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酸っぱい夏の大三角

 月のない夜。大きな光のない分、落ちてくるのではないかという程の星が、空に煌々と散らばっている。手元のランプも既に火をもみ消している。岩の上に座ったジンは水筒の酒を煽った。
「……っぷは」
 数口ごくりごくりと喉を鳴らし、息をついて口を離す。岩に座り直し、また水筒に口をつけた。今度は少しずつ、ちびりちびりと舐めるように。夏と言えど、夜風は涼しい。酒を煽った口を拭い息をつくと、舌先に乗ったアルコールが風で気化してジンの舌を冷やした。反対に、喉を通るアルコールは体を温める。水筒のふたを閉め、熱くなっていく胸を手の平で撫でた。虫の声だけが鳴る、静かで涼しい夜。空には降るほどの星。これ以上望むものはないという程揃っている。目元が緩む。いっそ唄の一つでも歌おうかと考え始めた矢先、近くの茂みががさりと鳴った。
「……」
 ざくりざくりと、草を踏み鳴らす音。隠れる様子もない。その方向を黙って眺めていると、一人の男がランプを持って茂みをかき分けた。
「……おっ、先客がいたのかい。悪いな、ちょっと通るだけだ、邪魔するぜ」
 新月とランプの揺れる火で顔は見えづらいが、記憶の扉を叩く声が響く。懐かしさよりも先に、その名前が口をついて出た。
「アーキル、か?」
「ん? 誰だアンタ……もしかしてアンタ、ジンか? ジンだな!?」
 とぼけた声と共にジンの方へ明かりを向けられるが、その男、アーキルも声を上げた。相変わらずの艶やかな服装に、褐色の肌の色、明るい声が、以前に会ったアーキルそのものだった。この岩場のある山道まで大分歩いた筈だが、健脚なのだろう。ジンの顔を見つけずんずんと歩き寄る足に疲れは見られない。
「あの後、別れた後! 恥かいたんだぜ、やあっと見つけた村の小料理屋で梅干しの握り飯ないかって聞いたら、そんなの家で食いなってな。ワダツミに家なんかある恰好にゃ見えないだろうに」
 なー、と同意を求めるよう楽し気に声を上げ、岩場に座るジンの隣に自身の荷物を置いた。会うなり挨拶もなしに高らかに笑う。ついでに断りもなく隣へよじ登る。側を空けるようジンが少し身を避けた。
「随分と懐かしい…いや握り飯は作るのも簡単なものだしな、これは悪い事をした」
 言いながら荷物も避けてやると、どかりと腰を下ろしたアーキルが息を吐いた。自身の水筒を取り出し、ぐっと水を煽る。既知の顔を見つけた嬉しさと旅の疲れもあるのだろう、先程酒を煽ったジンと同じく、喉を潤す。ぶは、と声を上げて口を拭い、からからとふたを閉めて傍らに置いた。
「いいや、結局笑いながら作ってもらったさ。そしたらまたびっくりだよ、あんなに酸っぱいなんて聞いてなかった」
「はっは、あれはそういうものだ。梅干しは漬ける家によっても味や濃さが変わる、俺の思い出ともまた違う味だったんだろうな」
「まあ今となっちゃ、お気に入りの一つさ。たまーにこうして食べたくなる。そら、お一つどうぞ」
 快活に笑い、荷物から包みを取り出した。紐を解いて指先でひょいひょいと包みを開き、出てきた握り飯をジンに向けて寄越す。本当に気に入ってるらしい、偶然再会したその日に持っているとは。
「これは…かたじけない」
 手を合わせ、内の一つを手に取った。温かみは既にない海苔も巻かれていない握り飯だったが、形は様になっている。自分で握るようにでもなったのだろうか。それとも定期的にどこかで手に入れる場所があるのか。
「しっかし、またこんなところで会うとは思ってなかったな。元気そうで何よりだ」
