第3章 ~光と影と~
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「お前の組織内のコードネームは《ラスティー》。
通称として使っているのが《星川さくら》。
降谷くんも同じ組織に潜入している。
コードネームは《バーボン》通称《安室透》だ」
ここ数日、りおは薬を点滴しながら、催眠面接の治療を行っていた。
「ラスティー…星川さくら…バーボン…安室透…」
りおはその内容をゆっくりと繰り返す。
最初の日に、《ケンバリ》での潜入捜査の事はほぼ思い出していた。
仲間を失った事を思い出した時は、やはり取り乱してその夜はうなされていた。
今日は今潜入している組織の事から催眠面接を始めた。
「スコッチの事も…今日は伝えねばならん。気が重いな…」
赤井は新出先生と行った認知行動療法で、声を失うほどショックを受けたりおの姿を思い出した。
「マレーシアから帰ってきて、お前はコードネームを貰った。
そこで《ベルモット》《ライ》《ラスティー》の3人である男の暗殺を命じられた」
「暗…殺…?」
「そうだ。その後は数回暗殺の補助についたが、暗殺の夜は決まってうなされていたようだ。
ベルモットが頼んで、暗殺のチームからは外された」
「ベル…モット…」
りおの心に引っかかるキーワードが、何度も繰り返し口をついて出てきた。
「その後は伝達係や武器の調達係をやっていた。
そのうちに諜報活動も徐々に任されるようになる。
その活動の中で、組織がNOCの存在に気付いたことをお前は知るんだ」
「NOC…!」
明らかに動揺した様子だった。
赤井は次の言葉を言うべきか迷っていた。
だが、ドクターから先に進むように合図を出される。
「…バレたNOCは…スコッチだ」
「スコッチ…ッ!!」
りおが息を飲んだ。
「あ…ああ……あ…」
ガタガタと体が震え出す。
「りおッ!」
思わず抱きしめようと席を立つが、ドクターに止められる。
りおは浅い呼吸を繰り返しながらも、何とか心の中を整理しようともがいていた。
赤井は奥歯を噛みしめたまま、その姿を辛そうに見つめている。
ドクターも固唾を飲んで見守っていた。
やがてりおは少しずつ呼吸を整え、落ち着きを取り戻しているように見えた。
「ふ~…ふ~…ふ~…」
閉じていた目を開け、赤井を見た。
目からは一筋涙がこぼれる。
酷く疲れた様子だった。
「広瀬さん、今日はこれくらいにしておきましょう」
「…はい…」
ドクターに言われ、りおはベッドに横になった。
片づけをしたドクターたちが病室を出ていくと、部屋にはりおと赤井だけになる。
「少し眠ると良い。連日で疲れているだろう」
赤井はカーテンを引き、部屋を少し暗くした。
「はい…」
そう返事をしたものの、動悸がして手が震えている。
目を閉じても体は疲れているのに、眠れる気がしない。
布団から手を出し、震える手を眺めた。
「どうした? 眠れないか?」
「あ、赤井さん…」
りおは赤井の方を見ると、ゆっくりと体を起こした。
りおの《赤井さん》呼びにも少し慣れた。
最初は寂しさも覚えたが、記憶のないりおの苦しさに比べればそんなことで彼女の心を乱したくは無い。
何でも無いフリをして、赤井はりおに問いかけた。
「ん? 何か飲むか?」
「え、ええ…。そう…ですね」
確かに何か飲んで一息つきたいと思っていた。
(なんで飲み物が欲しいって分かったんだろ…)
りおは自分に背を向けた赤井の姿を見つめた。
ここ数日、赤井がそばにいて世話を焼いてくれている。
空調が効きすぎて寒いな…と感じていると、何も言っていないのにカーディガンを肩にかけてくれるし、雑誌はりおが好きな特集記事の物を選んで買ってきてくれた。
(確かに…自分にとって大切な人だと感じたけど…。
趣味や体温まで知ってるって…つまりそれって…)
いろいろ想像して顔が赤くなる。
けれどどう思いを巡らせても、この『赤井』という人と恋人だったという記憶がない。
先ほどの治療で、『NOC』という言葉にドキリとした。
そしてヒロ先輩がもうこの世には居ないという事は、ぼんやりと理解していた。
その事実を受け入れるまでに、かなり苦しんだこともおぼろげに思い出した。
断片的に何かが見えそうになるが、思い出そうとするとかえって遠のく。
「ねえ、赤井さん。私いつも何を飲んでいましたか?」
何か決まった物を飲んでいたような記憶はあるが、それが何なのか思い出せない。
