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お疲れ様

 ルストブルグの上空。きらりと光った空に、メルヴィは「おっ?」と声を上げた。共に地上で空を見上げていた魔女の誰も気付きはしなかったが、何か、この体を包んでいた空気の層が一つ、剥がれたような感覚があった。
「リズベット、やったのか……?」
 二百年以上この体を包み込んでいた空気が消えた。この国を満たしていたアスモデウスの呪いが消えたのだろう。ただ一人その変化に気付いたメルヴィは、静かに周囲を見渡してからゆっくりと息を吐いた。心なしか、それから吸い込んだ空気が暖かく感じた。

 メルヴィはかつて、ただ一人で雲の上へ至った事があった。誰とも寄り添う事なく、かつての女帝に教わった魔術や体術を駆使し、ただ一人雲の上へ。呪いに蝕まれたこの国を、ヘルコヴァーラの裏切りに絶望した親友のビーナスを、たった一人でも聖石を掴むことができたなら何とかする事が出来たのでは。そう願ったのだ。しかし、雲の上にある筈の聖石を見付る事はできなかった。何も光るものはなく、この国を覆う雲がのっぺりと広がっているだけ。自分にはできない事なのかと、聖石を求める手を遂には下ろした。

 きっと全ての人が求めた時、アスモデウスは姿を現わすのだろう。そうリズベットに告げたが、本当にそうだったのならば。たった数年を生きただけの少女が、あの堅物、この国を誰よりも愛し譲るこのなかったビーナスをも納得させその思いを背負ったのならば。親友である自分にもできなかった事をあの少女が本当にできたのならば。ああ、この国は本当に変わってしまうのだな、とメルヴィは細めた目を伏せて手袋に涙を吸わせた。
 アスモデウスがビーナスにとってへその緒と言うならば、例えるならばメルヴィにとってゆりかごのようだった。外敵から静かにこの身を守り、優しく包んでくれる。いつまで続くのかも分からない時間、長い事この国の空に揺られただ守られる。
 この国が異性を愛する事を恐れて男尊女卑の空気になる前。二百年も昔になると記憶も遥か彼方にあったが、先程空が光ってようやく思い出した。母の腕の中で守られている安心感は、永遠ではない。これからは、女性達を守っていたゆりかごがなくなるのだ。
「……ああ、だから男女が助け合うんだったねえ、懐かしいもんだ」
「隊長?」
「いいや、何でもないさ」
 笑うと、部下の防空魔道士はまるで変人を見るような目でメルヴィを見た後また上空へ目を移した。この若い魔導士には、つい先程までは残り百年を超える寿命が約束されていた。それをなくしたのはリズベットだ。アスモデウスの呪いを消した事で幸せになる者と不幸せになるものがいるだろう事は、きっと多くの魔女に言われ百も承知だろう。多くの女性の未来を奪い、代わりに皆に多くの幸せや希望をもたらす。恨みもあれば感謝も多くあるだろう。彼女はこの国を変える力を持っており、彼らの恨みや感謝を受け止める覚悟も持っている。この目でこの手で確認し、信じてビーナスの元へ送り出したのだ。彼女ならば大丈夫。それだけは疑いようもない。
 ただ一つ心残りがあるとすれば、ビーナス。辛い過去を共にし、その苦悩や母への愛の葛藤をこの目にしてきた。愛する母を処刑され、災いの子、罪の子と自らも追いかけ回され、果ては信じていた親友に命を狙われ絶望する。メルヴィにはかける言葉が見つからず、縋る思いでビーナスすらも置いてたった一人雲の上へ至った。あの時何としてもビーナスを説得し共に上空へ上がっていたなら、この国は何か変わっていたのだろうか。あの三人の少女のように手を取り合って、この国の未来をただ信じてアスモデウスに手を伸ばしていたならば。
 そこまで考え、首を振った。できなかった事に思今更いを巡らせても、つい先程アスモデウスの呪いが自分以外の手で解かれた事に違いはないのだ。
「たっ隊長! あれを」
 部下の防空魔道士に言われはっと顔を上げると、空から何かが降ってくるのが見えた。一瞬だけ目を疑ったが、見間違えるはずもない。
「ビーナス!」
 厚い雲を突き破って落ちてくるのは、とてもよく見知った顔。力なく項垂れ目を閉じているビーナスと、その体を抱え落下に抗おうとするレベッカだった。恐らく途中まではブレーキをかけていたのだろうが、未熟な魔女が三人、雲の上を目指すだけでガス欠になっている筈。最後はビーナスを抱え、残った絞りかすのような魔力で落下の速度を必死になって緩めている。
