メルヴィの一人言

“こちら一番隊、定時の連絡をする。王宮の上空旋回中、目視にて異常は見当たらない。サガからの輸送竜は予定の変更なく、明日の午前、西より入国予定。詳細な時間は未定。西側上空を巡回する隊へは、姿を目視次第連絡するよう伝達はしている。以上……ん、なんだ、念話はちゃんと届いてるのか? おーい。なんだ誤送信か?”

 好奇心から初めて念話を傍受した時、厳しい声が一転、間の抜けた呼びかけになったのを今も覚えている。防空魔道士の念話が傍受できたならば、大層面白いスクープが手に入る筈。上空は隙だらけと侮っているお偉方ならば、自分の秘密どころか誰かの秘密事も溢してくれるのでは。できるだけ高い屋根を探し、寒い思いをしてよじ登ったのだ。何かしらの成果がなければ満足できない。学校帰りのアルマは、そうやって初めての傍受を試みていた。
“あれ、本当に誤送信か。さてさて、どうしたもんか。しかし別の奴が聞いているなら問題ないか。できればそのまま聞いていてくれないか”
 大らかな声があっけらかんと言う言葉に、ばれたかとぎくりと身を小さくした。が、そうではないらしい。
“なあ、ビーナス。ああ、一人言だから呼び方なんて細かい事気にするなよ、昔のよしみだろ。なあ、だから私の一人言にちょっと付き合ってくれ”
「……ビーナス?」
 アルマは首を傾げた。防空魔道士は恐らく傍受には気付いていない筈。自分ではない誰か、それも親し気に名前を呼んで語り掛けている様子だった。しかし、呼ぶ名前に違和感を感じたのは言うまでもない。ビーナスと。彼女は、まさか、国王の名を呼んだのだろうか。
 いや、流石にそんな筈は……。
 振り払い、傍受に専念する。
“ビーナス、おーい、ちゃんと聞こえてるのか? まったく、いつもいつも無視するんだから。まあ公務中に私的な念話をしてるのを女王陛下に直々に注意されるよりかマシか。うん、そうだな。返事されちゃ罰食らいそうだし、そのまま黙っててくれ”
 防空魔道士の言葉に、返事をする者はいない。
“今日も、というかいつもだけどな。雲が厚くて空なんかなーんも見えない。国の端っこまで行けば雨も降るしオーロラも見えるらしいが。まあ私もそこまで暇じゃないからな、持ち場を離れて空を見に行くなんてできやしないんだが。久しぶりに見たいな。星空でも青空でもいい。空が見たいな”
“……昔見た夕陽、懐かしいな。ルストで見れた最後の夕陽だったか。私は、まあ国の端っこに行くなりこの国をこっそり出て見に行く事なんか簡単にできるが。それを、ビーナス、君はもう見られないのかも知れないと思うと……いや悪いな、変な意味じゃない。私達が生きているうちにこの国の雲が晴れるか、君が国外へ行くか。どちらかしないと、夕陽は見られない。なんだか寂しい気がしてさ。いつかまた一緒に夕陽を見られたら良い、なんて言うと無責任だな。うーん……この話やめだ! じゃあな! 私は見回りに行く!”
 防空魔道士がそう言うと、念話はぷつりと途切れた。見上げると、遥か遠くの空に一人の魔女が飛んでいる。あの魔女が喋っていたのだろうか。ビーナスという、国王と同じ名の者に対し一人で延々と。
 返事もないのによくやるものだ。
 しかし、引っかかる話は多くあった。厚い雲のかかるルストブルグ、夕陽など、文献でしか見た事はない。防空魔道士の話では、遠い昔、まるでその目に映したかのように言っていたが。
「うーむ……謎だ……」
 一人首を捻った。やがてこの屋根を知らずに貸してくれている住人が帰宅する頃。雲の向こうでは陽も沈んだようだ、肌を刺すような寒さに磨きがかかる。
「うううーっさむさむ!」
 比較的暖かい手の平で反対の手の指を包み込み温める。夜はまた別の情報が飛び交う場所に潜り込む予定がある。防空魔道士の独り言も気にはなるが、掴めるかも分からない情報よりもスナック感覚で頬張れる噂話。人目につかない道にそろりそろりと降りると、アルマは人混みへと溶け込んでいった。

“あー、あー。こちら一番隊隊長メルヴィ。先日報告したサガの行商人は午後には荷運びを終えて飛び立つとの事。荷物点検するが特に危険物は見られなかった。そのまま帰す……ん、あれーまた念話の送信先間違えたかー?”
