第6章 ~遠い日の約束~
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
***
ボーッ……ボーッ……
遠くに聞こえる船の汽笛。その音で意識が急浮上する。
「ぐッ……ぅ…くッ…」
まだ痛む脇腹を庇いながら昴が体を起こした。手首に冷たい金属の感触。腕を少し動かすとジャラリ…と鎖の音がした。
どうやら後ろ手に手錠を掛けられ、支柱に繋がれているらしい。再び「ボーッ」という汽笛が聞こえた。港が近いようだ。
「フン、もう目が覚めたのか?」
昴の様子に気付いた前島がツカツカと近づく。昴はゆっくりと顔を上げた。暗い倉庫にはキャンプ用のランタンスタンドがいくつか置かれ、お互いの顔が確認できるくらいには明るい。
「あなたは写真家の……個展でお会いした方ですね? 私を拘束してどうするおつもりですか?」
努めて一般人のフリをして、何も知らない大学院生を演じる。
「ふふ。君は哀れだね。恋人の正体も知らないで……。あんな女と付き合ったばっかりに、ここで人生を終わらせなければならない。恨むならあの女を恨むんだな。
おっとそうだ。その前に少し痛い目を見てもらうよ。ぐったりしているアンタを見て、あの女がどんな顔をするのか……楽しみだ」
そう言って前島は昴の胸ぐらを掴む。そのまま強引に引き上げると昴を立ち上がらせた。
昴の両腕を掴むとその腹に膝蹴りを打ち込む。
「ぐはッ!」
昴は崩れるように膝をつき、体を丸めてゴホゴホと激しくせき込んだ。
その背中を前島は組んだ両手で殴り付ける。
「ぐぅッ!」
支柱に繋がれている為、地面に倒れ込むことは無い。手錠がはめられた手首に上半身の重みがかかる。
前島は再び昴の胸ぐらを掴むと力任せに引き上げた。胸を反らす形で昴のアゴが上がると、今度は拳で頬を殴りつける。
その勢いでメガネが吹き飛び、繋がれた支柱に背中を強打した。昴はぐったりと支柱に体重を預け、そのままズルズルと座り込む。
口からは血が流れ、ジャケットには血の飛沫がいくつも飛び、赤いシミを作った。
前島は昴を何度も立ち上がらせては、暴行を繰り返した。
「はぁ…はぁ…、これ以上はやめておいてやるよ…今死なれても困るしな…」
やや息を弾ませた前島は、血の付いた利き手をもう片方の手でさする。昴を冷めた目で見下ろし、自分の服の襟を直した。
一方昴は苦しそうに肩で息をしていて、立ち上がる事もままならない。
体はじっとりと汗ばみ、いたるところに暴行の痕跡が残る。
「トドメはあの女の目の前で刺す。好きな男が目の前で死んだら……さぞやいい声で泣くだろうな」
前島のつぶやきを、昴は奥歯を噛みしめながら黙って聞いていた。
***
その頃——
チェンシーは都内のある廃ビルへと来ていた。
(あの紙切れに書かれた場所はココのはず……)
気配を消し、手には銃を持っている。ビルの大きな柱に隠れながらフロア内を移動し、辺りを見回した。
カツン……カツン……カツン……
やがて遠くから足音が聞こえてきた。それが少しずつ大きくなっていく。つまり、こちらに近づいてきている——!
