死へ逃げるなど許さない
義妹は見つからない。願掛けの為と伸ばした髪はやがて地面まで引きずるほどとなり、長く編んでコートの内側に隠すようになった。鍛え上げた腕はやがて熟練のものとなっていた。己が目的のために入った組織の中での立場も上がり、部下を従えるようになった。しかし、年月を重ねるうちにガビロンドは日々衰えていき、やがて床に臥せている時間が長くなっていった。
「お前は……日々、強くなるのだな……」
そう言って枕から頭を離さなくなったガビロンドは、狭い部屋に様々な物を残していった。愛用していた古いペンとインク。大老として身にまとっていたローブ。宰相として働いた折の細かな書類。ディオスを含め、見舞いの花を手向けるような人間とは関わりがなかったのだろうか。持っていた物の全てが必要の是非を問わず、周囲の者の手によりこの部屋へ詰め込まれた。とうの本人は既にこの世にはいないというのに。物に溢れた狭い部屋の中で一人、誰もいなくなったベッドにディオスは腰かけた。
「俺を利用した男が、死に絶える時はあっけないものだ」
ベッドは硬い。身動きも取れなかっただろうに、このようなものをあてがわれていたのだろうか。これだけでも、床に臥せる病の原因は増えたことだろう。それでも、国を滅ぼす手筈を整え実行した男の最後にしては随分と静かなものだった。看取るものも少なく、狭いこの部屋で。見上げた屋根には湿気によるものか、染みが広がっていた。最後に見たものがあれだったとすると、なんともやり切れない。
故郷を滅ぼした。挙句に自分を駒とし、影から表から操り都合よく扱った。それを知った上で、ガビロンドを利用することもあった。恨むべき男。だが、兄妹と別れ心が揺れた時期、隣にいたのは確かにこの男。隣にいたことが良かったか否かは分からないが、一人ではなかった。それもガビロンドの策だったのかも今となっては分からないが、狂わされた青春の垣間、確かに隣にはガビロンドがいた。
ぎり、と拳を固めた。
陥れたのはガビロンド。その後を隣で共に立ち、見続けていたのもガビロンドだった。だからと言って、憎しみの行き場は変わらないはずだ。いつまでも変わらない世界が、変えられない自分が憎い。それと共に、故郷を滅ぼし兄妹を歪めたガビロンドも、憎しみの対象だったはずだ。ああ、間違いない。今なお憎い。この胸の内に燃える黒い濁りは消えてなどいない。
「くそ……くそ!」
机のインク瓶を掴み壁に投げた。ふたが緩かったのか、割れずに中身をぶちまけて壁や床を汚す。苛立ちは収まらず、机の上に重なる紙の束もぐしゃりと掴み部屋の中で投げ散らかした。まるで荒れる心のようだ。誰もいないのに荒れた部屋。灯りをともす燭台さえも癇に障る。掴み、床に叩きつけた。
蜥蜴旅団と相対していたあの時。人生を変えたあの若かった自分が、ガビロンドではなくベルトランの言葉を受け入れていたならば。もしかすると、今とは違った未来を送れていたのかも知れない。ベルトランは優しかった。駒としてではなく、ディオスそのものを見てくれていた。だが、それを蹴ってガビロンドについたのは間違いなく当時の自分が選んだ道だ。明るい道を捨てて、進んできた道だ。
部屋を汚そうと、心は晴れない。自分を黒く濁した男が穏やかに死ぬなど。自分をかき乱したままいなくなるなど。
「逃がして……たまるか!」
あの狂った青春を否定するつもりはない。だが、その元凶となった男を易々と逃がすつもりもない。机の上に置かれたままの古いペンが目に付く。執務中に使っていたペンだ。なりふり構ってなどいられなかった。死へと逃げた男を、この地獄のような現実を引き戻さなければ。
ペンを取り、念じた。来い、と。幻影兵を召喚する、何度となくした行為だ。空間がぎしぎしと音を立て、小さなゆがみが生まれ始める。
依存か、と問われれば、きっとそうかも知れない。いれば更に心を害される事が目に見えている。自ら毒を噛みに行っているようなものだ。それでも、この男と過ごした時間が今の自分を築いたのだ。