「うーん……こりゃー……」
 わざとだな。アルマは頷いた。昨夜と同じ時間、昨夜と同じ屋根の上に潜んだアルマは、念話の気配を探って待っていた。何度か防空魔道士同士のやり取りはあったが、どれもただの業務連絡。一人言を垂れ流す防空魔道士の声が聞こえた瞬間ぴんと背筋を伸ばしたが、その声の様子に思わず笑ってしまった。他の防空魔道士と比べて、報告をする時の声のトーンが違う。それに、念話の誤送信など、他の防空魔道士は一度たりともする気配はなかった。あの防空魔道士、メルヴィは前日も一番隊と名乗っていた。そのようなヘマを繰り返す程低能な者ではない筈。ならば考えられる事は一つ。ビーナスという返事をしない者相手に、延々と一人言を聞かせ続けている。
「防空魔道士って暇なのかな」
 一人ごちたが、時間は昨日も今日も夕暮れ。防空魔道士達も、やがて勤務を終える時間帯なのだろう。
“ああ、まあ誤送信でもいいや。な、ビーナス。この間話した新人の話覚えてるか。えーっと、そうだな、確か国境沿いの地上の警備兵と、勤務中仲良さげに話してたから雷落としたってとこまでは言ったか。今日も勤務中人目を盗んで遊びに行ってたから、皆が見てる手前また雷は落としたんだが。いやあ、左遷された国境警備兵と仲良くなるエリート防空魔道士なんて面白い話じゃないか?”
 なんと。予想外に望んでいたスキャンダルの類が口に入ってくるとは。アルマは目を輝かせた。
“今西側の国境警備についてるのって、確かあれだろ、魔法の才能はあったのに宮廷魔導士のスカウトを蹴ったあの男。恐らくこの国で最後の、魔法を使える男だろうに。しかし、男も女も空に飛びあがって楽しそうに駆けてる姿なんて何十年……いや百年以上ぶりに見たよ。魔女が恋なんてって咎められる世の中だが、あれは見ていて気持ちの良いものだ”
 なるほどなるほど。防空魔道士と、この国最後の魔法が使える男の恋。なんとスキャンダラス! 一瞬きらりとアルマの瞳が輝くが、つらつらと語る防空魔道士、メルヴィの声は曇った。
“しかしあの子がそのうち、暗ーい顔して妊娠の報告に来る事を考えるとね。やっぱり、悲しいものがあるね。なんせ優秀で美人が多い防空魔道士だ、子を残すんだって躍起になってる奴も多くいるが、妊娠して地上に戻っていく者も多い。あの新人も暗い顔でいつか地上に戻るのか、なんて考えると、ね”
「……」
“うーん、今度国境警備兵の顔見に行ってみようかな。新人以外誰もその顔を知らないなんて可哀そうだしな。あっこれも隊長としての気遣いなんだからな! 貴重な隊員がいつでも気軽に職場復帰できるような環境にしておかなきゃな”
「あちゃー、一番隊の隊長さんだったのか……」
 傍受していた相手が予想外に防空魔道士として重要な席についている者だと知り、ぺちりと額を叩いた。二日連続と傍受に成功してはいるが、そのような相手ならばこれまで以上に気を付けなければ。
 しかし、魔法を使える国境警備兵と防空魔道士の恋。話題のタネとして十分な大きさだが、おいそれと話題にしても良いものなのだろうか。静かに首を捻った。
 国境に左遷された男は、ブルームエースに乗れる魔女と違い移動手段が限られている。その為、男が市外から遠く離れた国境へ勤めに出されるという事は、孤独で、娯楽も何もない場所に一人ひっそりと暮らす事になる。そんな男の前に空から現れた魔女。それは、恋にも落ちるだろう。
「いいネタだけど……いやあ、邪魔はできないよねえ」
“しかし、良いものだな、自分より年下の隊員たちが次々に母親の顔になるのは。人間は強いな、ビーナス”
 言うメルヴィの声は優しい。まるで優しい過去を懐かしむ様に柔らかな声を出すものだ、とアルマは見上げた。昨夜と同じように、一人の魔女が悠々と、まるで雲が流れるように空を飛んでいる。
「母親、ね」
