「親愛なるあなたへ」
怖い夢を見た。黒い大きな影に追いかけられて、誰にも助けて貰えず、転んで、体中痛くて、何もできないままに覆い尽くされ食べられてしまう。目が覚める寸前に見た大きな口の中。鋭い無数の牙が、目に焼き付いて離れなかった。後ろを振り返ればまだいるのではないかと。また眠ってしまえば、今度こそ食べられてしまうのではないかと。
助けて欲しくて、ウッディを抱えて走った。寝間着のワンピースの長い裾が足に絡まる。もつれて、裾を掴んでまた走る。夢の中と同じようだ、怖いものから逃げている。それでも、行きつく先には助けてくれる人がいる。
「マグヌス、ねえ、マグヌス……」
大きな扉の前にたどり着く。珍しく、部屋の主は夜でも部屋にいるようだ。誰もいなくても、勝手に入って本でも読んでいようと思っていたが。
ドアの隙間から弱い光が漏れ、小さく物音がする。声をかけたが返事がない。催促するようにノックをすると、酷く低い、揺れる声が聞こえた。
「……、悪い、後にしてくれ」
声は、まぎれもなくマグヌスのものだった。だが、ドアは開かれない。きっと、ドアのすぐ向こうで屈んでいるのだろう。鼻を啜る音まで近くに聞こえる。
身に覚えがある。愛していた家族がいなくなった時、一人ぼっちになった時、怖い夢を見た時。メアにもある。怖くて泣く夜がある。顔も見せずに一人、きっとマグヌスも怖い夢を見たのだ。
何も言わずにいると、扉の向こうで靴音がこつこつと遠ざかる音がする。かたん、と椅子を引き、滑りの悪い引き出しを引く音。何かを漁るようにからからと鳴る。
マグヌスは大人だ。怖い夢を見ても、きっと誰にも頼らずに一人でぱっくりと飲み込んでしまう。先程見た夢のように、怖いものを誰にも見せずに飲み込んで、夜を一人で乗り越える。ウッディのように抱きしめて、いつか家族がしてくれたように、大丈夫だよと。頭を撫でて言ってあげられれば、怖いものもきっとどこかへ行ってしまうはずなのに。きっと、それに慣れてしまうのが怖いのだ。
扉の向こうで、かちゃんと物音が鳴る。
「くそっ……」
鼻を啜る音もする。
「……寂しいね、ウッディ」
答えるように、ぴょん、と赤いぬいぐるみが跳ねた。大きな扉の前。凭れるように座り込み、ウッディと呼ばれ嬉し気に歩き回るぬいぐるみの手を握った。引き寄せて、ぎゅっと腕の中に収める。
大人は、きっともっと寂しいんだ。
翌日またマグヌスの部屋を訪ねると、遠くでコツコツと足音が遠ざかっているところだった。入れ違い。しょんぼりと俯くが、扉が少し、開いていることに気付いた。左右を見回すが、誰もいない。
「ちょっとだけ、失礼しまあす……」
きい、とドアを引き、中を覗き込んだ。開きっぱなしのカーテンの隙間から日が差し込み、開いた窓からはひんやりとした風が吹き込む。乱雑に丸めて放り投げられた紙が、かさかさと部屋の中を転がった。
「なに、これ?」
机の上には、ふたの閉まったインクの瓶と羽ペンが転がっている。その周囲、インクで汚れた紙が、軽く十は超える枚数が丸まって転がっていた。いくつかはゴミ箱に収まっているが、それ以上に床にまで落ちている存在が目につく。椅子を引いて腰を下ろし、丸まった紙の一つを手に取った。机の上で丁寧に開き、しわを伸ばすように何度か撫で広げる。
「親愛なる妹へ……それだけ?」
繊細な装飾の施された便箋に、丁寧な文字でそれだけが書かれていた。首を傾げ、別の紙を同じように広げる。
「しばらく会っていないが、元気にしているか、俺は……」
また、短い文章が途中で終わっている。前に話していた妹へ、手紙を書こうとしていたのか。
いくつか開けていき、次々としわを伸ばしてテーブルに重ねていく。
「マグヌスだ、覚えているか……」
「今どうしているのか気になって、手紙を書いてみた……」
