傷明 ブラフラ
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アパートへ戻る足取りは、もはや迷いによる重さを失っていた。 ずぶ濡れになった上着を床に放り出し、僕は狂ったようにパレットへ「黒」をぶちまけた。チューブから絞り出された漆黒の絵の具は、部屋のわずかな光を吸い込み、どろりとした質量を持ってそこに鎮座している。
阿久津に言われた「救いがない」という言葉を思い出す。 確かにそうかもしれない。僕が描こうとしているのは、安っぽい希望や、誰かを元気づけるための綺麗事ではない。もっとどろどろとした、喉の奥にへばりついて取れない後悔や、夜な夜な首を絞めてくるような孤独。それらを煮詰めて、精製して、結晶化させたものが、僕にとっての「黒」だ。
「……期待しなけりゃ、痛む場所もない。か」
筆を握る手が震える。 本当は分かっていた。自分を「無能」だと決めつけ、理想を手放してしまえば、こんなに苦しむ必要はなかったのだ。瀬戸のように、求められる色に自分を塗り替え、社会の歯車として、あるいは流行の担い手として笑っていれば、少なくとも空腹や家賃の心配に怯えることはなかっただろう。 見ないふりに慣れてしまう。それが大人になるということだと、誰もが僕に囁いた。
けれど、僕の心臓がそれを許さなかった。 ドクン、ドクンと、胸の裏側で暴れる鼓動。それは時折、「もう消えてしまいたい」という絶望の叫びに変わる。 「消えたいんだ」と叫ぶ心臓と、「生きたいんだ」と吠える魂。 その二つが僕の体内で激しく衝突し、火花を散らす。その火花が、僕の筆を動かす唯一のエネルギーだった。
僕はキャンバスに体当たりするように色を乗せていった。 一度引いた黒の上に、さらに深い黒を重ねる。マットな黒、光沢のある黒、青みを帯びた黒、赤く煤けたような黒。 「闇が、隠す……」
独り言が、冷えた部屋に落ちる。 世の中は、闇を「悪いもの」として排除しようとする。光こそが正解で、明るさこそが善だと。けれど、闇にしか見えない答えがある。光が強すぎて見えなくなってしまった、本質的な正解が、この暗闇の奥底には沈んでいるはずなんだ。
制作に没頭して、どれほどの時間が経っただろうか。 ふと、スマートフォンの通知が画面を照らした。 画面に表示されたのは、かつての大学の同級生であり、今は小さなオルタナティブ・ギャラリーを運営している「ハル」からの連絡だった。
『今、阿久津先生のところに行ったって聞いたよ。……相変わらず、無茶苦茶言われたんでしょ?』
ハルは、僕が最も苦しんでいた時期を知る数少ない友人だ。 『来週、うちのギャラリーで枠が一つ空いたんだ。大手スポンサーのコンペに出すための特別展示。テーマは「現代の光」。……皮肉だよね。でも、もし君がまだ「黒」を描いているなら、それを持ってこないか?』
現代の光。 阿久津が愛し、僕を否定したその言葉が、今度は招待状となって僕の前に現れた。 これは罠か、それとも。 簡単に解けるような罠かもしれない。僕を晒し者にして、改めて「光」の正当性を証明するための引き立て役にされるだけかもしれない。 けれど、僕の指先は、すでに返信を打ち込んでいた。
『行くよ。僕なりの光を、見せに行く』
それからの三日間、僕は眠ることを忘れた。 食事も、喉を通る最低限の水分だけで済ませた。鏡を見る暇もなかったが、おそらく今の僕は、阿久津の言う通り「救いようのない」顔をしていたに違いない。 キャンバスに向かう時、僕はかつての自分と対話していた。 期待に応えられなくて泣いていた、幼い日の自分。 才能のなさを突きつけられ、雨の中で立ち尽くしていた昨日の自分。 「ごめんな。助けに来るのが遅くなった」 僕は過去を救うために戦っていた。あの日、否定された色彩を、今ここで「正解」へと昇華させるために。
次第に、キャンバスの上に変化が起き始めた。 何層にも塗り重ねられた黒が、ある瞬間、自ら発光しているかのような錯覚を覚えたのだ。それは外から照らされた光を反射しているのではない。黒そのものが、内側に閉じ込めた熱を放出し、夜を裂くための鋭さを持ち始めたのだ。
「これだ……」
胸の傷が、羽へと変わる瞬間だった。 不安も、葛藤も、すべてが筆先に集約され、力強いストロークとなって世界を塗りつぶしていく。 自由だ。 誰の指示も、誰の評価も介在しない。 僕は、僕自身の意志で、この深い闇を選んだのだと気づいた時、視界から出口のない閉塞感が消え去った。
