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美味い飯は潰れた選択肢の向こう

 なろうと思えば、人は何にでもなれる。その言葉を教えられた時には人生の半分以上の選択肢は消え失せ、残った半分さえも、この国に躊躇なく踏み潰されていた。それでもこの国を守ろうと体を鍛え、心を鍛え、配属された国境で「お前の存在が本当にこの国に役立つと思っていたのか」と。
 残っていた夢さえも、大人になった瞬間打ち崩された。

「僕もこの間買ってみたんですよ、あの名店の!」
 にっこにっこと、既にそれが元の顔なのではないかという程見慣れた笑顔を崩しもせずにエドウィンが言った。手には具がこぼれんばかりの大きなサンドイッチが。
「おお、行ったのか! 食ってみろ食ってみろ、うんまいぞ!」
 楽し気に笑う同僚に釣られ、また笑い声を捻り出す。容易な事だ、大人になってからはいくらでもできようになった。おっととなどと大げさに言いながらサンドイッチの具を包み紙で中に押し込み、落とさぬよう器用に頬張った。笑みは絶やしてはいけない。どんな時も、人の目は絶える事はない。このサンドイッチはどんな味か、この同僚は、なんと言ってやれば笑顔を絶やさずに済むだろうか。
「ん! んん! これは…ううん、さっすが先輩のおすすめは違いますね、肉がこーんなに美味いの久しぶりですよ!」
 笑いながら、齧った具の断面図を見せてやった。齧られた肉からはサンドイッチの具とは思えない程じわじわと肉汁が染み出し、見た目にも食欲をそそるだろう。それを見た同僚はやはり目を輝かせ、そうだろうとにっこりと笑った。
「俺の勧めた店だからな! どれ、この間一口やったんだ、俺も」
「もちろん! はいどうぞ」
 断面を押し付けるようにサンドイッチを渡した。受け取った同僚が嬉しげに頬張るその一瞬、がらんと表情を落とす。ひと時の休憩。一瞬後にはまた笑えるように。
「んんー、美味い美味い! はいよありがとな」
「いいえー、もう一口くらい食べちゃって良いんですよ」
「お前の昼飯がなくなっちまうだろうが」
 はははと笑いサンドイッチを返された。自然に、にこりとぺたりと、また表情を張り付けた。いくらでも食えば良い。ただの話題作りと信頼形成の為に買ったのだから。
「ありがとうございます、それじゃあ全部頂いちゃいますね」
 同僚に食われた断面などは気にせず、ばくりと食らいつく。人といる時の食事など、どうせ味も良く分からない。腹が満たせて、話題になればそれで良いのだ。

 仕事終わり。昼間に食べた物と全く同じサンドイッチを改めて買い、帰路につきながら大口を開けて食い付いた。ざっくりと千切られたレタスが、成程良い食感になっている。肉汁は舌に乗るとじわりと味を広げ、野菜やパンと混じって全体の味となる。唇に垂れたソースをぺろりと舐めた。名店と言われるだけの事はある。
 がさがさと包み紙をいじくりまわし、持ちやすいように、中身がこぼれないようにと斜めにしたり縦にしたり。そもそも具が大きく安定しないと分かっているサンドイッチを、歩きながら食べようとする事自体が難しい。周囲に視線を投げ、近くのベンチへ足を向けた。一人分のスペースだけ雪を払い、座り込んでまた一口がぶりと噛み付く。職場などの人の目がある場所では、こうも牙を剥き出しにして物を口に入れる事はできない。背もたれに遠慮なく曲げた背を付け、不格好にも姿勢悪くサンドイッチを食べ続けた。行儀が悪い事は百も承知だが、人の目のない時にまで正す背などない。がつがつと食べ進め、半分程胃に収めたところで懐から瓶を取り出し、ウォッカを煽った。冷え始めていた体が、喉から胃から、温まるような気がする。数口飲むと、ほうっと暖かい息を吐き出した。
「いやはや、随分と美味そうに食べておる」
 ぐ、と息が詰まった。瞬間背を正し、振り返る。あまりに勢いがあったからか、声の主はわざとらしくおっとっとなどと漏らし、両手を振って敵意がない事を示した。
