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最後のキスマーク

 凍りかけの川に架かる橋の上を。住宅街を。近道の裏通りを。息を切らせて走る。誰の目にもとまらぬ速さで、という程ではないが、道行く人のほとんどが振り向く勢いでひた走る。走るのに適した靴ではなかったが、普段から鍛え抜いた脚力と持久力があればそれほど苦ではない。ただ、待ち合わせに遅れる事が気がかりだった。
 今朝は、玄関を開けた瞬間どこかの国の騎士団が勧誘の為と立ち塞がってきた。熱心なスカウトに入団するだのしないだのと必死の断りをしているうちに近所の目を集め始めてしまい、どう言っても引く様子のない騎士団の数名を振りほどく為に、脚力で置いて行ったのは十数分前。途中から追いかけてくる足音も呼び止める声も聞こえなくなったが、友人と待ち合わせをしている時間も気になり、やはり走り続ける事となった。
 待ち合わせているアンは、数年前に結婚式を挙げた友人だった。夫と共に細々と小さな服屋を営んでいる。今日は他の店の服を見に行こうという名目で、ショッピングをする予定だ。彼女はいつも待ち合わせ時間よりも前に到着し、静かに本を読んでいる。きっと随分早くに着いて時間を潰しているのだろう。少しでも待たせる時間を短縮しようと早めに家を出たつもりが、騎士団の勧誘を受けたのは誤算だった。
 ぜーぜーと息を切らす。
 走り抜ける賑やかな通りの中、ショップの中にある時計に一瞬だけ目をやる。やがて待ち合わせの時間。このまま走っていれば間に合う。ほっと胸を撫で下ろすと、近くなってきた待ち合わせの公園へ向け、振り返る目も気にせず走り続けた。



 勢いよく角を曲がり、公園に滑り込む。ばっと見上げる公園の中心に建つ時計台は、待ち合わせの時間丁度を指していた。
「よし!」
 ぶはーーっと肺が潰れるのではないかという程大きく息を吐いた。トレーニングとは違い時間を迫られるランニングは緊張感があり、その分疲労が強い。ぐっと額に伝う汗を手の甲で拭うと、公園で待っているだろうアンを探した。見付けやすいようにと入口近くのベンチを選んだのだろうか。ぼんやりとしている様子だったアンは、イヴを見付けると笑って手を振った。
「おっまたせ、人に引き止められちゃって!」
「ふふ、お疲れ様。また騎士団の方?」
「そう、お嫁さんになる事が夢なので入りませんーって言っても納得してくれなくって」
 言うと、ベンチの隣を空けて促してくれた。
「災難だったね、イヴも騎士団の方も」
「騎士団の人には、私の夢はそんなものーーって見えるのかな、やっぱり」
 促されるまま座ると、アンはまた笑って水筒を取り出した。蓋になっているコップに注ぎ、湯気の立つそれを渡す。
「スポーツドリンク入れて来た方が良かったね、はいココア。恋って、素敵なものなのにね」
「あっありがとっ!」
 両手で包む様に受け取る。保温できる水筒に入っていたココアは、まだ温かい。走ってきて温まった身だが、ルストブルグの風をこれでもかと全身で受けてきた為手や顔は冷え切っていた。しばらく手を温めてから一口すする。とろりと口の中で滑ると、頬を温めてからゆっくりと胃に落ちていった。
「んーーっ美味しい、アンが作るココア濃くて好きだな」
「私もね、ココアは濃い方が好き。今日は甘いものが欲しい気分だったから、とびっきり甘くしちゃった」
 悪戯っぽく笑うアンは、これもね、と言って小さな包みを取り出して開いた。
「甘いの食べくて作ってみたんだ。スコーンどうぞ」
 かさかさと紙を開くと、砕いたクルミの練り込まれたスコーン。
「わっ良いの? ありがとう、頂きますっ!」
 ひょいと一つ摘まむと、倣うようにアンも一つ摘まんで端を齧った。
「うん、美味しい! さっすがアン、毎日食べられる旦那さんは幸せだなあ」
