『勘違いから始まる恋』第四章『それぞれの想い』
第074話
三人は暫くし部屋を後にすると廊下へと出ていた。
メンバー同士が言い合いをしたのだから、誰かしら外に居るかと思っていた三人だったが、先程まで居たメンバーの姿は既になく、スタッフも撤収作業に忙しく動き回り、気にする者は誰もいないようだった。
「でさ、この間、才加が――」
廊下を歩きながら、その場の雰囲気を和ませるように世間話をする宮澤 佐江に、二人は時折頷いたり微笑んだりしていたが、高橋 みなみも優子もそれぞれ別のことを考えていた。
『理由を問い詰めることよりも、大切なのは明日のコンサートでそれを繰り返さないことじゃないかな』
先程の佐江の言葉に、みなみは過去にあったとある出来事を思い出していた。
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それは昔、みなみがあるオーディションを受けた時の事。
その日は書類審査を通過した者が歌唱力を測るため、課題曲を歌うことになっていた。
しかし、朝から体調を崩していたみなみは、あろう事か朦朧とした意識のまま無理を押してオーディションに参加していた。
一縷の望みに賭けたものの歌唱前の審査員からの質問に何と答えたかも覚えておらず、歌も喉が嗄れ普段とはほど遠い歌声しか出せないままに終わり、結果は当然の如く“落選”だった。
“落選”を告げられたみなみであったが、朦朧とする意識は悲しみさえも麻痺させたのか、何の感情も覚えることもないまま淡々と身支度を終えると控え室を後にした。
部屋を出る間際、背中に聞こえた合格者の喜ぶ声だけが、何故かみなみの耳に残った。
みなみが控え室を出ると、オーディションを受けに来た者たちの関係者が人垣を作り待っていた。
ザワザワ……シーン。
部屋から一番に出てきた彼女を見て、ざわめいていた声がピタッと止み誰もが自分の知る者でないことに安堵する表情と“可哀想に”という哀れみの視線がみなみに向けられた。
そこで初めてみなみの内に“落ちた”のだという感情が湧くのを感じ、視線から逃れるように俯き強くボストンバッグを握り締め足早になった。
視線からなのか、それとも得意の歌が碌に歌えず“落ちた”という事実からなのか、下唇を噛み締めずっと下を向きながら、何処か覚束ない足取りでみなみは会場の外に出た。
外に出たものの、体調が優れないまま極度の緊張状態に長時間身を起いていたみなみの身体は既に限界を迎え、外に出たところで緊張の糸が切れた。
突然の目眩に力が入らなくなったみなみは、自分で身体を支えきれずその場に倒れ込む。
手からボストンバッグが滑り落ち、スローモーションで迫る地面に反射的に目を閉じるみなみ。
しかし、地面にぶつかる寸での所で、みなみの身体は誰かによって後ろから支えられた。
「っ!?」
誰とも分からぬ者に突然後ろから抱き支えられ、みなみは驚きよりも恐怖で体を強張らせた。
体調が悪く碌に歌えずオーディションに落ちたばかりか哀れみの目で見られ、倒れそうになったとはいえ身も知らずの人間に抱かれたり、情けないのを通り越し涙が込み上げるのをみなみは感じていた。
それでも、知らない人の胸で泣いてはダメだと自分に言い聞かせ、一段と身体を強ばらせるみなみ。
「大丈夫?」
「!?」
だが、それも束の間、身を案じるように掛けられた言葉が、聞き違うことのない“彼”の声であると確信にも似たものを感じ、みなみの身体から自然と強張りが抜けていく。
ゆっくりと瞼を開けるみなみの目に外の陽射しは眩しく、相手のシルエットがぼんやりとしか映らなかったが、先程まであった恐怖を感じることはなかった。
やがて、ぼやけていたシルエットは像を結び“隼人”のいつもと変わらぬ優しい微笑みが、みなみの目に映る。
トクン……
もう一年近くも一緒に居て見慣れたはずの表情に、みなみの心臓は大きく鼓動する。
「大丈夫?」
再び隼人にそう問いかけられ、みなみは無言で小さく頷く。
みなみの態度に隼人は安堵したのか「良かった」と呟くと、彼女を立ち上がらせようと手を差し伸べる。
隼人の優しく大きな手に引かれ、ゆっくりと立ち上がるみなみ。