「すまんなあ、若者が寂し気な場所で寂しそうに食事をしているものだから、気になっての」
 ほっほ、と愉快に笑うのは、長い髭を蓄えた穏やかな老人だった。身なりは整っており、この国にいる男にしては高位な立場の者だと分かる。
 なるほど、笑顔が必要だ。
 にっこりと笑い、ベンチの隣のスペースから雪を払い落として手で勧めた。
「いやあ、気が付かなくてすみません。お隣座りますか? どうぞどうぞ!」
 僕は害のない人懐っこい人間ですよ。さあ、敵意のない僕の隣へご自由にどうぞ。勧める先に老人は丁寧に一礼して、杖を支えにつきながら腰を下ろした。
「すみません、食べながらで」
「いやいや構わん、年寄りが勝手に寄ってきただけじゃ」
 ほっほ、と髭を撫でながら、先程のエドウィンの様に背もたれにどっかりと凭れ込んだ。まだそんな年でもないでしょうなどと世辞を言いながら、半分残ったサンドイッチに口を付けた。味は消えた。邪魔されたひと時の代償を払う者などいない。内心でため息なのか舌打ちなのかが鳴るのが分かる。がぶりと齧ったサンドイッチをさも美味そうに咀嚼しながら、老人に勧めた。
「一口食べてみます? 最近有名らしいお店のなんですよ」
 にこりと笑うが、老人は断った。
「何、少しの腰休めじゃ。気にするでない」
 そもそも本気で食わせたかった訳ではない。社交辞令で差し出したサンドイッチを残念そうに引っ込め、行儀良く小さな一口で頬張った。狼のような牙が見えぬよう。本性を隠しながら。唇を舐める舌すらも見えぬよう、内側のものを全てひた隠す。
「おお、先程までは随分と美味そうに食べていたのになあ。どうした、一気に味が消えたのか」
「……はい?」
「若い男なら気にするでない、がっつくのは本能じゃ。誰も見てはおらぬ、思いのまま食らえば良いじゃろう」
 にかっと笑う歯は白い。思わず頬がひくりと吊り上がった。何と悠長に生きているのだろう。高位な家柄か職かは分からないが、どれだけ人と関わる事を簡単に生きて来たのだろう。ギリ、と鳴る歯を誤魔化すようにウォッカを流し込んだ。
「人前で大口開けるのは恥ずかしいじゃないですか」
「食べやすいように食べれば良い、他人は、思っている程気にしないものじゃぞ」
「いやいや、マナーってやつですよ」
 へらりと笑い、やはり小さな一口でサンドイッチを口に運んだ。味のしないものをどうして大口開いて食えるというのか。苛立ちが、こめかみを引き攣らせる。誤魔化すように、ばくばくと真剣にサンドイッチを齧った。さも腹が減っているかの様に。さも美味しそうな顔で。どうだ、上手く作れているだろう。誰にも見破られた事などないんだ、今更腹の内が割れる事などあるはずもない。なのに、どうしてそう、こんながちがちに仮面を張り付けた横顔を見つめる。
「おお、ほっほ、不味そうじゃのう、ほっほ」
 楽し気に。仮面など見えていないかのように。じっと横顔を見つめ、まるで嘘をついた子供をなだめるように笑う。
 こめかみが引き攣る。それでももくもくとサンドイッチを頬張る横顔に怒りが湧き始めているのさえ、もしかすると老人には見えているのかも知れない。そんなものを見てどうしてそう笑っていられるのか。人をからかって遊んでいるのだろうか。どちらにしても趣味が悪い。
 残ったサンドイッチも早めに食べきり、包み紙をぐしゃりと握り潰した。もぐもぐと咀嚼しながら流すようにウォッカを煽り、ごくごくと数口飲んでふうっと口を離す。ずいっと瓶を老人に押し付け、姿勢悪く睨み上げた。
「飲みますか、美味いですよ」
「……ほお、確かにこれは美味そうじゃ、一口頂こうかの」
 言って受け取り、一口煽ってエドウィンに返した。
「なんだ、名店のサンドイッチよりも美味そうに飲むと思ったら、安酒か」
「ははっ、若者は安酒に舌が慣れてるんですよ」
 返された瓶を受け取ってまた一口煽り、熱くなった息を吐き出した。片手に持っていたふたでぎゅっと閉める。