 友人として、とても鼻が高い。お嫁さんになる事が夢だが、先にお嫁さんとなって幸せな結婚生活を送るアンは理想だった。夫はアンの趣味で営まれる服飾の仕事に理解を示し、細々と、しかし来店するたび幸せそうな顔をして出迎えてくれた。アンと店先で話していると、いつも決まってアンの好きなココアを持ってくる。優し気なで穏やかな笑顔が印象的だった。
「今日はお店は閉めてきたの? それとも旦那さんが開けてくれてるの?」
「今日…今日はね、閉めてきちゃった。イヴと思いっきり遊ぼうと思って」
 一瞬、アンの表情が止まった。それに驚いて眉を上げると、頬を上げてアンが笑った。違和感があったのは、その一瞬だけだった。スコーンを二口目齧るアンの顔からは違和感は消え去っていた。
「そっか、それなら今日は思いっきり遊ばなきゃね! この間隣町に新しいお洋服屋さんできてたんだ、見に行こうよ」
「イヴの足じゃないと、この時間から隣町までは無理だよ」
「むう、ならやっぱり中央通りの大きいお店かなあ。あっ新オープンのショコラのお店がその近くにできてたからさ、入ってみようよ」
「ショコラ…ショコラ良いね、行こう」
 にこにこと続く話の中で、また一つ、小さな違和感。ふとした瞬間感じるこの違和感は何だろう。
「……アン?」
「え、なあに?」
 首を傾げて名前を呼ぶ。同じく、ことりと首を傾げて見せるアンの目はぱちりと開いている。いつもと変わらず、綺麗な薄いアイメイクがきらりと光っている。何も言わず見つめていると、疑問を露わに更に首を傾げられた。
 そこでちらりと覗く、首元についた、指先程もない小さな痕が目に入った。
「首、どうしたの?」
「え?」
「赤っぽい…いや、黒っぽいかな、何か痕が付いてるよ。虫刺され?」
「虫刺されって、私森に行ったりなんか……」
 首に触れながら不思議そうに呟くアンが、また、ぴたりと表情を止めた。今度は手も止まる。感じていた違和感は間違いではなかった。
「うん、多分、虫刺されかな」
「アン、ねえ、アン」
「このくらい大丈夫だよ、行こうイヴ?」
「アン、何かあったの? 何か気になる事があるの?」
「そんな事」
「あるよ、ねえアン」
 いつも幸せそうに笑うアン。見守る夫の側で、何の不幸もないような顔をして、満足そうに笑うアン。どうして今日は、そんな。
「イヴ……」
 取り繕おうとするが、笑顔を作ろうとした頬は震えて上手く上がらない。どうやっても眉尻は下がり、震えながら眉間に皺を寄せる。中々怒らないアンが、口をへの字に曲げるのは久しぶりに見た。アンがぼろぼろと涙を流すのは結婚式以来に見た。似た表情の筈なのに、どうしてこうも悲しげに写るのか。
「……私の、旦那さんね……窓から、出て行っちゃった……」
 涙は大粒で、すぐに顎を伝ってぽたり、ぽたりと落ちた。食べかけのスコーンは膝に置かれた。
 思わず、息を止めた。ルストブルグの寒さではないものが、背を冷やした。
「……そう、なんだね……」
 アンの息に、嗚咽が混ざる。涙を拭う左手の薬指にはまる指輪が鈍く光るのが、やけに気になった。
 魔女が恋した男は、虫になる。
 つまり、魔女と子を成した男は虫になるという。その言い伝えに間違いはなく、男が虫になるのはこの国では極自然な事だった。自分の父も、誰かの父も、虫になった。それは人が生まれていつかは死ぬように、当たり前の現象だった。しかし、人が死ぬ事が当然だとしてもその悲しみに慣れる事はない。同じように、男が虫になる事に慣れる事は、きっとないのだろう。窓から出て行ったというアンの夫は、言葉にはされなかったが、きっと。
「私……ッ、わた、し、止められなかっ、た、の、彼が行くの、を、彼が……っ」
 ひくり、としゃくり上げる。
 アンの夫は、とても穏やかな人だった。アンの事を何よりも大切にしていた。アンの大事な友人だからと、アンがいない店の中でも手厚いもてなしをしてくれた。何よりも、彼と交際を始めてからのアンは、ルストブルグには来ない幻の春のような暖かさがあった。アンをこんなにも幸せにしたお嫁さんという姿は、きっとこの世の幸せを形にしたものなのだろう。そう思っていた。
 ぎゅっと、隣で泣くアンの肩を引き寄せた。
「……妊娠、おめでとう……」
「ふっ……うっ……ううう……」
