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鬼子は今は笑えない

「この鬼子はいつか村を滅ぼすに違いない」
「燃えるような髪と太陽のような瞳…ああ、恐ろしい。何が見えているのかわかりゃしない」
「あの杖を扱えるなど呪われているに違いない。災いが起こる前に、あの鬼子を追放するべきだ」
「きっと父親が死んだのもその鬼子のせいだ」
 様々な意見が、頭の上を飛び交っていた。いや、飛び交っていたわけではない。自分を挟んだ向こう側、村人たちが弓なりに言葉の矢を放つのは、年に似つかわしくない白髪混じりの老けた母だった。有象無象の雑言を受ける母は、ただ黙って、子を連れて出て行けという意のこもった矢を受け、背中を丸めて黙っている。
 燃えるような髪、とはよく言ったものだ。ああ、確かに燃え上がっている。肩から背にかけて、怒りと共に体まで熱く燃え上がるようだ。それをまさに指しているとするならば、村人の目に狂いはない。だが、母は背を丸めたまま何度も頭を下げた。
「申し訳ありません、この子は我が家の力をそのまま受け継ぎし嫡男…このように力が度を越してはいますが、きっとありがたきご先祖から受け継いだ血が濃いためと思うております。ですから、どうか、どうかご容赦を……」
「ならん、その力は目に余る。それにその小僧の瞳を見よ、内に宿る鬼がその瞳に見えよう。きっと現世のもの以外も見えているはず、妖の類ではないのか」
「いいえ、いいえ、違います。我らのご先祖もそうであったと伝え聞いております、この子の髪も瞳も、強大な力と共に我が一族の血を正しく受け継いでいるという証です、何も悪い事など致してはおりません、どうか……」
 畳に手を付き、額を擦り付け、何度も何度も。
「……」
 母に倣い畳に手を付けようとすると、気弱な母がぎらりと睨み付けた。普段から耳にタコができるほど唱えている『誇り高い一族の血を引く者、いつでも背を正していなさい』という言葉は、このような時にまで曲げさせまいとするのか。握った拳を膝に置き、黙って背を正したまま目を閉じた。
 この瞳が、髪が、恐れを成す対象ならば。こうして目を閉じて己の瞼が焼かれないという道理もない。災いなど起こした事はない。もちろん、この村に敵意を持っている訳でもない。この瞳を見る事も出来ない者達が、こぞって恐れを成して自らの生きる場所を守ろうと異端を追い払おうとする。つついただけで小さな鎌を振り上げ威嚇するかまきりのようだ。力なき者は、持っている全てを用いて身を守る。当たり前の事だ。
「……。よい、母上、もう行こう」
 その背に手を置くと、はっとして顔を上げ振り返った。
「ザンゲツ、あなた……」
「伊弉冉と伊弉諾を扱える一族の血を守る為なれば、この場所に留まっている必要もない。父上も亡くなられた今、我のこの身、それに杖以外に、必要とするものはない筈。……母上。もうよいのだ」
「……ああ……」
 眉をしかめたその顔は、今にも泣きだしてしまいそうな心を押さえている為だと分かっている。亡き父と生きたこの地を大切に思っているのだろう。生まれた瞬間村人に遠巻きに見られていた自分とは違う。正しくこの村に根付いていた父と母は、まさしくこの村の住人だった。
「厄介者は我だけの筈、母上はこの村に」
「……いいえ、あなただけを厄介者になどできはしません。そうしない為に私は……」
 目尻をきつくする母の顔に、水が叩きつけられた。瞬間惚けて前を見ると、立て続けに頭から水を被せられる。
「……」
「そこの鬼子を産んだ母もまた忌むべくもの。分からないのか」
「あ……私、は」
 奥から来る村人が、また桶を重たげに持ってくるのが目に入る。今にも泣きそうな表情のまま固まる母をかばうように抱くと、代わりに頭から冷たい水を被った。
「少しは頭が冷えたか」
「……」
 髪から、着物から、水が滴り畳にぽたりぽたりと落ちる。
 頭が冷えると思いそうしたのならば逆効果だと、その身をもって教えてやりたい。今すぐに伊弉冉と伊弉諾を振るい、村人達全員を、鬼子と恐れるその力をもって葬り去ってしまいたい。だが、母はそれを望むまい。
「母上、行こう」
「……っ」