「……」
 次に何と言って良いのか分からなくなり、開きかけた口を閉じた。食事を終えたので僕はこれで、と立ち去る事もできた。哀れな若者を笑いに来たのか、と怒鳴ってやるという選択肢もあった。なのに、どうして良いのか分からなくなった。
 この老人には何が見えているのだろうか。きっと、貼り付けた仮面を、ただの仮面だと認識しているのだろう。今まで誰にでも隠せていた顔が、この老人には見えている。そう思うと、何もできなくなってしまった。ただため息を吐き、だらりと崩れた姿勢のまま、足元に積もり続ける雪を眺める。
「さて、と。邪魔したの。わしはそろそろ帰るとしよう」
 言いながら立ち上がった。既に身長の縮んだ身なのだろう、立ち上がっても、ベンチに腰掛けたエドウィンと目線は大して変わらない。見下ろす目は、これまでの人生で一体何を見て来たのだろうか。
「……ああ、雪も積もってきましたしね」
 睨まれた訳ではなかったが、思わず老人の目から視線を逸らした。粉の様に膝に乗る雪を払い、地面を見る。笑っても意味がないのだろう。いつの間にかがらんと落ちていた仮面を拾う事も出来ず、老人の足元をただ見ていた。
 小さな頃をふと思い出す。こんな風に、母親に叱られて俯いていた。どうして叱られていたのかも思い出せないが。
「うむ、若者よ」
「うおっ」
 のし、と頭に手を乗せられた。思わず声を上げるが、退けられる様子はない。顔を上げる事はできない、払うのもなんだ。黙って、次の句を待った。
「不味い飯を食べさせてしまったようで悪かったな、爺の戯れと許してくれ」
「……はっは、何をおっしゃるんですか」
 声だけで笑うと、頭に乗せられた手でぐしゃぐしゃと髪を掻き混ぜられた。
「男は強がらねば生きていけん、辛いものよのお。ならばせめて、美味い飯を共に食べられる者を見つける事じゃな」
 楽し気に笑って、ふわりと手は離れた。視線を上げると、まるで孫でも見ているかのような、穏やかな色がそこにはあった。
「……年の功ですか」
「言いよるな、まあそうじゃ、年寄りからのアドバイスじゃ。この国は寒い、いつまでも一人でいられるものでもない。安酒でも良い、飯くらいは楽しくやるのじゃぞ」
 笑い、ひらりと手を振って老人は歩いて行った。途中から笑うのをやめたが、きっとなんとも思ってはいないのだろう。
 見えなくなるまでその背を見送り、重い息を吐き出して肩を下げた。いつの間に緊張していたのだろうか。ぐっと伸びをして、背筋を正す。
 美味い飯など、どこで食えるというのか。一体、どこの誰と一緒に食えるというのか。そんな瞬間が、本当に来るというのか。
「……はっ」
 短く笑うと、白い息が舞った。

 幼い頃に消えた選択肢の中には、一体何があったのか今となっては分からない。残った選択肢のある人生の道はあまりに細く、不安定だ。この国はなんて生きづらい。それでもこの国であの年まで生き抜いた男はそういない。訊かずとも、恐らく記憶にある名前に間違いはないだろう。女性優位のこの国で、宮廷につかえている老人。成程、若くで力を認められず惨めに生きている自分とは見てきた世界も空気も違う男だ。
「成程なあ」
 思わず呟いた。ベンチから立つ事も出来ず、ぐっと手で顔を覆う。体はもう冷え切っていた。
 あの老人は、大事な人が出来た事はあるのだろうか。失った事はあるのだろうか。あそこまで生きる過程で、辛い事はなかったのだろうか。分からないが、きっと飯が美味い世界など、そう簡単には見つからない。手の届かない世界に、どうやって辿り着けというのだろうか。あの穏やかな瞳には、数少ない選択肢の行き先が見えているのだろうか。そうだとしたら、どうか道を、選択肢を、教えて欲しいと心から願ってしまう。
 頭を撫でた老人の手は、体温を奪ってしまった。
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