 アーキルも同じように包みから握り飯を取り、一口頬張った。もぐもぐと口を動かしながら、ぎゅっと顔のパーツを中心に寄せる。気に入ったと言いつつ、やはり慣れないのだろう。笑いながらジンも一口頬張ると、予想以上の味に左手で顔を押さえた。
「ずっりいなアンタも酷い顔見せろよ!」
「……どこの梅だこれは」
「試しに漬けてみた」
「お主の梅か」
 もぐついたまま目だけを向けると、アーキルの顔は変わらずぎゅっと潰れたまま。水で流し、残りもぺろりと食べきった。
「さすがに酸っぱいだろ、残せば良いのに。真面目だなあ」
「顔を元に戻してから言ってくれ。お主よりは慣れている、これくらいは平気だ」
 アーキルはゆっくりと食べきり、両頬を手の平で挟んでむにむにと揉んでいる。梅は見ただけで味を思い出して唾液が出るとも言うが、慣れていない国の者なら、好んで食べていてもその酸っぱさには慣れにくいのだろう。
 ぺしりと叩いて表情を戻すと、水を一口含む。
「ふあー、梅干しってもんは奥が深い……」
「何もワダツミ食はそれだけじゃない、色々試してみると良い」
「どこの国に行っても、新しいものを口に入れるのは楽しみの一つだね」
 からりした晴れ模様の笑顔に釣られて笑い、同じく水筒を空けて酒を煽った。ぐっと飲み下し、熱くなった息を吐き出す。
「ふう…んで、妹にはもう会えたのか」
 ぴたりと、手を止めた。アーキルを見ると、何でもない事のように目尻を丸くしてジンを見つめている。一瞬だけ緊張した肩の力を抜くと、座る岩にまで視線を落とした。
「……いいや、まだ」
 声はそこまで震えはしなかった。が、緊張を悟られてしまったのか。アーキルはあっけらかんと手を振った。
「そうか、まあそう簡単にどうにかなる事でもないよな。よし、ジン、今夜は用事は?」
「何も。急ぎの用事もない」
「やりい! ならちょっと飲もうぜ、今日は良い酒も良い星も良い再会もある、言う事なしだ」
「…ふ、そうだな。ついでに、良い肴もある」
「良いねえ、楽しい夜になりそうだ」
 白い歯を見せて笑う。なかなか怒る様子や責める様子を見せない男だからだろう、自分自身で良しとしていない事も、世間話のようにさらりと流しながらも彼なりの言葉がある。笑って、荷物から新たな酒を取り出した。



「はっは、あの国じゃそうだろう、頭が固いんだよ」
「ああ、全くだ。事前に聞いてはいたが、あれほどとは思わなかった」
 酔いも回り始め、水筒二つ三つ程転がしてさらに酒を煽った。笑う声が静かな夜を賑やかにする。始め聞こえていたはずの虫の音も、静けさよりも笑い声に混じっていた。
「アンタも酒いける口だったのか、随分飲めるな」
「ああ、いつもは一人で星を眺めて飲んでいるがな」
 また酒を煽り、ジンが用意した柔らかい干し肉を口に放り込んだ。
「俺が来た時からそういえば飲んでたな。しっかし、今日は星がいつもよりも綺麗に見える。新月は夜道を歩くには向かないが、こうしてのんびり過ごすには向くもんだな」
「ああ……ふふ、なあアーキル、星座を知っているか」
「星座? なんだいそりゃ。方角の目印じゃなくてか?」
 素っ頓狂な声を上げるが、釣られてまた笑った。酒の力は凄いものだ。普段は大人しく静かにしている口が、楽しくなればいくらでも回るようだ。視線を上げて空を眺めると、アーキルも釣られて空を見上げた。
「確かに旅には方角を知る良い目印にはなる。ワダツミには星座というものがあってな。星を一つ一つ点としてみるんだ。その点と点を繋げて、一つの絵のように見る」
「へえ、空に絵が浮かんでるって事かい。そりゃ、ただの旅の目印よりよっぽど良い」
「そうだろう」
 柔らかく笑って言うとアーキルの側に寄り、目線を合わせさせるように空を指差した。アーキルも寄り、その先を見る。
