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夕陽の綺麗な日の夜は

「見事な夕陽だな」
 そう言うザンゲツは西の茜色に照らされ、歯を見せて笑っていた。空のてっぺんには未だに昼間の青さが残っており、東の空には薄紫がかった夜が降りてきている。ザンゲツは笑顔を作ったままの顔でじっと茜色の空を見つめ、瞬きもせず、目に焼き付けていた。
「……」
 いや、焼き付いた景色と重なっているのだろうか。何も言わず、ただ見つめていた。
 側でそれを眺めているリオンに反応する事もない。夕陽に浮かんだメロディーを一つ奏でようと楽器を取り出していたが、弾く事も出来ず膝に置く。
 同じ景色を見ている筈だが、そうは思えなかった。遠いどこかを眺めている。ザンゲツの心はここにはなかった。
「ザンゲツ」
「……む?」
呼べば振り返る。その瞳にはとろりと柔らかな夕陽が溶け込んでいた。なんでもないと首を振ると、不思議なものでも見たかのようにまた夕陽へ視線を戻す。夕陽の溶け込んだ瞳には、リオンは映ってはいなかった。
興が乗らない。楽器を仕舞うが、それさえも恐らくザンゲツには見えてはいなかっただろう。

 いつもの顔ぶれでの夕食を終え、それぞれの部屋に戻る。昨夜弾いた楽器はどこへ置いていただろうか。ザンゲツの部屋にでも置いたままにしていたか。特にあてもなくうろつきあちらこちらに目を滑らせていたが、その辺で見つかるイメージも湧かない。
 夕方のザンゲツを思い出す。何が、と明確には分からないが、いつもと様子の違ったザンゲツ。この時間なら部屋にいるだろう。いつもならば、酒でも飲んでいるか鍛錬でもしているか。今日はどうだろう。夕方の違和感に、ザンゲツの部屋へ向かう足が止まる。気が進まない。気のせいだったと考える事もできるが、そう捉えるにしては幻影兵となって共に過ごす時間が長すぎた。
 ため息を吐く。逢魔が時は過ぎた、何事もなかったかのような顔をしているかもしれない。止めていた足を再び踏み出し、リオンはザンゲツの部屋へ向かった。