「風邪なんか引いていないか……」
どれを開いてみても、書き出しだけ。どれも字は綺麗に書かれており、便箋の装飾に引けを取らないくらいだった。開きっぱなしの引き出しの中には、残り数枚となった便箋が束になっている。昨夜の物音は、これを書いていた音だったのか。
「マグヌス、お手紙書けなかったんだ」
しわだらけになった紙の束を持ち、ぺらぺらと捲るがやはり内容のない紙の束に変わりはない。まだいくつも残っている丸まった紙に目を落とし、拾ってしわを伸ばした。
その後ろでごとりと鳴る、硬いものが落ちる音。
「ひゃっ!」
「……メア」
振り返ると、マグヌスが目を剝いていた。床には、先程落としたのだろう紙袋からリンゴやオレンジなどの果物、クッキー缶が転がり出していた。全部メアが好きなもの。だが、ぎっと睨みつける目は、好きではない。
「あの、マグヌス……」
「出ていけ」
低い声に、びくりと肩が上がる。
「マグヌス」
「出ていけって言ってるだろ!」
ドアを拳で殴った。跳ねるように椅子から立ち上がり、後ずさる。マグヌスが怖い。睨み付ける目が、大きな音が鳴るほど強い手が、低い声が、怖い。
「……ごめんなさい」
いつもの優しい目は、カードを操る器用な手は、名前を呼ぶ優しい声は、きっと昨日の夢に食べられてしまったのだ。手紙を机に置いて震える声で謝ると、マグヌスはわなわなと震えている拳をぎゅっと握った。
「……出ていかないなら、俺が出ていく。今日は帰れ」
コートを翻し、いつもでは考えられないほどの大股で外へ足を向けた。
ああ、だめだ、行ってしまう。その先にはきっと、夢で見た黒い影が待ち構えているのに。きっといつもの優しいマグヌスも一緒に、頭からぱっくりと食べられてしまう。それはだめだ。マグヌスが帰ってこれなくなってしまう。
大人は、きっと子供を置いていくためにそんなに足が速いんだ。いろんな事を考えて、たくさん動いて、子供が歩きやすいように道を整えている。寂しくても誰にも頼らず、一人で我慢して、誰にも見せないよう弱い自分を飲み込んでしまう。
走って追いかけた。いつもとは別人のマグヌスの足は速い。穏やかないつもの靴音はごつんごつんと床を蹴り進み、感情を音にして周りの全てを威嚇する。それでも走って、縋るようにぎゅっと飛びついた。
「行かないでマグヌス、やだよ、行かないで!」
「離せ!」
「嫌なら離すよ、でもこんなの嫌だよ、離すから仲直りしようよ! ねえ、マグヌスっ……」
「……っ」
腰にしがみつく手を掴まれ引き剝がされそうになるが。絶対に離すものか。夢の黒いものになんか、マグヌスを渡してやるもんかと。力強くぎゅっとしがみ付く。なりふり構っていられなかった。
「……、…メア」
「だめだよ、離さないったら」
「メア、いいから離せって。……悪かった、悪かったから泣くなよ」
「泣いてないもん……っ」
しがみ付いたまま、コートに顔をぐりぐりと押し付けた。泣いてない。少し声が震えただけ。言い訳しても、マグヌスはメアの手を解かせて振り向いた。しゃがんで顔を覗き込み、シャツの袖でぐいぐいと頬を拭いてくれる。その手つきは優しくはなかったが、怖いものでもなかった。
「見たらだめなもの、だったんだね。勝手に見ちゃってごめんなさい」
「……別に、大した内容なんかなかったさ。ただ、大した内容も書けない自分が嫌になった」
「マグヌスが言ってた、妹に?」
「ああ」
泣いてなんかいない。が、ぐしぐしと拭かれてすっきりとした目でマグヌスの顔を見ると、吊り上がっていた目尻はやんわりと丸くなっていた。あまり眠れていなかったのか、それともメアと同じく視界が曇っていたのか、目の下にうっすらと青白い疲れが浮き出ている。立ち上がり、メアの背を押して部屋へ向かった。歩幅は広いが、こつんこつんと、軽やかな音をゆっくりと鳴らす。