「はぁ…はぁ…はぁ…」
チェンシーの緊張はピークに達していた。コンクリート製の柱に背中を預け、両手で銃を持つと銃口を上に向け顔の横に構える。
息を潜めて相手の様子を伺った。こめかみから汗がつぅっと流れる。
カツン……カツン……ジャリ………
自分が隠れている柱の前で歩みが止まった。チェンシーが柱から飛び出し、相手に銃口を向ける。
「別动 (動くな)!」
チェンシーに銃を突き付けられた人物は特に抵抗する様子も見せず、静かに両手を上げた。
「!? あ、あなたは!」
驚くチェンシーにその人物は声をかけた。
「前にも言ったと思うが、俺は中国語が分からないんでね。日本語で頼む」
そこには、両手を上げて険しい顔をした風見が立っていた。
「な、なぜ…なぜ風見サンが…」
動揺を見せるチェンシーは銃を下ろし、フラフラと柱にもたれかかった。
「あなたが探していた『趙天明 』という男なら、2時間程前に我々が逮捕した」
風見は淡々とした口調でチェンシーに声をかけた。
「ここに組織の末端を《情報の裏取引》と称して呼び出し、ジン達上層部の動きを探るつもりだったようだが、ウチの情報屋がいち早くその動きをキャッチしたおかげで、難なく両者を逮捕できた。
趙は呉の情報屋。前島の動きと組織の動向を探り、呉に報告していた。後は彼を取り調べれば、呉のアジトも割れるだろう…」
「ッ!」
風見の言葉に、チェンシーはバッと顔を上げた。
「『ウチの情報屋』ってまさか…あのパーカー男!?」
「ああ、そうだ。ヤツもまた『ラスティー』に惚れ込んだ我々の『協力者』だよ。陽気で正義感に溢れ……かつてはダークサイドまで堕ちた『〈堕〉天使』…だったがね」
風見は説明をしながら、わずかに片方の口角を上げた。
しかしそんな砕けた顔を見せたのは一瞬だけで、すぐにスッと表情を戻す。そして、呼吸を整えるように大きく息を吐いた。
「ところで……」
風見は低い声でそう言うと、鋭い視線をチェンシーに向けた。
「……5年前のあの日…《ラスティー》がボートでケンバリのアジトを離れたという情報。その情報を趙に教えたのは……チェンシー、あなたですね」
先ほどよりも冷たい風見の声を聞いて、チェンシーの体はビクリと揺れた。
彼女の動揺を見た風見は、さらに話を続ける。
「当時、マレーシアはケンバリ壊滅目前。アジト周辺では死闘が繰り広げられ、警察のみならず軍にまで出動要請が出ていた。文字通り都市部は大パニックだった。
街のあちらこちらで小規模な爆発もたくさん起こっており、かなり早い段階で街はもとより港・空港ともに閉鎖されていた」
淡々と語る風見の声が静かなフロアに響く。
「ケンバリのアジトが最後の大爆発を起こした時も、その周辺はすでに一般人などは避難させられていた。そして——爆発の被害は甚大で、アジト周辺は跡形もなく吹き飛び、残念ながら……そこに居た者たちは全員死んでいる。
つまり、小さなボートでの脱出劇を目撃出来る人間は……ゼロ、だ」
風見は数歩チェンシーに近づく。その顔を覗き込んだ。
「目撃者が《ゼロ》ということはつまり、脱出はそのボートに乗った者しか知らない。
確か……ケンバリ壊滅後に、中国警察には広瀬から直接連絡が入ったはずだ。
ケンバリに潜入していたICPOの捜査官2名と、中国警察の捜査官ワンユーチェン以下3名の死の詳細。そして、生き残った広瀬の当日の行動が」
「ッ‼」
チェンシーは何も言い返せず唇を噛んだ。その目からは涙が溢れだす。
「さくら……許して……」
柱に背預けたままズルズルとしゃがみ込む。
手にしていた銃が、ガシャンと音を立てて床に落ちた。うなだれるチェンシーを前にして、尚も風見は続ける。
「呉の日本再潜入を知り、広瀬に『近々日本に行く』という電話をしたものの、あなたは中国国内でずっと趙を探していた。
しかしウチの『協力者』からの情報で、趙がすでに中国を出国し日本に渡ったことを知った。そして慌てて日本に来たんだ。
つまり…我々と警視庁の会議室で会った時、あなたはすでに呉が組織にもたらした『情報』が何かを知っていた。
フン…当然だ。自らが伝えた情報なわけだから。知っていながら黙っていた。何年も…親友を装って、呉の情報屋に彼女の情報を渡していたんだ」
風見は険しい顔をしたまま淡々と話す。怒りとやりきれなさで思わず硬く拳を握る。
冷静になるために、風見はもう一度深く息を吐いた。
「一つだけ訊かせてくれないか。初めから…広瀬を陥れるつもりだったのか?」
風見の眉間がグッと寄った。湧き出る怒りを抑えるように、奥歯を噛みしめる。
冷静に言葉を選んではいたが、本心は自分の部下への裏切り行為に、はらわたが煮えくり返る思いだった。
「違うッ! それは違うね! そうじゃない!」
冷たく見下ろす風見の顔をチェンシーは睨んだ。
「私は……ユーチェンが好きだった。でも…ユーチェンはさくらが好き。私に入り込むスキ…ないよ……」
チェンシーは寂しそうにそうつぶやくと下を向く。
「ケンバリが壊滅してユーチェンが死んだ。もちろん潜入をする時点で、本人も私も殉職は覚悟の上だった。でも…好きな人死んで……さすがに堪えたね。そんな時、たまたま趙と知り合った」
チェンシーの手に力が入る。その手は地面の砂をも一緒に握りしめた。
「傷心の私に彼は優しかった…でもそれは呉の罠だった。当初、ヤツらの目的はケンバリの財産だったね。マレーシア国内で急速に力をつけ、日本進出を目論んでいたケンバリは、相当な財産を所持していた。
ケンバリ壊滅後、その財産を没収した組織がマレーシア軍なのか、マレーシア警察なのか、第三者である中国警察やICPOなのか、それを探るために…。そのために趙は私に近づいたよ!
