さよならハーフエルフ
木々の間を、緑の風が吹き抜ける。頭上で小鳥がぴちちと鳴いた。遠くに聴こえるせせらぎの中には、魚が跳ねる音が混じる。森には、命が溢れていた。
「……――♪ ……――……♪」
重ねて、森を歩くナサリオが小さく歌を口ずさんだ。誰にも聞こえないよう、とても小さく。ルーンカルツが、にゃあと鳴いてナサリオの側へ来た。歩く足を止めると、ナサリオの足元にちょんと座り込む。
「どうかしたのか」
聞くが、何も答えない。辺りを見回し手近な木に腰をかけ、ルーンカルツに側を促した。何を期待しているのだろう。同じく木に腰を落ち着けたルーンカルツは、じっとナサリオの顔を見る。
「……――♪」
一小節、先程口ずさんだ歌を歌うと、満足げににゃあと鳴いてルーンカルツは丸くなった。成程、歌を促していたのか。
リオンがこの森へ来て、どれほど経つだろうか。誰もいない森の隅で楽器の音が鳴るのを、毎日楽しみに待つのが習慣となってきた。今日はまだ来ないのだろうか。人の生み出した楽器の音と始め虐げはしたが、既に耳慣れて親しい音色となった。耳に残るメロディーを口ずさめば、ルーンカルツも喉を鳴らす。ああ、待ち遠しい。
「ナサリオ様、ここにいらしたのですね」
歌を止めると、ルーンカルツがひょいと顔を上げてナサリオを見た。住む森を同じくするハイエルフだった。先程まで丸くなっていたルーンカルツを責めるようじろりと睨むが、どこ吹く風というようにナサリオの側でまた丸くなった。
「ここ最近、日中お出かけになられているようで。そちらで覚えた歌なのでしょうか?」
薄めた目は笑みの形を作っているが、ハイエルフの目は暗い。ナサリオの一挙手一投足、表情の些細な変化まで見逃さんとする視線は強い。この男、プロトが、ナサリオは近頃苦手だった。
「……ああ、最近この森に来ては演奏してくれる吟遊詩人が弾いていた歌だ」
「吟遊詩人……」
プロトの目が少しばかり吊り上がった。ああ、言葉を間違えた、と思うが訂正する言葉も見つからない。
「貴方が贔屓にされているハーフエルフの男でしょう」
「ああ」
ため息を吐かれた。ずしりと心が重くなり目を逸らしてしまった。プロトはそれも見逃してはいないだろう。
「お言葉ですが、ナサリオ様……」
紡がれる言葉の先など、嫌という程想像できる。リオンと出会う前まで、自らが吐いてきた言葉だ。
「ハーフエルフがこの森に立ち入っている、ましてや、人間に作られた忌まわしい楽器を弾いている。それがどれだけハイエルフ達の神経に触れ刺激しているか。貴方はご存知でしょうか?」
「先程の歌、プロト、君はいい歌だとは思わなかったか?」
「……ハーフエルフの歌という前提を知っておりましたので。感想は控えさせていただきます」
「……そうか。答えにくい事を聞いてすまない」
首を振ると、プロトも黙った。
プロトと反りが合わなくなったのは最近の事だ。リオンと出会う前は、寧ろ良き理解者だった。ハイエルフ達に尊敬され敬われる召喚師という立場、人知れず困った時や迷った時、必ず側へ来てアドバイスをしてくれた。まるで父のよう、というにはプロトは若すぎるが、これまでずっと信頼してきた男だった。常に皆の事を考え、皆が良い方向へ向かう事を考える。真面目で誇り高い、ハイエルフの鏡のような男だった。
「ナサリオ様、貴方は変わってしまわれました」
正しく、ナサリオがリオンと出会って考えを改めた事がきっかけとなり、プロトとのずれが生まれ始めた。ハーフエルフと理解し合う事ができた、私達は人間とも理解し合う事が出来るかも知れない。希望を持ってそう伝えた時、プロトが今まで見せた事のない目をしていたのをよく覚えている。
遠くで、弦の音が鳴った。弾かれたように、ナサリオとプロトが顔を上げる。立ち上がるナサリオに、プロトは顔を歪ませた。最近、プロトはよくこんな顔をするようになった。そうさせているのは自分自身だと、よく理解している。
「ナサリオ様、貴方はハイエルフ達にとって大事な召喚師なのです。努々、忘れませぬよう」
「……ありがとう、プロト。分かっているよ」
随分後ろ髪を引く言葉を選ぶものだ、と眉を寄せた。丁寧に頭を下げる表情は険しく、人への嫌悪、ハーフエルフと親しくするナサリオへの怒りが見えた。
知ってしまってはどうしようもないのだ。広大な世界のひと欠片を見せられては、もう狭い世界には戻れない。リオンを見て、自らがどれほど狭い世界に生きていたのかを知ってしまったのだ。
プロトがぎりりと拳を固める音がしたが、ナサリオは背を向けた。人間の事を嫌悪する気持ちは痛い程分かる。それでも、ハーフエルフとして生まれたリオンに何の罪があるというのか。
ぎりり、と奥歯を噛み締めた。この音も、プロトには聞こえたのだろう。
「ならば、暫くここへ来るのをやめればいいんじゃないか」
事の顛末を聞いたリオンは、あっけらかんと言い放った。
「なっ……! 君はそんな簡単に!」
「何事も、理解できるものとできないものとがいる。無理にわかって欲しいなどとは思わない。理解しろという言葉も、所詮は押し付けだ」
「……」
言われ、ナサリオは押し黙った。自分には人間を理解しようというきっかけがあったが、プロトにも、ハイエルフ達にも人間の言葉を聞くべきだというのは確かに無理がある。ハーフエルフだからと人間にもエルフにも虐げられてきたリオンからそんな言葉が出る事には驚いたが、素直に頷いた。各国を放浪し様々な者と出会ってきたリオンだからこそ、言える言葉なのだろう。
「君は森での役割もある、信用もある、立場もある。私を庇ってそれを放棄するなど、君自身にも森のエルフ達にも利はない。戻るべきだと、私は思う」
楽器を弾く手を止めていたリオンだったが、言いながら弦を緩めた。いつも帰る時にしている習慣だ。今日の演奏はこれでおしまい。そういう意味を含んでいた。
「……ここへは、来ない方がいいのだろうか」
つい、弱い声を出してしまった。慌てて訂正しようと顔を上げるが、リオンは満足げに目を細めていた。表情の読みにくい男だが、見慣れてしまえば些細な変化からその感情がよく読み取れることを知ってしまった。
「何、私がまた旅に出るだけさ。ここは君がいたから良い場所だったが。聞き手がいなくとも吟遊詩人は奏でるものだ、気にするな」
諭すように言われてしまい、ぐっと顔を伏せた。
「もう、ここへは来ないという事か」
「今すぐにという訳ではない。それに、縁があればまた会えるだろう」
今すぐではない、という言葉に心底胸を撫で下ろした。同時に、縁、という言葉が腹の底に残る。この森から出ないハイエルフに、縁はどうやって生まれるのだろう。ここでも居場所を追われたリオンは、どこへ向かうのだろう。
この森の召喚師としてここにいる。リオンを受け入れないからと言って、この森のハイエルフを責められはしない。ナサリオ自身、リオンと出会うまで同じ考えを持っていたのだから。
帰り道は、足取りが重かった。プロトは既にいなかったが、忘れて置いていったルーンカルツだけが不満げに鳴いていた。
「あのハーフエルフがこの森を去るようですよナサリオ様!」
朝一番嬉し気なハイエルフの声が耳を刺し、頭が痛くなった。
「ナサリオ様、毎回注意しに行っていましたものね、きっとそれが功を奏したのですよ!」
成程、周囲の者にはそう見えていたのか。
「彼は確かにハーフエルフだ、だがそれがどうしたと言うんだ。彼も、リオンも……」
「ナサリオ様はハーフエルフと仲良くされているようですよ」
疑問符を浮かべるハイエルフの側。現れたプロトが顔を出し、言った。
「プロト……」
思わず名を呼んだ。プロトの瞼がぴくりと動くが、ナサリオへ向けられることはなかった。
「ナサリオ様……ハーフエルフと、その、仲が良いという話は……」
「ああ、本当だ」
おずおずと窺うハイエルフに、ため息を吐き頷いた。何も隠す事はない。ない筈だ。そう信じていたが、ハイエルフは甲高い声を上げてナサリオの側から飛び退いた。
「そんな、そんなまさか! 噂だと思っていたのですが、まさか本当に……!」