 ぐう、とアルマの腹が鳴った。
 母親という、優しく守ってくれる者などもういない。いなくなる前から、母親の分まで稼いで生きてきた。昨夜からネタの面白さに惹かれ面白半分に聞き入っていたが、それでは腹は膨れない。ポケットを探ると、少ない小銭がちゃりんと音を立てた。さぼった分を巻き返さねば、今日も明日も飯抜きだ。
「よおっし、噂話仕入れてきますか!」
 メルヴィの念話は続いていたが、空腹には勝てない。伸びをすると、アルマはそろりと屋根を降りていった。

「ううー、ひもじいよー、寒いよーっ」
 まさか三日も飯抜きで過ごすとは思ってもみなかった。人だかりを渡り歩けど舞い込む情報は健康の豆知識、簡単にできるディナーのレシピ、流行のコートの色とありきたりなものばかり。取り立てて騒ぐ情報がない事は平和な証だが、それを売りにする者にとっては退屈でつまらない、そして腹の膨れない日常だ。
「もうだめだーっ今日はもう寝る……寝るったら寝るんだい……ああーっお腹空いて寝るのも出来ない!」
 空腹に、ぐわっと手を振り上げて喚いた。そんな事をしたとて、通りすがる人々は不思議そうに眺めているばかり。噂話を漁りに行く気力も湧かない。
「メルヴィさん、だっけ。今日もやってるのかなあ」
 まるでラジオを聞く感覚で。先日上った屋根の高い民家を遠目に見る。試しに人込みの中で傍受できないかと神経を尖らせてみたが、雑音が多く、念話を聞き取る事は難しい。
 何の収穫のない、食事もまともに取れない、そんな日。せめて、シャワーのような心地いい言葉を浴びたい。そんな思いが、アルマの足を向かわせた。

“……っかーっ! 酒うっまいなー! ビーナスも飲めばいいのに! こーんなに美味しいもん飲まないなんて王様は夜中まで大変だよなーっ”
 ようやく辿り着いた屋根の上、メルヴィは既に賑やかな声で酒を煽っている様子だった。見上げるが、空に魔女の姿は見えない。とうに日も暮れた時間、流石に飲酒飛行をしながら念話を送っている訳ではないようだ。
「いいなあ、こんなの余計お腹空いちゃうよ……ああー、今日聞くのやめた方がよかったかな……でも楽しそうなのいいなあ……」
 斜めに流れる屋根の上、ひさしに腰かけて膝を抱えた。冷えた膝小僧に頬を乗せ、寒さにすんと鼻を啜る。
“空の上で酒飲んじゃいけないなんてもったいないよな。街の光がこんなに綺麗で、少し冷えた空気が気持ちよくて。酒の肴にできる。あー、まあ酔っぱらって落下する危険があるのは分かるけどな”
「防空魔道士の隊長のくせに」
 くっくっと喉の奥で笑ってしまった。返事のない念話を送り続けるメルヴィ、変わり者だとは思うが、不思議と波長が合うような気がする。きっちりと仕事をこなす面を時折見せながら、勤務の時間外だろうタイミングでは穏やかで気さくな顔を見せる。話す言葉に乗せられる、ビーナスと呼ぶ相手への気遣いが、盗み聞いている耳にも心地いい。
“ビーナス、また前みたいに一緒にご飯食べたいな。……なんて言うとなんだか、あー、恥ずかしいな。君が王様になる前、この国が雪に覆われる前、その時食べた、まっずいパン。懐かしくなったんだ。君は今、きっと毎日美味しいもの食べてるんだろうな。寂しくはないか? 一人で食べるご飯は味気なくはないか? 一緒に食べてやりたいが、君は王様だもんな”
「王様、ねえ」
 やはり、メルヴィが念話を送っている相手、ビーナスはこの国の王なのだろう。そして、メルヴィは昔ながらの親しい間柄にある。メルヴィの一人言を聞く限り、そのような仲でもおいそれと会う事はできないのだろう。それで、せめてもの念話を送っているのだろうか。返事を聞けたことは一度もないが、それでも、メルヴィは話し続ける。
「王様、ちゃんと友達いたんだねえ」