結局、ケンバリの財産はNO2のサカモトが持ち去り、日本の製薬会社を買収していた。そこで私は用無しになるはずだったのに…っ!
趙の正体に気付かず、私はどんどん彼にハマって……重要機密を…」
チェンシーの目から涙がとめどなく溢れた。風見は黙ってそれを見つめる。
「気付けば『中国警察やICPOは第三者ではなく、NOCを潜入させ直接関わっていた』こと、『生き残ったのはたった一人だった』こと、『そのたった一人の生き残りは【ラスティー】と名乗っている』ことを趙に話していた。
迂闊だったね…。趙が姿を消して…ようやく事の重大さに気付いた。ここ数週間ずっと彼を探していた。自分の失態は自分の手で……。
だからなんとしても自分の手で趙も呉も捕まえたかった……」
血が出そうなほど強く握られた手を見て、風見はチェンシーから目を逸らす。
『仕事の借りは仕事で返す』
秘密をばらしてしまったことに同情の余地はないが、警察官としての使命は決して失われていない。そのことに余計にやり切れなさを感じた。
「広瀬の事はどこまで趙に話したんだ?」
「さくらの事は『ケンバリのたった一人の生き残りが組織のラスティー』だという事だけ。
NOCと一緒だったという話は、呉が他の情報屋から得た情報と適当に混ぜて伝えただけね。
ユーチェンがケンバリではかなり上にいた事、任務の組み合わせを指揮していたのは彼だった事は知られていないよ。もちろん、さくらの素性だって明かしてない」
信じて……と懇願するように顔を上げたチェンシーの肩に、風見は手を置いた。
先程までの厳しい問いかけとは違い、その手は優しく温かい。
「ああ。全部信じるよ。あの広瀬が信じた相手だからな」
風見の言葉を聞いてチェンシーは「え?」と声を上げた。
「なぜ俺がそんなことを知ってるかって? そうだな……一つ良い事を教えてやるよ。
日本の公安は自分が信じた人物を『協力者』として登録できる。全ての《協力者》に番号が付けられ、管理されているんだ。
広瀬が公安所属になった時から現在まで、登録している『協力者』はたった一人。
チェンシー、あなただけだ」
初めて聞く事実にチェンシーは驚きを隠せない。
「えっ!? 彼女の…大学のキョウジュは…?」
「森教授か? 彼は俺の『協力者』だよ。組織の一員として米花町に潜入を続けると報告が来た時、俺が森教授に大学職員の席をお願いしたんだ。
正真正銘、彼女の『協力者』はあなただけ。広瀬はケンバリにいた時からずっと——あなたを信頼しているんだよ」
「そんな……さくら……私…なんて…ことを…」
チェンシーはそのまま泣き崩れた。それを慰めるように、風見の手がポンポンとチェンシーの肩を数回叩く。
彼女も苦しかったんだな…、と風見は小さく息を吐いた。
ブーッブーッブーッ
感傷に浸る間もなく上司からのメールが、風見の胸ポケットに入ったスマホを震わせていた。
ボーッ……ボーッ……