 震える肩を、繰り返し撫でた。泣きじゃくる声は止まらず、落ちる涙も雪に混じってすぐに凍り付く。
 いなくなる数と同時に、生まれる数もある。アンの夫が去ったのならば、アンの身体にはもう一人の命が生まれている。それが、ルストブルグでの命の循環の仕方だ。
「い、イヴ……っねえ」
「……何?」
「お嫁さんになんて、な、っても……悲しいだけ、だよ……っふ、う……」
 顔を上げて、指先で涙を払うアンの目元は既に腫れて赤い。綺麗なアイメイクは崩れた。真摯に訴える瞳は涙の青に濡れていた。
 首を振ると、アンの目は見開かれた。悲しみまで大きくなったように見えた。
「……私はねえ、なるよ、お嫁さんに。アンみたいな、綺麗なお嫁さんに」
「なんで……こんな……死んじゃいそうに、悲しくて、さみ、し……のに……」
 本当は思い切り抱き締めたかったが、痛がる気がして出来なかった。きっと、アンの夫は上手く抱き締めてあげられたのだろう。迷ったが、肩を抱く手に少しだけ力を込めた。
「旦那様と一緒にいる時のアンがね、とっても幸せそうだったから……私もそうなりたいんだ」
「幸せ、なんて! そんなの、一瞬だよ、すぐになくなっちゃって……っ」
「私もね、アンみたいに誰かと幸せになりたいんだ。凄く綺麗で、キラキラして。この世の幸せの全部がそこにあるんだーって思えたんだ」
「そんなの……っ」
「うん、だからね」
 ハンカチを取り出し、アンの頬にあてた。いつも旦那さんの分も合わせて二つ持ってるんだ、と笑ったアンを思い出す。あんなお嫁さんになろうって、ハンカチを二つ持ち歩くようになったっけ、などと思いながら。
「私が死んじゃいそうなくらい悲しい時は、アンがこうして慰めてね」
 笑って見せた。
 この世の幸せを集めたようなアンがこうも悲しく泣く、その悲しさを経験した事などない。それでも、その幸せは何にも代えがたく魅力的に見えた。この世にたった一つの宝物を探し出したアンのようになりたいと、本気で思った。
 アンは頬にあてたハンカチを受け取り、ぐっと強く目元を拭った。そんなに擦っては酷い腫れ方をするだろう。迷ったが、止めなかった。
 しばらくぐすぐすと涙を拭う。
 ルストブルグの外は、あまりに寒い。凍える空気は容赦なく人の身体を冷やし、時には心まで冷やす。
「そっか……」
 小さく、アンが呟いた。涙は相変わらず止まらない。それでも、ぱっと顔を上げた。悲しみとは違う、空の青が瞳に写った気がした。
「アン……」
 少しでも元気が出たら、と。思った瞬間、けたたましい音を立て、アンがイヴのハンカチで思い切り鼻をかんだ。
「あーーっ私のハンカチ!」
「そんなに言うなら! もっと慰めて! じゃないといざって時慰めてあげないんだからね!」
「だからって私のお気に入りをー!」
「どうせ私の真似して二つ持ってるんでしょ! 思いっきり使ってやるーー!」
 半分に折ったハンカチの端でまた鼻をかむと、へらりと笑った。釣られて、笑った。
「仕方ないなあ、私の家で今からお菓子作りだ!」
「えっ服屋さんは」
「それはまた今度! 無性に甘いものが食べたい時は食べるに限るよ! あ、妊婦さんはショコラは我慢だよ」
「そんな!」
「ココアも駄目だよ、カフェイン禁止! 何なら私も付き合うよ、他の甘いもの食べよっ!」
 軽い物言いに、眉を下げて笑った。いつの間にか涙も薄れていた。少し俯くと、アンはするりと腹を撫でた。
「イヴが付き合ってくれるなら、しょうがないね」
「……私がいたらね、百人力だよ。大船に乗ったつもりでさ、任せて」
「ふふ、女友達って良いね」
「今更だよ」
 イヴが笑って言うと、花が咲いたようにアンも笑った。春の風がある。憧れたのはその笑顔だったな、と。

 こうして、数年のアンの新婚生活は幕が下りた。
 まるで夢のような時間だった、と変わらず幸せそうに笑う今のアンは、やはり憧れたお嫁さんの姿のままだった。
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