「お前は好んでカフェオレを飲んでいたよ」
「カフェオレ…」
りおがつぶやいた。
赤井はコーヒーを飲めなかったりおを思い出し、思わずフフッと笑った。
その笑顔にりおはハッとした。
(あ…この笑顔…私、知ってる…)
ペリドットの目が細められ、口角がわずかにあがる。
優しい笑顔に思わず目が釘付けになった。
「組織で打ち合わせをした時に、出てきたコーヒーが飲めなかったんだ。
『ミルクたっぷりなら飲める』というんで、ベルモットが注文し直していたよ。それからかな。
お前と会うときは、いつも俺のポケットには缶のカフェオレが入っていたよ」
何かを思い出したのか、赤井の顔はさらに笑顔になる。
「ずいぶん後になって、『缶のカフェオレはすごく甘かった』って教えてくれた。
最近は砂糖抜きのカフェオレを淹れるのが、俺の週末の日課だった」
飲むか? と言われて「お願いします」とりおは答えた。
個室だからと病室に持ち込んだコーヒーメーカー。
コーヒーを落としている間に、赤井は売店に牛乳を買いに行ってくれた。
「さあ、どうぞ」
そう言って手渡されたカフェオレは、ふわりといい香りがした。
優しい湯気と優しいカフェオレの色。
ふ~っと息を吹きかけて、ゆっくりと味わった。
一口飲んで「おいしい…」とつぶやく。
「りおはミルク多めが好きなんだ。
いつもはちゃんとミルクも温めるんだが…。
今日は温めたカップにしばらく入れておいただけだから、少しぬるいかな…」
ミルクの温度にまで気を使ってくれていたのか…。
赤井の優しさに、記憶が戻らない事への罪悪感が募る。
それをごまかすように、さらに一口飲んだ。
『ライが【ラスティーはブラックコーヒーが飲めないから、ミルクを多めに入れてやれ】って』
ふと、降谷の声でそう言われた事を思い出した。
『ま、これでも飲んで、とっとと忘れることだ』
そう声を掛けられて投げ渡された缶のカフェオレ。
毎週末、揃って食べる朝食…——
おかずを作る自分の隣で小鍋に牛乳を入れて温めている、寝ぼけた赤井の姿。
良いコーヒー豆を手に入れたと、嬉しそうに笑う赤井の笑顔。
辛いとき、悲しいとき、疲れたとき…——
いつも湯気の立つカフェオレをそっと淹れてくれていた。
カフェオレを一口飲むたびに、その時の情景が脳裏に浮かぶ。
時に優しく
時に悪戯っぽく
時に切なげに
自分の名を呼ぶ赤井の声を思い出した。
ゆっくりカフェオレを飲むりおの姿を、赤井は黙って見ていた。
例え記憶が戻らなくても、自分の淹れたカフェオレを美味しいと飲んでくれるのは嬉しい。
ウェストホールディングスの事件以来、苦しむりおの姿ばかり目の当たりにしてきた。
記憶を失ったことで、今は穏やかに過ごすりおを見て、ホッとしているのも事実だった。
だが、りおが《赤井秀一》を忘れてしまった事は、自分でも驚くほどダメージが大きい。
アンバーの瞳がまるで知らない人を見るように自分を見た時は、本当に胸が痛んだ。
出来る事ならその痛みを払拭するように抱きしめたい。
抱きしめてキスをしたい。
そう思うのに…——
今は触れる事すらできない。
(ただ…待つしかない。こうなるまで見て見ぬふりをした…俺の罰だ)
一つため息をついて、自分にもコーヒーを淹れようと後ろを向いた。
「…秀一さん」
そう呼ばれて赤井は驚き、振り返った。
下を向いていたりおは、ゆっくり顔を上げ赤井の顔を見る。
涙がポロリと頬を伝って落ちた。
「秀一さん。ただいま。全部思い出したよ」
「りお…ほ、本当か?
本当に全部…俺の事も…思い出したのか?」
赤井の顔は『信じられない』とでも言いたげに目を見開き、かなり動揺していた。
「マレーシアで初めて会った時の事も、スーパーで再会した時の事も、博士の家に連れられた事も。
毎日の他愛のない…でも大切な生活も…。
あなたを愛しているって事も」
「りお!!」
そのまま二人は抱き合った。
「やっとだ。やっと俺のところに戻ってきた」
赤井の顔がくしゃりと歪む。
その目には涙がにじんでいた。
りおの頬にも涙が伝う。
「ごめんね。ごめん。秀一さん…」
「キス…して良いか?」
「良いよって言いたいけど、その顔…キスで終わらなそうよ。
ココ病院…」
言い終わらないうちに赤井の唇はりおの唇に触れた。
何度か優しく触れ合うと、次第に深く口づける。
直後に点滴の様子を見に来た看護師が、気を利かせてそっと出て行ったのを、りおも赤井も気付かなかった。