「昨日来てたろ。どうしたんだ」
「怖い夢、見ちゃって」
「……悪かったな、開けてやれば良かったか」
「ううん、マグヌスも見てたんでしょ? 怖い夢」
「バレたか」
眉を下げて頬を掻いた。
「妹が、夢に出て来たんだよ。どんな夢かは忘れちまったが……たぶん、怖い夢だ」
「……ふうん」
「朝になっても、怖い夢が頭から離れなくてな。ほら、お前もあるだろう、夢に出てきた家族が、本当にちゃんと生きてんのかって顔見に行きたくなる事。……無事を確認したくて手紙でも書こうと思って、あの様さ」
肩をすくめて、軽く笑って見せた。
知っている。昨日の夜ドアの向こうで取り乱していた事を。誰にも頼らず一人で怖いものに震えていた事を。夢の中の妹がどうなっていたのかは分からない。けれどもそれは、メアのような子供の見る夢とは違う。きっと怖いものの正体はただの黒いものではない、はっきりと形のあるものなのだろうと、なんとなくそう思った。大人の怖いものが何なのかは分からない。それでも、家族を失う恐ろしさだけは、きっと誰よりも理解できる。
「お手紙、書こうよ」
「ああ? もう良いよ、あれはただの夢だ。怖い夢を見たからー、なんて手紙出せるかよ」
「そんな手紙だって出して良いんだよ、だって家族なんだから」
「家族、ねえ……お前はこんなにうまくやれてるのにな」
ウッディを差したマグヌスの表情が曇る。家族と疎遠になっているとは、以前にも聞いた事がある。大事に思っている妹も、きっと同じく顔を合わせていないのだろう。それでも、家族はきっと特別なもの。記憶に残る家族は、みんなみんな特別だった。その特別を作りたくて、今もウッディを抱きしめているのだから。
「私の家族はね、パパとママはね、もうお手紙も読めないところに行っちゃった。でもね、遠くてもちゃんと読んでくれる人がいるならね、きっとマグヌスが元気にしてるよってお手紙、読みたいと思うな」
「……錬金術を捨てて、家族からも離れた俺の手紙でも、そう思うか?」
「じゃあマグヌスは、妹からお手紙来たら嫌?」
「……成程なあ」
くっと笑って眉を寄せた。いつもは大人しい目が、まるで見透かすようにふわりと細くなって見つめてくる。子供という言葉に騙されていたら、きっとすぐに大人は追い越されてしまう。だから大人は早く歩かねばならないのに。やる事なす事考える事、シンプルだからこそ、そこに答えが詰まっている。大人では見えない答えを、既に持っている事だってある。
家族への愛など、尚更だ。
部屋へ着くと、床に転がったままの果物やクッキー缶、書きかけの手紙の山にまた眉をしかめた。それを見て、メアがつんと袖を引く。
「ねえ、お手紙書けないなら練習しよう!」
「あ? 練習?」
「私がマグヌスに見本のお手紙書くから、お返事書いてね!」
「返事、ねえ……」
手紙の練習、という言葉に遠慮しかけたが、成程、できない事はできるようになるまで練習すればいい。子供の頃に習った、簡単な事だ。
経験を積み重ねた事で、大人になってからできる事は格段に増えていった。それなのに、できなくなってしまった事も少しずつ増えていった。簡単な事に限って、できなくなっていった。きっと、一時でもそれをできるようにさせてくれるのが子供というものなのだろう。自分の世界を何も考えずに相手に押し付ける。大人相手だろうと自分のできる事を当然のように押し付けて、大人も苦笑いしながらそんな子供に戻る。マグヌス自身が子供だった頃は覚えていないが、きっと、そうしてきたはずだ。
「するか、練習」
笑って言うと、それ以上に笑顔を咲かせたメアがぴょんと飛び跳ねた。
「やったあ! じゃあ、すぐにお手紙書くね! 待ってて!」