 肩を抱き、固まる母を立たせた。細い足を数歩ふらつかせ、ザンゲツに掴まり黙って戸へ向かう。母の顔を伝う滴が、先程被せられた水なのか涙なのか、見分けがつかない。戸を開け、村人を振り返ることなく歩いた。
「ごめんなさい……ごめんなさい、ザンゲツ……」
 静かに、掴まった腕に顔を寄せる。震える声に力はなかった。濡れた着物に新たに染みる熱は、きっと涙だ。立ち止まり、母の細い肩を真正面から抱き締めた。
「ザンゲツ……ごめ……ごめんなさい……私は……私は、何も……っ、ふっう……」
「何も悪い事などしてはいない、我らはまっとうに生きている。そのように生きろと説いた母上の教えは間違ってなどいない」
「うっ……あっ……ああ……」
 ぼろぼろと泣きながら胸に縋りついてきた。肩に、頭に沿えた手に更に力をこめる。
 いつからだったか、この背は母を越した。母に頼っていた事も、今では母を助ける程になっている。たくましく力を付けたこの身できっと母を、家族を守ろうと心に決めていたのだが。まさにこの身が、母の居場所さえも奪う原因となってしまった。目線よりも下で泣きながら震える弱弱しい母に、小さな声で詫びた。

「あなたの顔はとても凛々しい。けれども、いつか笑ってほしいとも思うているのですよ」
 そう言い、遠く知らない村の外れ、空き家で床に就く母は綺麗な顔で笑った。
「あなたは災いを振りまく人間ではない。ずっと見てきた私が言うのですから、本当です。あなたの一睨みは獣を殺すかもしれません。ですが、あなたの笑顔は心に風を呼びます。あなたの高らかな声は、太陽に照らされるのと変わりません。あなたはワダツミの人間。あなたは、この落ち込んだワダツミを救う事の出来る人間です」
「母上をこんなところへ追いやったこの国を、救えと……?」
「この国は病んでいる。誰が見てもそれは明白。信じる心をなくし、悪い事の原因を作り上げ取り除こうと躍起になる。人々の心は疲れている。あなたなら、その心をまとめて正しく導く事が出来るはず。あなたは強い人だから」
「病んでいる人間にしか会うた事がないのだ、そのような覇業を成すなど」
「できる。あなたにはその力がある」
 布団から薄ら白い手が伸ばされる。手を取り両手で包む様に握ると、その指先に口を付けた。
「力のある者にしかできない事がある。そしてあなたには心がある。太陽のような心を持ってすれば、力を持って成し遂げたその先に、ついてきた人々はきっと目指しているものを理解してくれるはずです」
「……我が、学の足らない餓鬼だと分かっているだろう」
「それは、理解してくれる誰かがあなたの助けとなってくれる。言葉など、後からついてくるものですよ。私は愛しています、あなたのその真面目な心を。優しい心を」
 相も変わらず、綺麗に笑う。まるで幸せだけが満ちていた人生であったかのように、顔のしわを深くして綺麗に笑う。
 何を見て笑えというのか。この顔は、もう世界の歪みを見つめ過ぎて動かなくなっている。覇業を成せば、正しく人々を導けると言うが、この心さえももう既に歪みきっているのではないかと錯覚する。母以外誰にも開けない心、動かない表情、背が高くなるにつれ増す力。今ならば分かる気がする。力を増し続ける獣を村から追い出したかった者達の気持ちが。何が育っているのか、自分でも何も信用できない。この力が、伊弉冉と伊弉諾を扱う一族の血を守る事が、本当に正しかったのか。
 母の手を握る。母に握り返す力はもうなかった。

 顔を冷たい水で洗い、目を覚ます。涼しい朝に、伊弉冉と伊弉諾を背に背負い山道を通る。一人旅など慣れたものだ。一見すると目を引く頭と目を笠で隠し、人気のない場所で鍛錬をし、山や川でとれる食材を調理して腹を満たす。最近は、同じ食料ばかりに飽きて調理法や味付けを変える等、食への楽しみもでき始めた。
「……うむ、今朝作った兎の香草焼きは美味だった。また兎が手に入れば作るのも……いや、次は煮て汁にでもしてみるべきか。ううむ」
 たくましくなった足では、草の生い茂る獣道も苦なく歩くことが出来る。ふと。母にも美味いものを食べさせてやりたかったと思う心が芽生えるが、足を止める程でもない。
