ドーンパープル

私は知らなかった。いや、知ろうともしなかった、というのが正しいのかもしれない。
静寂に包まれている深夜。誰の話声も聞こえない暗闇。その中を歩く高揚感、隣には普段話すこともないクラスメイト。なんだか空気まで違う。
この不良の様な行為に、さっきまで不安を抱いていたくせに今は胸を踊らせている。一軒家の窓からは光が消え、道路を走っている車もまばら。遠くに見える高くそびえ立つビルの電気。いつも歩いている道がやけに大人びて見えるのを、私は不思議に思いながら歩いた。

「こんな夜に出歩いてもいいのかな」

「よくはねえな」

隣で歩く亜久津君はあっさりと罪を認めた。
亜久津君が誘ってきたのに!そう思ったけれど、王様にそんな口を叩けるほど私の地位は高くない。私はただひたすら、彼の横をついていくのに必死だ。

「もし警察に見つかっちゃったらどうなるの?」

「補導だろ」

「ほ、補導!?逮捕されちゃうの!?」

逮捕はされねえ、そう言って亜久津君は薄く笑う。
補導って逮捕の事じゃないの?私は真剣に訊いたのに、王様は呆れながらその二つの違いを説明してくれた。補導は親に連絡が行くだけですぐ帰れる、逮捕は捕まる。気怠そうに呟いた亜久津君の言葉に、私はへぇーと声をもらしながら小さく何回も頷いた。

「授業で逮捕の事とか教えてくれたっけ?」

「知るか」

「………」

何でこの人はこんなに冷たいの?やはり王様は王様だったと、横に立つ彼の態度に平民の私は黙り込むしかなかった。
でも今、私はあの亜久津君の横にいる。真っ暗な深夜に目的もないまま一緒に歩き、どこへ向かっているのかも知らない。

「勉強できるのにそんな事も知らねえのか」

「勉強できるわけじゃないよ」

亜久津君はこちらを向く事も、返事をすることもなかった。その代わりに自身のポケットからごそごそと少し潰れた煙草のパッケージとライターを取り出し、慣れた手つきで咥えると火をつけた。
私は産まれて初めて、目の前で未成年のクラスメイトが煙草を吸う所を見た。本当に吸ってる。恐れにも似た高揚感を胸の奥で感じて、私は亜久津君の白い手と口に目を奪われた。
私の視線に王様は気づき、鬱陶しそうに上から見下したあと。なんだよと、小さく呟いた。

「煙草なんて吸って大丈夫なの?」

「ごちゃごちゃうるせえよ」

黙って吸わせろ。亜久津君は冷たく言い放ち、じゃあなんで私の目の前で吸い始めたのかと問いたくなった。でもその勇気はない、今の私にはそんなもの持ち合わせていない。
暗闇の中立ち昇る煙を横目に、私はこの深夜の散歩が親にバレたらどうしようと、やはり今更になって不安になってきた。そんな私の隣を歩く王様は、何かを恐れる感情はまるで持ち合わせていないようだった。




 私が自分の部屋の窓を飛び出して十分前くらい、亜久津君が私の前で煙草を吸ってから五分くらいが経過しただろう。真っ暗闇の中、わりと急な坂道を登り歩く二人の会話がなくなったのは多分二分くらい前。意見も言わず、行く当てもなく、王様についていくだけの従順な私は本当に家来みたいだった。彼についていくのが怖くもあり、楽しくもあり、朝までに帰宅できるのかという様々な想いを抱いている。
携帯すら置いてきてしまった私は、親から探されていないか。友達からの連絡の音で親にバレないか。そんなつまらない事に心臓をバクバクとさせた。
そして亜久津君は突然立ち止まる。勿論家来の私は彼より一歩遅れて立ち止まった。彼の目線には、昼間に子供達が遊ぶ平和な公園。亜久津君は私の意見を聞くこともなく公園に立ち入り、少し奥にあるブランコに向かうと二つあるうちの一つに腰を下ろした。
え、亜久津君、ブランコなんて乗るの?心の中で笑いながら家来の私は彼の横の空いているブランコの方に座る。そして前を向くと、私は今まで見たことのない景色を目にした。
暗闇の中に光り輝く、一軒家や高いマンションの部屋の灯り。ライトをつけながら大通りを走る無数の車。遠くから聞こえてくる、犬の泣き声、どこかの家の赤ちゃんの夜泣き。
坂道を登った所にある、この小さな公園のブランコには私の知らない世界が広がっていた。夜中に出歩いているという高揚感なのか、隣に恐怖心を抱いている王様がいるからか。この光景がひどく輝いて見えた。

「…綺麗だね、ただの生活の光なのに」

隣の王様から、返事がくることはなかった。彼はただひたすらに前を見ている。亜久津君は今何を思っているのだろう。それすら読み取れない。勇気を出して話しかけたのに、返事すらくれない。私は心の底でほんの少しだけ、返事を期待していたのだろうか。