言うや否やくるりとスカートを翻し、ドアから手を振って一目散に走っていった。
普段は大人しいと見せかけてたまに見せる行動力には驚かされる。今日、すぐにでも書いてくるのだろうか、それとも時間をかけて書いてくるのだろうか。首を捻ると、置いて行かれたウッディが視界に入った。これはすぐに戻ってくるという事だろう。それならば、こちらも手紙を書く用意をしておかねば。
床に転がった果物やクッキー缶を紙袋に入れ直してテーブルの足元に置く。床やテーブルに転がったままの丸めた言葉の欠片も、拾い集めていく。渡そうとした言葉はどれも本物だった。ただ、言葉が溢れてまとまらなくて、どれも納得できなかった。きっと言葉には限界があるのだ。それも、メアに見本を見せてもらえるのならば、何か違うものが見えてくるのかも知れない。
街で買った細かな装飾の施された便箋と、封蝋用のスタンプを引き出しから取り出す。メアはどんな手紙を持ってくるのだろうか。相応の返事を書くのが礼儀なのだろうが、予想がつかない。ついでとばかりに、画用紙と埃を被ったクレヨンも出しておく。懐かしい、幼い頃の思い出が蘇る。妹とも、こうやって絵や言葉を交換したような気がする。試しにテーブルにウッディを置いて赤いクレヨンを握る。頬杖をついてぐりぐりと描き殴ってみるが、さすが、我ながら指先が器用なだけはある。ふっと笑って、昨夜の夢を思い出した。あの夢を見てから不安定になっていた心が、どうしたものか、晴れやかにクレヨンを握っているなどおかしい話だ。ぽいとクレヨンを投げ、椅子にもたれかかり揺れるカーテンを眺めた。
どんな手紙が来るのだろうか。楽しみに待つ心は、もしかすると既に子供に戻っているのかも知れない。こんな心で兄として妹に手紙を送る事が出来るのだろうか。いいや、どうせ子供の頃を知っている妹だ、つられて苦笑いくらいはしてくれるだろう。書けなければ、花や物だけでも送ってしまえばいい。
開き直った大人は強いものだ、と。冬の風が揺らすカーテンを眺めながら、あくびを一つこぼした。
助けて欲しくて、ウッディを抱えて走った。寝間着のワンピースの長い裾が足に絡まる。もつれて、裾を掴んでまた走る。夢の中と同じようだ、怖いものから逃げている。それでも、行きつく先には助けてくれる人がいる。
「マグヌス、ねえ、マグヌス……」
大きな扉の前にたどり着く。珍しく、部屋の主は夜でも部屋にいるようだ。誰もいなくても、勝手に入って本でも読んでいようと思っていたが。
ドアの隙間から弱い光が漏れ、小さく物音がする。声をかけたが返事がない。催促するようにノックをすると、酷く低い、揺れる声が聞こえた。
「……、悪い、後にしてくれ」
声は、まぎれもなくマグヌスのものだった。だが、ドアは開かれない。きっと、ドアのすぐ向こうで屈んでいるのだろう。鼻を啜る音まで近くに聞こえる。
身に覚えがある。愛していた家族がいなくなった時、一人ぼっちになった時、怖い夢を見た時。メアにもある。怖くて泣く夜がある。顔も見せずに一人、きっとマグヌスも怖い夢を見たのだ。
何も言わずにいると、扉の向こうで靴音がこつこつと遠ざかる音がする。かたん、と椅子を引き、滑りの悪い引き出しを引く音。何かを漁るようにからからと鳴る。
マグヌスは大人だ。怖い夢を見ても、きっと誰にも頼らずに一人でぱっくりと飲み込んでしまう。先程見た夢のように、怖いものを誰にも見せずに飲み込んで、夜を一人で乗り越える。ウッディのように抱きしめて、いつか家族がしてくれたように、大丈夫だよと。頭を撫でて言ってあげられれば、怖いものもきっとどこかへ行ってしまうはずなのに。きっと、それに慣れてしまうのが怖いのだ。
扉の向こうで、かちゃんと物音が鳴る。
「くそっ……」
鼻を啜る音もする。
「……寂しいね、ウッディ」
