童の日

 サガに竜が現れた翌年。人の被害、地域の被害共に大きく、復興には時間を要するかと思われた。しかし三つの派閥が手を合わせた後、他国が思っていた以上にサガの民は総力を挙げて復興に力を入れ、穏やかな生活を取り戻しつつあった。「もうずいぶん良くなった」「家はまだ立て直しに時間はかかるけどね」「まあ催し物をする余裕はまだないね」等、民の表情に暗さはなかった。
 その中で、ワダツミの風習を取り入れた催し物をしようという声が上がったのは、パザ村に訪れた商人の一部からだった。
 既に亡国となったワダツミの品、特に郷土品は、質が良く見目美しい事から高値で取引される事が多い。その中で取引された装飾品らしき物が何なのかと物議を呼んだが、一部のワダツミに詳しい商人が、『童の日』に立てる登りが確かそのような形をしていたと話をした。その童の日は子供の成長・健康・出世を願うものだと。
 季節は、冷たい風がやんだ頃。民の活気を取り戻そうと一部で発起した催しがやがてパザ村で話題となり、あれよあれよと多くの者が知恵や物を出し合う事となった。亡国の風習を取り入れた催しをするとの事でパザ村はその準備や噂話で賑わい始め、協力する者の中にいつの間にか錬金術師も紛れ込んでいた。
「復興の為、助力は惜しみません。ワダツミに詳しい者なら、知人に」
 そう言って男が連れてきたのは、不思議な青い線を纏った者達だった。



 パザ村の中心部、市の隣にある広場を利用して、童の日の会場が設営された。広場と隣の市からも見える、大きな舞台が建てられている。その後ろを飾るよう、今回の催しの看板にもなる噂の、ワダツミの装飾品が掲げられていた。名を、コイノボリと言うらしい。空高くに掲げられたそのコイノボリは今日の強い風の中をひた泳ぐように、ワダツミ伝統の織物でできた布の身体をはためかせていた。どれほどの大きさ、と例えるものが近くに見当たらないが、強いて言うならば、大の大人を三名程並べてようやく足りるだろうかという大きさ。黒の鱗に時折混ざる金が陽の光の中照らされ輝く様は、神々しくも見えた。まるで鯉ではないような。その大きさのせいもあるのだろうが、鯉ではなく、言い伝えにあるような神獣の類ではないかと思える程。その鯉には、この世のものではないような厳かさと、美しさがあった。
「ふわー、でっけー!」
 仰ぎ見るミズチの髪も、サガに吹く強い風に揺れて藤色をなびかせた。多くの人が行き交う人混みの中、小さい背をかばって必死につま先を伸ばす。
 ワダツミを生きていた間も、これ程のコイノボリを見た事がない。一般家庭に飾られるのは、せいぜい両手を広げた程度。その何倍もの大きさ、更に職人が織っただろう輝く布地は、気安く飾られるものではない。名のある武家のものだったか、はたまた名家の家のものか。どちらにしても、それほどの豪華なものがあったのかと、目を輝かせて見上げた。
 不意に、ごんと頭を叩かれた。
「いってえ!」
「何を怠けている」
 振り返ると、褐色の大男が盆を持ってため息を吐いていた。
「なんっだよ、ちょっと見てただけだろ! ザンゲツ!」
 呼ばれた大男、ザンゲツは、表情一つ変えない。ミズチを見下ろす目は威圧するように吊り上がっている。そういう意図を持って見ている訳ではないのだろうが、武道を心得た者の佇まいと吊り上がった目は、相手を委縮させるには十分だ。
「ぼうっとしているな、我らの任務はそれぞれの仕事をしながら会場の警護も兼ねて……」
 低い声が、ミズチの頭から降りかかる。怖い。
 しかしミズチがぎゅっと目を閉じるのと同時、ザンゲツの言葉を遮るよう、広場が一瞬で賑わいを増した。何だと思わず首を回すと、誰もが目を留める、風に乗った囃子と共に一人の少女が舞台の上で舞った。
 太鼓、笛、三味線、どのような原理なのか、舞台の周囲から離れていてもその音色は広く、どこまでも遠くまで聞こえるようだった。少女は白を基調にした彩を身に纏い、拍子に合わせて宙に色を残すようひらりと舞う。広い舞台の真ん中に立つのはチハヤたった一人。それでも宙をなぞる指先は、尾を残すような艶やかな黒髪は、誰の目にも万華鏡のように映った。
「チハヤ……」
 ミズチが、小さく呼んだ。誰が応える訳でもない。
 舞台の上、ミズチが名を呼んだチハヤはきりりと表情を引き締めていた。神に奉納する舞のような艶やかさではない。
 美しく舞う姿は、何度も見た。人々を励ますような、元気付けるような舞は何度も見た。それは誰にも真似はできない、チハヤにしかできないものだと。しかし不思議だ。何が違うのか。いつもと表情が違う以外に、何かが違う。厳かで、強い。神に捧げる舞というよりも、神そのものではないかと思うような、波のない、強い静謐さがあった。
「竜の舞、か……」
 隣で同じくチハヤに目を向けていたザンゲツが、小さく呟いた。思わず見上げるミズチに気付いた様子だったが、一瞥しただけですぐにチハヤに目を移した。
「今日の任務、あてられて良かったな」
「……何それ。チハヤと一緒だから?」
「……いい。気にするな」
 言って、チハヤの舞を注視していた。