自分を包み込む様な優しい微笑みや、繋がれた手から伝わる隼人の温もりが、自分は愛されているのだとみなみに実感させる。
そして、それは同時に、そんな隼人からの愛を受ければ受ける程、自分が全力でオーディションを受けられなかったことに対し、不甲斐なさを感じずにはいられず“悔しさ”で視界が滲んでいく。
そんなことが起こっているなど知らない隼人は、みなみの傍らに落ちたボストンバッグを拾い上げようと、一瞬彼女から目を離した。
「帰ろっか? 俺も大学の課題もないし、家でゆっくりし……」
そして、拾い上げたボストンバッグを肩に担ぎ、再びみなみを見た隼人は、彼女の様子に口していた言葉を止めた。
「うぅ、はやと……ぅぅ……私くやしぃ……ひっぐ……」
そこにあったのは言葉にならない声で“悔しい”と、ポロポロと大粒の涙を流し泣くみなみだった。
「ちゃんと、ひっぐ、歌えなくて……ひっぐ、落ちちゃって、ひっぐ、うぅ……」
それまで不合格と告げられようが、哀れみの視線を向けられようと、それは体調を壊した自分のせいだと我慢することができた。
でも、それはやっぱり強がりで、彼の優しさが感情の波に耐え、ずっと押し留めていた心の防波堤を決壊させ、道の真ん中だというのに人目をはばからず声を上げ泣いた。
隼人は、みなみのその様子に驚くこともなく、寧ろ目を細め慈しむように見ると優しく彼女を抱き寄せた。
「悔しいよね……でも、“大切なのは次のオーディションで、同じことを繰り返さないこと”……だから、その悔しさを知ったみなみなら、きっと次は大丈夫。悔しさを糧にして、次どうするべきか分かるはずだよ」
その言葉に、みなみは救われた気がし心がふっと軽くなると、隼人の胸に縋り付き泣き続けた。
隼人は、そんなみなみをそのまま泣き疲れ眠るまで抱きしめていた。
いつの間にか眠り、意識を失っていたみなみが次目覚め見たのは、見知った自分の部屋とベッドサイドで自分の手を握りながら眠る隼人の姿だった。
もともと体調が思わしくなかったみなみの頭は、泣き疲れたせいか目覚めても重く、家にどうやって帰ったのかは疎か、会場から出た直後のこともあやふやで覚えていなかった。
だが、そんな状態でも隼人の言葉だけは、心に焼き付いたようにハッキリと覚えていた。
その言葉は、当時のみなみにとって何よりも心強く、幾つものオーディションに応募しては落ちるを繰り返しても、諦めず挑み続けることが出来た。
そして数ヶ月後、最後にと挑んだ“秋葉原48プロジェクト”……後の“AKB48”に合格することとなる。
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時が過ぎ、心の片隅に置き去られた記憶の欠片は今でも鮮明で、あの時二人を繋ぐ手に“紅い糸”を見た気がし、触れた部分から伝わる温もりは今でもみなみの手に残っていた。
だが、みなみはそんな過去を“甘酸っぱい青春の思い出”だと思うことは出来なかった。
それは、どんな事情があったにせよ“紅い糸”を切ったのはみなみ自身で、今更、彼を想い縋り付くようなことはしたくなかった……いや、してはならないのだ。
『自分に隼人を思い出す資格なんかない……甘えるなみなみ』
だから、親友“前田 敦子”の卒業宣言を明日に控え余裕が持てなかったとはいえ、不調の優子をカバーするどころか逆に問い詰めてしまった事実や、今日幾度となく脳裏を過ぎった隼人との思い出も、全て自分自身の未熟さの現れで甘えだと自分に言い聞かせた。
しかし、みなみの心から隼人の面影が消えることはなく、楽屋へと一歩一歩歩みを進める度、手放した存在の大きさを思い知らされるように想いは強まっていく。
今日に限ってこんなにも思い出されることに戸惑いながら、それだけ自分が敦子の卒業にショックを受け心細くなっているのだと、この時のみなみは感じていた。
『明日は敦子にとって大事な日。 しっかりしろみなみ!』
だから、AKB48グループの纏め役として、ずっと隣で苦楽を共にしてきた親友として、晴れ舞台を台無しにしたくない一心で、みなみは心の内で気持ちを切り替えようと自分を叱咤し続けた。
だが、この時、自ら切ったはずの“紅い糸”が、本人の知らぬ所で“人の縁”として紡がれ続けていたことなど、みなみが知る由もなかった――。