「落ち着いて聞いて欲しい、彼は皆が思うような汚らわしいものではなく……」
わなわなと手を肩を震わせて目を見開く。ヒステリックにも思える反応にナサリオは両手を広げて制そうとするが、強い力で叩き払われた。
「っ!」
「聞きたくありません! 見損なってしまいましたナサリオ様、貴方は我々ハイエルフの召喚師だというのに、よそ者に対しそう簡単に心を許すなど……!」
「この森の者ではないが、彼はこの森へ危害を加える事はない、信じて欲しい」
「危害を加えるか否かの話ではありません! あのよそ者がまだこの森にいて、ナサリオ様がそれを許しているという事実が問題なのです! ……失礼いたします、私はこのことを森の者へ報告させていただきます」
「待ってくれ、彼が何をしたと言うんだ!」
「先程申し上げた通りです」
息を飲んだ。まずい、止めなければ。ハイエルフへ手を伸ばすナサリオの肩をプロトが掴んだ。
「プロト!? 頼む、どうか止めてくれ、あの吟遊詩人は無害だ、それを皆に……!」
「ナサリオ様、本気でおっしゃっているのですか」
「何を言う、私は本気で……」
「貴方はとても自分勝手だ、何も分かっていない!」
怒鳴るプロトに、目を見開いた。
ハイエルフは、五感が発達している。特に耳が良く、遠くで鳴る音も声も聞き取る事ができる。長寿で従来穏やかな性格な事もあるが、そのせいもあり大声を出す事など滅多になかった。特に、プロトの怒鳴り声など。
目を丸くするナサリオに、プロトははっと顔を硬くした。らしくない事をしたとでも言うように、一つ咳ばらいをする。
「貴方が今するべきは、あのハーフエルフの元へ向かう事ではないでしょうか」
「! まさか、誇り高いハイエルフがそんな乱暴な真似など」
「どうか、憶えていてください。貴方がそう思っていようと、誰しもそう簡単に受け入れる事などできない。理解しろ、という言葉は、相手の理解したくないという気持ちを踏みにじる事に直結するのです」
「……っ」
理解しろという言葉も所詮は押し付けだ。そう言っていたリオンの言葉が重なった。
くらりと眩暈がする。プロトの気持ちを踏みにじっていたのだろうか。ハイエルフ達の気持ちを踏みにじっていたのだろうか。
ハイエルフ達がよそ者を嫌う理由は十分に理解している。自分自身、リオンと出会うまでは全く同じだった。しかし、リオンの苦悩も知ってしまったのだ。どこにも居場所のない者の悲しみを知ってしまったのだ。
「プロト……理解し合う事とは、こうも難しいものなのか」
悔しくて、奥歯を噛み締めた。きっと、他のハイエルフ達には見せられないような、情けない顔をしている。そう思ったが、プロトも泣きそうに歪む顔をしていた。
「……私は、皆が良い方向へ進む道を模索し続けています。答えなど、分からない……」
「……」
ナサリオはなんと答えて良いか分からなかった。プロトは、やはり真面目な男だった。
森の中を走った。歩き慣れた森の散歩道を、今は全速力で走った。どうかリオンに何もないようにと。陽が昇ったこの時間にはもう弦の音が鳴っていてもおかしくはないのだが、今日はまだ聴こえてはいなかった。どうか、どうか無事でいてくれとひた走る。
「リオン……リオン!」
「! どうした、何かあったのか」
いつもリオンが座り楽器を弾く、小さな陽だまりのある森の隅。荷物をまとめていたリオンが、必死の形相で山を下ってきたナサリオにぎょっと目を丸くした。
「よか……った、何事も、ないんだな、リオっ……」
「落ち着け、まずは息を整えてからだ」
促され、木にもたれかかり座り込んだ。渡された水を飲み、ふうっと息を吐く。
荷物はまとめられていたが、一つのリュートだけ荷から離れていた。今から弾こうとでもしていたのだろうか。
「……今日で、出て行ってしまうのか」
「ああ、最後に君には挨拶をしたいと思っていたんだ。楽器を弾く前に来たのには驚いたが」
「遠くへ行くのか」
「特に決めてはいないが、次は海の見える場所を目指そうかと思っている。きっと、良い音が溢れているだろう」
目を細め、リオンが笑った。胸がふっと軽くなったような気がした。
リオンがいなくなる事。ハイエルフの者達との不和が続いている事。不安が多くあったが、当のリオンは極自然に別れを告げに来た。寂しくはあるが、リオンを心配していた心は軽くなったような気がした。言葉は悪いが、問題の中心となったリオンが森からいなくなるのならば、ハイエルフ達の動揺もなくなるかも知れない。そんな気がした。
「君は、この森に残るんだろう。ハイエルフ達の召喚師として」
「ああ。この森の為に、この森のハイエルフ達の為に、私はここに残る」
言うと、頷いた。弾こうとしていたらしいリュートを荷物に入れ直し背負うリオンに、ナサリオは目を細めて笑った。
「せめて森の出口まで送っていこう」
二人、静かな森の中を並んで歩いた。森の出口までと、リオンの荷物を半分ナサリオが持つ。リオンの奏でる音色を覚えたのだとナサリオが口ずさむと、正しくはこうだとリオンが歌った。
小鳥が歌いせせらぎが囁く森の中、二人、ひた歩いた。
やがて森が暗く湿り、穏やかな散歩道が険しい獣道になろうと、二人、ひた歩いた。
「……ナサリオ、一つ、言ってもいいだろうか」
「……待ってくれ、まだ確証が持てない」
ひた歩きながら、リオンが呟いた。首を振るナサリオに、重ねて強くリオンが言う。
「いいや、言わせてくれ。私がいたのは森の隅だったはずだ。出ていく為に、これほど歩く筈はない」
「そんな事を言うのはやめてくれ」
ナサリオはやはり首を振るが、リオンはナサリオの腕を掴み、ひた歩いてきたその足を止めさせた。
「言う。これはエルフの魔法によるものではないのか、ナサリオ」
「……っ」
立ち止まった場所は、まるで雨が降った後のように地面がぬかるみ始めている。道らしき場所を辿ってきた筈が、側には急勾配のある山道となっていた。数分も歩けば森の出口へ着く筈だったが、明らかに危険な場所へ向かわされている。側にナサリオもいるのに、どうして。
ぎり、とナサリオが拳を握った。
「よそ者であれば、普通は森に入らないよう外へ仕向ける。しかしこれは……」
「うっかり谷底へ落ちてしまいそうな道へ通すのがハイエルフのやり方か?」
「まさか! ハイエルフはそんな野蛮なものではない」
疲れに小さく悪態を見せたリオンだったが、ふうっと息を吐いて俯いた。側の急こう配な山肌を滑り落ちてしまえば、リオンの言った通り谷底へ真っ逆さまに落ちてしまうだろう。二人とも、足元は既に泥で汚れていた。木や茂みに擦り付けて泥を落とすが、ぬかるみ始めた山道を歩くには危険が大きい。
「この場合、止まるのと進むのとどちらが賢明なんだ?」
「足場や周囲はこの有様、動かない方が得策、と言いたいが……」
言葉の切れ間。近くの茂みから、獣の唸り声が鳴った。地を這うような、低く野太い声。リオンが目を見開いて一歩引いた。ナサリオが、リオンの手首を強く掴んだ。
「獣……!」
呟いたリオンの声と同時、茂みから牙を剥き出しにした獣が飛び出した。ぬかるんだ道を蹴り、掴んだリオンの手を引っ張り走り出す。
「走れるかリオン!」
持っていたリオンの荷物など持っている余裕はなかった。それはリオンも同様。ナサリオの呼びかけに答える余裕もなく、引っ張られながらがむしゃらにぬかるみを蹴り走った。
獣までけしかけるとは思ってもみなかった。動揺に足がもつれるが、獣道の草木を掴み体勢を整えながら山道を走り抜ける。ハイエルフ達の仕業であることは明白だが、何の意図があって。どうして。
奥へ進むほど道は険しい。転がるように山道を走るが、濡れた枝葉をばしんばしんと叩き退け、二人の手や顔は傷だらけになっていった。尚も獣は追ってくる。ナサリオはともかく、リオンの体力はすぐに限界を迎えた。ぜえぜえと呼吸荒く、何度も躓いてはナサリオに引っ張られて体勢を立て直す。
これでは共倒れだ。ナサリオは遠くに見えた大岩に目を付けると、素早くリオンを引っ張りこんで裏手の茂みに身を隠した。二人して体勢を崩し倒れ込むが、素早くリオンの口を塞ぎ押さえ込む。ナサリオも、ぐっと息を止めた。