 舞が終わる頃、隣を見るとザンゲツは既に姿を消していた。任務にあてられた場所に戻ったのだろう。「綺麗な舞だ」「あれがワダツミの舞か、美しいものだなあ」広場からは、口々に賞賛の言葉が飛び交う。チハヤの舞は誰の目にも美しく映ったのだろう。賞賛の声に、ミズチの鼻が高くなる。そうだろう、チハヤの舞は凄いんだ。ワダツミでは誰もが綺麗だって、美しいって讃えていて…
 ふと、寂しくなった。見た事のないチハヤの舞に、動揺しなかったわけではない。嫌だとは思わなかったが、自分ですら見た事のない舞を、チハヤを知らない大衆が初めて目にして口々に称える。チハヤのいつもの舞を知らないのに、どうして手放しに褒められるのだろう。もっと見て欲しい。もっと知って欲しい。
 そう思う反面、ザンゲツがぽつりと漏らした「竜の舞」という言葉が、なんとなく頭の片隅に引っかかった。竜の舞など、聞いた事も、ましてや見た事もない。なぜそれを、あのザンゲツが知っているのか。
「なんなんだよ……」
 苛立ちを小さく声にしてしまったが、風に紛れて聞く者は一人もいない。八つ当たりでもしてしまいそうだ。
 何を怠けている、と言ったザンゲツの声を思い出す。腹が立って、勢いよく広場の中を見回した。
 ワダツミでは折り紙という独特の遊びがある。一枚の紙を何度も折りたたんで、様々な物の形を模す。広場にはその折り紙でできた兜を被った子供達が大勢いた。いずれも、見分けやすいようにだ。ミズチは、折り紙の兜を被っていない子供を探す。広場の端、まだ折り紙の兜を被っていない子供達が、興味深げに広場を覗き込んでいた。これは任務を全うする好機だ。
 子供達に駆け寄ると、花が咲いたようににこりと笑って見せた。
「お腹空いてない? 向こうでワダツミ食配ってるんだ、無料だから皆で食べにおいで!」
 始めびくりと脅える子供達だったが、食べ物と聞くと緊張を緩ませた。
「ワダツミ、食……お金、いらないの?」
「ああ、今日はワダツミの童の日の催しだからね。ワダツミの文化を皆に知ってもらおうって、配ってるんだ。いくらでも食べていいよ、今日は君たちみたいな子供が主役の日だから!」
 笑って見せると、子供達の顔にも花が咲いた。それほど身なりが整っているとは言えない。サガの竜災から少しの時間が経ちある程度の復興は進んでいるとは聞いていたが、全てに支援や復興の手が回っている訳ではない。衣服にすら手を回せない子供達の腹は、どれほど空腹を耐えていたのだろう。嬉し気に立ち上って、そわそわと見回した。
「あっちで炊き出しがあるんだ、ちょっと…いやかなーり、怖いおじさんがいるんだけどね。大丈夫、取って食う訳じゃないから! あっちに行けば分かるよ、行ってらっしゃい!」
 送り出すと、子供達は笑って手を振り走って行った。
 炊き出しが行われている場では、先程盆を持って叱りに来たザンゲツが主導し炊事している。
 似合わない。そう思ったいたが、ミズチが見送った子供達を炊き出しの場に迎え入れるザンゲツの顔に、先程ミズチを叱った厳しさは微塵も残っていなかった。
「おお、よく来た! 腹が減ったろう! ワダツミの伝統の料理だ、味わって食うて行けよ!」
 始めて会った時とはまるで違う、太陽の陽のように笑う顔は暖かく、人好きする好青年だった。納得いかず、ミズチはまた拳を固めた。