 やがて日も頭の真上を通り始める。どこか木陰で体を休めるべきかと首を振って辺りを見回すと、こんな山道、視界の端に入るかどうかの場所に建つ小さな祠に気が付いた。木々の隙間に隠れるような、腰の高さほどもない低い屋根の下で、朽ち果てるのではないかという祠。覗き込むと、雨風で風化しかけている。おやおや、と。その辺に咲く適当な花を一本手折り、祠の中に放り込んだ。
「これは…どこぞの神が朽ちようとする瞬間に立ち会えるとは。どれ、酒はないがここで一つ、憩いの時間を取らせてくれよ」
 言って荷物を下ろした。供えられた汚れたお猪口を水筒の水で洗って水を注ぎ、竹の葉で包んだ握り飯と今朝焼いた兎の肉を並べる。被っていた笠を取り、いただきますと手をあわせた。
「その神様が菜食主義だったらどうするんだい、お侍さん。いい匂いがする」
 古びた祠の後ろ、木の陰になっているところから、一人の男が顔を出した。人の気配などなかった筈だがと身構えるが、眠たげな目と葉と涎の跡を頬に付けたままの顔に、今そこで起きたばかりなのだとわかる。
「知ったことか、我が食うついでに手をあわせただけの事」
「と言いつつ、ちゃんと花まで供えて。真面目なんですねえ」
 涎を拭きつつ、頬の葉の跡を撫でて困った顔をする。無視して握り飯と兎肉の包みを開くと、男はふわあっと声を上げて傍へ寄ってきた。
「凄い、まさか自分で作ったんですかい、これ」
「ええい寄るな、これくらい旅のうちにできるような事だ」
「まさか! 旅人の食事なんて粗末なものですよ、旅人相手に商人をしている私が言うんです、間違いない」
「何、そなたは商人であったのか」
「はい、しかしお侍さんは手持ちに不足しているものはなさそうですね。じゃなきゃそんなご馳走作れやしない」
 言いながらザンゲツの隣に座り、同じように竹の葉で包まれた昼飯を荷物から取り出す。握り飯にかぶりつきながら見ていると、包みを開いて出てきたのはあまりに不格好な握り飯。眉をしかめてみせるが、男は気にしない様子でかぶりつこうとする。
「待て待て、まさかそれで食うつもりではあるまいな」
「あるまいも何も、これが私の昼飯ですよ」
 きょとんとした顔で答えられると、返事のしようもない。男の握り飯を取ると、葉で包み直した上から手の平で包み形を整えていった。
「ええい貸してみよ、形を整えればまだ食欲も湧くだろう。おいまさか具はないのか」
「具などあれば売り物にしますよって。あっ凄いちゃーんと三角になりよる」
「呆れた。構わん、こんな場所で飯時を共にするのも何かの縁だ、この肉も箸でつつけ」
「お侍さん太っ腹だなあ! ありがてえ、久々の肉だ」
 ぱんっと手をあわせ、三角に整えられた握り飯を受け取ってかぶりつく。箸も取り出して兎肉をつつくと、幸せそうに顔をほころばせた。
「うっめえ! 自分で作ってるたあ言え、毎日こんなもん食ってるんですかい」
「まさか。肉が手に入らねば、山菜を食む生活だ」
「それも調理のしようによっちゃ美味いもんだろうなあ」
 美味い美味いと声を上げてさも幸せそうに昼飯を食す姿は、人目を避けて一人旅をする身には中々こそばゆい。同じ兎肉を口に放り込み、もぐもぐと噛んで眉を寄せ飲み下す。具の入った握り飯を一口かじり、数度噛んで水と共にまた飲み下す。じっと見つめる男は、不満げに兎肉をつついた。
「こんな美味しいもの食べて、なんて仏頂面してんですかいお侍さん」
「……そなたのように、笑える面の作りをしていないのでな」
「何言ってんです、笑顔なんて親が教えてくれなくても勝手になるもんだ。まあそんだけ整った顔してりゃあ、きっときったねえしわとえくぼできて面白い顔になりそうなもんだが」
「ふん、知った口を」
「あっ今笑いました?」
「そんな筈なかろう」
 楽し気に笑う男に思わず目元が緩む。こうして人と共に食事を摂るのもどれくらいぶりか。始めに村を出てから、恐らく十年近くは経っている筈。未練も何もありはしないが、あの頃は母と父とで食事を共にした。日々の鍛錬の中で厳しく当たられる事も多くあったが、あの時間も、もう戻らない。たまに振り返り、懐かしむ事しかできない。
「燃える髪と太陽のような瞳を持つ鬼子だと聞いていたから、どんな人間かと思っていたら。呪いを振りまくような子供じゃなく、ただの不器用な大人じゃないか」
「……そなた」
「やめてくださいよ、その辺の村で伝え聞いた話です」
 目を細め伊弉冉に手をかけると、男はおどけて首を振った。変わらず飯を食い続ける様に、警戒する様子は見えない。
