「……兄、さん」

星奈の唇から絞り出されたのは、あまりにも弱々しい響きだった。目の前にいるのは、かつて一緒に遊んだ記憶の中の優しい少年。だが、その面影は、全身を覆う焼け爛れた皮膚と、冷酷な蒼い瞳の奥に完全に隠されていた。

荼毘、改め轟燈矢は、静かに言った。

「兄さん、か。ずいぶん久しぶりだな。星奈……いや、お前が誰かの子供だろうと、俺にとっては、あの炎の中にいた、守るべき相手だったことに変わりはない」

荼毘の言葉は、まるで彼女の心に巣食っていた甘い恋心を、容赦なく凍てつかせるようだった。彼が兄である。それは、二人の間に、血の繋がりこそなくても、超えられない過去と関係性の壁が立ちはだかった瞬間だった。

星奈は、凍傷でひび割れた自分の手を見つめた。

「どうして……どうして、私に黙っていたの？」

「黙っていた方が、都合が良かったからだ。お前は俺の……家族への復讐の駒ではない。だが、俺の計画の秘密を知る者であってはならない」

荼毘は、彼女が恋心を抱いていたことを知っているかのように、あえて突き放した。その冷たさに、星奈の瞳に薄い氷の膜が張る。

「計画……エンデヴァーへの、復讐」

荼毘の顔が、憎悪に歪む。

「そうだ。あの男が俺を**『失敗作』**と断じた日から、全てが始まった。俺は死んだ。そして、荼毘として生まれ変わった。お前の炎が弱いのは、俺と同じ体質だからだ。あのクソ親父が求めた個性を持たなかったが故の……呪いだ」

彼は、自身の蒼い炎を手のひらに灯した。その熱は、星奈の弱い炎とは比べ物にならないほど強力で、部屋の空気を一気に灼熱に変えた。

「お前は、焦凍と同じ誕生日で、個性も同じ。そして、俺と一緒にあの山で焼かれた。お前は、俺の共犯者に最も近い存在だ。だが、お前はただの『誰かの子供』として、弔のサポートに徹していろ。俺と、家族の過去に深入りする必要はない」

それは、兄としての優しさなのか、それともヴィランとしての命令なのか。星奈には判断できなかった。ただ、彼が自分を突き放そうとしていることは理解できた。

「私は、ただの『誰かの子供』じゃない」

星奈は、震える声で反論した。

「私をこの世界に連れてきたのは、燈矢くんだ。私もあの火事の一部だ。そして、私は、轟家の子として数年過ごした。焦凍とは同じ誕生日で、半冷半燃。私には、轟家の過去を知る権利がある。それに……」

彼女は、意を決して荼毘の目を見つめた。その瞳の奥には、冷たい決意が宿っていた。

「それに、あなたへの恋心は、もう断ち切った。あなたは兄……私を助けてくれた、大切な人だ。でも、もう、私たちはヴィランだ。あなたの復讐と、計画を、私は支えたい。私も、AFO様に拾われた命。その道で生きると決めたから」

「……」

荼毘は、じっと星奈を見つめた。彼女の黒髪の隙間から見える、目の下の凍傷のひび割れ。その体質は、エンデヴァーの血を引かずとも、彼と同じ呪いを背負っていることを示していた。

荼毘は、炎を消し、静かに頷いた。

「わかった。お前は、俺の共犯者だ。だが、俺がエンデヴァーを地獄に突き落とすとき、お前はその場にいてはいけない。これは、俺の復讐だ」

「それでも、私は知りたい。あなたが生み出そうとしている、**『ダビダンス』**のことを」

その瞬間から、星奈と荼毘の間に、新たな関係が生まれた。それは、兄妹でもなく、恋人でもない、秘密を共有する共犯者としての関係だった。じれったい恋は、残酷な真実によって断ち切られ、代わりに、危うい信頼と、兄への一途な忠誠心が芽生えた。


「ダビダンス」の計画は、荼毘の復讐の集大成であり、ヴィラン連合の総攻撃の核心をなすものだった。それは、ヒーロー社会のトップに立つエンデヴァーを、公衆の面前で、彼の**『失敗作』**であった長男、轟燈矢が断罪するという、周到に練られたシナリオだった。

