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あなたへ贈る名前

 このアルケミストは、俺の事をどこまで把握しているのだろう。誰に対しても、アルケミストに対してだろうと、笑顔を絶やさず接してきた筈だ。どこで見られた? いつ? 誰に? 
 笑顔の仮面は完璧だった。その筈だった。それがどうして『嘲笑の衛士』などと呼ばれるのか。



    あなたへ贈る名前



 アルケミストが、物々しい札をにこやかに差し出してきた。それが滅多に手に入らない希少な素材である事を知っていたから、俺は受け取るのを躊躇した。俺なんかに渡されるべき札ではない。「あなたにこそ持っていて欲しいの」なんて言う口は俺に何を期待しているんだ。大嫌いな国を守ってきた俺に、次は何を守れと。
 断れど、アルケミストの押しは強い。頼りにしているんだという言葉には嘘は見えない。だからこそ、後ろめたさが勝った。大嫌いな女。だが、この少女はどこか色が違う。誰を相手にしていようと、態度に灰汁を感じられない。純真というには度胸がある。無垢というには頑固さがある。上手く言葉にはできないが、彼女の周囲の空気は常に澄んでいるように感じて、頼られる事が不思議と苦ではなかった。
 一歩だけ。側まで寄らずとも、様子を見てみる価値はあるのではないかと思ってしまった。しかしそれが間違いだったのだと、札に表れた文字を読んで悟った。