「鬼子と噂に聞いた風貌と全く同じ男が、こんなふっるい祠に手合わせるなんて。商人やってるとまずい気配の持ち主はなんとなくわかっちまうが、お侍さんからはそんなもの感じなかった。私にとっちゃそれが全てさ」
「……」
 伊弉冉に触れていた手を下ろし、黙ってまた握り飯にかぶりついた。
「多分ですが、私からもまずい気配、なんてもんは感じなかったでしょ。途中からでも笠をかぶろうとはしなかった」
「……祠の前だからだ」
「はは、律儀な人だ」
 笑い、また兎肉を口に放り込んだ。

 日は西に傾き始め、肌を差していた日差しも和らぎ始める。腹を満たした男は、息を吐いて大げさに腹をさすった。
「はあ、本当に、久々にこんな美味い飯を食ったよ。おっかさんが生きてた頃以来だなあ」
「そなた、嫁はおらんのか」
「絶賛嫁探し中です、まあこんな放浪男に嫁に来てくれる良い娘がいるかはわかりませんがね。おっかさんは早くに病でおっ死んじまったし」
「ああ、同じだ」
 男は米粒一つ残っていない握り飯の包み葉を草むらにぽいと放り投げ、水筒の水を煽る。腹ごなしをするか否か迷いながら座ったまま伸びをすると、男も釣られて伸びをした。ああー、と間の抜けた声を上げて、ぱたりと手を下ろす。
「……なあ、お侍さん、飯の時間も終わった事だし、聞いても良いんですよ」
「……察しが良くて助かる。我は、どことあてもなく旅をしているが……もしやと思うたが、そなたが鬼子の話を聞いたというのは……」
「なんと。あてもなく旅をしていて自分の故郷に帰るなんて事あるもんなんですね。ああ、考えている通り。先の村で、何年前かに鬼子が出て行ったという話を聞いた」
「そうか」
 大きくため息を吐いた。あの村を目指そうなどと思った事はない。十年以上だ。十年以上もあてなく旅を続けて、まさか再び辿り着く事になろうとは。
「言っておきますが、あの村に行くのはよした方が良い。ここ数年自前の畑でまともに野菜が育たず、雨も少ない、やがて枯れる村だ。ちょっとでも刺激すれば爆発する」
「ああ、厄介事を起こすつもりなどない、元より近づく気はなかった。引き返そう」
「それなら道すがらまたお侍さんの飯食わせてくださいよ」
「抜け目のない男よ」
「情報あげたんですからそれくらい良いじゃないですか」
 思わず、口元がほころびかけた。人と飯時を共にした時間は、思いのほか楽しいものだった。どれくらいになるかは分からないが、かの村から離れ違う村へ向かうまでの間それが続くというなら楽しみが増える。腕によりをかけて作ろうという気も増してくる。ああ、料理とはそういうものだったか。
「よし、承った。それならば道すがら山菜を採って……」
 言って男を振り返ると、胸から矢羽が飛び出していた。
「……あ?」
 男は、何が起こったのか分からないとでも言うように。胸に生えた矢を見て、触れて、まぎれもなくその胸に突き刺さっているものだと知って。声を上げてがたがたと体を震わせた。
「あ、あ、がっ……」
「射ったのは誰だ! どこにいる!」
 膝から崩れ落ちる男を即座に支え、声を上げた。心を少しでも許したと思った相手に、なぜ、こうも。
「おっ鬼子が……本当に鬼子が帰ってきた!」
「馬鹿野郎、当てるのは商人じゃねえだろ!」
「密偵してたなら、お、同じだ! あれは鬼子の仲間だ! また村に災いをもたらしに来るつもりなのか!」
 見覚えのある顔が、二つ、三つ、四つ。草の陰から出て狼狽えていた。
 がたがたと悶え顔面を引き攣らせた男をゆっくりと木にもたれて座らせ、伊弉冉と伊弉諾を構えた。
「このっ……この、畜生共め!」
「ひっひいいっ」
 感情に呼応するように伊弉冉の炎がごうっと音を立てて燃え上がる。かの村人達は一人は既に腰を抜かし戦意を喪失しているが、弓から手が離れない。広い森の真っ只中、伊弉冉伊弉諾を振り回す様は、現実離れした異様な光景だろう。先程までうんともすんとも言わなかった伊弉冉はごうごうと炎をまとい、伊弉諾は目に刺さるほどの光を放つ。伊弉冉伊弉諾を振るい体重を乗せて一足で駆ける様は、正に踊るようだった。
「せえいっ!」
 伊弉冉を振るうと、一つ首が飛んだ。
「ひっ……あっ……うわああっ」
「まだまだっ背を向けている場合ではないぞ!」