展示会当日。 僕は巨大なキャンバスを抱え、ハルのギャラリーへと向かった。 会場は、阿久津の影響下にある著名な評論家や、流行に敏感な若者たちで溢れかえっていた。 壁には、眩いばかりの黄色や白、金色の絵画が並んでいる。どれもが美しく、そしてどこか空虚だった。
一番奥の、突き当たりの壁。 そこが僕に与えられた場所だった。 僕は、まだ微かに絵の具の匂いが残るその作品を掲げた。 タイトルは――「傷明」。
「……何だ、これは」 誰かが呟くのが聞こえた。 周囲の鮮やかな作品群の中で、僕の絵は異様な存在感を放っていた。光を吸い込み、周囲の空気さえも凍りつかせるような圧倒的な黒。 阿久津が、瀬戸を引き連れて会場に現れたのは、その直後のことだった。
「救いがないと言ったはずだが、まだ分かっていないようだな」 阿久津が、冷ややかな視線で僕の絵を見る。 瀬戸も嘲笑を浮かべ、肩をすくめた。 「先生の言う通りだ。こんなの、ただの汚れじゃないか。これが『現代の光』だって? 笑わせないでくれよ」
僕は、彼らの言葉に動じなかった。 むしろ、憐れみすら感じていた。彼らには見えていないのだ。この黒の奥底で、今まさに弾けようとしている「次の朝」の予兆が。
その時だった。 一人の少女が、僕の絵の前で足を止めた。 彼女は、華やかな会場の中で一人、浮いているように見えた。うつむき加減で、その瞳には深い隈がある。彼女の袖口からは、隠しきれない傷痕が覗いていた。
彼女は、食い入るように僕の黒を見つめていた。 やがて、彼女の目から一粒の涙が零れ落ちる。
「……あたたかい」
彼女の小さな呟きが、静まり返ったギャラリーに響いた。 阿久津が眉をひそめ、瀬戸が言葉を失う。 彼女は、震える手を伸ばし、キャンバスに触れようとした。
「この黒の中に、私がいる。……消えたいと思ってた私が、ここにいてもいいんだって、言ってもらえた気がする」
その言葉を聞いた瞬間、僕の中で何かが完全に繋がった。 僕が描くべきだったのは、誰かを照らすための光ではなかった。 闇の中で隣に座り、「僕もここにいるよ」と伝えるための、黒い光だったのだ。
闇が、隠す。 答えが、照らす。 僕は一歩前に踏み出し、彼女の隣に立った。 「……正解なんて、どこにもないと思っていた」 僕は彼女に、そして会場にいるすべての人に、自分自身に言い聞かせるように語りかけた。 「でも、この傷だらけの選択肢の先に、僕たちは辿り着ける。夜を裂いて、次の朝を迎えに行けるんだ」
遠くに見える光を目指して、僕はまた一歩、歩き出す決意を固めた。 逸れないように、そっと。 今度は自分だけでなく、この黒い光を必要とする誰かの手を引いて。
阿久津に言われた「救いがない」という言葉を思い出す。 確かにそうかもしれない。僕が描こうとしているのは、安っぽい希望や、誰かを元気づけるための綺麗事ではない。もっとどろどろとした、喉の奥にへばりついて取れない後悔や、夜な夜な首を絞めてくるような孤独。それらを煮詰めて、精製して、結晶化させたものが、僕にとっての「黒」だ。
「……期待しなけりゃ、痛む場所もない。か」
筆を握る手が震える。 本当は分かっていた。自分を「無能」だと決めつけ、理想を手放してしまえば、こんなに苦しむ必要はなかったのだ。瀬戸のように、求められる色に自分を塗り替え、社会の歯車として、あるいは流行の担い手として笑っていれば、少なくとも空腹や家賃の心配に怯えることはなかっただろう。 見ないふりに慣れてしまう。それが大人になるということだと、誰もが僕に囁いた。
けれど、僕の心臓がそれを許さなかった。 ドクン、ドクンと、胸の裏側で暴れる鼓動。それは時折、「もう消えてしまいたい」という絶望の叫びに変わる。 「消えたいんだ」と叫ぶ心臓と、「生きたいんだ」と吠える魂。 その二つが僕の体内で激しく衝突し、火花を散らす。その火花が、僕の筆を動かす唯一のエネルギーだった。
僕はキャンバスに体当たりするように色を乗せていった。 一度引いた黒の上に、さらに深い黒を重ねる。マットな黒、光沢のある黒、青みを帯びた黒、赤く煤けたような黒。 「闇が、隠す……」
独り言が、冷えた部屋に落ちる。 世の中は、闇を「悪いもの」として排除しようとする。光こそが正解で、明るさこそが善だと。けれど、闇にしか見えない答えがある。光が強すぎて見えなくなってしまった、本質的な正解が、この暗闇の奥底には沈んでいるはずなんだ。
制作に没頭して、どれほどの時間が経っただろうか。 ふと、スマートフォンの通知が画面を照らした。 画面に表示されたのは、かつての大学の同級生であり、今は小さなオルタナティブ・ギャラリーを運営している「ハル」からの連絡だった。
『今、阿久津先生のところに行ったって聞いたよ。……相変わらず、無茶苦茶言われたんでしょ?』
