(天城玲凰side)

天城玲凰は、自分の存在しないはずの心臓が、微かに、そして不快なほどに脈打つのを感じていた。

目の前の男――岩本照は、彼の世界では**最も疎ましいはずの「光」**をまとっている。にもかかわらず、その瞳には、自分の命を投げ出す覚悟を決めた、凍てつくような決意が宿っていた。

「…無謀だ」

玲凰は、重厚な革張りのソファに深く沈み込み、静かにグラスを傾けた。彼の声は、静謐なペントハウスの空間に吸い込まれていく。

「貴方方が、私を**『光の痕跡』を頼りに追ってきたことは、氷室から聞いた。しかし、貴方方の『感謝』や『共感』は、裏社会においては何の価値もない。まして、貴方方が『レゲティム・ムンドゥス』の目眩まし**になるなど、子供の戯言だ」

玲凰は、目の前で直立する岩本を、初めて詳細に観察した。彼は、自身が持つ力と、それを取り巻く闇を知りすぎている。だからこそ、このアイドルの提案の無意味さを理解していた。

「それは違います」

岩本は、毅然とした態度を崩さない。

「私たちは、貴方という存在が世界の均衡にどれだけ重要かを知っています。そして、貴方が静かな死を望んでいることも知っている。しかし、アンチ勢力は、貴方の死を血で汚す。それは貴方の望む『静かな結末』ではない」

岩本は、テーブルに、目黒たちが置いていった古びたフィルムカメラを静かに置いた。

「我々が囮になれば、アンチ勢力の視線は、一時的に私たちに集中する。その隙に、貴方は、阿部が特定した北欧の別荘へ移動できる。そこは、貴方が**『K. M.』**という光の記憶を刻んだ場所。貴方が唯一、生きる希望を残した痕跡のある場所だ」

玲凰は、カクテルグラスを持つ手が、微かに震えるのを感じた。

（なぜ、そこまで…）

『K. M.』、そして北欧の別荘。それは、彼が裏社会のトップとして立つ以前の、唯一の人間らしさが残された場所だった。氷室でさえ、その場所の重要性を知ってはいても、その意味を深く問うことはなかった。

その秘密を、たかが数日の情報収集で暴き出し、そしてそれを命を賭した取引の材料にしてきた、このアイドルたち。

「岩本照…貴方は、命を賭してまで、私に**『生きる場所』**を与えようとしているのか」

玲凰が問いかけると、岩本は静かに頷いた。

「貴方は、世界を支えている。だから、貴方自身が世界に支えられるべきだ。私たちは、貴方を助けるための**『人質』ではありません。貴方に、『生きてほしい』**と願う、希望の光だ」

「希望だと？」玲凰は、嘲笑した。「貴方方の輝きは、私の世界ではノイズでしかない。そして、貴方方の命は、私の重荷でしかない。貴方方が死ねば、私の孤独は確定し、より静かな死が迎えられる」

「そうかもしれません」岩本は、視線を逸らさない。

「ですが、もし私たちが貴方を救った光として生き残れば、貴方は、**『世界に支えられた』**という事実を背負って生きることになる。それは、貴方の求める静かな死とは、真逆の結末です」

玲凰の胸に、かつてないほどの激しい動揺が巻き起こった。

（この男は…私に、生きる罰を与えようとしているのか？）

玲凰は、数十年間、世界の裏側で、血と孤独にまみれて生きてきた。彼は、自分の人生の終着点は、世界の均衡を保った上での無への帰還だと信じていた。だが、このアイドルは、その終着点に、「感謝と希望」という、最も重い「生」の鎖をかけようとしてきた。

その時、玲凰の横に立っていた氷室が、静かに口を開いた。

「天城様。…私は、岩本様の提案に乗るべきだと進言いたします」

玲凰は、驚いて氷室を見た。常に玲凰の意向に従ってきたはずの氷室が、初めて自分の意思を表明したのだ。

「理由を述べろ、氷室」

「『レゲティム・ムンドゥス』の動きは、すでに活発化しています。このままでは、貴方の望む**『静かな死』は叶いません。彼らは、貴方の死を世界への見せしめ**として利用するでしょう」

氷室は、岩本が置いたフィルムカメラを拾い上げ、玲凰に差し出した。

「ですが、岩本様は、私たちが唯一守り続けてきた**『K. M.の光の痕跡』を知っている。そして、彼らはその光を肯定し、自らの命を賭けて、貴方に『生きる場所』**を提供しようとしています」

氷室の瞳には、かつて玲凰が「K. M.」に抱いたであろう、献身的な愛情のようなものが滲んでいた。

「天城様。貴方は、孤独を背負いすぎました。この『光』を利用し、まずは生き延びてください。そして、この『光』が、貴方に生きる意味を与えられるのか、自ら判断してください」

玲凰は、氷室が差し出したカメラを、ゆっくりと受け取った。手のひらに伝わる、古びた金属と革の感触。それは、彼の裏社会の冷たい日常には存在しない、「人間」の温もりだった。

「…わかった」玲凰は、静かに言った。「岩本照。貴方の提案を受け入れよう」

岩本は、その場で深く頭を下げた。彼の緊張が、一瞬で緩んだのがわかった。

「ただし」玲凰は続けた。「貴方方が私を**『生け捕り』にしようとした代償は、決して安くはない。貴方方は、私を北欧へ連れ出した後、私を襲ったアンチ勢力として、裏社会に名を刻むことになる。そして、貴方方は、二度と元の世界**には戻れない」

岩本は、顔を上げ、きっぱりと言った。

「覚悟の上です。私たちの『生きる場所』は、貴方のいる場所です」

その時、氷室の通信機が短く鳴った。彼の顔色が、一瞬で厳しくなる。

「天城様、**『レゲティム・ムンドゥス』の暗殺部隊が、既にこのマンションの警備を突破し、最上階に向かっています。岩本様の提案通り、彼らは『貴方の協力者』**である岩本様を、最初の標的にするつもりです」

「来たか…」

玲凰は、カクテルグラスの破片が散乱した床に、静かに立ち上がった。

「岩本照。貴方の囮は、もう始まったようだ。氷室、岩本を連れて、私専用の脱出ルートへ。残りのアイドルたちには、すぐに北欧の別荘へ向かうよう、私のネットワークを通じて連絡しろ」

玲凰は、岩本の肩を、冷たい手で叩いた。

「私の運命を変えようとした、貴方方の宣戦布告だ。私が生きるか死ぬか、最後まで見届けるがいい」

彼の瞳の奥に、死への渇望ではなく、生きる者特有の、静かな闘志が灯ったのを、岩本は確かに見た。