答えるように、ぴょん、と赤いぬいぐるみが跳ねた。大きな扉の前。凭れるように座り込み、ウッディと呼ばれ嬉し気に歩き回るぬいぐるみの手を握った。引き寄せて、ぎゅっと腕の中に収める。
大人は、きっともっと寂しいんだ。
翌日またマグヌスの部屋を訪ねると、遠くでコツコツと足音が遠ざかっているところだった。入れ違い。しょんぼりと俯くが、扉が少し、開いていることに気付いた。左右を見回すが、誰もいない。
「ちょっとだけ、失礼しまあす……」
きい、とドアを引き、中を覗き込んだ。開きっぱなしのカーテンの隙間から日が差し込み、開いた窓からはひんやりとした風が吹き込む。乱雑に丸めて放り投げられた紙が、かさかさと部屋の中を転がった。
「なに、これ?」
机の上には、ふたの閉まったインクの瓶と羽ペンが転がっている。その周囲、インクで汚れた紙が、軽く十は超える枚数が丸まって転がっていた。いくつかはゴミ箱に収まっているが、それ以上に床にまで落ちている存在が目につく。椅子を引いて腰を下ろし、丸まった紙の一つを手に取った。机の上で丁寧に開き、しわを伸ばすように何度か撫で広げる。
「親愛なる妹へ……それだけ?」
繊細な装飾の施された便箋に、丁寧な文字でそれだけが書かれていた。首を傾げ、別の紙を同じように広げる。
「しばらく会っていないが、元気にしているか、俺は……」
また、短い文章が途中で終わっている。前に話していた妹へ、手紙を書こうとしていたのか。
いくつか開けていき、次々としわを伸ばしてテーブルに重ねていく。
「マグヌスだ、覚えているか……」
「今どうしているのか気になって、手紙を書いてみた……」
「風邪なんか引いていないか……」
どれを開いてみても、書き出しだけ。どれも字は綺麗に書かれており、便箋の装飾に引けを取らないくらいだった。開きっぱなしの引き出しの中には、残り数枚となった便箋が束になっている。昨夜の物音は、これを書いていた音だったのか。
「マグヌス、お手紙書けなかったんだ」
しわだらけになった紙の束を持ち、ぺらぺらと捲るがやはり内容のない紙の束に変わりはない。まだいくつも残っている丸まった紙に目を落とし、拾ってしわを伸ばした。
その後ろでごとりと鳴る、硬いものが落ちる音。
「ひゃっ!」
「……メア」
振り返ると、マグヌスが目を剝いていた。床には、先程落としたのだろう紙袋からリンゴやオレンジなどの果物、クッキー缶が転がり出していた。全部メアが好きなもの。だが、ぎっと睨みつける目は、好きではない。
「あの、マグヌス……」
「出ていけ」
低い声に、びくりと肩が上がる。
「マグヌス」
「出ていけって言ってるだろ!」
ドアを拳で殴った。跳ねるように椅子から立ち上がり、後ずさる。マグヌスが怖い。睨み付ける目が、大きな音が鳴るほど強い手が、低い声が、怖い。
「……ごめんなさい」
いつもの優しい目は、カードを操る器用な手は、名前を呼ぶ優しい声は、きっと昨日の夢に食べられてしまったのだ。手紙を机に置いて震える声で謝ると、マグヌスはわなわなと震えている拳をぎゅっと握った。
「……出ていかないなら、俺が出ていく。今日は帰れ」
コートを翻し、いつもでは考えられないほどの大股で外へ足を向けた。
ああ、だめだ、行ってしまう。その先にはきっと、夢で見た黒い影が待ち構えているのに。きっといつもの優しいマグヌスも一緒に、頭からぱっくりと食べられてしまう。それはだめだ。マグヌスが帰ってこれなくなってしまう。
大人は、きっと子供を置いていくためにそんなに足が速いんだ。いろんな事を考えて、たくさん動いて、子供が歩きやすいように道を整えている。寂しくても誰にも頼らず、一人で我慢して、誰にも見せないよう弱い自分を飲み込んでしまう。