歪みが大きくなり、雷が落ちるような音。幻影兵として現れたガビロンドは、目を丸くしてディオスを見た。
「おぬしは……」
「黙れ」
若い、とは言わないが。六大老として健勝だった頃のガビロンドが、出会った頃のガビロンドが、年を重ねたディオスを見た。手の内には、ガビロンドが愛用していたペン。幻影兵として呼び出されたのだと理解した。
「……まだ苦しむつもりか」
「黙れと言ったろう」
「知恵者である私を幻影兵として呼び出しておいて黙れとは。ならば何のために呼び出したか分からんな。親にでも縋りたくなったか」
目を細め、見下すように。実際には見下ろしていたのはディオスの方だが。それでも全盛期を過ごした大老の威厳は消え去ってはいない。
胸倉でも掴んで怒鳴るものかと思っていたが、呼び出されたガビロンドに対して言葉はない。まさか本当に親のぬくもりを求めて、などという理由ではあるまいとその目を見ると、長い髪の隙間から覗く赤い光はガビロンドが死を迎えた時よりも暗さを増していた。
「親……? 殺させたのは貴様だろう。今更求めるも何もない。……用件なら、分かっているんじゃないのか」
「……狂人の考えることなど分かりはせん。が、私は役割を果たしにここへ呼ばれた。……申してみよ」
暗い瞳が揺れる。奥底に暗いものが満ちている。狂気、と一言で言えるものではない。だが、そう変えてしまったのはガビロンド自身だ。
「役割もなにもない、今までと変わりはしない。貴様は俺を駒として扱い、俺は貴様を利用する。……一人だけ、死へ逃げるなど許すわけがないだろう。貴様自身が作った地獄、これからも道連れだ」
口の端が吊り上がる。にやりと。
既に人の理を逸しているのではないか。錬金術師となり闇に体を曝し、地獄を生き続けている。人としての生を終えた者を蘇らせ使役する者だ、きっとすでに人の理の枠など収まってはいない。
一人の少年の人生を変えた結果が、これか。利用し、利用され、死して尚目の届く中に置かれ使われる。世界を変えたいと強く願った少年の目をここまで濁らせたのは、まぎれもなく。
「成程、この暗い現実は一人では生きられないと申すか」
「口を慎めよ、俺は地獄を生きろ、と言ったんだ」
「おぬしに言葉遊びはできんだろう。飾ろうが、やる事は変わりない。……次にやろうとしている事はなんだ、私が共に計画を立てよう」
「それでこそ」
にやりとディオスの口が笑う。ついにこの男の笑顔を見ることがなかったな、とふと思う。少年の頃に惑わし、長い時間利用し続けていたが、思い悩む顔しか見せられはしなかった。それが、この関係を表す一つのものなのだろう。
ガビロンドを呼び出した触媒を、まるでお守りでも扱うように懐の奥へ仕舞っているのが見えた。何をそう大切にする必要がある。暗い場所へ向かう為のランプでもあるまいに。きっと、まだ生き続けるつもりなのだろう。例え幻影兵のガビロンドが戦いに敗れたとしてもまた呼び出され同じ事を繰り返す。ああ、触媒のあのペンはお守りなのではない。呪いなのだ。終わらない苦しみをいつまでも見せつける呪いだ。
「次にやる事はもう決まっている。ついてこい」
そう言って背を向けたディオスについて歩いた。まだ伸ばしているであろう髪は結われ、コートの中に隠されている。義妹と再び会おうという決意はまだ残っているのだろうか。彼自身はあの長い髪の意味を忘れてはいないか。疑問に思うが、今となってはどうでも良い事。闇を歩くために、照らす光は必要ない。影を濃くする幻影兵がこれからも付いて回るならなおさら。
一つだけ、誰にも聞かれぬ懺悔をするならば。ディオスを歪めたのは他ならない自分だが、壊すつもりはなかった。そう言わせてほしい。
生きた証があの部屋に全て詰まっているのならば好都合。処分するならば、一塊にするに限る。ディオスと地獄を永遠に共に生きるつもりなど毛頭ない。誰の死を迎えようと、死を否定することのできるあの術は現実を見ずに歩き続ける事が出来る。それは人としての感覚を狂わせる。今更更生させようなどと言いはしないしできもしない。それでも、人として死ぬことが出来た自分だから思う事が出来る。人として、死んでほしいと。