ハルは、僕が最も苦しんでいた時期を知る数少ない友人だ。 『来週、うちのギャラリーで枠が一つ空いたんだ。大手スポンサーのコンペに出すための特別展示。テーマは「現代の光」。……皮肉だよね。でも、もし君がまだ「黒」を描いているなら、それを持ってこないか?』
現代の光。 阿久津が愛し、僕を否定したその言葉が、今度は招待状となって僕の前に現れた。 これは罠か、それとも。 簡単に解けるような罠かもしれない。僕を晒し者にして、改めて「光」の正当性を証明するための引き立て役にされるだけかもしれない。 けれど、僕の指先は、すでに返信を打ち込んでいた。
『行くよ。僕なりの光を、見せに行く』
それからの三日間、僕は眠ることを忘れた。 食事も、喉を通る最低限の水分だけで済ませた。鏡を見る暇もなかったが、おそらく今の僕は、阿久津の言う通り「救いようのない」顔をしていたに違いない。 キャンバスに向かう時、僕はかつての自分と対話していた。 期待に応えられなくて泣いていた、幼い日の自分。 才能のなさを突きつけられ、雨の中で立ち尽くしていた昨日の自分。 「ごめんな。助けに来るのが遅くなった」 僕は過去を救うために戦っていた。あの日、否定された色彩を、今ここで「正解」へと昇華させるために。
次第に、キャンバスの上に変化が起き始めた。 何層にも塗り重ねられた黒が、ある瞬間、自ら発光しているかのような錯覚を覚えたのだ。それは外から照らされた光を反射しているのではない。黒そのものが、内側に閉じ込めた熱を放出し、夜を裂くための鋭さを持ち始めたのだ。
「これだ……」
胸の傷が、羽へと変わる瞬間だった。 不安も、葛藤も、すべてが筆先に集約され、力強いストロークとなって世界を塗りつぶしていく。 自由だ。 誰の指示も、誰の評価も介在しない。 僕は、僕自身の意志で、この深い闇を選んだのだと気づいた時、視界から出口のない閉塞感が消え去った。
展示会当日。 僕は巨大なキャンバスを抱え、ハルのギャラリーへと向かった。 会場は、阿久津の影響下にある著名な評論家や、流行に敏感な若者たちで溢れかえっていた。 壁には、眩いばかりの黄色や白、金色の絵画が並んでいる。どれもが美しく、そしてどこか空虚だった。
一番奥の、突き当たりの壁。 そこが僕に与えられた場所だった。 僕は、まだ微かに絵の具の匂いが残るその作品を掲げた。 タイトルは――「傷明」。
「……何だ、これは」 誰かが呟くのが聞こえた。 周囲の鮮やかな作品群の中で、僕の絵は異様な存在感を放っていた。光を吸い込み、周囲の空気さえも凍りつかせるような圧倒的な黒。 阿久津が、瀬戸を引き連れて会場に現れたのは、その直後のことだった。
「救いがないと言ったはずだが、まだ分かっていないようだな」 阿久津が、冷ややかな視線で僕の絵を見る。 瀬戸も嘲笑を浮かべ、肩をすくめた。 「先生の言う通りだ。こんなの、ただの汚れじゃないか。これが『現代の光』だって? 笑わせないでくれよ」
僕は、彼らの言葉に動じなかった。 むしろ、憐れみすら感じていた。彼らには見えていないのだ。この黒の奥底で、今まさに弾けようとしている「次の朝」の予兆が。
その時だった。 一人の少女が、僕の絵の前で足を止めた。 彼女は、華やかな会場の中で一人、浮いているように見えた。うつむき加減で、その瞳には深い隈がある。彼女の袖口からは、隠しきれない傷痕が覗いていた。
彼女は、食い入るように僕の黒を見つめていた。 やがて、彼女の目から一粒の涙が零れ落ちる。
「……あたたかい」
彼女の小さな呟きが、静まり返ったギャラリーに響いた。 阿久津が眉をひそめ、瀬戸が言葉を失う。 彼女は、震える手を伸ばし、キャンバスに触れようとした。
「この黒の中に、私がいる。……消えたいと思ってた私が、ここにいてもいいんだって、言ってもらえた気がする」
その言葉を聞いた瞬間、僕の中で何かが完全に繋がった。 僕が描くべきだったのは、誰かを照らすための光ではなかった。 闇の中で隣に座り、「僕もここにいるよ」と伝えるための、黒い光だったのだ。
闇が、隠す。 答えが、照らす。 僕は一歩前に踏み出し、彼女の隣に立った。 「……正解なんて、どこにもないと思っていた」 僕は彼女に、そして会場にいるすべての人に、自分自身に言い聞かせるように語りかけた。 「でも、この傷だらけの選択肢の先に、僕たちは辿り着ける。夜を裂いて、次の朝を迎えに行けるんだ」
遠くに見える光を目指して、僕はまた一歩、歩き出す決意を固めた。 逸れないように、そっと。 今度は自分だけでなく、この黒い光を必要とする誰かの手を引いて。