 童の日の催すにあたって炊事を行う人員も必要だったが、率先して手を上げたのはザンゲツだった。警備をする任務に就くと誰もが思っていたが、「料理なら任せておけ」と嬉し気に言うザンゲツに誰もが度肝を抜かれた。試しに作らせたワダツミ食は確かに美味く、懐かしい故郷の味にうっかり涙が出そうになった。

 忘れようもない。ザンゲツは、チハヤを攫おうとした男だ。復興の為尽力するチハヤを自分の礎にし、ワダツミを武力で支配しようとした男だ。どうして今更協力など。そう憤っていたミズチをなだめて同じ任務に就くよう手を回したのは、他ならぬチハヤだった。ザンゲツの武力に押さえ付けられようとしたチハヤがどうして。ザンゲツの武力を否定したチハヤがどうして。
 チハヤを攫った時のザンゲツの恐ろしさは、今でも目の奥に焼き付いている。炎を携えて振るわれる杖は全てを焼き払い、立ち向かう事などできない。チハヤの護衛の筈が、情けない。立ち向かう術もなく足はすくんだ。圧倒的な力が怖くて、自分勝手にチハヤを攫おうとする傲慢さに腹が立って、チハヤを守り切れない自分が情けなくて。
 再び召喚された先でザンゲツと顔を合わせた時、どうしても許せない自分がいた。



