宮澤 佐江、高橋 みなみ、そして優子の三人は、撤収作業で忙しないスタッフを避けるように廊下の端を歩いていた。

「でさ、この間、才加が握手会でファンの人に“やっぱり才加ちゃんは可愛いんだから、もっと自信持っていいよ”って言われた途端泣いちゃったらしいんだよ。 当然、ファンの人は驚いたみたいなんだけさ、隣のレーンにも聞こえてきたもんだから佐江もビックリしちゃったよ。 才加、乙女だわ～」

　佐江は二人の仲を取り持つように話題を振り、みなみは頷きながらも過去に思いを馳せる一方、優子はこれから起こるだろうことを思い廊下を重い足取りで歩いていた。

『私ちゃんと笑えてるかな……』

　前を歩く佐江の話に時折相槌を打つものの、笑顔でいられているか自信が持てない程に優子の心は乱れていた。
　
　理由は一つ。
楽屋に足を踏み入れることへの“躊躇い”であった。

　一歩間違えれば、コンサートを台無しにする可能性があったのだから、メンバーの下にどんな顔をして戻れば良いのかと、当事者として罪の意識を感じる者ならば、思うのは当然の気持ちであろう。
当然、優子も中心メンバーでありながら周囲を牽引するどころか足を引っ張ってしまったことや、不安を抱え心細かっただろう珠理奈を気遣うこともせずいたことを悔いる気持ちはあった。
その気持ちはコンサート会場まで態々足を運んでくれた数万のファンの人たちに、十分なパフォーマンスを見せることが出来なかったことについても同様で『大切なのは明日のコンサートでそれを繰り返さないことじゃないかな』という佐江の言葉に頷いたのも、そんな気持ちの表れに他ならない。
勿論、それだけで許されるなどとは思ってはおらず、誰かに責を問われたならば誠心誠意謝罪をするつもりでもいた。

　だが、そんな本人の気持ちとは裏腹に楽屋に近づくに連れ、後悔や反省の気持ちとは異なる“感情”が自分の内で強くなっているのを優子は感じていた。

　事の発端はコンサート中に見つけた“新城 隼人”の姿。
そこに居るはずのない彼の姿は、優子の内に“不信”という感情を芽生えさせた。

　惹かれ合うように見つめ合う優子と隼人。
ステージと客席は、たった十数メートル離れているだけだというのに、アイドルと観客という関係が、それ以上の隔たりを二人の間に作っていた。

『何故、杏の隣に居るの？』

『何故、私に来られないって嘘を吐いたの？』

『何故……』

　それでも二人を繋ぐ絆を信じる優子は、止め処なく湧き出る疑問を視線という形で隼人に投げかけた。

『信じて良いんだよね？』

　だが、優子の想いを裏切るように、隼人は視線を逸らすことでそれに答えた。
視線を外す様は、嘗ての恋人“ウエンツ 瑛士”に捨てられたときのことを優子に思い出させ、その時心に落とされた染みが再び広がり始めた。
コンサートが進むに連れ“哀しみ”に彩られた染みは広がりをみせ、僅かに残る“信じたい”という気持ちも、目の前にある現実が押し潰していく。

『信じていたのに……』

　心全体を覆うように拡がった染みは、優子の内で様々な想いを呑み込み次第にその色を変え、彼女の言動に大きく影響していた。
それは、普段であればメンバーを細やかに気遣える優子から余裕を奪い、珠理奈を不安なまま独りにし、そればかりか間違ったことを言われたわけでもないにも拘わらず、みなみの言葉に反論するような言動さえとらせていた。
自分でも戸惑うほど普段とはあまりに違い過ぎる言動、これこそが優子に楽屋へ戻ることを躊躇わせる理由になっていた。

　前日のリハーサル時、優子が佐江やみなみたちに言ったように、予定ではコンサート後の楽屋に杏と、その友人が訪ねてくることになっていた。
だが、その友人が“新城 隼人”だと優子は知らされていなかったし、隼人本人からもそのようなこと一言も聞いてなどいなかった。
寧ろ、週末は全て仕事になったと、招待した三日目のコンサートの予定をキャンセルされてもいた。

　佐江が言うように何か理由があるのだとしても、自分との約束を反故にしてまで隠れて観にきた事実は、この時の優子にとって見過ごせるものではなかった。
だから、楽屋に隼人が来たとして、平然と他人として振る舞える余裕も自信もなく、自分にとって耳を塞ぎたくなるような事実なら知りたくないと思う気持ちが心を支配していた。

　そして、それは優子と隼人にとって、あまりに悲しい現実でもあった。

　二人の勘違いから始まった恋は、正に運命的なものであった。
アイドルと一般人が恋をすることは決して普通のことではないし、たとえ神がそれを演出したとしても多くの者たちは、互いの存在に気付くこともなくすれ違うだけだろう。

　そんな二人が互いの存在に気付き、惹かれ合い、恋に落ちたのは、隼人とみなみの間にあったように、優子と隼人の指にも“紅い糸”が結ばれていたからに他ならなかった。

　だが、二人を運命的に出会わせ繋いだ糸は“絆”であって“信頼”ではない。
多くの時間を共有し、困難を共に乗り越えながら育まれた結果築かれるのが“信頼”であって、出会ったばかりの二人がそれを築くにはあまりに時間(とき)が短過ぎた。

　そればかりか、優子が隼人を強く信じ想うあまり、隼人が視線を外す直前に見せた“揺らぎ”の意味に気付けないまま、優子はその様子さえも裏切りだと“憎悪”の引き金にしてしまった。

　せめて、コンサートが終わる直前にメンバーたちが舞台袖へと捌けていく中、彼の前を通る優子へ、隼人がそれまでと違った表情を見せていれば結果は変わっていたのかもしれない。
だが“裏切らない”と口にした言葉など嘘だったかのように、安心させるどころか自分と見つめ合った時見せた隼人の“戸惑う”態度は、優子を“失望”させた。

『貴方も私を裏切るんだ……』

　そして、心全体を覆っていた“哀しみ”という名の染みは“失望”という一滴の色が加わることで、優子の心を一気に“憎しみ”の色へと染め上げてしまう。
優子にとって、それは大凡初めて感じる気持ちであり、この強い感情が“もう一人の彼女”を眠りから目覚めさせる切っ掛けとなってしまった。

　いつしか並んで歩いていた佐江やみなみから遅れ、独り歩く優子。
前を見れば二人の背中が遠くない所にあるというのに、その耳に佐江の声は疎か周りを行き交うスタッフの声や周囲の喧騒も届いてなどいなかった。

コツコツコツ……

　ただ聞こえるのは自分が歩き響かせる靴音だけで、優子はその音を辿るようにフリル付のミニスカートからスラリと伸びた自らの脚を見下ろした。
目の前に映る一対の脚は、まるで何者かに突き動かされるように、一歩一歩迷いなく楽屋へと歩みを進めている。
そんな進むべき道を指し示す自分の脚とは裏腹に、昨日までキラキラと宝石のように光り輝いて見えた未来が暗闇に閉ざされ優子には見えなくなっていた。

　ただ見えるのは初めてのデートにと隼人と約束を交わしたマンションの近くの櫻たちが無残に散りゆく光景と、舞い散る花びらの中で独り噎び泣く“もう一人の優子”の姿だけだった――。