寝ないで歌う子守唄
ぱちりと焚火の火が揺れる前。ザンゲツが小さな声で歌った。低く、とても穏やかな声で。抑揚はそれほど目立たず凪いでいる唄だが、遠い海まで滑るように、とても穏やかで伸びやかだった。唄の中身の言葉を聴きとれるかどうかの小さな声。リオンは先程まで目的もなく爪弾いていた弦の楽器を片付け立ち上がると、ザンゲツの座る側に移動しすとんと並んで座り込んだ。
「りおん」
「いい、続けろ」
何の事かと首を傾げるが、ぴたりと楽器の音を止めたリオンが求めるものとは。すぐに先程の唄かと思い至り、また初めから歌い出した。今度は口の中で噛むように音を消さず、一つ一つの言葉を丁寧に紡ぐように。幼い頃に母に聴いた、故郷の子守唄だった。周囲の人間が怖くて眠れない夜。母の体が心配で眠れない夜。気付いた母がすぐに側へ寄り、暖かい布団の中で寄り添って歌ってくれた。とても暖かな唄だった。
「…良い唄だ」
「本職の唄に敵いはせん、我の唄には何の力もない」
「唄ではない力を持つ者がよくいうものだな」
鼻で笑い、背中を丸めてザンゲツの顔を横目で見た。
「故郷の唄か」
「ああ。そなたには難しい言葉だったか」
「言葉が難しくとも音楽なら分かる。好きな唄なんだろう」
「……母がよく歌った唄だ。耳に馴染んでいてな」
「……ああ、私にもそういう歌がある」
「そなたの子守唄がそうなのだろう」
「ああ。分かるか」
「他の唄との毛色が違う」
笑って言うと、リオンの頬も穏やかに緩んだ。思い出の中身など、お互いに知りはしない。話した事もない。だが、感覚で伝わるものがきっと唄にはあるのだろう。幼い頃に母が寄り添って歌ってくれた暖かい思い出も、母が床に臥せている時に歯を食いしばるザンゲツを慰めるよう歌ってくれた胸の詰まる思い出も、きっと音程となり拍子となり、形を成してこの場所の空気を作り上げる。
「唄は、人から人へ伝えられていくものだと私は思う。お前に子守唄を歌った者が、何を思ってこの唄を残したか。お前が、何を思ってこの唄を残すのか。きっと、昔から伝わって残っている唄には多くの意味があるのだと思っている」
「何を考えて、か……」
母が何を思ってこの唄を歌ったのか。穏やかに耳に響いた歌には、きっと曇りも濁りもない、柔らかな愛情があったのだろう。だからこそ、この胸に優しく残っている。
それを、ふと歌いたくなった今日の心はなんなのか。何かを思って、残そうとしているのだろうか。
「それと、一つな。お前は自分の唄には何の力もないと言ったがそれは違う」
「何?」
「何も、戦場で力を与えるのが唄ではない。誰かの心だろうが自分の心だろうが、空気となって、耳から肺から入り込み揺り動かすのが唄だ。これは私の考えではない、この世の理のようなものだ」
「……難しい事を言う」
本職の言う言葉は往々にして納得できる言葉と理解に追いつかない言葉があるが、これは半々だ。母が歌った子守唄も、きっと思い出となり今の自分の心を揺り動かしているという事か。先程歌った唄も、きっとそうなのだろうか。
「唄、か」
「唄は誰にでも歌える。だが、通じる者や響く者が限られてくる。それが唄だ」
言いながら、かたん、と先程片付けた弦の楽器を取り出した。結んでいた紐を解き、覆っていた布を取る。数度ぽろりぽろりと指先で弾くと、音を止めてザンゲツの顔を見た。
「良い夜だ。もう一度歌え」
「……ああ」
返事をし、一つ深呼吸をする。吟遊詩人の前で唄を披露すると思うとひとかけらの緊張が混じるが、歌を待つリオンはただ静かに夜の虫の音を聴いていた。
故郷のワダツミを思う。死んだ母を思う。聴くリオンを思う。いくつもの思い出のこもる唄に、また一つ新たな思い出がこもる。静かに歌い始めた唄に、柔らかな弦の音が混じった。慣れ親しんだ唄が、まるで新しいものに感じる。
なるほど、人か自分の心を揺り動かすものが唄。この世の理なのかは分からないが、きっと大きく違ってはいないのだろう。
古い音を掘り起こし自分の心を揺り動かす唄。それがきっと、聴いているリオンには新しい音となってその耳に肺に入り込む。音とは不思議なものだ。思い出とは不思議なものだ。生きた時間を思い出を、誰かと同じように感じ取れるものだ。出来るのなら、聴いている者の心にも、母にあやされたあの穏やかな時間を分け与えてやりたい。