五分くらいはブランコに座っていただろう。
私は人工的で庶民的な輝く夜景をぼんやりと見ていて、隣の亜久津君も恐らく同じ様に過ごしていたと思う。
亜久津君は突然、何も言わずに立ち上がった。そして私が座るブランコの前に佇むと、目で私に立ち上がるように促した。亜久津君の煙草の匂いが風で運ばれてくる。私は王様に睨まれるともうだめだ、従うしかない。
少し慌てた様に立ち上がると、座っていたブランコは音を立てて前後に小さく揺れた。その隣の、王様が座っていたブランコはもう揺れていなかった。

「いつもこの公園にくるの?」

私よりも先に歩き出した亜久津君に、再度勇気を出して話しかけてみた。彼はちらりと、首を捻るように私の顔を見る。その同級生とは思えないような謎の威圧感のようなものに、やはり私は争えずにいる。

「来ねえ」

こねえ、って。やっぱりこの人は会話を続ける気がないのだろう。話が盛り上がる片鱗すらない。なぜ彼が私をこんな夜中に連れ出したのか。謎でしかない。

「…気分転換になったかよ」

「え?」

「楽しかったのかって、聞いてんだよ」

この王様は。ぶっきらぼうに私を家から誘い出し、一人で煙草を吸い、公園に連れて行って一言も話さず、それで今私に「楽しかった」かどうか聞いた。彼はきっと私を楽しませようとしたのだ。普通の女の子だったらぼろくそ言いそうなこのデートで。私は堪えることが出来ずに、少し声をもらすように笑った。

「…何がおかしいんだよ」

「ううん、なんでもない」

亜久津君って面白い所あるね。そう言った私を王様は怪訝そうに眉間にシワを寄せ、静かに見ていた。月明かりはそんな変な私達を、目立たないように住宅街の中で照らしてくれた。





 私の部屋の電気はついてない。リビングも、親の寝室も。
戻ってきた我が家は静かで、私は忘れかけていた不安な気持ちが少し軽くなったような気がした。いや、でも私は今かなり悪い事をしてきたのだ。亜久津君のせい(おかげ、かも)で自分の犯した罪が軽くなったような気になってしまった。

「よく親にバレないか不安にならなかったな」

「確かに…楽しい気持ちの方が勝ってたのかも」

「夜遊びの才能あるんじゃねえの」

「えぇ、そんな才能いらな…」

私が少し大きな声を出して大袈裟に驚くと、亜久津君は私に大声を出させないようにあの恐い顔のまま手で私の口を塞いだ。私は驚き、声どころか呼吸さえも止まった。恥ずかしくて顔が熱くなっていくのが自分でも分かる。そんな私を見て、今度は亜久津君が笑いを堪える事が出来なかったのか少しだけ口角をあげた。
私は彼の手に触れることもなく身を引き離れ、急いで目線を家の方に向けた。

「…これ登って帰れるかな」

「死ぬ気で登れ」

「…」

死ぬ気、死ぬ気ね。私は心の中で王様の言葉を復唱し、自宅の塀に手をかけた。塀のコンクリートは硬くて、登ろうと軽く体重をかけただけでも手に塀の跡がついた。
一度登るのを諦め、小さな石のような跡が沢山ついた真っ赤になった手のひらを見つめた。その姿を見て、亜久津君は横でため息をつく。

「もう一回登れ」

亜久津君はそう言うと、目線を塀にやり私に再度登る様に促した。私はやはり命令に従うしかない。さっきと同じ様に塀に手をかける。体重をかけ、足を上げて登ろうとした時。見ていただけの亜久津君は私の後ろへと移動した。

「足掛けろ」

「え、どこに…?」

「俺の手が見えねえのか」

手?そう疑問を抱きながら、振り返り亜久津君の手を見る。片手を握り拳にし、丁度私が足をかけやすい位置に浮かせている。私はまぬけな声で小さく驚き、踏んでいいの?恐る恐る訊くと王様は眉間にシワを寄せて怖い顔で頷いた。

「で、でも…」

「何度も言わせるな、早くしろ」

そんな怖い顔で言わないでよ。私は思ったけれど勿論口にする事はなく、急いで塀に手をかけ、亜久津君の手を踏み台として使わせてもらった。重くない?、また控えめに訊いてみる。返事は早く登れ。それだけだった。
私は腕に力を入れて身体を持ち上げ、ふらつきながらもなんとか高い塀の上に座る。亜久津君は握り締めた手を緩めて自身の服のポケットへと戻した。そのまま細い塀の上にそっと立ち上がってみる。まるで平均台だ、腕を広げて歩くしかない。私は自分の家の平均台から、下にいる亜久津君を見下げた。
私のほぼ目の前にある街灯の光は、亜久津君のあの派手な髪を輝かせていた。こんな間近で見るなんて、夜の暗闇の中では眩しすぎる。私は彼の放つ謎のオーラの様な物に一瞬心を奪われかけ、慌てて意識を帰宅することに向けた。