「あそこに三つ、ひときわ光る星があるだろう。一つが白鳥、一つが鷲、一つが楽器の琴。あれが夏の大三角なんて呼ばれている」
「夏の、か。季節がはっきりと分かれてるワダツミらしい」
「ちょうどあのあたり、この季節には天の川が見えるだろう。はっきり見える星とは違う、細かい砂のような」
「んん……ああ、あれを天の川なんて呼ぶのか。言われてみれば川のせせらぎにも見えないこともない……か? 多分な」
 首を傾げて曖昧な返事をするアーキルにまた笑った。素直さというのか正直さというのか。
「……いつもは一人で星を眺めているが、こうしてたまに見ている星の名前を口にすると、幾分印象が変わるように思える」
「見知らぬ犬の名前を知ったくらいの気分さ。すぐ忘れちまいそうだ」
「文字通り星の数ほどある、好きでなければ気にもしないだろう」
「あいにく、故郷に似たものなら地面にいっくらでも落ちてるんでね。あの砂も空に撒けば少しは目の保養にならんもんかね」
「ふ、砂漠の国では、空を見たら太陽に目がやられてしまうな」
「その通りだ」
 眉を下げてジンが笑い、酒を煽る。釣られてアーキルも酒を舐め、干し肉をまた口に放り込んだ。
「昔からあの星達には名前がついていて、それが今を生きる人間にも伝わっている。同じものを見れる手がかりというべきか、共有できるものなのだろうな。俺は、あの星を眺めるのが好きだ」
「昔から、ねえ…俺には…なんだろうなあ、何にみえるかなあ。少なくとも、鳩だっけ? 蝶だっけ? それには見えないね」
「教えたのがぐちゃぐちゃだぞ」
 ふふっと笑ってまた星を指差しながら教えるが、相変わらず首を傾げて曖昧な返事をしていた。
 ワダツミで生きてきたジンにとってはなんてことない一つの知識だったが、外の国のアーキルにとってはどうやって絵になるのか想像もつかないのだろう。それもそうだ。あれだけ無尽蔵にある星をどうつなげるか、知識がなければ想像もしづらいだろう。
 見る人によって、星はきっと見方が変わる。その存在を気にするかどうかすらも違う。ただそこにあると思っていたものが、実は明確に形を成して人から名前を貰ったものだったりする。それはきっと自分が見てきたものとは違うし、その名前のもの、白鳥や鷲に見えない事だってある。
 アーキルは、何となしにふーんと鼻を鳴らした。
「な、これって、ワダツミの掟に似てるな」
「掟……? 何、どういうことだ?」
「誰だって自由に見られる星なのに、アンタの中ではもう線と点でつながって絵になってる。それを良しとしているんだろう。掟というより文化なんだろうが、なんか、似てるなってさ。おっと悪い気にさせるつもりはないぜ」
 肩を上げておどけるように言うが、ふむ、と腕を組んで首を傾げた。星座がワダツミの掟と似ているとは、思った事もなかった。
「星座が掟に、か……」
「俺が……俺達が、か? 見た、あの胸糞悪い掟なんてものが頭に根付いちまってるが、あれだってきっと、元からねじ曲がった思想じゃなかったはずだ。多分、いや知らないけどさ」
「可能性はあるが……」
 俺達が見た掟、と胸がざわつくのを感じる。かつて滅びた村があった。村の掟に縛られ、命よりも尊ぶべきものとして滅びていった。懐に仕舞う苦無の重さを思い出す。ああやって掟に縛られ身動きの取れなくなった者達を、もう何度も見た。
「要は、様式美、ってやつだろう。一つの形をとる事で美しさを見出すってあれ。ワダツミの者はみーんな言葉が足りねえんだ、なんでそれが大事か、どうして大事にしているか、ちゃーんと言葉にしないもんだから、掟だなんて一言で済ませちまう事もあるんだろうよ」
 頷いて、酒を舐めた。