弦の音が響く。低い男の声が響く。穏やかな夜、子守唄が柔らかな空気に変わった。
「りおん」
「いい、続けろ」
何の事かと首を傾げるが、ぴたりと楽器の音を止めたリオンが求めるものとは。すぐに先程の唄かと思い至り、また初めから歌い出した。今度は口の中で噛むように音を消さず、一つ一つの言葉を丁寧に紡ぐように。幼い頃に母に聴いた、故郷の子守唄だった。周囲の人間が怖くて眠れない夜。母の体が心配で眠れない夜。気付いた母がすぐに側へ寄り、暖かい布団の中で寄り添って歌ってくれた。とても暖かな唄だった。
「…良い唄だ」
「本職の唄に敵いはせん、我の唄には何の力もない」
「唄ではない力を持つ者がよくいうものだな」
鼻で笑い、背中を丸めてザンゲツの顔を横目で見た。
「故郷の唄か」
「ああ。そなたには難しい言葉だったか」
「言葉が難しくとも音楽なら分かる。好きな唄なんだろう」
「……母がよく歌った唄だ。耳に馴染んでいてな」
「……ああ、私にもそういう歌がある」
「そなたの子守唄がそうなのだろう」
「ああ。分かるか」
「他の唄との毛色が違う」
笑って言うと、リオンの頬も穏やかに緩んだ。思い出の中身など、お互いに知りはしない。話した事もない。だが、感覚で伝わるものがきっと唄にはあるのだろう。幼い頃に母が寄り添って歌ってくれた暖かい思い出も、母が床に臥せている時に歯を食いしばるザンゲツを慰めるよう歌ってくれた胸の詰まる思い出も、きっと音程となり拍子となり、形を成してこの場所の空気を作り上げる。
「唄は、人から人へ伝えられていくものだと私は思う。お前に子守唄を歌った者が、何を思ってこの唄を残したか。お前が、何を思ってこの唄を残すのか。きっと、昔から伝わって残っている唄には多くの意味があるのだと思っている」
「何を考えて、か……」
母が何を思ってこの唄を歌ったのか。穏やかに耳に響いた歌には、きっと曇りも濁りもない、柔らかな愛情があったのだろう。だからこそ、この胸に優しく残っている。
それを、ふと歌いたくなった今日の心はなんなのか。何かを思って、残そうとしているのだろうか。
「それと、一つな。お前は自分の唄には何の力もないと言ったがそれは違う」
「何?」
「何も、戦場で力を与えるのが唄ではない。誰かの心だろうが自分の心だろうが、空気となって、耳から肺から入り込み揺り動かすのが唄だ。これは私の考えではない、この世の理のようなものだ」
「……難しい事を言う」
本職の言う言葉は往々にして納得できる言葉と理解に追いつかない言葉があるが、これは半々だ。母が歌った子守唄も、きっと思い出となり今の自分の心を揺り動かしているという事か。先程歌った唄も、きっとそうなのだろうか。
「唄、か」
「唄は誰にでも歌える。だが、通じる者や響く者が限られてくる。それが唄だ」
言いながら、かたん、と先程片付けた弦の楽器を取り出した。結んでいた紐を解き、覆っていた布を取る。数度ぽろりぽろりと指先で弾くと、音を止めてザンゲツの顔を見た。
「良い夜だ。もう一度歌え」
「……ああ」
返事をし、一つ深呼吸をする。吟遊詩人の前で唄を披露すると思うとひとかけらの緊張が混じるが、歌を待つリオンはただ静かに夜の虫の音を聴いていた。
故郷のワダツミを思う。死んだ母を思う。聴くリオンを思う。いくつもの思い出のこもる唄に、また一つ新たな思い出がこもる。静かに歌い始めた唄に、柔らかな弦の音が混じった。慣れ親しんだ唄が、まるで新しいものに感じる。
なるほど、人か自分の心を揺り動かすものが唄。この世の理なのかは分からないが、きっと大きく違ってはいないのだろう。
古い音を掘り起こし自分の心を揺り動かす唄。それがきっと、聴いているリオンには新しい音となってその耳に肺に入り込む。音とは不思議なものだ。思い出とは不思議なものだ。生きた時間を思い出を、誰かと同じように感じ取れるものだ。出来るのなら、聴いている者の心にも、母にあやされたあの穏やかな時間を分け与えてやりたい。
弦の音が響く。低い男の声が響く。穏やかな夜、子守唄が柔らかな空気に変わった。
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