 コン、コン。ノックをする。少しの迷いが間を開けてしまったが、中から返事はない。この時間に部屋にいないなど珍しい。
ならばいない間に楽器を探してしまおうとドアを開けてしまったのが、一つの転機だったのか。
弾かれたように顔を上げたザンゲツは、座り込んでぼろぼろと涙を流していた。放心したように、力の抜けた表情で溢れるままに涙を流していた。ドアを開けたまま静止してしまったリオンと目を合わせ、ぼやけた目を大きく開く。
「りおん……」
「すまない、ノックはしたんだが」
「……」
 じっとリオンを見つめる。始めこそ驚いたように目を見開いていたが、惑うように宙へ逸らし、やがて俯いた。手首でぐしぐしと目元を拭い、口だけで笑いを作る。
「すまぬ、情けない所を見せた」
「……」
「今は一人でいたい気分なのだ。何も見なかった事にして立ち去る事はできぬか」
 俯いたまま目元を拭い続けるふりをして、黙るリオンから顔を隠す。大の男、それも戦神と謳われる男の泣き顔など、そうそう見られるものでもない。ず、と赤くした鼻をすするのは、昼間杖を振り回し舞うように立ち回るザンゲツなのか。後ろから眺めていた大きな背が、今はあまりにも頼りない。
 瞳には、まだ夕陽は溶け込んでいるのだろうか。見たくとも、ザンゲツは顔を上げない。
 来る足は重かったが、どうしてか、部屋から出ていく事は考えられなかった。他者の過去に触れる等、迂闊にしてはいけない。その闇が深くとも暗くとも、各々が抱えるものは決して共有する事はできないのだ。目の前にいるザンゲツにしてもそうだ。普段どれだけ近い距離にいようと、何を抱えているのか等知りはしない。ましてや、いつもはリオンを気にかけ何かと面倒を見ようとしている男だ。逆に人に踏み入れられる事に慣れているとは思えない。この場は立ち去り、後日何食わぬ顔をして今まで通り過ごすのが最善手。分かっている。
 しかし、足はザンゲツの部屋へ踏み込んだ。
「待て、りおん」
 顔を上げないまま、即座に低い静止の声が鳴る。威嚇するつもりなのだろうが、声がわずかに震えている。
無視して近付くと顔を上げたが、ザンゲツの座り込む背中側へ腰を下ろした。一瞬だけ見えた目には、夕陽は解けていただろうか。分からないが、どうでもよかった。
都合よく探していた楽器も側に置かれていた。手に取り、弦を順番に鳴らして調律する。
「耳だけ貸してくれ。あとは何もいらない」
 ジャン、とすべての弦を一度に弾いた。互いに背を向けた位置、触れもしない距離で、しんと静まった部屋の中。つるりと指先で弦を撫で、遠いフレットを押さえた弦をぽろり、低い音で鳴らした。背後で小さな衣擦れと、鼻を啜る音がする。
 まだ上手く弾けない曲。楽譜を手に入れたばかりでもある程度初見で弾く事は出来るが、今回掘り出した楽譜は相応の手技を必要とする。人前で弾くには練習が必要だった。
 楽譜の内容を思い出しながら弦に指を運ぶ。左手で弦を押さえる速さと精度が必要だが、なかなかリズムに追いつくよう弾く事が出来ない。中途半端に弦を押さえたせいで音が消え、リズムが崩れる。もう一度、と二小節前から弾くが、また同じ所で躓いた。簡単には上手くいかないものだ。だからこそ練習が必要なのだが。今度はリズムの間隔を開ける。ゆっくりと拍子をとりながら弦を押さえると、多少違和感は残るが一応元のメロディーを弾く事が出来た。この調子でもう一度、と弦を押さえる手を戻すと、ザンゲツの笑う声が聞こえた。
「何がおかしい」
「いや、いつもならばこんな、自分から人前で練習などせんだろう」
「……」
 人前に出る日中、美しい演奏をする事を主として楽器を弾いている。練習を意図とした演奏は、人のいない深夜にしていた。聴く者もいない演奏は、自らの腕を磨く為であったり音楽のイメージを整える為の演奏。きっと聴いていて楽しいものでもない筈。
 そんな深夜の演奏を、ザンゲツは好んで聴きに来ていた。同じ場所ばかりを何度も間違え、リズムを変えたり指の運びを変えたりと試行錯誤する。未完成な音楽の何が楽しいのか。分からなかったが、悪い気はしなかった。
「君は、私が練習しているのが好きだろう」
「……ああ」
「ならば、しばらく私の練習に付き合ってくれ。なに、人前での練習などとは思っていない。私は君の顔も見えないのだから」
 黙った後、こぼすように小さくザンゲツが笑った。鼻を啜り、リオンの練習を促すようにまた黙る。
 再度弾き始める。先程の指運びが上手くいった。また同じ方法で難関部分を乗り越え、今度はその続きを演奏した。精密なアルペジオを超えた後は、穏やかなストロークが続く。一つ一つの音を楽しみ、確認していく。
 ここから先は何度の高い技術は必要ない。感覚を掴めた今のうちに精度を上げておこう。途中まで弾いた演奏を止め、また始めから弾き直す。難関部分が来るまでは身構えて演奏が固くなる自覚がある、その癖も直したいところではあるのだがそう簡単にも行かない。
「話しかけてもいいか」
「ああ」
 練習を遮らぬよう、ザンゲツが小さく声を出す。手を止めず頷いた。
「今日の夕陽、そなたは見たか?」
 夕方、ザンゲツが食い入るように見ていた夕陽の事を言っているのだろう。やはり、側にいた事に気付いてはいなかったか。または、気が向かなかったのか。
「美しい空だったな」
「我が故郷も、夕陽が見事なものでな」
「そうか」
 短く相槌を打つが、聞こえていないかのように話す。
「海に沈んでいく夕陽が、特に美しかった。空も雲も海も、すべてが暖かな火の中にあるようだったのだ」
「ああ」
「……守りたかった。何としても、この手で。美しい故郷を、取り戻したかった」
「そうか」
「我がしていた事は間違っていたのだろうか。皆を守ろうと思ってした事は、間違っていたのだろうか」
「……」
 ず、と鼻を啜る音がする。演奏の手を止めず聞いていた。後半の震える声は、弦を強めに弾いてかき消してやる。
 難関部分に差し掛かる。ザンゲツもリオンも黙り込む。たっぷりと拍子の間隔を開け、できる限り指の動きを滑らかに。
「……弾けたな」
「ふふ、君も分かったか」
 演奏を続ける。難関部分を終えれば、先程と同じく穏やかな演奏が続く。
「ザンゲツ、私は……」
「……すまぬ。答えを求めた訳ではない」
「いいや、私に答えなどないさ。ただ、故郷の夕陽をこの目で見てみたい」
「夕陽を?」
「それほど美しいものなのだろう?」
 演奏を続けたまま、顔も向けず。
 ザンゲツの持つ闇の深さなど分からない。何をしてきたのかも分からない。それが、何にどんな影響を与えたのかも分からない。今それを知ったとして、自分にできる事など何もない。
「君が守ろうとしたものがどんなものなのか。……ただの私の道楽だがな」
「……いくらでも付き合おう。我が守りたかった故郷は、夕陽は、あまりにも美しい」
「楽しみだ」
 穏やかな演奏が静かに鳴り止んだ。拍子の間隔を開けた演奏だったが、丁寧に通して弾く事が出来た。もう一度始めから、今度は元の拍子に近付けて演奏をする。話しているうちに、難関部分までの緊張が少し和らいだような気がする。慣れた指運びも滑らかに音を紡ぐ。
「夕陽が綺麗だった日の夜、またこうして聴かせてはくれぬか」
「その日の夜と言わず、いつでも聴きに来るといい。耳にタコができても知らないがな」
「段々と旋律が整ってくる過程も聴いていて楽しいものだ」
 声は、既に揺れてはいなかった。いつもの穏やかな声色はやや鼻に詰まったような音だが、地を撫でるように落ち着いている。顔は見えずとも、きっともう涙はないのだろう。
 聴きたいというならば、惜しみなく聴かせよう。練習であろうと、この時間は確かにザンゲツだけが聴衆となる。背筋を正し、息を吸った。
 いつか見るだろう夕陽に、胸が高鳴る。背後のザンゲツは、ただ静かに演奏を聴いていた。
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