まるで地響きのような獣の雄叫びが森に響く。どど、どど、と地面を削り取るかのように森を走る獣の足音は、ナサリオとリオンの隠れる茂みを通り過ぎていった。
「っ……っ、ぶはっ! は、はあっ……!」
咳き込み、荒く息を吸った。数秒であろうと、全力疾走した直後に止めた息は肺で爆発しそうな程に苦しくなる。リオンはしばらく倒れ込んで息荒く胸を上下に揺らしていたが、呼吸の合間に小さくありがとうと呟いた。
「っ、……話し合いで、どうにかなる様子ではなさそう、だな……向こうからしてみれば、私は、君を洗脳して連れ去ろうとしている悪人か何かだろうか」
呼吸を整えながら、リオンが身を起こした。顔も腕も、細かな傷が多く付いていた。その上から泥もついているが、ナサリオも全く同じ状況だった。
「私が出口まで送ると言ったせいか!?」
「今更それについて言おうとどうしようもない、仲間に誤解だと知らせることはできないのか」
「術者の居場所がわからない、大声で呼びかけては魔物に居場所を知らせるだけだ」
「打つ手はなしか」
リオンが顔をくしゃりと歪めた。疲労が滲んでいる。獣の気配は一旦遠のいたが、いつここまで戻ってくるのか見当もつかない。ハイエルフ達が緊張状態にある中、軽率な行動を取ってしまったのだと気付いたが後の祭りだ。
岩にのしりと凭れ、リオンがナサリオに向いた。
「二手に分かれよう」
「こんな中、まともに外へ出られると思っているのか」
「このまま一緒に出れば彼らはこの森の召喚師を奪われたという結果になる。そうでない事を示すしかない」
尤もだが、うまくいくとも限らない。彼らがどのような意図をもってナサリオ達を攻撃しているのか分からない以上、下手に分かれる訳にはいかない。特に、体力の持たないリオンを放っていくなど。
「ここで別れたとして、魔物は君を追うのをきっとやめない、危険だ」
身を起こして言うが、リオンの目は真正面からナサリオを捉えた。大真面目に、真剣に言っているのだという顔をして。
「二手に分かれている間に君が術者を探し出し、交渉するなり魔物を止めさせるなりすれば良い。でなければ永遠にハイエルフの森の中で追いかけ回され、体力を奪われた挙句殺されるだけだ」
「っ……」
リオンの強い言葉に、息を飲んだ。事実、先程は獣に追われた。リオンを追い出したいのならば、エルフの魔法で森から逃がさないようにするなど面倒な事はしない筈。ハイエルフたちの殺意に、胃の奥がぐずぐずにかき回されるように苦しくなった。
「……なに、相手がまだ優しければ、二手に分かれた後に森から出してくれるだろう」
それほど酷い顔をしていたのだろう。リオンは言葉を和らげると、懐をごそごそと探った。リオンの荷物は走りながらほとんど投げ落とされたが、懐に残ったものを取り出すと、ナサリオに手渡した。
「一つ、楽器を預けておこう。私の宝物だ」
草飾りのついた角笛が一つ、ナサリオの手に収まった。
「宝物……良いのか? そんな大事なものを」
「ああ。曰くはないが、森に風が吹き込んだような綺麗な音が鳴るからきっと君に似合う。今日、君に渡したかったんだ」
荷物にまとめず持っていたのはこの為か。角笛をぎゅっと握り締めた。
「……ありがとう、大事にしよう」
「ああ。そして、ここでお別れだ、ナサリオ」
笑うリオンに、ぐっと胸が詰まった。こんな危険な森の中で分かれるとは夢にも思わなかった。
「ああ、リオ……」
言いかけて、息が止まった。リオンの背後、獣の獰猛な爪が茂みから音もなく伸びた。一瞬だった。ナサリオが気付いて手を伸ばすが、遅い。
「がっ……!」
スローモーションで、リオンの細い体に獣の爪が食い込む様が見えた。ず、と肌に爪の切っ先が食い込む。掬い取られるように弾かれ、リオンの体は山の斜面を転がり、木に体をぶつけて動きを止めた。
「り……リオン、リオンっ、返事をしてくれ、リオンっ!」
泥や草木に塗れたリオンの体は、ナサリオの呼びかけにぴくりとだけ動いた。小さく呻くが、腕からも脇腹からも血が垂れ、ぬらりと服を汚していく。
「リオン……!」
ナサリオはわなわなと、拳を震わせた。なぜ。なぜこんな仕打ちを受けなければならない。リオンが何をしたというのだ!
「エルフとしての誇りを失ったのか!」
怒号が森に響き渡った。獣が、ぐるると唸り声を上げる。怒りで頭に血が上っているのが分かったが、止める者は、リオンは地面に体を預け動かない。
「いるんだろう! 獣を操っている者が!」
術者を説得する、というリオンの言葉は既に頭から消え失せていたが、怒号はどこかへいるだろう術者へ向けられた。獣はぐるると唸ったままナサリオの様子を見る。ならば手始めにこの獣を始末するべきか。召喚獣を呼び寄せようと手を空に掲げると、がさりと近くの茂みが鳴った。
「……プロト!」
ぎっと睨む先、プロトが木に手をついてナサリオを睨んでいた。
「エルフとしての誇りなど。ハーフエルフと共にこの森を出ていこうとした者がよくおっしゃいましたね」
「……君は、私の一番の理解者だと思っていた」
「……ありがたいお言葉ですが、ナサリオ様、私は貴方の力になる事はできませんでした」
息を詰め、プロトが俯いた。
プロトとは、近頃反りが合わなくなってきた。それでも、プロトの話す言葉には説得力があり、納得するべき部分が多くあった。ずっと、信頼してきたつもりだった。
睨み付けていた目を細め、ナサリオは再度、空に手を掲げた。魔法陣がふわりと浮かび、どこからともなく召喚獣の鳴き声が聞こえ始める。
「すまないが、君を倒してあの獣を止めさせて貰う。私はリオンを人間のいる場所へ送り届けなければならないんだ」
頭に血が上っているが、言葉は何故だか落ち着いていた。プロトに召喚獣を向けようとしている。この状況も、何故だか落ち着いて客観視していた。
「ナサリオ様、私は貴方に、もう一度言わなければならない事があります」
「……なんだ」
冷たいプロトの声に何が含まれているのか。聞く余裕など心のどこにあるのか。それでも、ナサリオはじっとその目を見た。
「ハイエルフ達には理解できない事を、貴方はそのハーフエルフを通して理解する事ができました。しかしそれを他のハイエルフに伝え理解して貰うには、多くの困難が伴います」
「……」
プロトの目はやはり鋭かったが、言葉は一つ一つ、諭すように丁寧に重ねられていった。
「ハイエルフは誇りと、そして自尊心でがんじがらめになっている生き物だ。貴方が思っているよりも、ずっと、それは解くのに時間がかかる。……ハーフエルフの苦悩を理解した貴方は、彼らのそんな一面も、もっと理解するべきだった」
「……プロト?」
「ナサリオ様、私は、貴方の一番の理解者でありたかった。これからは、そのお力添えができなく、なって、しまいます、が……」
「プロト!?」
言いながら、ぐらりとプロトの体が崩れ落ちた。駆け寄って体を抱き起こし、手にへばり付いた血を見てようやく気が付いた。プロトの背には、大きな傷跡があった。獣の爪痕と噛み付き痕が重なり、傷口がどうなっているのかもよく分からない。
ぐるる、と唸る獣が、一歩にじり寄った。
「ナサリオ様、貴方、は」
「いい、プロト、もういいんだ!」
「貴方、は、皆の事を満遍なく考える、とても丁寧で優しい、方です。その優しさを、よそ、者に向けるのを、嫌がるハイエルフも、多くいる。……どうか、彼らを、責めないで、やって欲しい……」
「喋らないでくれプロト……っ!」
先程まで綺麗だったプロトの顔が、ごぽりと吐いた血で汚れた。服が汚れるのも構わず、プロトを強く抱きしめる。ナサリオの目からぼろりと涙がこぼれた。一瞬でも疑ってしまった。プロトは、始めから真実しか話してはいなかった。最初から、誰よりも味方だったのに。
「すまない、プロト、すまない!」
ごぷ、と尚もプロトの口から血が溢れた。喋らないでくれとナサリオがその頭を抱え込むが、咳と共に溢れる血は止まらなかった。
ぐおおおお!