 炊き出しの場で子供達を迎え入れたザンゲツは、まるで太陽のように笑っていた。見た事もない。あれは誰だ。まさかチハヤを攫った男ではない筈。あの男に、こんな人間らしい面などある筈がない。
 未だに憎さが腹の底で煮え滾っている。どうやって忘れろと言うのだ。一度刻まれた恐怖心、嫌悪は、そう簡単に取れるものではない。人好きするあの笑顔など知らない。自分達には見せた事もない、善良の塊のような笑顔など。
「ミズチ、怖い顔をしていますよ」
「チハヤ!」
 振り返ると、口元を押さえて静かにチハヤが笑った。先程の厳かな、強さのある舞を踊っていた人物と同じだとは思えない、少女のようなあどけなさがいまだ目元に残っている。
「怖い顔でザンゲツを見て。どうかしたのですか?」
「どうもしないよ」
 思いがけずチハヤの口からザンゲツの名が出たことに動揺する。ふいっと目を逸らすが、チハヤはまだ、嬉し気に笑っていた。
「任務の方はどうですか、子供達もほとんど兜を被っていますが」
「うん、まあまあ終わってきてるかな。ご飯貰った子達には炊き出しでザンゲツが兜を被せていってるから、貰ってない子に抜けはない筈」
「そのようですね、皆お腹いっぱいな顔をして兜を被っている。良い童の日となりそうですね」
 催し物として、舞台ではチハヤがワダツミ伝統の舞を披露する。広場では眺めているサガの民の中から、ミズチが子供達を優先的に炊き出しの場へ案内する。案内された炊き出しでは、ザンゲツが料理と共に子供達に折り紙の兜を被せる。そのような流れとなっていた。ワダツミ由来のものならば案はいくらでもあった。広場中央に掲げられている今回の目玉である大きなコイノボリ、それを模した手の平ほどの大きさのコイノボリを配るという手もあった。ワダツミの玩具であるカザグルマもある。タケトンボ、アヤトリ、オテダマ。その中で「これならば手軽に多く作られるだろう」とザンゲツの案があり、折り紙の兜が配られる事となった。
「あの者がワダツミ食を料理出来たという事も驚きですが、夜通し兜を折っていたというと。印象が変わってしまいますね」
 むっとするミズチの顔を見て、更にくすくすと笑った。
「……チハヤ、疲れてるでしょ。こっち座って水でも飲んで」
「ありがとうございます、少し休んだらまた舞台に戻るのですが」
 不貞腐れながらも、舞を終えたチハヤを労う事は忘れてはいけない。きりりと顔を引き締めて腰掛けを促すと、チハヤは丁寧に頭を下げた。
「本当に、綺麗な舞だった。いつもと違った感じで、凄く綺麗だった。何て言えば良いんだろう、綺麗なんだけど、凄くかっこよくて……」
「ふふ、ありがとうございます。この日の為に、一生懸命練習したのですから」
「かっこいいって言うのはもしかしたら失礼かな。でも、凄くかっこよかった」
「また踊ります、是非、見ていてくださいね」
 綺麗と言われた事か、かっこいいと言われた事か。やや恥じらいの残る笑みはやはり少女のもので、嬉し気な目尻はやや赤らんでいた。荒んでいた心が段々と和らいでいるような気がした。
 チハヤは居住まいを正すと、ミズチに向き直った。
「ミズチ、童の日にこの任務を、そなたと共に受けられて本当に良かった」
「え、何? どうして?」
「ワダツミが滅ぼされてからは復興にかかりっきりで、そなたにぴったりの童の日をまともに楽しむ日がなかったと、ずっと思っていました。それを今日、一緒に過ごす事が出来て、そなたにあの舞を見せる事が出来て、本当に良かった」
「僕に、ぴったりの……」
 ぐっと、胸の奥が濁った。先程ザンゲツが言っていた事と似ている。
「どうかしたのですか?」
「竜の、舞……?」
「えっ……分かったのですか、ミズチ」
「ううん、さっきザンゲツが、そう言ってたから」
「ザンゲツが……成程、流石は、巫女の私を必要とした者です」
 感心したようにチハヤが呟いた。胸の奥の濁りが強くなる。これは一体なんという感情なのか。再会してからのザンゲツは今までと違う。ザンゲツに襲われた張本人であるはずのチハヤは今回の任務の中でザンゲツを敵視している様子はなく、ザンゲツもまた、任務にしか興味がないとでも言うようにミズチやチハヤと接する機会を少なく持っている。何なんだ。これは、何なんだ。
「……今回の任務、あてられて良かったなーとも言ってた」
「そうですか、そんな事を……」
 予想外、とでもいう顔は先程直接言われたミズチよりもその意味を把握しているような。ザンゲツへの敵対心なのか。チハヤとずっと共にいるのは自分の筈なのに、二人で分かったような顔をして。
 悔しくて、唇を噛んだ。ザンゲツは敵の筈だろう。どうして、チハヤは分かったような大人な顔をして、同じ任務に就く事に納得できるんだ。あのザンゲツが、怖くないのか。
「ミズチ、童の日の逸話を聞いた事はありますか?」
「童の、日?」
 唐突に、予想だにしない質問を投げられた。
 童の日。それは、男子の健やかな成長を願う日。その将来の出世を願う日の筈。それが、今回の任務にミズチがあてられた事と、何の意味があるというのか。
「川の流れに逆らって泳ぐ鯉がやがて滝まで至り、滝を泳いで登る勢いそのままに竜にまでなる。滝を登る鯉の力強さ、天に至り竜となる進化、それが男子の成長と出世を願う象徴として、コイノボリが掲げられるようになったのです」
「へえ、竜に」
 広場の中心に高々と掲げられたコイノボリを思わず見上げた。黒い体のあちらこちらにちりばめられた金が光を反射して、強い風に抗うようごうごうと空を泳いでいる。成程、あれが竜になるものだと言われれば納得する。
「そなたはワダツミのミズチ、竜でしょう。我がワダツミが誇る、立派な竜。この竜の国で竜を模した童の日を見届けるのに相応しい、竜。そうは思いませんか?」
 嬉し気に笑うチハヤに面食らった。この竜の国は、一度竜の怒りに触れて滅ぼされようとした。そのサガの復興を助けるために催された童の日が、竜になる鯉を掲げる日だとは。そしてミズチを竜に見立て、見届け人にするとは。
 鼻の奥がつんと痛んだが、チハヤは笑っている。静かに、堪えた。
「なので、私の今日の舞は、ミズチ、そなたなのです。しなやかに滝を登る鯉、厳かに天へ至る竜。子らの発展と健やかな成長を期待するこの日、竜の国サガで、竜の子の前で舞う。光栄ではありませんか」
「だから、ザンゲツはチハヤの舞を竜だって言ったんだね」
「ええ、きっと。あの者も分かっている筈です、私達のワダツミを愛する者同士ですから」
 また、先程と同じ濁りが胸の中を占め始めた。
 チハヤとずっと一緒にいたのは自分だ。ザンゲツではないのに。どうして、自分には分からない事を、二人が分かり合っているような顔をするんだ。子供だから分からない、子供だから理解できないなど、そんな筈はない。家族を亡くしてからも、立派に生きてきたんだ。
「チハヤは、さ。ザンゲツの事、許せるの? 一緒の任務、嫌じゃないの?」
 過去に因縁のあった者、関わりの深い者と共に召喚されるなど多々ある事。タブーのように扱われているが、どうしても、聞かずにはいられなかった。更にチハヤは、ザンゲツに攫われた張本人。今回の任務に、何も感じない事はない筈だ。
 聞くと、先程まで笑っていたチハヤがふと顔を曇らせた。目を伏せ、口元を袖で隠す。一瞬だけ、ミズチの胸の濁りが消えた気がした。が、それもほんの一瞬だった。
「そうですね、難しい問題ですが……」
 どう言うべきか、と迷う。ですが、と切られた言葉に、濁りごとぎゅっと胸を締め付けられた。ああ、チハヤは、ザンゲツを否定していない。

