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終わらない冒険を、また明日

 嫌いなものが増えたので、どこかへ行きたいと思った。あの本の主人公のように、どこか、異世界へ。そんな夢物語を思い描きながら、夢の詰まった本に囲まれる。ああ、この部屋の中だけは好きが溢れている。濁りのない夢が、部屋いっぱいに満ちている。
 部屋の真ん中、ソファに上ったエドウィンは、冷え切った部屋の中で一人身を震わせた。

「エドウィン! 今人気出てる本読んだかお前!」
 同僚が賑やかに上げた声にぱっと顔を上げると、エドウィンは花開くような笑顔を見せた。
「いや~まだです! 他の方も話されてましたし気になってはいるんですよ、もしかしてもう読んだんです!?」
「出遅れてるな、俺は書店で平置きにされてる最後の一冊を買ったんだぜ!」
「なんですかそれ、先輩もギリギリじゃないですか~!」
 戯れに笑うと、同僚は機嫌よく懐から本を取り出した。
「わっ、持ってきたんですか! 勤務中ですよ~」
「よせよ、どうせ誰も来ない国境だろ」
「ははっそれもそうだ」
 言いながら、パラパラと指で中身を捲る動作に、慌てて止める、ふりをした。
「ちょっちょっと! まだ読んでないんですから、先を言うのは厳禁ですよ!」
「だってお前、いつになったら読むんだよ、俺は中身の話してえんだよ」
「いつか読むんですよ!」
「お前のいつかはあてになんねえよ」
 言いながら、つまらなそうに同僚はぱたりと本を閉じた。よかったー、などと言ってやりながら、すうっと目を細めて見た。机に本を立ててとんとんと軽く叩き、カバーと本体を整えて同僚の懐に仕舞われるまでを、じっと見た。
「ま、いつか本当に読んでくれよ、俺このシリーズ好きなんだよ。男で文字読める奴なんて少ないんだから、頼むぜエドウィン」
「先輩が貸してくれたら読みますよ」
「貴重な財産だ、そう簡単に貸してやれねえよ」
「ですよねえ、僕もその本、いつ手に入れられるんだろうなあ……」
「おっまえ! なんならシリーズの一作目送り付けるぞ! 本当に面白いんだぞ!」
 はは、と笑うと同僚は角を立ててふんと息を吐いた。

 この世に、嫌いなものが増えた。見下す上司、国の印章の入った制服、仲間意識を持ってくる同僚、幼い頃は仲の良かった可愛い隣人、国境の近くまで追いやられた虫。全て、嫌いになった。どうしてこうも、毎日が煩わしい。この世に好きなものはないだろうかと探したが、国境の警備から帰った部屋の中、暖炉で暖まりながら読む本以外に思いつかなかった。
 つるりと、本棚の縁を指先で撫でた。同僚の言っていた本ならば、最新作が出る度入手してその日に読んでいる。シリーズの全巻揃った本棚には、その作者の過去作まで並んでいた。
 分厚い本の表紙、重厚な紙の質感。室内で落ち着いた時、素手で触れられる本の温かみが、何よりも好きだ。今日はどの本を読もうか。そろそろ新作が出るシリーズでも読み返してみるか。そんな事を思いながら、エドウィンは隣の本棚にも目を滑らせる。
「誰が、感想なんか言ってやるかよ……」
 嫌いなものが増えた。この部屋の外、いくらでも嫌いなものが降り積もっている。ああ、図書館の入り口で「男性の入場は……」と利用を断ったあの女性は今日も楽しく生きているだろうか。時折国境へ顔を出し「男に生まれなくて本当に良かった……」と見下してくる女上官は、温かい宮廷でのんびりと仕事をしているのだろうか。本棚を撫でる指先を、ぴたりと止めた。嫌いなものが、あまりにも増えた。
 明日の勤務は、はて何だったか。夜中の凍える寒さの中外に立ち続けるものでなければなんでも良い。どうせこの腕を振るう機会などないのだから。国境でトラブルがあれば上空の防空魔道士へ知らせを送り、援助を頼むだけ。なんとも、生きる価値のない明日だ。
 エドウィンはちらりと、部屋の中央の天井を見上げた。数日前に括り付けたままの、輪を作った縄が垂れさがったままになっていた。明日を生きるのが嫌になった時にはいつでも使えるようにとそのままにしていたが、ちらちらと見やる機会は多かった。
 嫌いなものが増えた。子供の頃は、好きだった筈なのに。
 仲間意識を持ってくる同僚をうざったく感じ始めたのはいつからだろう。幼い頃仲の良かった可愛い隣人が自分を避け始めたのはいつからだろう。嫌いなものが増えていく自分を嫌いになり始めたのは、いつからだろう。
 何も受け入れられないのならば、もう明日を生きる意味などないのではないか。天井からぶら下がる縄は、そう告げるように静かに視線を惹きつけた。
 がたがたとソファを動かし、部屋の中心へと移動させた。その上に上って立つと、縄の輪っかはご丁寧にもエドウィンの目の高さにあった。明日を見たくないのならば、見ないのも一つの手だ。

