記憶の林檎
ザンゲツの前に、リオンが二つの林檎を差し出した。まるで青リンゴのようだったが、錬金の力が込められている。
「もしや、そなたの記憶が?」
「…ああ」
両手はふさがり、腰のタンバリンは鳴らされない。低い声が、ゆっくりと響いた。世界の冒険者の記憶が込められた林檎は手に持った者にその記憶が受け継がれる。リオンが手に持つその林檎を受け取るということは、その記憶をそっくりザンゲツの中に受け入れるということ。緑色の林檎は数年の記憶。か細い手の中にあるリンゴには、数年の重みがあった。
「何故に、それを我に?」
慕っていると告げた。しかし、何度も拒絶されてきた。細い体を気遣っているうちに持ち始めた感情を言葉として、行動として、全てを表してきた。すると、ザンゲツを見返す目が変わった。声色が変わった。共に過ごす時間に奏でる音楽に、違う意味を感じ始めた。その矢先の、二つの林檎。
「…片方は」
静かに、双眸がザンゲツを捉える。
「片方は、私のトラウマ。見たくないもの、聞きたくないもの、したくないもの。その全てだ」
「…ならもう片方は」
リオンの林檎へと移る視線と合わせ、続きを促す。
「私の、数少ない幸せな記憶だ。中身は…」
迷うように言いかけ、口を噤んだ。トラウマよりも、幸せの中身を言う事を戸惑う。二つの林檎をザンゲツの前に掲げ、問う。
「私の記憶の、どちらが欲しい?」
わずかに声が揺れた。帽子のつばから覗く瞳は、声とは反対にまっすぐにザンゲツを見る。
問われているのは、きっとどちらの記憶を見たいかという事ではない。
トラウマが詰まっているという林檎には、恐らくリオンが生きてきた国での出来事。どう育ちどう思ったか、その全てがある。ならば、言い淀んだ幸せな記憶の込もった林檎には何が。
「どちらが欲しい」
催促するように、強く言った。
幸せな記憶の中身に、音楽が真っ先に出てはこなかった。それ以上に幸せを感じるもの。
不意に納得した。その幸せな記憶の中には、ザンゲツ自身がいる。見ればそれは確信となる。今まで言い続けたザンゲツの言葉に、リオンなりの返事をしようとしているのだ。瞳は、まだザンゲツをまっすぐに見つめていた。どちらを受け入れたとしても、それはリオンからの言葉となるも同じ。短いなりにその半生を共有する、唯一無二の存在となる。
「知りたいと言ったのは我だな」
その過去を理解したいと問うたことがある。人生の楽しみを知りたいと問うたこともある。何も語ろうとしないリオンの事を、もっと知りたいと願った。リオンはそれを確かな形として差し出してきたのだ。
「両方、というのは?」
「…そう望むなら」
構わない。そう語る。ザンゲツに触発された感情の行き場を、ザンゲツに委ねている。試されている、とでも言うべきか。
笑って、二つの林檎を持つリオンの手を取った。
「どちらも要らぬ」
ザンゲツを見つめる目が、言葉もなく見開かれた。細いその手首を握り、林檎に触れぬようそっと押して返した。
「…いらないのか」
言葉と同じく、瞳も揺れる。動揺が手に取れるように分かった。両手に収まるリオンの人生を丸ごと突き返されたような。恐らく、そう見えたのだろうか。二つの林檎を手元に引き寄せ、ザンゲツに触れさせぬように持った。手が震えている。
「我は、そなたの人生を見たいわけではない」
「…」
「林檎など要らぬのだ」
黙って、ザンゲツを見た。揺れる。
「我は、そなたの目を通して見た世界を知りたい。どういう経験をして、どういう事を思ったのか。我は、そなたの言葉で知りたいのだ」
握ったリオンの手を、その口元に寄せさせた。緑色の林檎が、血色の薄い唇に押し当てられる。
「そなたが食して、噛んで、味わって。我は、それがどんなものだったのかを知りたいのだ。まずいならどんな味だったのか、うまかったならそれはどんな味だったのか。そなたを通した世界が知りたいのだ」
たとえ幸せな記憶の中にザンゲツと共に過ごした時間があることを知ったとしても、その事実を知りたかったわけではない。
「…」
小さく口を開け、口元に押し当てられた林檎を一口かじった。眉をしかめ、しゃりしゃりと咀嚼し黙って飲み下す。
「旨いか?」
笑顔で問う。と、少しだけ悔しそうに口を引き結んだ。
「…ああ」
食したのはトラウマの記憶なのか幸せの記憶なのか。それでも、今それをリオンが旨いと感じている。その事実だけで十分だった。
「リオン」
「なんだ」
二つの林檎を机に置き、ザンゲツを見た。始めに林檎を二つ差し出した時と同じく、まっすぐと見据えている。信頼を置かれている、そう知ることが出来る瞳だった。
「そなたの歌が聞きたい」
「…」
ふっと息を吐き、タンバリンが一度鳴った。