 難しい問題ですが、現状はサガの復興を手伝い、その為に尽力しているのは私達も、ザンゲツも同じ。だから、今この瞬間の彼を否定する事はありません。あの者がする事と、私達がしようとしている事、一致しているからこそ今は手を取り合い協力する事が出来る。

「炊き出しで率先して手を上げるとは思っていませんでしたが」
 一つ一つ丁寧に選ぶチハヤの言葉が、耳を滑る。
 ずっと敵だと思っていたザンゲツを、ただ意見の一致しない者として捉えていたのだろうか。協力関係になってから違う一面を見せたザンゲツに、親しみさえ持っているように見える。あの時も、ザンゲツと協力する場面さえ違っていれば、もしかすると。
「さて、十分休めました。私も腰を上げなければいけませんね」
「もう行くの」
「はい、舞を待っている人々もいますし。次もちゃんと見ていてくださいね、天に上る竜の舞を」
「うん、わかった」
 頷くと、チハヤに花が咲いた。煌びやかな色を残す艶やかな着物をはためかせ、舞台に戻っていく。綺麗なその後ろ姿は舞台上でなくとも誰の目も惹き付け、何人もが振り向いた。舞台に映える美しい着物に負ける事なくしゃんと伸びた背筋は、チハヤにしかできない佇まいだろう。
「僕が、子供なのかなあ」
 家族を失って、それでも一生懸命生きてきた。しかし、一生を終える間に学べる事は多くはなかった。自分には受け入れられないものを、チハヤはあっけなく受け入れる。自分の計り知れない場所でわかり合っているような顔をして。
 置いて行かれるのは一度ではない。それでも、その寂しさには慣れないものだ。ミズチは、濁った胸に手を当てぎゅっと握った。



 舞台に、小太鼓や大太鼓、笛や三味線を持った男が並ぶと、広場が歓声で沸いた。人前に出てから音慣らしをする事はない。全員が座布団の上に座ると、息を合わせて音楽を作った。とんとんとん、鳴る小太鼓に混じって大太鼓が拍子を付ける。頭上で泳ぐコイノボリの音を表現するように、笛が力強く鳴った。弦を弾かれた三味線は主旋律を作り、広場の端の耳まで惹き付ける。やがて、チハヤの舞が始まる。
 惚けて見ていると、不意に、ごんと頭に何かを乗せられた。
「いってえ!」
「休憩だ、そなたも食え」
 振り返ると、ザンゲツが風呂敷の包みを持って見下ろしていた。
「なんっだよ、いちいち頭を狙うなよ! ザンゲツ!」
「何、丁度良い高さだったのでな」
 ふんと鼻を鳴らすと、顎で広場の中の腰掛けを指した。ミズチを座らせ、その隣にザンゲツも座る。風呂敷を解くと、重箱が出てきた。上段をミズチに渡し、ついでに箸も手渡す。
 何でお前と食べなきゃいけないんだ。思わず文句を言いかけたが、重箱の下段を膝に乗せ丁寧に手を合わせるザンゲツに、ぐっと口を噤んだ。ワダツミのその習慣を久しぶりに見る。悔しくなって、叩くように手を合わせた。
「頂きます!」
 面食らったようにザンゲツが目を見開くが、すぐに細められた。倣うように、小さく口の中で呟く。
「頂きます」
 言って、箸で選り分けた大きな一口分がぶりとくわえた。炊き上がったばかりの飯を詰めてきたのだろう、まだほのかに湯気の立つ食事は冷まさずに食べるのは難しい。はふ、と口の中で具を転がすと、じっと見つめるミズチに気付いた。数度噛んだ程度ですぐ飲み込み、ミズチの重箱を見やる。
「早く食え、舞が始まるぞ」
「わっ分かってるよ!」
 ザンゲツの大口に負けじとがつがつとかき込む。また大きく一口口へ運んで咀嚼しながら暫く見ていたが、ザンゲツもミズチと同じく重箱を傾け、数分とかからずぺろりと食べきった。
 涙が出そうになった。大嫌いな男から、大好きな故郷の匂いがする。間違う筈がない、これは、幼い頃母が作ったワダツミの味だった。
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