「のう。小娘が探しておったぞ」
 アルケミストに渡された札。浮かび上がった文字を読まれる直前に、ぐしゃりと握り潰してあの場を去ってしまった。アルケミストに対し、不自然な態度をしてしまった自覚はある。今まで丁寧に被り続けてきた猫の皮、その存在を知られてしまう事に脅えてしまった。
「……ツァンレイ」
 座り込んで壁にもたれていたが、顔を上げると、ツァンレイが立っていた。俺と同じく希少な札を貰っていたが、俺と違って嬉々として自分の強さの解放を受け入れていた。
「探してこいとでも言われたんですか?」
 笑顔までは作れずとも、少しは眉間の皺を和らげられただろうか。もとより、人との関わりが密でなさそうなこの男に対し大げさに取り繕う気も起きないが。
「おーおー、酷い顔じゃのう、札によっぽどの事が書かれておったのか」
 ツァンレイの言葉に、ぐっと息を飲んだ。握り潰したままの札が、未だ手の中にある。
「はは、どうでしょう。君は何が書かれていたんです?」
「何が、とは妙な事を聞く。あれには事実しか書かれておらんかったぞ。俺の札には、破戒僧などと書かれておった」
 ツァンレイがひらりとかざす札に、確かにそう浮かんでいた。成程、事実だ。
「こそこそ隠されてはあの小娘も気まずかろうに。何か大層な事でも書かれておったか」
「いいえ、大した事は」
「はっきりせん男じゃのう」
 ため息を吐かれた。ツァンレイの呆れたような物言いに苛立ったが、できればこのまま立ち去ってくれと願う。だが、ツァンレイは立ち上がろうとしない俺に手を伸ばした。
「ん」
「……すみません、今は戻る気にはなれなくて」
 ツァンレイがまさか人に手を差し伸べる人間だったとは。面食らって思わず丁寧に断るが、顔をしかめてもう一度、ん、と手を伸ばされた。
「札を寄越してみろ」
「え」
「代わりに渡してきてやろう。あの小娘も、お前がどう強くなったか知らねば任務への人員采配もできん」
「え、いや、それはちょっと、その」
 無遠慮な手が俺の手から札を取ろうとするが、寸での所で死守した。つまらん、と言いたげな目が俺を見る。一瞬だけ険しい顔を見せてしまった気がしたが、つまらなそうなツァンレイの表情は変わらなかった。
「見られて困るものなのかは知らんが、あの小娘が謝りたいと言っていた。札を見せんでも、顔くらい見せてやればいい」
「破戒僧がとてもまともな事をおっしゃいますね」
「なんじゃ馬鹿にしておるのか」
「まさか。褒めているんですよ。とても」
 普段荒々しい面を見せる者が、そうでない真面目な一面を見せれば印象ががらりと良い方向へ変わる。成程、破戒僧と恐れられるツァンレイの話ばかりを耳にしていたが、戦い以外の場では理性的な人間らしい。そういう生き方は、俺にはできなかった。
「何を謝られるんですかね。彼女は何か言っていました?」
「気に入らない名称にお前が腹を立てて出て行ったのかと慌てておったぞ。一度断られたのに無理に頼んでしまったからと」
 そう言っておった。ツァンレイは少しも取り繕う様子なく淡々と告げた。
「ああ……ああ、彼女は悪くないんですけどねえ。ええ、彼女は何も悪くない……」
 未だ立ち上がれないまま、俯いた。その人間のたった一部分、それが恥となる部分であろうと、札に記される名称には確かに偽りはなく事実だ。そこに浮かんだ文字を、ひた隠そうとしている自分にこそ問題があるのは明確。アルケミストに非はない。非は、今までその一部分の事実を彼女の前で伏せていた自分にある。
「ありがとうございます、もう少ししたら戻りますね」
「ああ、そうしろ。あの小娘が辛気臭いのは気分が悪い」
 ツァンレイは鼻を鳴らした。この男もアルケミストを気に入っているように見えた。でなければここまで様子を伝えになど来ないだろう。
 根っからの性格でこうも人に好かれるのは、アルケミストには一種の才能がある。彼女に自分の別の一面を見せたくないと思ってしまうのも、俺が彼女の何かを気に入っているという事だろうか。彼女の側は居心地が良い。もし被っていた猫、いや、化けの皮が剥げて本当の俺の中身を見られたなら、彼女の側にはいられなくなるのだろうか。
 顔を伏せたまま、ため息を吐いた。
「隙だらけじゃ」
「あ!?」
 気を抜いた一瞬、手からするりと札を抜き取られた。
「見るんじゃねえ!」
 すぐさま立ち上がりツァンレイの手から奪い返すが、ぐしゃぐしゃに潰れた札を開いていたツァンレイはふーんと唸った。
「そんな事じゃろうとは思っておったが、成程な」
 読まれた。表情を変えるでもなく淡々と飲み込むツァンレイに、ざっと血の気が引いた。自分は今、まさか、怒鳴った? 札の文字を読んだこの男は、嘲笑の衛士をどう思った?
 耳の後ろをざっざっと鳴る脈がうるさい。悪い事をした瞬間よりもそれが知られた時の方が罪悪感が増すあの感覚。
「ふむ、まあ、理由は分かった。あの小娘に知られたくない事なんじゃろう。俺もわざわざ言いふらす真似などしない」
「……」
 そんな事じゃない。今まで被っていた仮面の下を見られた感覚などこの男には分かりはしない。今までにこにこしていた男が、実は裏では、と知られていると思うと、うまく表情を作れなくなる。全て知られている前でどんな顔をすればいいのか。
「これからどうするかじゃあないのか? お前はあの小娘の力になるか否か。あの小娘が俺達をどう扱おうと、名前なぞ二の次。俺達はあの小娘の手足じゃ」
「……それは、もちろん」
「ならば決まっている。俺は、一足先に破戒僧の名をあの小娘にくれてやったぞ」
 多くの幻影兵と手を結ぶ彼女が、たった一部の幻影兵のみの別の名を得る。破戒僧の名を預けられたのも大層な事だが、せっかくの希少な素材を嘲笑の衛士に捧げさせてしまったのだ。その信頼に応えて、力を貸してやるのが、今の役目か。
 先程までの熱がすっと冷めていくのを感じた。しんと落ち着いた目で、握り潰してしまった札を見る。浮かんでいる文字は変わらず、俺の化けの皮の内側を暴いている。
「一つ、頼み事をしてもいいですか」
「なんじゃ」
 覚悟を決めよう。何の灰汁もなく、濁りもなく、真っ直ぐに俺を頼ってきた彼女に応えよう。それが、彼女への期待の応え方だ。
「伝言を。夜中、僕の部屋に来てくれませんか、と」
 誰もいない夜中。取り繕う相手のいない時間。それならば、きっと。
嫌われたとしても、その一面は今更どうしようもない事実だ。
「なんじゃ、悪戯するにはちと子供すぎないか」
「馬鹿かてめえは!?」
 思わず怒鳴ったがツァンレイは快活に笑った。
「承った、来るかどうかはあの娘次第じゃがな」
「この札が返却できるものなら僕の裏の顔を知らなくてもいいんですけどね」
「せっかく強くなったんじゃろう、もったいない。何なら俺と戦ってみるか」
「勘弁してください、僕はただの衛士ですよ」
 嘲笑の衛士。不名誉なものだが、一つ、彼女に名前をあげるのも悪くはない。受け入れてくれたのならば、きっと心強い手足となることを誓おう。
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