枝垂れ桜

 布団や濡れた手拭いとは違う感覚が肌を撫ぜる。いつか、草原で寝転がった際鼻をくすぐった綿毛がこんな柔らかさだった。成程、陽に照らされているかのように熱いのはその為か。頬に触れる綿毛を取ろうと腕を上げると、それは思いの他長さがある。なんだ、と思い目を開ける。乾燥した草のような香りが舞った。手に触れていたのは、故郷で見た見事な枝垂れ桜。ああ、帰って来ていたのか。思わず、目を細めて桜に魅入っていた。

 ザンゲツが戦場で大怪我を負って帰ってきたとの話がスズカの耳に届いたのは、数日経ってからの事だった。
 スズカはずかずかとザンゲツのいるという部屋へと重い足音を鳴らし、手に持った軟膏の小瓶を握り締めた。
 どうして誰もザンゲツの事を話題にもしなかったのか。頭の先まで怒りで満ちた後、すうっとその熱が冷めて理解した。生前ザンゲツを慕うものがいたという話はあまり聞かない。錬金術師に召喚された幻影兵達の中には、ザンゲツと敵対した者の方が多い。錬金術師につれられて戦場を共にしたとしても、任務以外では他の者に構わない幻影兵もいるだろう。とにかく、ザンゲツはそれほど、誰の話題にも触れられていなかった。
 どれほどの傷を負ったのか。どのような処置がされたのか。情報はなく、数日どこにも姿を現していないという事しか分からなかった。
「あの大馬鹿者め……っ」
 スズカは、ぎりりと奥歯を噛み締めた。ザンゲツは、生前もそうだった。怪我を隠して勝負を挑み、怪我を理由にしようともせず刃をその身に受けようとした。豪快で快活な男に見えて、どこか退廃的な匂いがする。
 自分で治療とまではできずとも、簡単な手当てくらいはできたのだろうか。食事は取れているのか。粥を詰めた土鍋を風呂敷に包み手に持っているが、体はどのような状態なのか。ザンゲツのいるという部屋の前につき足を止めた。音はない。しかし、隠そうともしない人の気配がある。確かに、中にいると分かった。
 短く息を吸い、顔を伏せた。誰にも聞こえぬ様に、静かに息を吐き出す。
「ザンゲツ、いるか」
 小さな声がすっと戸に染み込んだ。起きているならば聞こえている筈だが、返事はない。土鍋を小脇に抱え直し、空いた手でこつこつと戸を叩く。
「休んでいるのか、返事をせい」
 やはり、返事はない。中から音はなく、動く気配もない。ならばと戸に手をかけると、何の引っ掛かりもなくさらりと横に流れた。開いた、と思う間もなく、酷く淀んだ空気がスズカの体を包む。
「……っ、酷い……」
 思わず鼻と口を覆った。
 雨戸も締め切られた暗い部屋には、確かにザンゲツがいた。床には時間が経って乾いた血が侍っている。重い臭いを放っているのはそれもあるのだろうが、布団に横になるザンゲツの腹、包帯が黒々と変色しても尚巻き付いている。自分で手当てをしたつもりなのだろうか。血は既に止まっているか、膿が溜まって異臭を放っていた。
 部屋の端で、ザンゲツはまるで死んだように眠っていた。眠っているという言葉が正しいのかはスズカには分からなかったが、そのように見えた。横になっている布団には多量の汗と血が染み込んでいる。ほどんど体を動かしていないのだろう、血の染みは腹の包帯からさらに流れ出た場所にのみ垂れている程度。厚い胸をじっとりと汗で湿らせ、深く上下運動をしている。息は荒く、肺の太い管を通る呼吸の音が耳に直接聞こえる程だった。顔といわず、首も胸も、見えている肌全てがうっすらと赤らんでいる。額に触れると、湯にでも触れたような熱さだった。
 傷口の処置が甘い。そこから創感染を起こし発熱している事は明らかだった。戦場で傷を受けやすい身であれば心得ている筈だが、本人が思っていたよりも傷が深かったのか。とにかく、持ってきた軟膏程度では処置などできない。スズカが開けて入ってきた戸以外からは光も十分に入らない。
「ザンゲツ、起きられるか」
 場所を移動しなければ。試しに頬を叩くが、やはり起きる様子もない。仕方なし、背負ってでも別の場所へ移動しよう。そう思いとりあえず体を起こしてやろうとスズカが枕元に身を寄せると、ザンゲツの瞼がぴくりと震えた。
「む、起きたのか」
 起こそうとした際、顔にスズカの長い髪の毛先が触れたらしい。叩かれても起きなかった癖にとも思ったが、毛先を肩の後ろにかけるよう背中に払いのけると、ザンゲツの瞼がうっすらと開いた。息は荒いまま。肌が汗に濡れているように、瞳も今はじっとりと濡れている。像の結ばない焦点を合わせようと目を宙に泳がせているが、間近で目を合わせるスズカの顔を視界に捉えると、力のない目尻をうっすらと和らげた。
「みごと、な、枝垂れ桜……だな……」
 動かすのも億劫だろう腕を持ち上げ、背中に払っていたスズカの髪に指を通す。節ばった太い指先で濃い桜色の髪をつまみ、まるで枝を引き寄せて間近で見ようとでもするように、するりとその毛先まで指を滑らせた。濡れた瞳ではうまく像を結べていないのか、桜色を手元に引き寄せようとつんと毛先を引っ張りさえする。
「なっ……!? ザっ、ザンゲツ、そなた何を……っ!?」
 ひと房引っ張られる髪に釣られてかくんと頭を落とす。おぼろげな瞳と目は合わないが、ザンゲツのその指先に自身の髪が絡んでいる。かっと顔に熱が集まるのを感じた。
「はっはっ離せ不埒者――!」
 思わず、盛大に。起こそうとした時よりも遠慮なく、振りかぶって、頬を叩いた。