背後から獣の地響きが鳴った。はっと振り返るが、その牙は目前。間に合わない、とプロトを庇うよう抱き込んだ。
衝撃は来なかった。代わりに、獣の甲高い悲鳴が聞こえる。
「ナサリオ!」
目を開けると、傷だらけのリオンが太い木の枝で獣の鼻っ面を殴り付けていた。リオンに振り回せる重さではないのだろう、木の枝は獣の鼻をがつんと凹ませた後、重みでリオンの手から落ちた。そのまま、リオンも膝をつく。
「リオン、逃げられるか!」
「……はは、今ので精いっぱいだ」
「そんな……!」
プロトは、口から血を流しながらリオンを見た。気付きリオンも目を合わせるが、プロトの口からは血しか出てはこなかった。
獣は、尚も吠えた。リオンの不意打ちの殴打は怪我にもなってはいない。プロトは大怪我を負い、リオンは膝をついている。ナサリオが召喚獣を呼ぶとして、間に合うかどうか。一か八かで、ナサリオは空へ手を掲げた。急げ、急げと必死に念じながら。
「なさ……り……」
プロトの弱い呼びかけに、ナサリオは険しい顔で首を振った。喋るな。頼むから喋らないでくれと。しかし、プロトの手はぐっとナサリオを引き掴みながらも必死に起き上がろうとする。
「プロト、どうしっ……!?」
獣が吠えた。ナサリオの召喚獣は間に合わない。リオンがプロトに手を伸ばす。そのリオンの体も掴み、プロトは。
「っ……!?」
三人、獣の大振りの爪を避け、プロトに引き倒されて山の斜面を転がり落ちた。先程獣の爪が食い込んだリオンの体にも容赦なく地面はぶつかる。ナサリオは、必死に二人を掴んだ。太い木や岩の飛び出る山の斜面、そのずっと下には川が流れる音がする。体を抉られるような痛みに耐え、リオンとプロトを胸の内に抱え、守るように転がり落ちる。
止める障害物も、平らな地面もない。深い谷底へ、落ちていった。
激しく水面に体を打ち付ける衝撃でリオンは目が覚めた。どぼん、と全身が水の奥に沈むのを感じる。傷が染みたが、リオンはもがき、水面から顔を出した。
「ぶはっ……っ、な、ナサリオ! ナサリオ!?」
ばちゃばちゃと水面でナサリオを探す。川は、酷い出血によりすぐに汚れた。その中で身動きしないナサリオを見つけ、無我夢中で手を伸ばした。全身が痛い。ぎりぎりと締め付けられるように痛み視界はぐらついたが、そんな事は関係なかった。
なんとか川岸までナサリオを引き上げた。すぐに水を吐いて呼吸をしたが、谷底へ落ちる途中で受けた傷だろう、脇腹の肉がごっそりと抉れ血がしとどに流れ出していた。川の水が必要以上に血に染まっていたのはこの為か。手が震える。ナサリオは蒼白になり、細い息を繰り返していた。このままでは助からない。
「ハーフエルフ、の……リオン……ですね……」
「きっ君は……」
泣きかけた目元を慌てて拭い、リオンは振り向いた。一緒に落ちたプロトが、川岸であおむけに倒れていた。既に口から血は吐いてはいなかったが、代わりに既に大怪我をしていた背中から、血が川へ流れだしていた。
「ナサリオ様、を、殺……す……な、ど、あっては、いけません……」
「……当然だ」
ナサリオ以上に、怪我が酷いように見えた。抉れた背中をわずかに見たが、内臓がどれほど傷つけられているのか想像もつかない程だった。リオンは、頷いた。
「ナサ、リオ、様を、どうか……そと、で、自由に……」
「分かった。絶対、約束する」
プロトから流れ出す血が、川に筋のように流れていく。
手持ちの布を破り、リオンはどうにかナサリオの傷口を縛った。それだけでは血は止まらないが、これ以上できる事などない。人のいる場所へ向かわなければ。
ナサリオを背負い、震える足を引きずった。ゆっくりと、プロトの前まで来る。そんなリオンの姿を見て、プロトは満足そうに笑った。
「やく……そ……く……」
「ああ、約束だ」
プロトを連れていく事はできない。リオンもプロトも、百も承知だった。リオンは静かに、歩を進めた。血の匂いが濃い、きっとここにも、またあの獣はやってくるだろう。それでも、足を進めた。もう涙を見る者もいない。道なき道を、涙を落としながら歩いた。
ふと、ナサリオが目を覚ました。ぴちち、と小鳥がなく声が耳に入る。見覚えのない天井があったが、暫くはぼんやりと眺めていた。体を動かそうとして、どこもかしこも痛い事に気が付いた。少しずつ、思い出していく。ああ、生きていたのか、と。
痛む体を、ぎしりと無理に起こした。そこで目に入る、ナサリオの布団にもたれかかり眠るリオンの姿。痛々しい包帯が巻かれているが、それはナサリオの方が多い。谷底へ落ちる際何とか守れたのだと安堵した。
「リオン」
呼び、膝を動かしてリオンの体を揺すった。現状が分からない。プロトはどこか。ここはどこなのか。せめて現状を知らなければとリオンを起こすと、小さく唸りながら起き上がったリオンが、一瞬で目を見開いてナサリオを捉えた。
「ナサリオ!」
はっきりとした声に安心した。確かに無事だ。何とか生きられたのだと。しかし、リオンの表情はすぐに曇った。
「プロトは……」
不安が口を突いて出た。どうしてここにいないのか。リオンはどうしてそんな顔をするのか。
リオンは目を伏せた。
「……外で、君に自由に過ごしてほしいと言っていた」
「……え?」
ずし、と胸が重くなった。
「出血が……酷かった……君以上に……」
リオンの言いづらそうな言葉が、一つ一つ、なまりのように胃に落ちていった。
飲み込まなければいけない。自分は、この世で一番信頼していた者を、亡くしたのだ。
つんと、鼻の奥が痛んだ。
リオンは、首を振った。
「……私は、あのハイエルフを救う事ができなかった。しかしもう一つ、謝らなければならない事があるんだ、ナサリオ……」
「……」
先程よりも、リオンの声が震えた。その手も、肩も震えた。言う事を恐れているような、そんな顔をじっと伏せて。
「どれだけ謝っても足りない、私は君の、ハイエルフの誇りを汚した」
「……何があったのか教えてくれないか」
「……」
ぐしゃ、とナサリオの被る布団を握った。
「君は、素人目から見ても出血が酷かった。このままでは出血多量で死んでしまうと言われた」
「……」
促すように、黙る。
「エルフの助けは得られない。だから、人間の街で頼むしかなかった。」
「……」
「……すまない、生きていて欲しかったんだ。君にどうしても生きていて欲しかった。……例え、人間の血を輸血しなければならなかったとしても……」
「……えっ」
「……すまない」
リオンは、布団に顔を突っ伏した。これ以上言う事はないとでも言うように黙り込む。ず、と鼻を啜る音が鳴った。
成程、ハイエルフの誇りを汚したとはそういう事なのか。
痛む腕を持ち上げ、陽の光に透かした。手の皮膚の薄い部分、血潮が流れているのが見えた。
「リオン、助けてくれてありがとう」
「助けたなど! 私は、君の誇りであるハイエルフの血を……!」
「気にすることはない。君と同じ、混血になっただけだ。ハーフエルフと言うかは分からないが。ありがとう、リオン」
布団に顔を埋めたまま、リオンは顔を横に振った。何度も、横に振った。
すうっと息を吸った。この身の半分が人間と混ざろうと、何も変わらない。リオンの事を知った時、そう思った。今も、そう思っている。生きるか死ぬかの状況で、リオンに選択をさせてしまった。重荷とさせてしまった事だけが、ちくりと胸に刺さった。
ハイエルフの森からは、実質追い出されたと言っていいだろう。戻る事も、もはやできない。そして自分の軽率な行動から、信頼していた者を失ってしまった。何もかも失ってしまった。
「外で自由に、か……」
プロトの最後の言葉。言葉に出すと、頬につうっと涙が伝った。いつまでも心配をかけてすまない、プロト。
「……リオン、海へ行くと言っていただろう。私も一緒に行かせてくれないか」
「……何?」
布団からようやく上げたリオンの顔は酷いものだったが、光はあった。
「海だ。実は、話を聞いてから羨ましかったんだ。森からは一生出る事はないものと思っていたから」
涙を拭い笑うと、リオンも目を細めて笑った。