 暖炉の火を消した。暖かいままの部屋では、この体が明日には異臭を放ち近隣へ迷惑をかけるのでは、という心配があったからだ。暖かかった部屋は、暖炉の火を消し玄関の戸を数分開け放っていれば、すぐに冷気で満たされる。仕舞った本が湿気てしまう事を考えると気が引けたが、明日にはもう読まない事を考えると、どうでもよくなった。
 どうして、同僚の本の話題に乗りたくなかったのか。少しだけ考えたが、ただ、外の嫌いと中の好きを混ぜたくないというわがままがあったのだと分かった。この部屋の好きが、この部屋以外にもあると思いたくはなかった。なぜなら、この部屋の外は嫌いなもので溢れかえっている、そうある筈なのだから。
 ソファへ足を乗せ、天井からぶら下がる縄に喉仏を触れさせた。嫌いなものが増えたので、どこかへ行きたいと思った。あの本の主人公のように、どこか、異世界へ。そんな夢物語を思い描きながら、夢の詰まった本に囲まれる。ああ、この部屋の中だけは好きが溢れている。濁りのない夢が、部屋いっぱいに満ちている。
 部屋の真ん中、椅子に上ったエドウィンは、冷え切った部屋の中で一人身を震わせた。明日の朝には、いいや、数分後には、自分は。
 目を閉じた。
 瞬間、玄関からごつごつ、とノックが鳴った。
「……」
 もう二度と物を見る事はないと思った瞳をそっと開いた。滅多にない来客。
 少し迷って、ゆっくりとソファから足を下ろした。
「……はい」
「あっ、お届け物です」
 思わず低い声が出たが、配達人は構わず包みとペンを寄越してきた。まるで眠りにつく瞬間を邪魔されたかのように白けたが、サインをして紙を返すと、配達人は頭を下げて帰って行った。
「……」
 誰もいなくなった玄関先。ぐしゃりと包みを破って開いた。
「……本?」
 エドウィンは、ぽつりと声を上げた。まさしく、同僚と話していた本だ。やや古びているが、間違いない。何度も手に取って読み返した一作目だ。主人公が多くの仲間と出会い、冒険が始まる世界を広げる一作目。差出人を見ると、同僚の名前があった。
『俺のやるから、読んでみろよ。本当に面白いから』
「……」
 添えられた短いメッセージカードに、瞼を震わせた。
 人気が出てから読み始めた奴がまずは読んでみろなんて。笑わせるんじゃねえ。二冊目被ってるんだよ。
 心で悪態をつき、瞼を閉じて本に額をくっつけた。本には、まだ温もりがあった。
 仕方がないと、暖炉に火をつける。ソファを部屋の端の定位置に戻そうとしたが、その前にと天井の縄を解いて暖炉にくべた。今夜は一冊読み切るまで眠れない。
 同僚の部屋の好きを一つ差し出されたのならば仕方がない。明日を生きる理由が、一つできてしまった。
 何度も読み返した本を、初めて触れる本を開いた。この本には好きが詰まっている。終わらない冒険をまた始めるのだなと、エドウィンは瞳を閉じると同時に滴を一つ、暖かな部屋に落とした。ああ、明日はこの終わらない冒険について楽しく語らなければ。
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