走って追いかけた。いつもとは別人のマグヌスの足は速い。穏やかないつもの靴音はごつんごつんと床を蹴り進み、感情を音にして周りの全てを威嚇する。それでも走って、縋るようにぎゅっと飛びついた。
「行かないでマグヌス、やだよ、行かないで!」
「離せ!」
「嫌なら離すよ、でもこんなの嫌だよ、離すから仲直りしようよ! ねえ、マグヌスっ……」
「……っ」
腰にしがみつく手を掴まれ引き剝がされそうになるが。絶対に離すものか。夢の黒いものになんか、マグヌスを渡してやるもんかと。力強くぎゅっとしがみ付く。なりふり構っていられなかった。
「……、…メア」
「だめだよ、離さないったら」
「メア、いいから離せって。……悪かった、悪かったから泣くなよ」
「泣いてないもん……っ」
しがみ付いたまま、コートに顔をぐりぐりと押し付けた。泣いてない。少し声が震えただけ。言い訳しても、マグヌスはメアの手を解かせて振り向いた。しゃがんで顔を覗き込み、シャツの袖でぐいぐいと頬を拭いてくれる。その手つきは優しくはなかったが、怖いものでもなかった。
「見たらだめなもの、だったんだね。勝手に見ちゃってごめんなさい」
「……別に、大した内容なんかなかったさ。ただ、大した内容も書けない自分が嫌になった」
「マグヌスが言ってた、妹に?」
「ああ」
泣いてなんかいない。が、ぐしぐしと拭かれてすっきりとした目でマグヌスの顔を見ると、吊り上がっていた目尻はやんわりと丸くなっていた。あまり眠れていなかったのか、それともメアと同じく視界が曇っていたのか、目の下にうっすらと青白い疲れが浮き出ている。立ち上がり、メアの背を押して部屋へ向かった。歩幅は広いが、こつんこつんと、軽やかな音をゆっくりと鳴らす。
「昨日来てたろ。どうしたんだ」
「怖い夢、見ちゃって」
「……悪かったな、開けてやれば良かったか」
「ううん、マグヌスも見てたんでしょ? 怖い夢」
「バレたか」
眉を下げて頬を掻いた。
「妹が、夢に出て来たんだよ。どんな夢かは忘れちまったが……たぶん、怖い夢だ」
「……ふうん」
「朝になっても、怖い夢が頭から離れなくてな。ほら、お前もあるだろう、夢に出てきた家族が、本当にちゃんと生きてんのかって顔見に行きたくなる事。……無事を確認したくて手紙でも書こうと思って、あの様さ」
肩をすくめて、軽く笑って見せた。
知っている。昨日の夜ドアの向こうで取り乱していた事を。誰にも頼らず一人で怖いものに震えていた事を。夢の中の妹がどうなっていたのかは分からない。けれどもそれは、メアのような子供の見る夢とは違う。きっと怖いものの正体はただの黒いものではない、はっきりと形のあるものなのだろうと、なんとなくそう思った。大人の怖いものが何なのかは分からない。それでも、家族を失う恐ろしさだけは、きっと誰よりも理解できる。
「お手紙、書こうよ」
「ああ? もう良いよ、あれはただの夢だ。怖い夢を見たからー、なんて手紙出せるかよ」
「そんな手紙だって出して良いんだよ、だって家族なんだから」
「家族、ねえ……お前はこんなにうまくやれてるのにな」
ウッディを差したマグヌスの表情が曇る。家族と疎遠になっているとは、以前にも聞いた事がある。大事に思っている妹も、きっと同じく顔を合わせていないのだろう。それでも、家族はきっと特別なもの。記憶に残る家族は、みんなみんな特別だった。その特別を作りたくて、今もウッディを抱きしめているのだから。
「私の家族はね、パパとママはね、もうお手紙も読めないところに行っちゃった。でもね、遠くてもちゃんと読んでくれる人がいるならね、きっとマグヌスが元気にしてるよってお手紙、読みたいと思うな」
「……錬金術を捨てて、家族からも離れた俺の手紙でも、そう思うか?」
「じゃあマグヌスは、妹からお手紙来たら嫌?」
「……成程なあ」