「ベランダには戻れるだろ」

「うん、ここは行けそう」

内緒話の様な音量で私達は会話を交わし、私は塀の上から無事ベランダへと伝い歩いた。落ちない様にしっかりとベランダの柵に手をかけ、そっと脚を上げてベランダへと身体を戻した。
これで家から出たことが親にバレていなければ、今の私は「真夜中に起きてしまった為、ベランダへ出て夜風に当たる人間」だ。
窓の鍵は閉まっていない。私は部屋に親が居ないことも窓の外から確認し、一安心して胸を撫で下ろす。

「大丈夫そう」

私は口パクに近い小声で亜久津君に無事を伝える。亜久津君は小さく笑う。やはり彼の髪は、遠くから見下げていても輝いていて綺麗だった。
おやすみ、そう今度は声も出さずに伝えてみた。王様は返事はしない。少しだけ頷き、いつも歩いていく方向に一人で行ってしまった。私は彼の姿が見えなくなるまで、まるで心を奪われたかのようにずっと見つめていた。彼はもう振り向かない。行かなければいいのに。何故かそうとも思えた。
私はこの一時間もない大冒険に心底胸を踊らせた。親に内緒で真夜中に家を出て、男の子と遊びに行くなんて。なんて悪いことをしてしまったんだと、高揚感と罪悪感に苛まれている。
心臓が早く動いてうるさい。私は親にバレないようにそっと窓を開け、まるで泥棒のように自室へと帰った。
急いで携帯を確認する。親からの電話どころか、誰からも連絡は来ていない。安心したからか、急にどっと疲れが湧いてきた気がする。
部屋の時計を見ると一時を回る前だった。こんな時間に起きているなんて、大晦日くらいだ。なんだか睡魔も襲ってきた。私は外の匂いと亜久津君の煙草の匂いがする服から新しいパジャマに着替え、足早に布団の中へと潜り込んだ。
眠たすぎてまぶたが重たい。今夜は亜久津君に気を遣って凄く疲れた。心臓がどくどくと動いてうるさい。それなのに何故か高揚感が止まらない。眠たいはずなのに全く眠れないこの感覚は、遠足の前の日みたいだ。
知らない世界は面白い。いつか読んだ本にそう書いてあった気がする。確かにその通りだったと、私は狭い布団の中で正体の分からない何かに胸を焦がすのであった。






 眠りについて数時間後にやってきた朝は、初めて体験する事ばかりだった。
鉛の様な物凄く重たい体、開けても開けても下がってくるまぶた、働かない頭。睡眠を十分にとらないと人間はこうなるものなんだと、私は身をもって実感させられた。
今朝は煙草の匂いがする服を洗濯機の一番下へと放り込み、いつもと変わらない両親の態度にほっと胸を撫で下ろした。
私はいつもよりフラフラと歩きながら長い長い廊下を歩き、友達と軽く挨拶を交わしながら自分の教室へと入った。今日は遅かったねと、近くの席の友人に言われて確認した教室の時計は、朝のホームルームが始まる数分前だった。
そして担任の先生が教室へと入ってくる。自由な時間を過ごしていたクラスメイト達は、先生を見ると当然のように自分の席へと戻っていった。
私も席につき準備をし、先生が出席を取ろうとして教室が静寂に包まれた時。廊下からはいつもの足音が聞こえる。亜久津君の発する音一つに、教室がほんの少しの緊張に包まれる。
私はいつもより意識をして身構えた。そして王様は普段と同じ様に教室へと脚を踏み入れる。
その瞬間、私と目が合う。けれど挨拶するわけでもない。昨日みたいに小さく笑うわけでもない。彼は変わらず堂々としている。
王様は周りに気を使うこともなく、大きい音をたてながら椅子を動かし席に着く。荷物を乱暴に机の横に置くと、彼は一言も発する事なく机に突っ伏した。そしてしばらくすると背中を静かに上下させて、一人睡眠の世界へとあっさり旅立ってしまった。
クラスメイトの千石君があーあ、と茶化すような声をあげる。そして教室の王様を無視したまま平然とホームルームが再開する。
先生が私の名前を呼ぶ。私は必死に重たいまぶたを持ち上げる気持ちで返事をした。クラスメイト全員の名前を呼び終わると先生は今日一日の変更点などを言い、そのまま授業に入ろうとした。
外はポカポカと暖かい。気持ちいい風まで吹いてくる。王様は既にぐっすりだ。私はもう、頭が働かない。睡魔にやられるとはこの事だろう。机の上で自然と腕を組み、重たすぎる頭を乗せた。生まれて初めてだ、授業中に眠るなんて。
後ろの席の女の子が私の背中を指で突く。調子悪いの?、心配してそう小声で尋ねてくれた。私は首を横に振ると、眠いの…。力尽きたように呟き、そこからはもう記憶がない。
きっと教室の中で寝ているのは、私と亜久津君だけだろう。二人で真夜中の散歩をした事は友達には内緒にしておこうと、私は夢を見る前にぼんやりと決めたのだった。
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