「もしや、そなたの記憶が?」
「…ああ」
両手はふさがり、腰のタンバリンは鳴らされない。低い声が、ゆっくりと響いた。世界の冒険者の記憶が込められた林檎は手に持った者にその記憶が受け継がれる。リオンが手に持つその林檎を受け取るということは、その記憶をそっくりザンゲツの中に受け入れるということ。緑色の林檎は数年の記憶。か細い手の中にあるリンゴには、数年の重みがあった。
「何故に、それを我に?」
慕っていると告げた。しかし、何度も拒絶されてきた。細い体を気遣っているうちに持ち始めた感情を言葉として、行動として、全てを表してきた。すると、ザンゲツを見返す目が変わった。声色が変わった。共に過ごす時間に奏でる音楽に、違う意味を感じ始めた。その矢先の、二つの林檎。
「…片方は」
静かに、双眸がザンゲツを捉える。
「片方は、私のトラウマ。見たくないもの、聞きたくないもの、したくないもの。その全てだ」
「…ならもう片方は」
リオンの林檎へと移る視線と合わせ、続きを促す。
「私の、数少ない幸せな記憶だ。中身は…」
迷うように言いかけ、口を噤んだ。トラウマよりも、幸せの中身を言う事を戸惑う。二つの林檎をザンゲツの前に掲げ、問う。
「私の記憶の、どちらが欲しい?」
わずかに声が揺れた。帽子のつばから覗く瞳は、声とは反対にまっすぐにザンゲツを見る。
問われているのは、きっとどちらの記憶を見たいかという事ではない。
トラウマが詰まっているという林檎には、恐らくリオンが生きてきた国での出来事。どう育ちどう思ったか、その全てがある。ならば、言い淀んだ幸せな記憶の込もった林檎には何が。
「どちらが欲しい」
催促するように、強く言った。
幸せな記憶の中身に、音楽が真っ先に出てはこなかった。それ以上に幸せを感じるもの。
不意に納得した。その幸せな記憶の中には、ザンゲツ自身がいる。見ればそれは確信となる。今まで言い続けたザンゲツの言葉に、リオンなりの返事をしようとしているのだ。瞳は、まだザンゲツをまっすぐに見つめていた。どちらを受け入れたとしても、それはリオンからの言葉となるも同じ。短いなりにその半生を共有する、唯一無二の存在となる。
「知りたいと言ったのは我だな」
その過去を理解したいと問うたことがある。人生の楽しみを知りたいと問うたこともある。何も語ろうとしないリオンの事を、もっと知りたいと願った。リオンはそれを確かな形として差し出してきたのだ。
「両方、というのは?」
「…そう望むなら」
構わない。そう語る。ザンゲツに触発された感情の行き場を、ザンゲツに委ねている。試されている、とでも言うべきか。
笑って、二つの林檎を持つリオンの手を取った。
「どちらも要らぬ」
ザンゲツを見つめる目が、言葉もなく見開かれた。細いその手首を握り、林檎に触れぬようそっと押して返した。
「…いらないのか」
言葉と同じく、瞳も揺れる。動揺が手に取れるように分かった。両手に収まるリオンの人生を丸ごと突き返されたような。恐らく、そう見えたのだろうか。二つの林檎を手元に引き寄せ、ザンゲツに触れさせぬように持った。手が震えている。
「我は、そなたの人生を見たいわけではない」
「…」
「林檎など要らぬのだ」
黙って、ザンゲツを見た。揺れる。
「我は、そなたの目を通して見た世界を知りたい。どういう経験をして、どういう事を思ったのか。我は、そなたの言葉で知りたいのだ」
握ったリオンの手を、その口元に寄せさせた。緑色の林檎が、血色の薄い唇に押し当てられる。
「そなたが食して、噛んで、味わって。我は、それがどんなものだったのかを知りたいのだ。まずいならどんな味だったのか、うまかったならそれはどんな味だったのか。そなたを通した世界が知りたいのだ」
たとえ幸せな記憶の中にザンゲツと共に過ごした時間があることを知ったとしても、その事実を知りたかったわけではない。
「…」
小さく口を開け、口元に押し当てられた林檎を一口かじった。眉をしかめ、しゃりしゃりと咀嚼し黙って飲み下す。
「旨いか?」
笑顔で問う。と、少しだけ悔しそうに口を引き結んだ。
「…ああ」
食したのはトラウマの記憶なのか幸せの記憶なのか。それでも、今それをリオンが旨いと感じている。その事実だけで十分だった。
「リオン」
「なんだ」
二つの林檎を机に置き、ザンゲツを見た。始めに林檎を二つ差し出した時と同じく、まっすぐと見据えている。信頼を置かれている、そう知ることが出来る瞳だった。
「そなたの歌が聞きたい」
「…」
ふっと息を吐き、タンバリンが一度鳴った。
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