くっと笑って眉を寄せた。いつもは大人しい目が、まるで見透かすようにふわりと細くなって見つめてくる。子供という言葉に騙されていたら、きっとすぐに大人は追い越されてしまう。だから大人は早く歩かねばならないのに。やる事なす事考える事、シンプルだからこそ、そこに答えが詰まっている。大人では見えない答えを、既に持っている事だってある。
家族への愛など、尚更だ。
部屋へ着くと、床に転がったままの果物やクッキー缶、書きかけの手紙の山にまた眉をしかめた。それを見て、メアがつんと袖を引く。
「ねえ、お手紙書けないなら練習しよう!」
「あ? 練習?」
「私がマグヌスに見本のお手紙書くから、お返事書いてね!」
「返事、ねえ……」
手紙の練習、という言葉に遠慮しかけたが、成程、できない事はできるようになるまで練習すればいい。子供の頃に習った、簡単な事だ。
経験を積み重ねた事で、大人になってからできる事は格段に増えていった。それなのに、できなくなってしまった事も少しずつ増えていった。簡単な事に限って、できなくなっていった。きっと、一時でもそれをできるようにさせてくれるのが子供というものなのだろう。自分の世界を何も考えずに相手に押し付ける。大人相手だろうと自分のできる事を当然のように押し付けて、大人も苦笑いしながらそんな子供に戻る。マグヌス自身が子供だった頃は覚えていないが、きっと、そうしてきたはずだ。
「するか、練習」
笑って言うと、それ以上に笑顔を咲かせたメアがぴょんと飛び跳ねた。
「やったあ! じゃあ、すぐにお手紙書くね! 待ってて!」
言うや否やくるりとスカートを翻し、ドアから手を振って一目散に走っていった。
普段は大人しいと見せかけてたまに見せる行動力には驚かされる。今日、すぐにでも書いてくるのだろうか、それとも時間をかけて書いてくるのだろうか。首を捻ると、置いて行かれたウッディが視界に入った。これはすぐに戻ってくるという事だろう。それならば、こちらも手紙を書く用意をしておかねば。
床に転がった果物やクッキー缶を紙袋に入れ直してテーブルの足元に置く。床やテーブルに転がったままの丸めた言葉の欠片も、拾い集めていく。渡そうとした言葉はどれも本物だった。ただ、言葉が溢れてまとまらなくて、どれも納得できなかった。きっと言葉には限界があるのだ。それも、メアに見本を見せてもらえるのならば、何か違うものが見えてくるのかも知れない。
街で買った細かな装飾の施された便箋と、封蝋用のスタンプを引き出しから取り出す。メアはどんな手紙を持ってくるのだろうか。相応の返事を書くのが礼儀なのだろうが、予想がつかない。ついでとばかりに、画用紙と埃を被ったクレヨンも出しておく。懐かしい、幼い頃の思い出が蘇る。妹とも、こうやって絵や言葉を交換したような気がする。試しにテーブルにウッディを置いて赤いクレヨンを握る。頬杖をついてぐりぐりと描き殴ってみるが、さすが、我ながら指先が器用なだけはある。ふっと笑って、昨夜の夢を思い出した。あの夢を見てから不安定になっていた心が、どうしたものか、晴れやかにクレヨンを握っているなどおかしい話だ。ぽいとクレヨンを投げ、椅子にもたれかかり揺れるカーテンを眺めた。
どんな手紙が来るのだろうか。楽しみに待つ心は、もしかすると既に子供に戻っているのかも知れない。こんな心で兄として妹に手紙を送る事が出来るのだろうか。いいや、どうせ子供の頃を知っている妹だ、つられて苦笑いくらいはしてくれるだろう。書けなければ、花や物だけでも送ってしまえばいい。
開き直った大人は強いものだ、と。冬の風が揺らすカーテンを眺めながら、あくびを一つこぼした。
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