「……ああ、行こう。海の色も、匂いも、きっと良いものだ」
「ああ、それは楽しみだ」
まだ、リオンから受け取った楽器も弾けていない。ああ、これからすべてが始まるのか。そう思うと、また涙が出た。
「……――♪ ……――……♪」
重ねて、森を歩くナサリオが小さく歌を口ずさんだ。誰にも聞こえないよう、とても小さく。ルーンカルツが、にゃあと鳴いてナサリオの側へ来た。歩く足を止めると、ナサリオの足元にちょんと座り込む。
「どうかしたのか」
聞くが、何も答えない。辺りを見回し手近な木に腰をかけ、ルーンカルツに側を促した。何を期待しているのだろう。同じく木に腰を落ち着けたルーンカルツは、じっとナサリオの顔を見る。
「……――♪」
一小節、先程口ずさんだ歌を歌うと、満足げににゃあと鳴いてルーンカルツは丸くなった。成程、歌を促していたのか。
リオンがこの森へ来て、どれほど経つだろうか。誰もいない森の隅で楽器の音が鳴るのを、毎日楽しみに待つのが習慣となってきた。今日はまだ来ないのだろうか。人の生み出した楽器の音と始め虐げはしたが、既に耳慣れて親しい音色となった。耳に残るメロディーを口ずさめば、ルーンカルツも喉を鳴らす。ああ、待ち遠しい。
「ナサリオ様、ここにいらしたのですね」
歌を止めると、ルーンカルツがひょいと顔を上げてナサリオを見た。住む森を同じくするハイエルフだった。先程まで丸くなっていたルーンカルツを責めるようじろりと睨むが、どこ吹く風というようにナサリオの側でまた丸くなった。
「ここ最近、日中お出かけになられているようで。そちらで覚えた歌なのでしょうか?」
薄めた目は笑みの形を作っているが、ハイエルフの目は暗い。ナサリオの一挙手一投足、表情の些細な変化まで見逃さんとする視線は強い。この男、プロトが、ナサリオは近頃苦手だった。
「……ああ、最近この森に来ては演奏してくれる吟遊詩人が弾いていた歌だ」
「吟遊詩人……」
プロトの目が少しばかり吊り上がった。ああ、言葉を間違えた、と思うが訂正する言葉も見つからない。
「貴方が贔屓にされているハーフエルフの男でしょう」
「ああ」
ため息を吐かれた。ずしりと心が重くなり目を逸らしてしまった。プロトはそれも見逃してはいないだろう。
「お言葉ですが、ナサリオ様……」
紡がれる言葉の先など、嫌という程想像できる。リオンと出会う前まで、自らが吐いてきた言葉だ。
「ハーフエルフがこの森に立ち入っている、ましてや、人間に作られた忌まわしい楽器を弾いている。それがどれだけハイエルフ達の神経に触れ刺激しているか。貴方はご存知でしょうか?」
「先程の歌、プロト、君はいい歌だとは思わなかったか?」
「……ハーフエルフの歌という前提を知っておりましたので。感想は控えさせていただきます」
「……そうか。答えにくい事を聞いてすまない」
首を振ると、プロトも黙った。
プロトと反りが合わなくなったのは最近の事だ。リオンと出会う前は、寧ろ良き理解者だった。ハイエルフ達に尊敬され敬われる召喚師という立場、人知れず困った時や迷った時、必ず側へ来てアドバイスをしてくれた。まるで父のよう、というにはプロトは若すぎるが、これまでずっと信頼してきた男だった。常に皆の事を考え、皆が良い方向へ向かう事を考える。真面目で誇り高い、ハイエルフの鏡のような男だった。
「ナサリオ様、貴方は変わってしまわれました」
正しく、ナサリオがリオンと出会って考えを改めた事がきっかけとなり、プロトとのずれが生まれ始めた。ハーフエルフと理解し合う事ができた、私達は人間とも理解し合う事が出来るかも知れない。希望を持ってそう伝えた時、プロトが今まで見せた事のない目をしていたのをよく覚えている。
遠くで、弦の音が鳴った。弾かれたように、ナサリオとプロトが顔を上げる。立ち上がるナサリオに、プロトは顔を歪ませた。最近、プロトはよくこんな顔をするようになった。そうさせているのは自分自身だと、よく理解している。
「ナサリオ様、貴方はハイエルフ達にとって大事な召喚師なのです。努々、忘れませぬよう」
「……ありがとう、プロト。分かっているよ」
随分後ろ髪を引く言葉を選ぶものだ、と眉を寄せた。丁寧に頭を下げる表情は険しく、人への嫌悪、ハーフエルフと親しくするナサリオへの怒りが見えた。
知ってしまってはどうしようもないのだ。広大な世界のひと欠片を見せられては、もう狭い世界には戻れない。リオンを見て、自らがどれほど狭い世界に生きていたのかを知ってしまったのだ。
プロトがぎりりと拳を固める音がしたが、ナサリオは背を向けた。人間の事を嫌悪する気持ちは痛い程分かる。それでも、ハーフエルフとして生まれたリオンに何の罪があるというのか。
ぎりり、と奥歯を噛み締めた。この音も、プロトには聞こえたのだろう。
「ならば、暫くここへ来るのをやめればいいんじゃないか」
事の顛末を聞いたリオンは、あっけらかんと言い放った。
「なっ……! 君はそんな簡単に!」
「何事も、理解できるものとできないものとがいる。無理にわかって欲しいなどとは思わない。理解しろという言葉も、所詮は押し付けだ」
「……」
言われ、ナサリオは押し黙った。自分には人間を理解しようというきっかけがあったが、プロトにも、ハイエルフ達にも人間の言葉を聞くべきだというのは確かに無理がある。ハーフエルフだからと人間にもエルフにも虐げられてきたリオンからそんな言葉が出る事には驚いたが、素直に頷いた。各国を放浪し様々な者と出会ってきたリオンだからこそ、言える言葉なのだろう。
「君は森での役割もある、信用もある、立場もある。私を庇ってそれを放棄するなど、君自身にも森のエルフ達にも利はない。戻るべきだと、私は思う」
楽器を弾く手を止めていたリオンだったが、言いながら弦を緩めた。いつも帰る時にしている習慣だ。今日の演奏はこれでおしまい。そういう意味を含んでいた。
「……ここへは、来ない方がいいのだろうか」
つい、弱い声を出してしまった。慌てて訂正しようと顔を上げるが、リオンは満足げに目を細めていた。表情の読みにくい男だが、見慣れてしまえば些細な変化からその感情がよく読み取れることを知ってしまった。
「何、私がまた旅に出るだけさ。ここは君がいたから良い場所だったが。聞き手がいなくとも吟遊詩人は奏でるものだ、気にするな」
諭すように言われてしまい、ぐっと顔を伏せた。
「もう、ここへは来ないという事か」
「今すぐにという訳ではない。それに、縁があればまた会えるだろう」
今すぐではない、という言葉に心底胸を撫で下ろした。同時に、縁、という言葉が腹の底に残る。この森から出ないハイエルフに、縁はどうやって生まれるのだろう。ここでも居場所を追われたリオンは、どこへ向かうのだろう。
この森の召喚師としてここにいる。リオンを受け入れないからと言って、この森のハイエルフを責められはしない。ナサリオ自身、リオンと出会うまで同じ考えを持っていたのだから。
帰り道は、足取りが重かった。プロトは既にいなかったが、忘れて置いていったルーンカルツだけが不満げに鳴いていた。
「あのハーフエルフがこの森を去るようですよナサリオ様!」
朝一番嬉し気なハイエルフの声が耳を刺し、頭が痛くなった。
「ナサリオ様、毎回注意しに行っていましたものね、きっとそれが功を奏したのですよ!」
成程、周囲の者にはそう見えていたのか。
「彼は確かにハーフエルフだ、だがそれがどうしたと言うんだ。彼も、リオンも……」
「ナサリオ様はハーフエルフと仲良くされているようですよ」
疑問符を浮かべるハイエルフの側。現れたプロトが顔を出し、言った。
「プロト……」
思わず名を呼んだ。プロトの瞼がぴくりと動くが、ナサリオへ向けられることはなかった。
「ナサリオ様……ハーフエルフと、その、仲が良いという話は……」
「ああ、本当だ」
おずおずと窺うハイエルフに、ため息を吐き頷いた。何も隠す事はない。ない筈だ。そう信じていたが、ハイエルフは甲高い声を上げてナサリオの側から飛び退いた。