 足をもつれさせながら這いつくばって逃げようとする村人の背に伊弉諾を投げ付け、体勢を崩したその真正面にふわりと飛び降りる。
「うあ、あああっやめてくれ、許してくれ!」
「おっ鬼子がこんなに強いとは聞いていなっ……」
「我を鬼子と、二度と呼ぶな! そも、あの男を射って村の災いが消えるとでも思ったのか!」
「ゆっ許しっ……!」
「弁明の言葉もなしか! ならばその身をもって非礼を詫びろ!」
 伊弉冉を振るった。
 これほどの大声を出したのはいつ以来だろうか。

「おい、おい! そなた! 大丈夫か、傷はっ……」
 男の元に駆け寄り、邪魔な矢羽を折って着物の袷を開く。出血はほとんどない。だが矢尻は胸の真ん中、奥深くまで突き刺さっており、引き抜くこともできない。胸に耳を当てると、肺まで矢尻が到達しているのが分かる。胸の中で血の垂れる音。焦って呼吸をしようと、傷口の僅かな隙間から空気がぶうぶうと音を立てて出入りしている。男は苦悶の表情で胸を押さえている。顔面はだんだんと青ざめ、震えは増していく。
「がっ……か、は……っ」
 手を施せるものではなかった。顔を伏せて、伊弉冉を握り締めた。せめて苦しまぬ様に。

 兎がすんすんと鼻を動かしながら、道の真ん中へ踊り出て来た。
「……」
 いつもならばこれ好機と獲物を狙うのだが、足は地面に生えた木のようにその場から動かなかった。何もせず眺めていると、周囲を見渡してから、兎は向こうの茂みへと逃げ去っていった。
 何人の人間が転がっているのだろう。両手があれば数えるのに事足りるだろうが、手も脳も動かなかった。すん、と鼻を鳴らした。長らく何も感じなかった胸に、様々なものが満ちていくのを感じた。
『この国は病んでいる。誰が見てもそれは明白。信じる心をなくし、悪い事の原因を作り上げ取り除こうと躍起になる。人々の心は疲れている。あなたなら、その心をまとめて正しく導くことが出来るはず。あなたは強い人だから』
 そう言った母が綺麗に笑ったのを覚えている。この国の病とは、何なのか。分からずにこの国を旅していたが、始まりはこの村だった。生きる場所を共にする者を信じられず、少年とか細い母を追い出して残った可能性にかけようと生き縋る。あの時に杖を振り回して力を見せつけ、全てを支配する事も出来たはずだ。それを決断せず、結果いくつもの村を渡り歩き、病弱な母を病で死なせた。全ては、力が、力を使う決意がなかったために起きたこの国の病だ。その病を治さぬままに、一人の男も死なせてしまった。
「まだ……名も……聞いていなかったのだがな……ああ、教えてもいなかった……」
 鼻の奥がつんと痛む。空を見上げ、すんと鼻を鳴らした。
「お前の名前、なら……わた、私が、聞く……」
 小さな声が鳴る。振り返ると包丁を持った幼子が、かたかたと手を、声を震わせて目を光らせていた。
「……成程、仇か……」
 少年だった自分を追い出した村が、新しく子を設けていた。人の営みがあれば当然の事だが、滑稽だった。きっと自分がいたかもしれない村の中にいた幼子の、周囲の人間、恐らく親を、今こうして自分が奪う側となっている。奪い、奪われ、この国は。
「我が名は、ザンゲツ……」
 震える声はこちらも同じだ。口を引き結び、顎を引いて。不格好に、口端を必死で釣り上げる。威嚇するように、獅子が吠えるように、笑った。
「我が名は、ザンゲツ! この国を、力で統治する……覇業を成し遂げる者だ! 覚えておけ!」
 力を持つ者に見えただろうか。武力の権化のような顔が出来ただろうか。
 幼子はついにぼろぼろと涙を流し、村へと走り去っていった。
「……覇業を、成し遂げるのだ……でなければ、この国は……誰も、救われはしない……」
 幼子の背が見えなくなった瞬間、膝をつき、嗚咽した。

 使えるのはこの身一つだけだ。今できる事は、覇業を成す為にできることは、力を我がものとする事。全ての人間にこの力を見せつけねば。恐怖の上での統治となるのだろうが、きっと、この国を少しでも病から救う事が出来るはず。きっと。絶対に。
 覇業を成すと誓う。静かな森に響いた嗚咽はやがて止む。深呼吸一つ。やがて立ち上がると、姿勢を正し前を見た。
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