あの古いペンは、いつか壊れるのだろうか。
「お前は……日々、強くなるのだな……」
そう言って枕から頭を離さなくなったガビロンドは、狭い部屋に様々な物を残していった。愛用していた古いペンとインク。大老として身にまとっていたローブ。宰相として働いた折の細かな書類。ディオスを含め、見舞いの花を手向けるような人間とは関わりがなかったのだろうか。持っていた物の全てが必要の是非を問わず、周囲の者の手によりこの部屋へ詰め込まれた。とうの本人は既にこの世にはいないというのに。物に溢れた狭い部屋の中で一人、誰もいなくなったベッドにディオスは腰かけた。
「俺を利用した男が、死に絶える時はあっけないものだ」
ベッドは硬い。身動きも取れなかっただろうに、このようなものをあてがわれていたのだろうか。これだけでも、床に臥せる病の原因は増えたことだろう。それでも、国を滅ぼす手筈を整え実行した男の最後にしては随分と静かなものだった。看取るものも少なく、狭いこの部屋で。見上げた屋根には湿気によるものか、染みが広がっていた。最後に見たものがあれだったとすると、なんともやり切れない。
故郷を滅ぼした。挙句に自分を駒とし、影から表から操り都合よく扱った。それを知った上で、ガビロンドを利用することもあった。恨むべき男。だが、兄妹と別れ心が揺れた時期、隣にいたのは確かにこの男。隣にいたことが良かったか否かは分からないが、一人ではなかった。それもガビロンドの策だったのかも今となっては分からないが、狂わされた青春の垣間、確かに隣にはガビロンドがいた。
ぎり、と拳を固めた。
陥れたのはガビロンド。その後を隣で共に立ち、見続けていたのもガビロンドだった。だからと言って、憎しみの行き場は変わらないはずだ。いつまでも変わらない世界が、変えられない自分が憎い。それと共に、故郷を滅ぼし兄妹を歪めたガビロンドも、憎しみの対象だったはずだ。ああ、間違いない。今なお憎い。この胸の内に燃える黒い濁りは消えてなどいない。
「くそ……くそ!」
机のインク瓶を掴み壁に投げた。ふたが緩かったのか、割れずに中身をぶちまけて壁や床を汚す。苛立ちは収まらず、机の上に重なる紙の束もぐしゃりと掴み部屋の中で投げ散らかした。まるで荒れる心のようだ。誰もいないのに荒れた部屋。灯りをともす燭台さえも癇に障る。掴み、床に叩きつけた。
蜥蜴旅団と相対していたあの時。人生を変えたあの若かった自分が、ガビロンドではなくベルトランの言葉を受け入れていたならば。もしかすると、今とは違った未来を送れていたのかも知れない。ベルトランは優しかった。駒としてではなく、ディオスそのものを見てくれていた。だが、それを蹴ってガビロンドについたのは間違いなく当時の自分が選んだ道だ。明るい道を捨てて、進んできた道だ。
部屋を汚そうと、心は晴れない。自分を黒く濁した男が穏やかに死ぬなど。自分をかき乱したままいなくなるなど。
「逃がして……たまるか!」
あの狂った青春を否定するつもりはない。だが、その元凶となった男を易々と逃がすつもりもない。机の上に置かれたままの古いペンが目に付く。執務中に使っていたペンだ。なりふり構ってなどいられなかった。死へと逃げた男を、この地獄のような現実を引き戻さなければ。
ペンを取り、念じた。来い、と。幻影兵を召喚する、何度となくした行為だ。空間がぎしぎしと音を立て、小さなゆがみが生まれ始める。
依存か、と問われれば、きっとそうかも知れない。いれば更に心を害される事が目に見えている。自ら毒を噛みに行っているようなものだ。それでも、この男と過ごした時間が今の自分を築いたのだ。
歪みが大きくなり、雷が落ちるような音。幻影兵として現れたガビロンドは、目を丸くしてディオスを見た。
「おぬしは……」
「黙れ」
若い、とは言わないが。六大老として健勝だった頃のガビロンドが、出会った頃のガビロンドが、年を重ねたディオスを見た。手の内には、ガビロンドが愛用していたペン。幻影兵として呼び出されたのだと理解した。