「はっはっはっは! いやすまぬ、あれほど自分で動けないものだとは思わなんだ」
「笑っている場合か! 拙者が気付かなければどうなっていたか!」
「幻影兵の身でも滅ぶ事があるのかはさておき。そなたには助けられた、感謝しておる。すまなかった」
「……」
 澄んだ空気、暖かな日差しの入る畳間。布団から上半身を起こし笑うザンゲツの腹には、白い包帯が巻かれていた。
 あれから別室に移動され、膿の溜まった傷口をこれでもかと手荒く洗い流された。消毒した傷口には清潔な包帯を巻き直され、上がり過ぎた熱には薬を飲ませて。治療に長けた幻影兵とスズカの手により、数日かかってザンゲツは起き上がれるほどに回復した。
「まさかそなたに助けられるとは思ってもみなかった。起きた時には怒り出すから何事かと」
「あんな部屋で一人死にかけていれば怒りもする」
「ああ、夢で故郷が見えた時には死後の世界に半身浸かっていたかも知れぬな」
 冗談交じりに言うが、実際それほどに切迫した状況にあったのは確かだ。目を覚ましても幻覚交じりに徘徊しようと起き上がる事もあった。その度布団に押さえつけ無理矢理に安静を保たせていたのは、他でもないスズカだったのだ。目を覚ましてから「よく覚えていない」と宣うザンゲツの頬を打ったのは昨日の事。
「何か用があってあの日来ていたのか?」
「いいや、そなたが怪我をしたと聞いたから訪ねたのだ」
「ならば、もうそなたがついていなくとも問題はない。ここにいるのに何か理由があるのか?」
 ザンゲツの真っ直ぐな質問に、スズカはぐっと息を詰めた。
 高く結った髪の結び目から、さらりと前に垂らした桜色の髪の毛先をぎゅっと握る。あの日、スズカが訪ねた日の事をザンゲツは覚えていない。この桜色の髪に指を通した事も覚えていないどころか、スズカの髪に触れていた事にすら気付いてはいなかったのだろう。気にせず帰ればいいものを、どうしてかそれが頭に残り、この場を離れられなくなっていた。
「……桜、好きなのか」
「む、桜? ああ、まあ……そうだな」
 なんと言葉にするべきか。ようやくひねり出したスズカの言葉に素っ頓狂な声を上げたが、思い出すように宙に視線をやり、何度か頷いた。
「故郷に、それは立派な桜があったのだ。村の名物とまでは行かぬが、誰にでも愛されるほど見事な桜が。この時期、我の誕生祝も兼ねてその桜の下でよく花見をしたものだ」
「む、そなたこの時期に生まれたのか」
「はは、最後に祝った事など遥か昔だがな」
「ふうん……」
 喉の奥で唸った。桜が咲くこの季節。ならば、今日かあるいはその前後、自らの祝い事の日を迎えるという事。幻影兵となっても誰かに祝われる者もいれば、普段と変わらず過ごす者もいる。故郷を滅ぼされて以降一人で過ごしていたのならば、桜が咲こうが何をしようが、一人で過ごしていたのだろう。
「懐かしいものだ。かの国の侵攻がなければあの木も焼かれずに済んだのだろうが」
 ぱっと顔を上げた。言うザンゲツの顔を見なければと瞬時に顔を上げたのだが、見た時にはいつもの快活な表情だった。見逃した、と思った瞬間、その目尻が緩く綻んだ。
「できるならもう一度、あの見事な桜を見たいものだ」
「……」
 スズカの髪に触れ、遠き故郷の桜を見ていた。あの瞬間の目をしていた。優しいような、思い出に手を伸ばすような。
 スズカは握っていた桜色の髪の毛先を背中に払った。
「この世の平定がどうと言っていたろう。それが終わらず、故郷の桜を見るつもりか」
「……ふ、言いよるのお。当然だ、成すべき事を成して故郷に戻る。それが我の使命だ」
「ならばその弱った体をどうにかする方が先だ。まあ、そなたの故郷の枝垂れ桜とやら、拙者もいつかこの目にしてみたいものではあるがな」
「ああ、見事なものだぞ」
 笑うザンゲツに息を吐いた。
 いつが祝い事の日だかは分からないが、思い出に触れられたのなら髪に指を寄せられたのも悪い気にはならない。故郷の枝垂れ桜はこのような濃い桜色をしていたのだろうか。これ以上構って体を悪くされても困ると立ち上がり踵を返すと、揺れる髪にザンゲツの視線が触れていた。
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