星奈は、荼毘の部屋で、彼が描いた計画の設計図を見せられた。そこには、エンデヴァーの過去の過ち、家族への虐待、そして燈矢の死の真相が、詳細に記されていた。

「これを見ても、お前は俺を止めない、と断言できるか？」

荼毘の問いに、星奈は動揺しながらも、強く頷いた。

「止めない。あなたは、轟燈矢として一度死んだ。荼毘として生きるあなたの、全てを、私は尊重します」

この数週間、二人は秘密裏に計画を練り続けた。荼毘は、誰にも話せないはずの家族の真実を、星奈にだけ打ち明けた。エンデヴァーからの期待と拒絶、冷さんの精神の崩壊、そして、焦凍への嫉妬。

星奈は、焦凍と同じ誕生日、同じ個性を持つが故に、燈矢の苦しみが、自分のことのように理解できた。もし、彼女がそのまま轟家で育っていたら、きっと焦凍と同じように、家族の歪みに苦しめられていただろう。

「この計画の核は、情報だ。星奈。お前は、俺たちが轟家の子として過ごした記憶が残っている。その記憶を、この映像に盛り込む」

荼毘は、一つのタブレットを取り出した。それは、彼が秘密裏に収集した、轟家の過去の映像データと、自分の肉声メッセージを編集するためのものだった。

「私は、焦凍とは双子と思われていたけど、実際は他人だった。でも、エンデヴァーの体質を受け継いでいる。私がそこにいることで、**『失敗作』**が二人いた、という事実をより強調できるのでは？」

星奈は提案した。彼女の「氷しか使えない、弱い半冷半燃」という特性は、エンデヴァーの求める**『完全な個性』**ではなかった。

「……面白いな」

荼毘は初めて、心からの笑みを見せた。それは、幼い頃の優しい兄の笑みによく似ていて、星奈の胸を締め付けた。

「お前の存在は、俺の復讐の刃を、より鋭くするだろう。エンデヴァーが望んだ**『完全』な個性の片割れと、彼が拒絶した『欠陥』**の個性の持ち主。このコントラストは、世間を揺さぶる」

二人は、映像の細部にまでこだわった。星奈は、荼毘の過去の言葉や感情を正確に再現する手助けをした。彼女の黒髪ロングの可愛らしい容姿と、凍傷の痛々しい手が、映像の説得力を増すだろうと、荼毘は言った。

計画が進行するにつれ、二人の距離は、肉体的には近くなったが、心はより複雑に絡み合った。

荼毘は、時折、星奈に触れることを躊躇した。それは、彼女の凍傷を気遣っているのか、それとも、彼女がかつて抱いた恋心に配慮しているのか。

ある夜、編集作業を終えた後。

「星奈、お前は……もし、俺が燈矢として生きていたら、どうしたと思う？」

荼毘が、低い声で尋ねた。

星奈は、タブレットの画面に映る、幼い燈矢の姿を見つめた。

「どう、でしょう。もしあなたが燈矢くんのまま、私を妹として見ていたなら……私は、ずっとあなたのそばにいたかった、と思います」

彼女は、敢えて「恋」という言葉を使わなかった。彼の苦しみを知った今、自分の感情を押し付けることはできない。

「だが、俺は荼毘だ。復讐に取り憑かれた、ヴィランだ」

「ええ。だから、私は、ヴィランとしてのあなたについていく。あなたの復讐を、最後まで見届けます」

星奈の決意に、荼毘の蒼い瞳が揺れた。彼は、ふと手を伸ばし、星奈の凍傷でひび割れた手の甲に触れた。

「お前は、いつも冷静だな。氷のように」

「あなたの炎が、強すぎるから」

二人の間に流れる空気は、重く、切ない。それは、断ち切られたはずの恋心が、共犯者という名の鎖で、再び強く結び付けられた瞬間だった。

「全面戦争が始まる。俺が**『ダビダンス』を仕掛けるとき、お前は弔の元を離れ、指定された場所にいろ。お前の役目は、この映像の監視**と、公開のタイミングだ。絶対に失敗するな」

「はい。必ず、成功させます。燈矢、くん」

星奈は、彼の本名を呼ぶことで、彼への忠誠心と、兄への深い愛情を示した。それは、誰にも理解されない、二人にしか通じない、秘密の誓いだった。