「上手く言えないものを掟だ掟だと押し付けてりゃ、そりゃ同じワダツミの者同士でもいさかいが起きる。それに、上手く伝わらなけりゃただの執着になる。あの時の村が悪い例、この星座が良い例とでも思えば良いんじゃないの」
「成程な」
 納得した。言葉の言い回しが丁寧であれば、こうも分かりやすくすんなりと受け入れられるものなのか。昔から伝わる掟であったり、伝統であったり、文化であったり。伝わっている意図や良さが分かるものには、すんなりと共感することができた。逆を言えば、理由も分からず押し付けられたものには、何も感じない。掟という縛りのように感じ、身動きができない気さえしていた。
「アンタは自由を好いているようだが、それだって押し付けられちゃ何の価値もない。そうだろ」
「いつだって自由なお主が言うのもおかしな話だ」
 笑うが、今度は、アーキルは笑わなかった。
「掟から妹を救う、ああ、良いと思うぜ。固まった脳みそのコリをほぐしてやるのも良い。だが、アンタもやっぱりワダツミの人間だ。自由を望みすぎて、それに縛られて、人に押し付けるようになるのは見たくないぜ、俺は」
「……そう、見えているのか」
「いいや? ただ、見たくないなって思っただけさ」
 一瞬だけ真剣に光った目が、また楽し気に笑った。酒を一口煽り、肉を食う。
「良いもの悪いものを判断するのは大事だ、だが大事な妹なんだろう、その胸の中にあるものまでひっくるめて、大事にしてやれば良い。案外、こうやってただだらだら話すだけなんてのも、あの凝り固まった脳みそにはいいんじゃねえの」
 言いながら、止まっているジンの酒の手をつつき酔いを促す。また酒を煽ると、一口飲んで中身が空になった。水筒をその辺に転がし、また別の水筒を取り出し酒を煽る。
「っぷは……ヨミとも、またこうやって話せると思うか」
「さあね、それはアンタ次第なんじゃねえの。でもまあ、兄妹で仲良く酒でも飲めるようになったら、俺も是非とも混ぜて欲しいねえ」
 にししと笑う。自分の中でこうも重たく圧し掛かっていた筈の事を、砂漠の民は、アーキルは、こうもたやすく言葉にして空気のように軽くしてみせる。きっと彼にしかできない芸当なのではないか。
「ヨミと酒、か……その時にはまた、あの握り飯を握ってきてくれ、どんな顔をするのか見てみたい」
「はっは! 俺も見てみてえな! あー、楽しくなってきた。俺も俺の星座作ってみよっかなー。とりあえず、夏の大三角? あれは梅干しの握り飯な」
「ははは! 握り飯一つだけでは足りぬだろう、もっと三角を探すぞ」
 二人して空を見上げ、あーでもないこーでもないと指を差して。
 静かに星を見ていた夜が、賑やかになった。あの星座にも、酔った勢いで妙な名前を付けてしまった。自由が何なのか、掟が何なのか、理解しきれていない部分もあるのかも知れないが、それさえも話し合って理解していけたら良い。
「あっ流れ星! 見たか?」
「何!? 見ていなかった、よし、もう一度流れるまで待つぞ」
「ははっ頑固だなー」
 からりと笑う。きっと根っからの自由人は、いつまでも悩んでいる自分よりも視界が開けているのだろう。それ故なんでも見つけてしまえるのだ。いつか同じものを見られるようになった時には、きっと自分の中での価値観か何か、変わっているかも知れない。
「次はきっとあの辺で流れるぞ、見てろよ」
「お主が言うと本当に流れそうだ」
 笑った。なんと楽しい夜なのか。
 次にヨミに会った時にでも教えてやりたい。砂漠の民が付けた、夏の大三角の名前を。くだらないと笑う顔が、きっと見られるはずだ。
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