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境目の子守唄

 パチパチと部屋を暖める暖炉の音と共に、低い伸びやかな声が響いた。声は決して大きくはない。部屋の暖かさと共に、窓やドアが音を閉じ込めて柔らかく包んでいる。緩やかな低音が慣れた国の古い言葉で、音程となり、拍子となり、耳に伝わる。子守歌はエドウィンも知っている、教科書にも載っている歌だった。思わず、目を閉じる。
 エドウィンの生まれは、位の高い家だった。しかし母は、よく言えば伝統や風習を大切にする、悪く言えば国の悪しき習慣までも大事にして男を蔑ろにする、そんな女性だった。父の違う姉達は、母が家柄を守るために次々とこさえた結果だろう。エドウィンも女であればその一因だったはずだ。だが男として生まれ、生後からのルストの呪いに打ち勝ち、悲しくも生き残ってしまった。
 子守歌は姉達に歌われたもの。エドウィンに歌われた優しい歌はなかった。その同じ歌を、年端も行かぬ少年が今、自分の為だけに歌っている。丁寧で、優しい歌だ。きっとリオンの母親は、リオンの事を愛していた。
 同じ国で同じ男として生まれて、こうも違うものなのか。この国を呪うように不平不満恨み言を唱え続け、人前に出ればすべてを笑顔で誤魔化す。外へ出ようなど、考えたこともなかった。リオンのあの輝く目には、外は色とりどりで希望が満ちている場所なのだろう。そう考えながら育ってきたのだろう。その少年の歌を、もっと聴いていたいと。この少年の未来を、見てみたいと思ってしまった。
 低いロングトーンが続き、線香花火の火が落ちるようにやがて歌が終わった。暖炉で燃えかすがぱちりと鳴る。
「……」
 窺うように、リオンがちらりとエドウィンを見る。
「歌えるのはそれだけかよ」
 言葉が詰まるのが分かる。拗ねたように頷いた。それはそうだ。この年で親もおらず、身一つで生きていくのに音楽を聴く余裕もなかったのだろう。
「すっくねえなあ、そんなんじゃ吟遊詩人なんて名乗れるかっつー……」
「分かってはいるさ。これから覚えるんだ」
「そうかよ。……おい、俺のローブ返せ」
 言って、立ち上がった。
「だから、国から出してくれるまでは返さないと……」
 リオンに目で追われるのも構わず、自身のデスクを漁って紙袋を取り出した。ついでに椅子に掛けていたストールもひっつかみ、ぽいと投げてよこす。
「っぷ、なんだ」
「この国から出してやるっつってんだよ。ローブ返せ、代わりにこれでも着てろ」
「なっそれは本当…うわっちょっと待て!」
 貸していた黒いローブを剥ぎとり、ついでとばかりに元から持っていたぼろ切れのようなローブも剥いで暖炉に投げ込んだ。殺すつもりかと喚くが、制すように紙袋の中身をソファにひっくり返す。白いローブの下は予想していた通り、まともな防寒着はない。薄い衣類をいくつか重ねた程度で、唯一持っていたローブで寒さをしのいでいたのだろう。ため息を吐き、ソファにひっくり返したものから分厚い上着を着せた。マフラーを巻き、腰から下を覆うようにストールを巻き、コートを着せて袖をまくってやる。最後に手袋を渡すと、小さな体で体格に合わない服を身に着けた不格好なものが出来上がった。
「なん…何のつもりだ」
 重い服に慣れていないのか、それほどの筋力がないのか。体格に合わない大柄な服を引きずるように、足元おぼつかなくソファに手を置いている。すべて詰所に置いていたエドウィンの予備の防寒具だ。始めに着ていた白のイメージはさっぱりどこにもなくなり、エドウィンの私物でほぼ黒一色で包まれている。サイズの合わない手袋をはめて手首のベルトで止めると、黒い塊に真っ白な頭だけが乗った不思議な生き物になる。
「さすがに予備の靴も帽子もないが…それだけあれば何とかなるだろう」
「金など」
「ないのは分かってんだよ。礼なら今じゃなくても良いさ」
 先程剥ぎ取った黒いローブの匂いを嗅ぐ。案の定洗濯確定だ。畳んで紙袋に仕舞う。
「……何か裏でもあるのか」