「そんな、そんなまさか! 噂だと思っていたのですが、まさか本当に……!」
「落ち着いて聞いて欲しい、彼は皆が思うような汚らわしいものではなく……」
わなわなと手を肩を震わせて目を見開く。ヒステリックにも思える反応にナサリオは両手を広げて制そうとするが、強い力で叩き払われた。
「っ!」
「聞きたくありません! 見損なってしまいましたナサリオ様、貴方は我々ハイエルフの召喚師だというのに、よそ者に対しそう簡単に心を許すなど……!」
「この森の者ではないが、彼はこの森へ危害を加える事はない、信じて欲しい」
「危害を加えるか否かの話ではありません! あのよそ者がまだこの森にいて、ナサリオ様がそれを許しているという事実が問題なのです! ……失礼いたします、私はこのことを森の者へ報告させていただきます」
「待ってくれ、彼が何をしたと言うんだ!」
「先程申し上げた通りです」
息を飲んだ。まずい、止めなければ。ハイエルフへ手を伸ばすナサリオの肩をプロトが掴んだ。
「プロト!? 頼む、どうか止めてくれ、あの吟遊詩人は無害だ、それを皆に……!」
「ナサリオ様、本気でおっしゃっているのですか」
「何を言う、私は本気で……」
「貴方はとても自分勝手だ、何も分かっていない!」
怒鳴るプロトに、目を見開いた。
ハイエルフは、五感が発達している。特に耳が良く、遠くで鳴る音も声も聞き取る事ができる。長寿で従来穏やかな性格な事もあるが、そのせいもあり大声を出す事など滅多になかった。特に、プロトの怒鳴り声など。
目を丸くするナサリオに、プロトははっと顔を硬くした。らしくない事をしたとでも言うように、一つ咳ばらいをする。
「貴方が今するべきは、あのハーフエルフの元へ向かう事ではないでしょうか」
「! まさか、誇り高いハイエルフがそんな乱暴な真似など」
「どうか、憶えていてください。貴方がそう思っていようと、誰しもそう簡単に受け入れる事などできない。理解しろ、という言葉は、相手の理解したくないという気持ちを踏みにじる事に直結するのです」
「……っ」
理解しろという言葉も所詮は押し付けだ。そう言っていたリオンの言葉が重なった。
くらりと眩暈がする。プロトの気持ちを踏みにじっていたのだろうか。ハイエルフ達の気持ちを踏みにじっていたのだろうか。
ハイエルフ達がよそ者を嫌う理由は十分に理解している。自分自身、リオンと出会うまでは全く同じだった。しかし、リオンの苦悩も知ってしまったのだ。どこにも居場所のない者の悲しみを知ってしまったのだ。
「プロト……理解し合う事とは、こうも難しいものなのか」
悔しくて、奥歯を噛み締めた。きっと、他のハイエルフ達には見せられないような、情けない顔をしている。そう思ったが、プロトも泣きそうに歪む顔をしていた。
「……私は、皆が良い方向へ進む道を模索し続けています。答えなど、分からない……」
「……」
ナサリオはなんと答えて良いか分からなかった。プロトは、やはり真面目な男だった。
森の中を走った。歩き慣れた森の散歩道を、今は全速力で走った。どうかリオンに何もないようにと。陽が昇ったこの時間にはもう弦の音が鳴っていてもおかしくはないのだが、今日はまだ聴こえてはいなかった。どうか、どうか無事でいてくれとひた走る。
「リオン……リオン!」
「! どうした、何かあったのか」
いつもリオンが座り楽器を弾く、小さな陽だまりのある森の隅。荷物をまとめていたリオンが、必死の形相で山を下ってきたナサリオにぎょっと目を丸くした。
「よか……った、何事も、ないんだな、リオっ……」
「落ち着け、まずは息を整えてからだ」
促され、木にもたれかかり座り込んだ。渡された水を飲み、ふうっと息を吐く。
荷物はまとめられていたが、一つのリュートだけ荷から離れていた。今から弾こうとでもしていたのだろうか。
「……今日で、出て行ってしまうのか」
「ああ、最後に君には挨拶をしたいと思っていたんだ。楽器を弾く前に来たのには驚いたが」
「遠くへ行くのか」
「特に決めてはいないが、次は海の見える場所を目指そうかと思っている。きっと、良い音が溢れているだろう」
目を細め、リオンが笑った。胸がふっと軽くなったような気がした。
リオンがいなくなる事。ハイエルフの者達との不和が続いている事。不安が多くあったが、当のリオンは極自然に別れを告げに来た。寂しくはあるが、リオンを心配していた心は軽くなったような気がした。言葉は悪いが、問題の中心となったリオンが森からいなくなるのならば、ハイエルフ達の動揺もなくなるかも知れない。そんな気がした。
「君は、この森に残るんだろう。ハイエルフ達の召喚師として」
「ああ。この森の為に、この森のハイエルフ達の為に、私はここに残る」
言うと、頷いた。弾こうとしていたらしいリュートを荷物に入れ直し背負うリオンに、ナサリオは目を細めて笑った。
「せめて森の出口まで送っていこう」
二人、静かな森の中を並んで歩いた。森の出口までと、リオンの荷物を半分ナサリオが持つ。リオンの奏でる音色を覚えたのだとナサリオが口ずさむと、正しくはこうだとリオンが歌った。
小鳥が歌いせせらぎが囁く森の中、二人、ひた歩いた。
やがて森が暗く湿り、穏やかな散歩道が険しい獣道になろうと、二人、ひた歩いた。
「……ナサリオ、一つ、言ってもいいだろうか」
「……待ってくれ、まだ確証が持てない」
ひた歩きながら、リオンが呟いた。首を振るナサリオに、重ねて強くリオンが言う。
「いいや、言わせてくれ。私がいたのは森の隅だったはずだ。出ていく為に、これほど歩く筈はない」
「そんな事を言うのはやめてくれ」
ナサリオはやはり首を振るが、リオンはナサリオの腕を掴み、ひた歩いてきたその足を止めさせた。
「言う。これはエルフの魔法によるものではないのか、ナサリオ」
「……っ」
立ち止まった場所は、まるで雨が降った後のように地面がぬかるみ始めている。道らしき場所を辿ってきた筈が、側には急勾配のある山道となっていた。数分も歩けば森の出口へ着く筈だったが、明らかに危険な場所へ向かわされている。側にナサリオもいるのに、どうして。
ぎり、とナサリオが拳を握った。
「よそ者であれば、普通は森に入らないよう外へ仕向ける。しかしこれは……」
「うっかり谷底へ落ちてしまいそうな道へ通すのがハイエルフのやり方か?」
「まさか! ハイエルフはそんな野蛮なものではない」
疲れに小さく悪態を見せたリオンだったが、ふうっと息を吐いて俯いた。側の急こう配な山肌を滑り落ちてしまえば、リオンの言った通り谷底へ真っ逆さまに落ちてしまうだろう。二人とも、足元は既に泥で汚れていた。木や茂みに擦り付けて泥を落とすが、ぬかるみ始めた山道を歩くには危険が大きい。
「この場合、止まるのと進むのとどちらが賢明なんだ?」
「足場や周囲はこの有様、動かない方が得策、と言いたいが……」
言葉の切れ間。近くの茂みから、獣の唸り声が鳴った。地を這うような、低く野太い声。リオンが目を見開いて一歩引いた。ナサリオが、リオンの手首を強く掴んだ。
「獣……!」
呟いたリオンの声と同時、茂みから牙を剥き出しにした獣が飛び出した。ぬかるんだ道を蹴り、掴んだリオンの手を引っ張り走り出す。
「走れるかリオン!」
持っていたリオンの荷物など持っている余裕はなかった。それはリオンも同様。ナサリオの呼びかけに答える余裕もなく、引っ張られながらがむしゃらにぬかるみを蹴り走った。
獣までけしかけるとは思ってもみなかった。動揺に足がもつれるが、獣道の草木を掴み体勢を整えながら山道を走り抜ける。ハイエルフ達の仕業であることは明白だが、何の意図があって。どうして。
奥へ進むほど道は険しい。転がるように山道を走るが、濡れた枝葉をばしんばしんと叩き退け、二人の手や顔は傷だらけになっていった。尚も獣は追ってくる。ナサリオはともかく、リオンの体力はすぐに限界を迎えた。ぜえぜえと呼吸荒く、何度も躓いてはナサリオに引っ張られて体勢を立て直す。
これでは共倒れだ。ナサリオは遠くに見えた大岩に目を付けると、素早くリオンを引っ張りこんで裏手の茂みに身を隠した。二人して体勢を崩し倒れ込むが、素早くリオンの口を塞ぎ押さえ込む。ナサリオも、ぐっと息を止めた。