遠くに聞こえる船の汽笛。その音で意識が急浮上する。
「ぐッ……ぅ…くッ…」
まだ痛む脇腹を庇いながら昴が体を起こした。手首に冷たい金属の感触。腕を少し動かすとジャラリ…と鎖の音がした。
どうやら後ろ手に手錠を掛けられ、支柱に繋がれているらしい。再び「ボーッ」という汽笛が聞こえた。港が近いようだ。
「フン、もう目が覚めたのか?」
昴の様子に気付いた前島がツカツカと近づく。昴はゆっくりと顔を上げた。暗い倉庫にはキャンプ用のランタンスタンドがいくつか置かれ、お互いの顔が確認できるくらいには明るい。
「あなたは写真家の……個展でお会いした方ですね? 私を拘束してどうするおつもりですか?」
努めて一般人のフリをして、何も知らない大学院生を演じる。
「ふふ。君は哀れだね。恋人の正体も知らないで……。あんな女と付き合ったばっかりに、ここで人生を終わらせなければならない。恨むならあの女を恨むんだな。
おっとそうだ。その前に少し痛い目を見てもらうよ。ぐったりしているアンタを見て、あの女がどんな顔をするのか……楽しみだ」
そう言って前島は昴の胸ぐらを掴む。そのまま強引に引き上げると昴を立ち上がらせた。
昴の両腕を掴むとその腹に膝蹴りを打ち込む。
「ぐはッ!」
昴は崩れるように膝をつき、体を丸めてゴホゴホと激しくせき込んだ。
その背中を前島は組んだ両手で殴り付ける。
「ぐぅッ!」
支柱に繋がれている為、地面に倒れ込むことは無い。手錠がはめられた手首に上半身の重みがかかる。
前島は再び昴の胸ぐらを掴むと力任せに引き上げた。胸を反らす形で昴のアゴが上がると、今度は拳で頬を殴りつける。
その勢いでメガネが吹き飛び、繋がれた支柱に背中を強打した。昴はぐったりと支柱に体重を預け、そのままズルズルと座り込む。
口からは血が流れ、ジャケットには血の飛沫がいくつも飛び、赤いシミを作った。
前島は昴を何度も立ち上がらせては、暴行を繰り返した。
「はぁ…はぁ…、これ以上はやめておいてやるよ…今死なれても困るしな…」
やや息を弾ませた前島は、血の付いた利き手をもう片方の手でさする。昴を冷めた目で見下ろし、自分の服の襟を直した。
一方昴は苦しそうに肩で息をしていて、立ち上がる事もままならない。
体はじっとりと汗ばみ、いたるところに暴行の痕跡が残る。
「トドメはあの女の目の前で刺す。好きな男が目の前で死んだら……さぞやいい声で泣くだろうな」
前島のつぶやきを、昴は奥歯を噛みしめながら黙って聞いていた。
***
その頃——
チェンシーは都内のある廃ビルへと来ていた。
(あの紙切れに書かれた場所はココのはず……)
気配を消し、手には銃を持っている。ビルの大きな柱に隠れながらフロア内を移動し、辺りを見回した。
カツン……カツン……カツン……
やがて遠くから足音が聞こえてきた。それが少しずつ大きくなっていく。つまり、こちらに近づいてきている——!