 また喉の奥で笑う。ああ、やはりメルヴィの一人言は耳に心地良い。このまま眠れないものかとも思ったが、傾斜のある屋根の上では無理がある。今夜はこれで終わろうか。するりと屋根を降りようとした身に、あっとメルヴィの声が耳に届く。
“そういえば、最近の君の失恋相手なんだが……”
「なんですと!?」
 思わず大声を上げた。国王の失恋相手。思わず耳が大きくなる。
“サガへ帰っていったな。国に待たせている恋人がいるんだと話していたよ。いやあ、まあそういう事もあるさ。気を落とすなよ。まあ失恋も十回目ならそろそろ立ち直りも早いか? はっはっは”
「最近サガへ帰っていった、って言うと行商人かな!? 成程陛下は意外に恋多き方……!? いやでも陛下が就任して二百年は経つし、二十年に一度の恋なら寧ろ硬派……!? むむむっ」
 思わぬ収穫に胸が躍る。国王のスキャンダルが仕入れられるとは思ってもみなかったが、売り飛ばせるような代物でもない。しかし裏を取っておけば、いざという時の隠し玉になる。
「こりゃ楽しくなるね、あっはは!」
「コラッ! 人ん家の屋根で何やってんだい!」
「うっひゃあ!」
 思わず上げた笑い声に、屋根の下の住人がばんと窓を上げて怒鳴った。その勢いにうっかり足を滑らせかけるが、ひさしに掴まり何とか体勢を整える。
「ごっごめんなさーい! もう降ります!」
「ん、待ちなさいあんた」
 顔を出した中年の女性は、アルマの顔を見ると眉を寄せた。不審者か何かと予想していたのだろうか。ひさしにしがみつくアルマの手首をがっしりと掴み、ぐいっと家の中へ引き入れる。
「うわっとと」
「最近この辺にくる子だね、こんな痩せっぽちで……ご飯食べていきな、何も聞かないでいてあげるから」
「えっ、あーっそんなつもりはなかったんだけど……あの……」
「いいの、子供は遠慮せず甘えなさい」
 思ったよりも強い力で手を引かれ、そのまま室内へ足を踏み入れた。そこで、急に羞恥心が湧いてくる。三日は体はおろか服も洗っていない。みすぼらしい恰好で暖かな室内へ入ってしまった不釣り合いさに狼狽えたが、その様子に女性はため息をついた。
「お部屋の掃除手伝ってくれないかしら。その後でお風呂貸すわ」
「あっ……じゃあ! じゃあ特別に! 耳寄りな健康の豆知識情報! いかがっすか!」
 なるようになれと提案すると、一瞬目を見開いた女性がふっと笑みを作った。
「小さい情報屋さんなのね」

 それからも、何度かその家に立ち寄ってはこっそりと屋根に上ってメルヴィの一人言を聞いていた。大体は当たり障りのない日常の話。隊員の話。飲み屋で聞いた愉快な話。ただ一人、国王にだけ発信される筈の一人言を、盗み聞いては住民に見つかって夕食をご馳走になる。そんな日常を繰り返しながら学校生活をなんとか送り、やがて親友と共にアスモデウスを求めて空高くへ行く事となった。
 空から眺めたルストブルグは、かつてメルヴィが言ったように、光り輝いていて綺麗だった。きっと夜になればもっと一つ一つの光が力を持ち、美しく目に映るのだろう。メルヴィは、毎日こんな景色を見ていたんだと思うと、成程、誰かに伝えたくなる気持ちも分かる気がする。

「師匠! ちょっとでいいからよそ見してよー!」
「する訳ないだろう! 前みたいに念話で不意でも打ってみたらどうだ!」
「不意打ちしますなんて宣言してから念話攻撃なんてするわけないじゃんかー!」
「はっはっは! なら純粋な体の動かし方を覚えるんだな!」
 メルヴィの鋭い足払いが踏み均された雪の表面をざんと削る。思わず飛び上がって避けたが、まともに当たれば捻挫くらいにはなるだろう。離れて着地したアルマになおも一足で迫り、縮めた体からバネのような拳を繰り出す。ひゅっと息を飲み、両手で拳の側面を押して払った。
「よく対処できたな!」
「っ、まだまだ!」