「はっ! 裏しか見てないお前が言うのもな」
 ドア近くにかけてあったカバンを取り、中身をデスクにひっくり返す。代わりのように、先程残したパンを紙に包んで突っ込んだ。
「ああ、タンバリンは貸してみろ」
 言って素直に差し出されたタンバリンを受け取ると、音が鳴らないようにと固定していた紐をすべて外してからカバンにくくり付けた。笛は小さい、カバンの中に仕舞い、そのままリオンに渡した。
「どうせなら派手に鳴らしながら歩け」
 受け取り、エドウィンとカバンを交互に見る。促されるまま、コートの内側で腰に巻くように身に着けた。軽い体重で数回ジャンプすると、しゃんしゃんと軽やかな音が鳴った。ずっと持ってはいたが、久しく聴く軽やかな音。自由に音を鳴らせることの、なんと身軽な事か。
「……なんだ、情でも湧いたのか」
 カバンにくくり付けられたタンバリンを、笑みをこぼしながら手の平で叩く。それにまた笑う。
「お前みたいなガキに情か」
「リオンだと言っているだろう」
 歌に影響された、とは微塵も考えていないあたり、まだ吟遊詩人としての人生は始まっていないものと思っているのだろう。そうだろう、少年の未来はこれから始まっていくのだ。
「見てないうちに、さっさと行っちまえ。名前を上げて、たんまり金持って、それからまた来い。俺のつけは高いんだぜ」
 にいっと口端だけを上げて笑うと、目を見開き、嬉し気に細めた。
「名前も教えない大人がよく言うものだ」
「ああ、言ってなかったか? エドウィンだよ、エドウィン。忘れんなよ」
 リオンの背を押し、詰め所に入った時とは別のドアへ行く。腰に下げた鍵束をじゃらじゃらと漁り、一つを摘まんで鍵穴に差す。
「あんなにだめだと言っていたのに、開ける時は随分あっさりなんだな」
「今はだーれもいねーし、賄賂で未来の俺の懐はあったけーし。開けねえ理由なんざなくなったさ」
 ドアを開けると、冷気が一気に顔を冷やした。思わず目をつぶるが、白いローブを被っていた時よりも随分と暖かい。マフラーを鼻まで覆うように巻き直すと、ドアから一歩出てエドウィンに向いた。白い雪を背景にすると、だぼついた格好が余計に目立つ。上等な服だ、次の街にでも行って売れば当分の衣服や食べるものには困らない筈。ポケットにはいくらか金も入っている。
「ちゃんとお宝拾って来いよ、わんわん」
「犬扱いをするな」
「そうだな、どっちかっつーと鈴付けた猫だ」
「リオンだと言っているだろう。……ありがとう、エドウィン」
「さんを付けろ、クソガキ」
 また、目を細めて笑った。エドウィンを向いたまま、数歩後ろへ歩く。迷うように止まるが、視線だけを最後まで残して歩き出した。雪を踏む足音の代わりに、軽やかなタンバリンの音がなる。小さな歩幅が、ドアから出ていってまっすぐに続いていく。
 この国を出られなかった自分とは違う。どこまでも歩いていく。いつかまた会えた時、そこで何を見たか、何を聴いたか、何が歌えるようになったか。きっと聞かせてくれるだろう。
 タンバリンの音も聞こえないほど離れ、またリオンが振り返る。何を言うでもなく、手を振った。思ったよりも懐かれてしまったか。これなら礼も熨斗つけて何倍にもなって返ってくるはず。と考えたところで、これほど遠くに行くまで見送っていた自分がいたことにも気付く。思わず笑ってしまった。手を振り返すと、また歩き出した。またしばらく眺めていたが、遠くの丘を下って見えなくなるまで振り返る事はなかった。
「水筒も持たしときゃ良かったか……」
 懐かれるのも悪い気はしない。ドアを閉めて、冷え切ってしまった部屋の中暖炉の前に座り込んだ。しばらく日に当たって体を休め、やがて上着を着て荷物を背負う。暖炉の火を消して向かうのは、ルストの街へ通じるドア。
 生きる場所は違うが、同じ場所で生まれたよしみだ。ぼろ切れとなろうが虫となろうが、精々生きるしかない。
 ルストの街へと続くドアを開けると、エドウィンも一歩踏み出した。
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