「はぁ…はぁ…はぁ…」
チェンシーの緊張はピークに達していた。コンクリート製の柱に背中を預け、両手で銃を持つと銃口を上に向け顔の横に構える。
息を潜めて相手の様子を伺った。こめかみから汗がつぅっと流れる。
カツン……カツン……ジャリ………
自分が隠れている柱の前で歩みが止まった。チェンシーが柱から飛び出し、相手に銃口を向ける。
「
チェンシーに銃を突き付けられた人物は特に抵抗する様子も見せず、静かに両手を上げた。
「!? あ、あなたは!」
驚くチェンシーにその人物は声をかけた。
「前にも言ったと思うが、俺は中国語が分からないんでね。日本語で頼む」
そこには、両手を上げて険しい顔をした風見が立っていた。
「な、なぜ…なぜ風見サンが…」
動揺を見せるチェンシーは銃を下ろし、フラフラと柱にもたれかかった。
「あなたが探していた『
風見は淡々とした口調でチェンシーに声をかけた。
「ここに組織の末端を《情報の裏取引》と称して呼び出し、ジン達上層部の動きを探るつもりだったようだが、ウチの情報屋がいち早くその動きをキャッチしたおかげで、難なく両者を逮捕できた。
趙は呉の情報屋。前島の動きと組織の動向を探り、呉に報告していた。後は彼を取り調べれば、呉のアジトも割れるだろう…」
「ッ!」
風見の言葉に、チェンシーはバッと顔を上げた。
「『ウチの情報屋』ってまさか…あのパーカー男!?」
「ああ、そうだ。ヤツもまた『ラスティー』に惚れ込んだ我々の『協力者』だよ。陽気で正義感に溢れ……かつてはダークサイドまで堕ちた『〈堕〉天使』…だったがね」
風見は説明をしながら、わずかに片方の口角を上げた。
しかしそんな砕けた顔を見せたのは一瞬だけで、すぐにスッと表情を戻す。そして、呼吸を整えるように大きく息を吐いた。
「ところで……」
風見は低い声でそう言うと、鋭い視線をチェンシーに向けた。
「……5年前のあの日…《ラスティー》がボートでケンバリのアジトを離れたという情報。その情報を趙に教えたのは……チェンシー、あなたですね」
先ほどよりも冷たい風見の声を聞いて、チェンシーの体はビクリと揺れた。
彼女の動揺を見た風見は、さらに話を続ける。
「当時、マレーシアはケンバリ壊滅目前。アジト周辺では死闘が繰り広げられ、警察のみならず軍にまで出動要請が出ていた。文字通り都市部は大パニックだった。
街のあちらこちらで小規模な爆発もたくさん起こっており、かなり早い段階で街はもとより港・空港ともに閉鎖されていた」
淡々と語る風見の声が静かなフロアに響く。
「ケンバリのアジトが最後の大爆発を起こした時も、その周辺はすでに一般人などは避難させられていた。そして——爆発の被害は甚大で、アジト周辺は跡形もなく吹き飛び、残念ながら……そこに居た者たちは全員死んでいる。
つまり、小さなボートでの脱出劇を目撃出来る人間は……ゼロ、だ」
風見は数歩チェンシーに近づく。その顔を覗き込んだ。
「目撃者が《ゼロ》ということはつまり、脱出はそのボートに乗った者しか知らない。
確か……ケンバリ壊滅後に、中国警察には広瀬から直接連絡が入ったはずだ。
ケンバリに潜入していたICPOの捜査官2名と、中国警察の捜査官ワンユーチェン以下3名の死の詳細。そして、生き残った広瀬の当日の行動が」
「ッ‼」
チェンシーは何も言い返せず唇を噛んだ。その目からは涙が溢れだす。
「さくら……許して……」
柱に背預けたままズルズルとしゃがみ込む。
手にしていた銃が、ガシャンと音を立てて床に落ちた。うなだれるチェンシーを前にして、尚も風見は続ける。
「呉の日本再潜入を知り、広瀬に『近々日本に行く』という電話をしたものの、あなたは中国国内でずっと趙を探していた。
しかしウチの『協力者』からの情報で、趙がすでに中国を出国し日本に渡ったことを知った。そして慌てて日本に来たんだ。
つまり…我々と警視庁の会議室で会った時、あなたはすでに呉が組織にもたらした『情報』が何かを知っていた。
フン…当然だ。自らが伝えた情報なわけだから。知っていながら黙っていた。何年も…親友を装って、呉の情報屋に彼女の情報を渡していたんだ」
風見は険しい顔をしたまま淡々と話す。怒りとやりきれなさで思わず硬く拳を握る。
冷静になるために、風見はもう一度深く息を吐いた。
「一つだけ訊かせてくれないか。初めから…広瀬を陥れるつもりだったのか?」
風見の眉間がグッと寄った。湧き出る怒りを抑えるように、奥歯を噛みしめる。
冷静に言葉を選んではいたが、本心は自分の部下への裏切り行為に、はらわたが煮えくり返る思いだった。
「違うッ! それは違うね! そうじゃない!」
冷たく見下ろす風見の顔をチェンシーは睨んだ。
「私は……ユーチェンが好きだった。でも…ユーチェンはさくらが好き。私に入り込むスキ…ないよ……」
チェンシーは寂しそうにそうつぶやくと下を向く。
「ケンバリが壊滅してユーチェンが死んだ。もちろん潜入をする時点で、本人も私も殉職は覚悟の上だった。でも…好きな人死んで……さすがに堪えたね。そんな時、たまたま趙と知り合った」
チェンシーの手に力が入る。その手は地面の砂をも一緒に握りしめた。
「傷心の私に彼は優しかった…でもそれは呉の罠だった。当初、ヤツらの目的はケンバリの財産だったね。マレーシア国内で急速に力をつけ、日本進出を目論んでいたケンバリは、相当な財産を所持していた。
ケンバリ壊滅後、その財産を没収した組織がマレーシア軍なのか、マレーシア警察なのか、第三者である中国警察やICPOなのか、それを探るために…。そのために趙は私に近づいたよ!