 体勢を崩す事まで期待したが、多少弾いただけではメルヴィの体幹は揺るがない。とにかく掴まれてはおしまいだと距離を取るが、やはり一足で距離を詰められる。
「離れるだけでは終わらないぞ!」
「こん……っのお!」
 思わず、メルヴィの胸倉を掴んだ。この間合いはメルヴィの最も得意とする距離。一か八かだ。押してだめなら。
「うっ……わ、っと!」
 掴んだメルヴィの胸倉を、力いっぱい後ろに引っ張った。自分の得意とする近距離に飛び込んだ勢い、予想外にアルマに引っ張られる力に抗えず、体勢を崩す。雪面にどすんと背中から落ちたアルマに、掴み技で投げ飛ばされた。
「やりい!」
「っ……あー、一本取られたな」
 すとん、と。投げ飛ばされた瞬間にブルームエースに足を付けたメルヴィがため息をついた。
「う……一本取った気がしない……」
「いいや、ちゃんと一本さ。私でなけりゃ、投げ飛ばされてどこかしらぶつければ痛手になる」
「そっか、師匠は投げ飛ばしてもね。得意の空中に帰るだけか」
「そういう事。しかし良い線いってたぞ」
 雪に着地するメルヴィに、あーあと声を上げて雪に体を投げ出した。動いて熱くなった体に雪は気持ちいい。

 親友と共にアスモデウスを目指す道中、今まで声しか知らなかったメルヴィに会ったのには驚いた。ラジオの主という印象の強さに隠れがちになっていたが、魔法、体術に置いて隊長という実力を持っている。師事する事を望めば、思ったよりもあっさりと了解してくれた。

「さて、私も仕事に戻ろうかな」
「そっか、お仕事中だったもんね」
「可愛い弟子の為だ、それくらい安い注文さ」
 ばしんと背中を叩かれた。女性にしては大きく、力強い手。うっと呻くが、メルヴィは笑ってブルームエースに座った。
「あ、今日レベッカも来たいって話してた。時間が空くかは分からないって言ってたけど」
「何? そういう事は早く言え、私も勤務が終わる時間までにやらなきゃいけない事があるんだぞ」
「うーん、まあ確定じゃないし? 来る時は自分で来れるんじゃない? 師匠がいる場所もこの間一緒に来て覚えただろうし」
「それなら良いんだが」
 頷くメルヴィに、そわ、と心が動いた。時間が終わるまでにやらなければいけない事。長年続けていた、あの一人言。つい先日も聞いた。勤務の終わり頃にする習慣は今も残っている事は知っている。
 聞いてしまえば、きっともう二度とやらなくなってしまうのだろうか。そう思ったが、つい。好奇心に負けて。
「師匠、陛下に送ってる念話、未だに返事来ないの?」
「……んっ?」
 聞くアルマに声に、たっぷりと、数秒。時間をかけて、肩を跳ね上げさせた。体勢を崩し、ブルームエースから足を滑らせる。
「うわっ師匠マジか!」
「あっ、おっ、あ、アルマ、ちゃん? お前、お前何を……っ?」
 うまく柔らかい雪の上に落ちたが、頭から雪を被る様に普段颯爽と空を駆ける防空魔道士の面影はない。動揺し、ブルームエースを杖に何とか姿勢を保っている。
「いや、何でもないです」
「なっ何でもなくはないだろう! 待て帰るな!」
「ひえっ師匠こわあ!」
「お前、お前、念話を傍受したんだな!? とことんやる女だな!?」
「あっはーどうも!」
 てへ、と笑うアルマに、メルヴィはがっくりと肩を落とした。手の平を額に当て、きつく寄せた眉間をぐりぐりと押してほぐす。
「もしかして師匠から一本取った!?」
「ほおーう、一本取り返してやろうか」
「おっとすみませーん!」
「……ああ……しかし……どこから知ってるんだ、いや聞いたならどこからも何もないか。いや、恥ずかしい事を知られてしまったな……」
 ぐう、と唸る。夜な夜な親友に念話を送るなど、端から見れば中々強烈。しかしそれよりも、国王からの返事が一言でもあったのか。それだけが気になっていた。以前ならば国王としての立場がある為に返事をしていなかったとしても、現在は暫定として国王を務めている身。もしかすると、あの一人言に変化があったのではないか。そう思っていたのだが。