 メルヴィは親友の名を叫んだ。隣にいた部下が驚くが、構っている暇はなかった。全身がざわつき、キャラメルイェーガーを飲んだかのように血が沸騰する。
「誰か! 陛下を助けて! 誰か!」
 団子になって落下するレベッカがなりふり構わず助けを求める声が届く。メルヴィの足は誰より早く動き、熟練した動きでブルームエースに飛び乗った。有り余る魔力の全てをその瞬発力にかけ、ごうっと音をたてて地面に積もっていた雪を巻き上げ空を駆る。まるで竜が飛ぶように力強く。
 ビーナスとレベッカが地面に叩き付けられる直前。風が木の葉をさらうように、寸での所でメルヴィが二人を抱き留めた。
「きゃあっ!? ……メ、メルヴィさん……ッ!?」
「……ありがとう……ビーナスを助けてくれたんだな」
「そんな、私は! あなたが来なければ……!」
「いいんだ。ビーナスを助けてくれてありがとう」
 二人分の落下を受け止めた腕が力強くレベッカの肩を抱き締めた。同じくメルヴィに力いっぱい抱き締められたのだろう、ビーナスも目を覚まし、魔力が尽きて動かぬ体を僅かに捩った。
「ビーナス」
 メルヴィに呼ばれてはっと目を開けたビーナスの顔には驚きがあったが、メルヴィが乗るブルームエースは地上近くの空を悠々と飛んでいる。リズベットに聖石を託し落ちた事を思い出すと、また目を閉じた。
「陛下……」
「何も言うな。リズベットがどうしたか、それを見届けてから。全てはそれからであろう」
 レベッカに助けられた事も、恐らく察してはいるのだろう。レベッカに抱かかえられたままメルヴィに丸ごと抱えられている。それを抵抗する事もなく、甘んじて受けていた。
「レベッカ、少しは休めたか」
「あ……え、ええ、大丈夫、もう一人で飛べますわ」
 メルヴィが言うと、頷いた。事実、ビーナスを抱えず一人で地上へ降りるくらいの魔力はなんとか残っている。自らのブルームエースに足を付けると、抱えていたビーナスをメルヴィの腕に残し、レベッカはそっと離れた。
「リズは、陛下に託された思いも持って雲の上へ……きっと、きっと大丈夫ですわ」
「ああ、私もそう思う」
 自信がある。そんな顔で言うレベッカに、思わず笑った。きっと誰もがそう思っている。
 地上へ一足先に降りて行くレベッカを見送った。抱えられるがままのビーナスはただ黙って、どこへともなく視線を落としていた。
「……久しぶりだなあ、ビーナス」
「……」
「なんだよ、二百年ぶりに会うのにつれない奴……っとと?」
「少し、黙っておれ。地上に降りず、そのまま飛べ」
 白いローブの隙間から伸びた手がメルヴィの首に回された。ビーナスに抱きしめ返されたかと思えば、胸に閉じた目を押し付けられる。ああ、と察し軽い手つきで背を叩いてやると、黙って鼻を啜る音が鳴った。
「……はは、相変わらず人使いが荒い。はいよ、気が済むまで泣きな」
「……」
「いいさ、詳しくは後で小娘達から聞くから」
 抱きしめるビーナスの体からは魔力の気配はない。恐らく上空でリズたちとの戦闘に使い切ったのだろう。二百年、誰にも頼らず、どうするべきかとこの国の事を考え続けていた。頭でっかちが、そこまで体を動かしたのは恐らく何十年ぶりだろう。良い運動になって頭の切り替えもできる。
 人に支えられながら落ち、魔力も使い切って一人では飛ぶ事もままならない。そこに女王の威厳はなく、ただの一人の弱い女性。ああ、懐かしい。女王でないビーナスとまたこうして会えるとは。
「こんな空の上じゃ誰も見てないから。だから、今はお疲れ様」
 何も言わないビーナスが、メルヴィを掴む腕に力を込めたのが分かった。
 そのうち同じように落ちてくるかもしれないリズベットは、恐らくレベッカが対処を考えるだろう。だから、暫くはそのまま飛んでいたかった。この国に吹く風がつい先ほどから暖かみを帯びている。もうしばらくすれば、ビーナスもそれに気付くだろうから。
 少しだけ悔しかった。自分には託される事のなかった、ビーナスの思い。
 それでも腕にある重みは今は自分を頼っている。今はそれだけで十分だった。応えるように抱き締める手に更に力を込めると、小さな声で馬鹿力め、とビーナスが呟いた。
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