結局、ケンバリの財産はNO2のサカモトが持ち去り、日本の製薬会社を買収していた。そこで私は用無しになるはずだったのに…っ!
趙の正体に気付かず、私はどんどん彼にハマって……重要機密を…」
チェンシーの目から涙がとめどなく溢れた。風見は黙ってそれを見つめる。
「気付けば『中国警察やICPOは第三者ではなく、NOCを潜入させ直接関わっていた』こと、『生き残ったのはたった一人だった』こと、『そのたった一人の生き残りは【ラスティー】と名乗っている』ことを趙に話していた。
迂闊だったね…。趙が姿を消して…ようやく事の重大さに気付いた。ここ数週間ずっと彼を探していた。自分の失態は自分の手で……。
だからなんとしても自分の手で趙も呉も捕まえたかった……」
血が出そうなほど強く握られた手を見て、風見はチェンシーから目を逸らす。
『仕事の借りは仕事で返す』
秘密をばらしてしまったことに同情の余地はないが、警察官としての使命は決して失われていない。そのことに余計にやり切れなさを感じた。
「広瀬の事はどこまで趙に話したんだ?」
「さくらの事は『ケンバリのたった一人の生き残りが組織のラスティー』だという事だけ。
NOCと一緒だったという話は、呉が他の情報屋から得た情報と適当に混ぜて伝えただけね。
ユーチェンがケンバリではかなり上にいた事、任務の組み合わせを指揮していたのは彼だった事は知られていないよ。もちろん、さくらの素性だって明かしてない」
信じて……と懇願するように顔を上げたチェンシーの肩に、風見は手を置いた。
先程までの厳しい問いかけとは違い、その手は優しく温かい。
「ああ。全部信じるよ。あの広瀬が信じた相手だからな」
風見の言葉を聞いてチェンシーは「え?」と声を上げた。
「なぜ俺がそんなことを知ってるかって? そうだな……一つ良い事を教えてやるよ。
日本の公安は自分が信じた人物を『協力者』として登録できる。全ての《協力者》に番号が付けられ、管理されているんだ。
広瀬が公安所属になった時から現在まで、登録している『協力者』はたった一人。
チェンシー、あなただけだ」
初めて聞く事実にチェンシーは驚きを隠せない。
「えっ!? 彼女の…大学のキョウジュは…?」
「森教授か? 彼は俺の『協力者』だよ。組織の一員として米花町に潜入を続けると報告が来た時、俺が森教授に大学職員の席をお願いしたんだ。
正真正銘、彼女の『協力者』はあなただけ。広瀬はケンバリにいた時からずっと——あなたを信頼しているんだよ」
「そんな……さくら……私…なんて…ことを…」
チェンシーはそのまま泣き崩れた。それを慰めるように、風見の手がポンポンとチェンシーの肩を数回叩く。
彼女も苦しかったんだな…、と風見は小さく息を吐いた。
ブーッブーッブーッ
感傷に浸る間もなく上司からのメールが、風見の胸ポケットに入ったスマホを震わせていた。