「うぐっ……そう……だな……いや、そもそもあれはな、ビーナスには届いていない」
「……んえっ?」
「誰に宛てた念話でもない。本当に、ただの一人言だ。お前のように、傍受しようとでも思わない限り、誰の耳にも入る事はなかった」
「えっ、でもいつもビーナスビーナスって」
「お前何回聞いてたんだ!」
 メルヴィが拳を固めたので思わずぴょんと一歩下がる。
「本当に毎回送られてはビーナスも迷惑甚だしいだろう、それくらい分かれ」
「分かんないよ、一緒にご飯食べようくらい言えば良いじゃん」
「待てここ数年はそんな事言っていない筈だぞ!? おいアルマ!?」
「やべっ」
 本格的にメルヴィの拳が飛ぶ。察知して飛び退くと、背後にいたレベッカに目が留まった。その側に立つ、ビーナスにも。
「レベッカ、と、……陛下……」
「あ、その、陛下も防空魔道士の仕事の役割についてここでお話してくださるというので……その」
「……」
 レベッカが来たいとは話していたが、ビーナスまで来るとは。それも、ドンピシャのタイミング。そろり、とメルヴィを振り返ると、まるで石化したようにびたりと息を止めていた。
「メルヴィ」
 ビーナスの透き通る声で呼ばれ、ぎくりと肩を震わせる。
「……っ、う、なんだ、ビーナス」
「妾に、何か念話で言いたい事があったと。今話していたようだが」
「……あー、その……」
 静かに、真っ直ぐ。凛と話すビーナスに、メルヴィが目を逸らす。どう言葉を紡ぐべきか迷っている。昔からの親友って言ってたのに、と小声で言うアルマをレベッカが肘で押した。
 言い淀むメルヴィに、ビーナスは目尻を和らげた。
「……ふふ、あの頃の不味いパンをまた一緒に食べたい、だったか」
「あ……あ、あっ、ビーナス、君って奴は! 君も傍受していたんだな!」
「そなたが延々と喋るものだから、寂しい食事などした事はない。しかし、言う事はあるのではないか」
 楽し気に口端を上げる。全身の血が沸騰したように熱い。かっと赤くなった顔を、両手で挟む様にばしんと叩いた。
「……っ、ああもう! アルマ!」
 怒鳴るように呼ばれたアルマが飛び上がる。ぎっと眼光きつく睨まれ怯むが、あまりの状況の面白さにどつかれてもお釣りが来る。
「へい! 何でしょうか、サー!」
「リズベットの店、私の仕事が終わる時間に貸し切りで予約! 全員私の奢りだ!」
「太っ腹あ!」
 アルマが笑うと同時に、ビーナスも薄く笑った。笑ってもいいものかと迷うレベッカが、それでも眉を寄せてくすくすと笑う。
 ああ、とんだ恥だ。関係ない者にも聞かれていたどころか、送るつもりもなかった本人にさえ聞かれていた。今までどんな事を話していただろう。随分長い期間をかけて、延々と話し続けていた気がする。ぼふ、と雪に体を投げ出した。いっそ埋もれて隠れたい。
「これを機にあの一人言をやめるなど、許さぬぞ」
 恥もここまでくればいっそ清々しい。側に来て見下ろしてくるビーナスにどうして素っ頓狂な声を上げると、当然とでも言うように目を細めた。
「一緒に食事をしたい、一緒に夕陽を見たいなど。面と向かって言える程、妾達は子供ではないからな。あれで、丁度良いのだ。だから、やめるなど許さぬ」
「……返事なんか、した事ないくせに」
「返事をすればやめてしまうだろう」
 ふんと笑う。メルヴィはああ、と声を漏らした。
 聞かれていたのならば、しょうがない。恥ではあるが、望まれたならば、やめるわけにはいかない。
 師匠のぐったりとした表情に、アルマはにへ、と笑った。
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