まるで地響きのような獣の雄叫びが森に響く。どど、どど、と地面を削り取るかのように森を走る獣の足音は、ナサリオとリオンの隠れる茂みを通り過ぎていった。
「っ……っ、ぶはっ! は、はあっ……!」
咳き込み、荒く息を吸った。数秒であろうと、全力疾走した直後に止めた息は肺で爆発しそうな程に苦しくなる。リオンはしばらく倒れ込んで息荒く胸を上下に揺らしていたが、呼吸の合間に小さくありがとうと呟いた。
「っ、……話し合いで、どうにかなる様子ではなさそう、だな……向こうからしてみれば、私は、君を洗脳して連れ去ろうとしている悪人か何かだろうか」
呼吸を整えながら、リオンが身を起こした。顔も腕も、細かな傷が多く付いていた。その上から泥もついているが、ナサリオも全く同じ状況だった。
「私が出口まで送ると言ったせいか!?」
「今更それについて言おうとどうしようもない、仲間に誤解だと知らせることはできないのか」
「術者の居場所がわからない、大声で呼びかけては魔物に居場所を知らせるだけだ」
「打つ手はなしか」
リオンが顔をくしゃりと歪めた。疲労が滲んでいる。獣の気配は一旦遠のいたが、いつここまで戻ってくるのか見当もつかない。ハイエルフ達が緊張状態にある中、軽率な行動を取ってしまったのだと気付いたが後の祭りだ。
岩にのしりと凭れ、リオンがナサリオに向いた。
「二手に分かれよう」
「こんな中、まともに外へ出られると思っているのか」
「このまま一緒に出れば彼らはこの森の召喚師を奪われたという結果になる。そうでない事を示すしかない」
尤もだが、うまくいくとも限らない。彼らがどのような意図をもってナサリオ達を攻撃しているのか分からない以上、下手に分かれる訳にはいかない。特に、体力の持たないリオンを放っていくなど。
「ここで別れたとして、魔物は君を追うのをきっとやめない、危険だ」
身を起こして言うが、リオンの目は真正面からナサリオを捉えた。大真面目に、真剣に言っているのだという顔をして。
「二手に分かれている間に君が術者を探し出し、交渉するなり魔物を止めさせるなりすれば良い。でなければ永遠にハイエルフの森の中で追いかけ回され、体力を奪われた挙句殺されるだけだ」
「っ……」
リオンの強い言葉に、息を飲んだ。事実、先程は獣に追われた。リオンを追い出したいのならば、エルフの魔法で森から逃がさないようにするなど面倒な事はしない筈。ハイエルフたちの殺意に、胃の奥がぐずぐずにかき回されるように苦しくなった。
「……なに、相手がまだ優しければ、二手に分かれた後に森から出してくれるだろう」
それほど酷い顔をしていたのだろう。リオンは言葉を和らげると、懐をごそごそと探った。リオンの荷物は走りながらほとんど投げ落とされたが、懐に残ったものを取り出すと、ナサリオに手渡した。
「一つ、楽器を預けておこう。私の宝物だ」
草飾りのついた角笛が一つ、ナサリオの手に収まった。
「宝物……良いのか? そんな大事なものを」
「ああ。曰くはないが、森に風が吹き込んだような綺麗な音が鳴るからきっと君に似合う。今日、君に渡したかったんだ」
荷物にまとめず持っていたのはこの為か。角笛をぎゅっと握り締めた。
「……ありがとう、大事にしよう」
「ああ。そして、ここでお別れだ、ナサリオ」
笑うリオンに、ぐっと胸が詰まった。こんな危険な森の中で分かれるとは夢にも思わなかった。
「ああ、リオ……」
言いかけて、息が止まった。リオンの背後、獣の獰猛な爪が茂みから音もなく伸びた。一瞬だった。ナサリオが気付いて手を伸ばすが、遅い。
「がっ……!」
スローモーションで、リオンの細い体に獣の爪が食い込む様が見えた。ず、と肌に爪の切っ先が食い込む。掬い取られるように弾かれ、リオンの体は山の斜面を転がり、木に体をぶつけて動きを止めた。
「り……リオン、リオンっ、返事をしてくれ、リオンっ!」
泥や草木に塗れたリオンの体は、ナサリオの呼びかけにぴくりとだけ動いた。小さく呻くが、腕からも脇腹からも血が垂れ、ぬらりと服を汚していく。
「リオン……!」
ナサリオはわなわなと、拳を震わせた。なぜ。なぜこんな仕打ちを受けなければならない。リオンが何をしたというのだ!
「エルフとしての誇りを失ったのか!」
怒号が森に響き渡った。獣が、ぐるると唸り声を上げる。怒りで頭に血が上っているのが分かったが、止める者は、リオンは地面に体を預け動かない。
「いるんだろう! 獣を操っている者が!」
術者を説得する、というリオンの言葉は既に頭から消え失せていたが、怒号はどこかへいるだろう術者へ向けられた。獣はぐるると唸ったままナサリオの様子を見る。ならば手始めにこの獣を始末するべきか。召喚獣を呼び寄せようと手を空に掲げると、がさりと近くの茂みが鳴った。
「……プロト!」
ぎっと睨む先、プロトが木に手をついてナサリオを睨んでいた。
「エルフとしての誇りなど。ハーフエルフと共にこの森を出ていこうとした者がよくおっしゃいましたね」
「……君は、私の一番の理解者だと思っていた」
「……ありがたいお言葉ですが、ナサリオ様、私は貴方の力になる事はできませんでした」
息を詰め、プロトが俯いた。
プロトとは、近頃反りが合わなくなってきた。それでも、プロトの話す言葉には説得力があり、納得するべき部分が多くあった。ずっと、信頼してきたつもりだった。
睨み付けていた目を細め、ナサリオは再度、空に手を掲げた。魔法陣がふわりと浮かび、どこからともなく召喚獣の鳴き声が聞こえ始める。
「すまないが、君を倒してあの獣を止めさせて貰う。私はリオンを人間のいる場所へ送り届けなければならないんだ」
頭に血が上っているが、言葉は何故だか落ち着いていた。プロトに召喚獣を向けようとしている。この状況も、何故だか落ち着いて客観視していた。
「ナサリオ様、私は貴方に、もう一度言わなければならない事があります」
「……なんだ」
冷たいプロトの声に何が含まれているのか。聞く余裕など心のどこにあるのか。それでも、ナサリオはじっとその目を見た。
「ハイエルフ達には理解できない事を、貴方はそのハーフエルフを通して理解する事ができました。しかしそれを他のハイエルフに伝え理解して貰うには、多くの困難が伴います」
「……」
プロトの目はやはり鋭かったが、言葉は一つ一つ、諭すように丁寧に重ねられていった。
「ハイエルフは誇りと、そして自尊心でがんじがらめになっている生き物だ。貴方が思っているよりも、ずっと、それは解くのに時間がかかる。……ハーフエルフの苦悩を理解した貴方は、彼らのそんな一面も、もっと理解するべきだった」
「……プロト?」
「ナサリオ様、私は、貴方の一番の理解者でありたかった。これからは、そのお力添えができなく、なって、しまいます、が……」
「プロト!?」
言いながら、ぐらりとプロトの体が崩れ落ちた。駆け寄って体を抱き起こし、手にへばり付いた血を見てようやく気が付いた。プロトの背には、大きな傷跡があった。獣の爪痕と噛み付き痕が重なり、傷口がどうなっているのかもよく分からない。
ぐるる、と唸る獣が、一歩にじり寄った。
「ナサリオ様、貴方、は」
「いい、プロト、もういいんだ!」
「貴方、は、皆の事を満遍なく考える、とても丁寧で優しい、方です。その優しさを、よそ、者に向けるのを、嫌がるハイエルフも、多くいる。……どうか、彼らを、責めないで、やって欲しい……」
「喋らないでくれプロト……っ!」
先程まで綺麗だったプロトの顔が、ごぽりと吐いた血で汚れた。服が汚れるのも構わず、プロトを強く抱きしめる。ナサリオの目からぼろりと涙がこぼれた。一瞬でも疑ってしまった。プロトは、始めから真実しか話してはいなかった。最初から、誰よりも味方だったのに。
「すまない、プロト、すまない!」
ごぷ、と尚もプロトの口から血が溢れた。喋らないでくれとナサリオがその頭を抱え込むが、咳と共に溢れる血は止まらなかった。
ぐおおおお!