「……まだ苦しむつもりか」
「黙れと言ったろう」
「知恵者である私を幻影兵として呼び出しておいて黙れとは。ならば何のために呼び出したか分からんな。親にでも縋りたくなったか」
目を細め、見下すように。実際には見下ろしていたのはディオスの方だが。それでも全盛期を過ごした大老の威厳は消え去ってはいない。
胸倉でも掴んで怒鳴るものかと思っていたが、呼び出されたガビロンドに対して言葉はない。まさか本当に親のぬくもりを求めて、などという理由ではあるまいとその目を見ると、長い髪の隙間から覗く赤い光はガビロンドが死を迎えた時よりも暗さを増していた。
「親……? 殺させたのは貴様だろう。今更求めるも何もない。……用件なら、分かっているんじゃないのか」
「……狂人の考えることなど分かりはせん。が、私は役割を果たしにここへ呼ばれた。……申してみよ」
暗い瞳が揺れる。奥底に暗いものが満ちている。狂気、と一言で言えるものではない。だが、そう変えてしまったのはガビロンド自身だ。
「役割もなにもない、今までと変わりはしない。貴様は俺を駒として扱い、俺は貴様を利用する。……一人だけ、死へ逃げるなど許すわけがないだろう。貴様自身が作った地獄、これからも道連れだ」
口の端が吊り上がる。にやりと。
既に人の理を逸しているのではないか。錬金術師となり闇に体を曝し、地獄を生き続けている。人としての生を終えた者を蘇らせ使役する者だ、きっとすでに人の理の枠など収まってはいない。
一人の少年の人生を変えた結果が、これか。利用し、利用され、死して尚目の届く中に置かれ使われる。世界を変えたいと強く願った少年の目をここまで濁らせたのは、まぎれもなく。
「成程、この暗い現実は一人では生きられないと申すか」
「口を慎めよ、俺は地獄を生きろ、と言ったんだ」
「おぬしに言葉遊びはできんだろう。飾ろうが、やる事は変わりない。……次にやろうとしている事はなんだ、私が共に計画を立てよう」
「それでこそ」
にやりとディオスの口が笑う。ついにこの男の笑顔を見ることがなかったな、とふと思う。少年の頃に惑わし、長い時間利用し続けていたが、思い悩む顔しか見せられはしなかった。それが、この関係を表す一つのものなのだろう。
ガビロンドを呼び出した触媒を、まるでお守りでも扱うように懐の奥へ仕舞っているのが見えた。何をそう大切にする必要がある。暗い場所へ向かう為のランプでもあるまいに。きっと、まだ生き続けるつもりなのだろう。例え幻影兵のガビロンドが戦いに敗れたとしてもまた呼び出され同じ事を繰り返す。ああ、触媒のあのペンはお守りなのではない。呪いなのだ。終わらない苦しみをいつまでも見せつける呪いだ。
「次にやる事はもう決まっている。ついてこい」
そう言って背を向けたディオスについて歩いた。まだ伸ばしているであろう髪は結われ、コートの中に隠されている。義妹と再び会おうという決意はまだ残っているのだろうか。彼自身はあの長い髪の意味を忘れてはいないか。疑問に思うが、今となってはどうでも良い事。闇を歩くために、照らす光は必要ない。影を濃くする幻影兵がこれからも付いて回るならなおさら。
一つだけ、誰にも聞かれぬ懺悔をするならば。ディオスを歪めたのは他ならない自分だが、壊すつもりはなかった。そう言わせてほしい。
生きた証があの部屋に全て詰まっているのならば好都合。処分するならば、一塊にするに限る。ディオスと地獄を永遠に共に生きるつもりなど毛頭ない。誰の死を迎えようと、死を否定することのできるあの術は現実を見ずに歩き続ける事が出来る。それは人としての感覚を狂わせる。今更更生させようなどと言いはしないしできもしない。それでも、人として死ぬことが出来た自分だから思う事が出来る。人として、死んでほしいと。
あの古いペンは、いつか壊れるのだろうか。
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