙が昇る先端が赤い煙草も、何度脱色したのか分からない白に近い髪の毛も。それらは今、私の目の前にある。
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