背後から獣の地響きが鳴った。はっと振り返るが、その牙は目前。間に合わない、とプロトを庇うよう抱き込んだ。
衝撃は来なかった。代わりに、獣の甲高い悲鳴が聞こえる。
「ナサリオ!」
目を開けると、傷だらけのリオンが太い木の枝で獣の鼻っ面を殴り付けていた。リオンに振り回せる重さではないのだろう、木の枝は獣の鼻をがつんと凹ませた後、重みでリオンの手から落ちた。そのまま、リオンも膝をつく。
「リオン、逃げられるか!」
「……はは、今ので精いっぱいだ」
「そんな……!」
プロトは、口から血を流しながらリオンを見た。気付きリオンも目を合わせるが、プロトの口からは血しか出てはこなかった。
獣は、尚も吠えた。リオンの不意打ちの殴打は怪我にもなってはいない。プロトは大怪我を負い、リオンは膝をついている。ナサリオが召喚獣を呼ぶとして、間に合うかどうか。一か八かで、ナサリオは空へ手を掲げた。急げ、急げと必死に念じながら。
「なさ……り……」
プロトの弱い呼びかけに、ナサリオは険しい顔で首を振った。喋るな。頼むから喋らないでくれと。しかし、プロトの手はぐっとナサリオを引き掴みながらも必死に起き上がろうとする。
「プロト、どうしっ……!?」
獣が吠えた。ナサリオの召喚獣は間に合わない。リオンがプロトに手を伸ばす。そのリオンの体も掴み、プロトは。
「っ……!?」
三人、獣の大振りの爪を避け、プロトに引き倒されて山の斜面を転がり落ちた。先程獣の爪が食い込んだリオンの体にも容赦なく地面はぶつかる。ナサリオは、必死に二人を掴んだ。太い木や岩の飛び出る山の斜面、そのずっと下には川が流れる音がする。体を抉られるような痛みに耐え、リオンとプロトを胸の内に抱え、守るように転がり落ちる。
止める障害物も、平らな地面もない。深い谷底へ、落ちていった。
激しく水面に体を打ち付ける衝撃でリオンは目が覚めた。どぼん、と全身が水の奥に沈むのを感じる。傷が染みたが、リオンはもがき、水面から顔を出した。
「ぶはっ……っ、な、ナサリオ! ナサリオ!?」
ばちゃばちゃと水面でナサリオを探す。川は、酷い出血によりすぐに汚れた。その中で身動きしないナサリオを見つけ、無我夢中で手を伸ばした。全身が痛い。ぎりぎりと締め付けられるように痛み視界はぐらついたが、そんな事は関係なかった。
なんとか川岸までナサリオを引き上げた。すぐに水を吐いて呼吸をしたが、谷底へ落ちる途中で受けた傷だろう、脇腹の肉がごっそりと抉れ血がしとどに流れ出していた。川の水が必要以上に血に染まっていたのはこの為か。手が震える。ナサリオは蒼白になり、細い息を繰り返していた。このままでは助からない。
「ハーフエルフ、の……リオン……ですね……」
「きっ君は……」
泣きかけた目元を慌てて拭い、リオンは振り向いた。一緒に落ちたプロトが、川岸であおむけに倒れていた。既に口から血は吐いてはいなかったが、代わりに既に大怪我をしていた背中から、血が川へ流れだしていた。
「ナサリオ様、を、殺……す……な、ど、あっては、いけません……」
「……当然だ」
ナサリオ以上に、怪我が酷いように見えた。抉れた背中をわずかに見たが、内臓がどれほど傷つけられているのか想像もつかない程だった。リオンは、頷いた。
「ナサ、リオ、様を、どうか……そと、で、自由に……」
「分かった。絶対、約束する」
プロトから流れ出す血が、川に筋のように流れていく。
手持ちの布を破り、リオンはどうにかナサリオの傷口を縛った。それだけでは血は止まらないが、これ以上できる事などない。人のいる場所へ向かわなければ。
ナサリオを背負い、震える足を引きずった。ゆっくりと、プロトの前まで来る。そんなリオンの姿を見て、プロトは満足そうに笑った。
「やく……そ……く……」
「ああ、約束だ」
プロトを連れていく事はできない。リオンもプロトも、百も承知だった。リオンは静かに、歩を進めた。血の匂いが濃い、きっとここにも、またあの獣はやってくるだろう。それでも、足を進めた。もう涙を見る者もいない。道なき道を、涙を落としながら歩いた。
ふと、ナサリオが目を覚ました。ぴちち、と小鳥がなく声が耳に入る。見覚えのない天井があったが、暫くはぼんやりと眺めていた。体を動かそうとして、どこもかしこも痛い事に気が付いた。少しずつ、思い出していく。ああ、生きていたのか、と。
痛む体を、ぎしりと無理に起こした。そこで目に入る、ナサリオの布団にもたれかかり眠るリオンの姿。痛々しい包帯が巻かれているが、それはナサリオの方が多い。谷底へ落ちる際何とか守れたのだと安堵した。
「リオン」
呼び、膝を動かしてリオンの体を揺すった。現状が分からない。プロトはどこか。ここはどこなのか。せめて現状を知らなければとリオンを起こすと、小さく唸りながら起き上がったリオンが、一瞬で目を見開いてナサリオを捉えた。
「ナサリオ!」
はっきりとした声に安心した。確かに無事だ。何とか生きられたのだと。しかし、リオンの表情はすぐに曇った。
「プロトは……」
不安が口を突いて出た。どうしてここにいないのか。リオンはどうしてそんな顔をするのか。
リオンは目を伏せた。
「……外で、君に自由に過ごしてほしいと言っていた」
「……え?」
ずし、と胸が重くなった。
「出血が……酷かった……君以上に……」
リオンの言いづらそうな言葉が、一つ一つ、なまりのように胃に落ちていった。
飲み込まなければいけない。自分は、この世で一番信頼していた者を、亡くしたのだ。
つんと、鼻の奥が痛んだ。
リオンは、首を振った。
「……私は、あのハイエルフを救う事ができなかった。しかしもう一つ、謝らなければならない事があるんだ、ナサリオ……」
「……」
先程よりも、リオンの声が震えた。その手も、肩も震えた。言う事を恐れているような、そんな顔をじっと伏せて。
「どれだけ謝っても足りない、私は君の、ハイエルフの誇りを汚した」
「……何があったのか教えてくれないか」
「……」
ぐしゃ、とナサリオの被る布団を握った。
「君は、素人目から見ても出血が酷かった。このままでは出血多量で死んでしまうと言われた」
「……」
促すように、黙る。
「エルフの助けは得られない。だから、人間の街で頼むしかなかった。」
「……」
「……すまない、生きていて欲しかったんだ。君にどうしても生きていて欲しかった。……例え、人間の血を輸血しなければならなかったとしても……」
「……えっ」
「……すまない」
リオンは、布団に顔を突っ伏した。これ以上言う事はないとでも言うように黙り込む。ず、と鼻を啜る音が鳴った。
成程、ハイエルフの誇りを汚したとはそういう事なのか。
痛む腕を持ち上げ、陽の光に透かした。手の皮膚の薄い部分、血潮が流れているのが見えた。
「リオン、助けてくれてありがとう」
「助けたなど! 私は、君の誇りであるハイエルフの血を……!」
「気にすることはない。君と同じ、混血になっただけだ。ハーフエルフと言うかは分からないが。ありがとう、リオン」
布団に顔を埋めたまま、リオンは顔を横に振った。何度も、横に振った。
すうっと息を吸った。この身の半分が人間と混ざろうと、何も変わらない。リオンの事を知った時、そう思った。今も、そう思っている。生きるか死ぬかの状況で、リオンに選択をさせてしまった。重荷とさせてしまった事だけが、ちくりと胸に刺さった。
ハイエルフの森からは、実質追い出されたと言っていいだろう。戻る事も、もはやできない。そして自分の軽率な行動から、信頼していた者を失ってしまった。何もかも失ってしまった。
「外で自由に、か……」
プロトの最後の言葉。言葉に出すと、頬につうっと涙が伝った。いつまでも心配をかけてすまない、プロト。
「……リオン、海へ行くと言っていただろう。私も一緒に行かせてくれないか」
「……何?」
布団からようやく上げたリオンの顔は酷いものだったが、光はあった。
「海だ。実は、話を聞いてから羨ましかったんだ。森からは一生出る事はないものと思っていたから」
涙を拭い笑うと、リオンも目を細めて笑った。
「……ああ、行こう。海の色も、匂いも、きっと良いものだ」
「ああ、それは楽しみだ」
まだ、リオンから受け取った楽器も弾けていない。ああ、これからすべてが始まるのか。そう思うと、また涙が出た。
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