傷明 ブラフラ
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深夜二時。ワンルームの狭い部屋には、液晶モニターの青白い光だけが、深海のような静寂の中に浮き上がっている。 カチ、カチ、とマウスをクリックする音が、心臓の鼓動よりも鋭く鼓膜を叩く。画面の中では、色鮮やかなグラフィックと、洗練されたフォントで綴られた「誰か」の成功報告が躍っていた。 「……また、あいつか」 掠れた声が、結露した窓ガラスに当たって消えた。 画面の向こうにいるのは、かつて同じ志を持っていたはずの知人だ。彼は今、時代の寵児としてスポットライトを浴び、何万人もの称賛をその身に受けている。彼が投稿した「夢は必ず叶う」という無邪気な言葉には、数えきれないほどの「いいね」が群がっていた。 それは、今の僕にとっては何よりも鋭利な刃物だった。胸の奥に滲んだ孤独のサインが、じりじりと熱を持って広がっていく。
僕は、机の脇に積み上げられたスケッチブックと、書きかけの歌詞が散乱するノートに目をやった。そこには、僕が今日まで削り出してきた「僕自身」が詰まっているはずだった。けれど、世の中に溢れる「正解」とされる色彩と見比べた時、それらはあまりにも無力で、濁って見えた。 期待に応えようとすればするほど、自分という形が崩れていくのが分かった。親の期待、世間の目、そして何より「こうあるべきだ」と自分に課した理想。それらを追いかける足取りは、いつしか泥沼の中を歩くように重くなり、気づけば理想は手の届かない成層圏の向こう側へと離れてしまっていた。
僕は椅子から立ち上がり、狭い部屋を数歩歩いて窓の外を見た。 眠らない街、東京。遠くに見える高層ビルの明かりは、まるで届かない星屑のようだ。戻れやしない現実と、かつて描いた輝かしい未来。その落差を測るたびに、足元が崩れ落ちるような感覚に陥る。
ふと、十年前の記憶が蘇る。 初めて絵筆を握り、真っ白いキャンバスを前にした時、僕の心は純粋な喜びで満たされていた。あの日、僕は空を「空の色」に塗るのが嫌だった。もっと自由で、もっと激しい、自分だけの情熱をぶつけたかった。 「どうして青く塗らないの? 空は青いものだよ」 美術教師の無機質な言葉が、今でも耳に張り付いている。 大人が求める「正解」に応えるたびに、僕の中の何かが死んでいった。褒められるたびに、僕の個性が透明になっていくような恐怖。期待に応え、誰かの望む色彩に染まることが「正しい生き方」なのだと自分を騙し続けてきた。 けれど、その結果がこれだ。二十四歳、家賃滞納を目前にしたボロアパートの一室。世の中が求める色彩に自分を無理やり当てはめようとした末に、僕は自分の色を見失った。
「悪あがきなんかじゃない……」 自分に言い聞かせるように、もう一度呟いた。 誰かにとっては、僕の足掻きは滑稽に見えるかもしれない。「まだそんなことをやっているのか」「いい加減、現実を見たらどうだ」という声が、幻聴のように耳元で囁く。けれど、この燻る火を消してしまったら、僕という存在を証明するものは何も残らなくなってしまう。
後悔はしたくない。その一念だけが、僕をこの暗闇に繋ぎ止めていた。 世の中には、器用に自分を塗り替えられる人間がいる。流行の色に染まり、時代の波に乗り、誰からも愛される鮮やかな色で自分を飾れる人たち。かつては僕も、そんな風になりたいと願ったことがあった。赤や青や黄色、眩しい光を放つ何色かに染まれば、この孤独は消えるのではないかと。 けれど、何度筆を執っても、僕から溢れ出すのは、すべてを混ぜ合わせたような「黒」だった。 美しくない、救いようのない、夜の底のような黒。
ある時、僕は気づいたのだ。 黒とは、すべての色を飲み込んだ末に辿り着く終着点だということに。何色にも染まらないということは、最強であるということではないか。どんな光も飲み込み、何者にも干渉させない、純粋な意志。 「何色だって染まらずに……黒く羽ばたけ」
僕は震える手で、新しいキャンバスをイーゼルに立てた。 どんな運命からも逃げないと、あの日誓ったはずだ。胸を刺すような視線も、突き放された冷たさも、期待を裏切った時の絶望も。そのすべての傷を、僕は拒絶しない。むしろ、その傷痕の一つひとつを縫い合わせ、誰も見たことがないような巨大な漆黒の翼を編み上げてやる。 暗い夜は、まだ明ける気配を見せない。 けれど、いつか泣いていたこの夜さえも、朝を連れてくるための準備期間なのだと信じたかった。闇が深ければ深いほど、その先にある答えは鮮明に照らされるはずだ。未来への光は、外から与えられるものではなく、この闇を切り裂く意志の中に宿るものなのだから。
僕は黒い絵の具をパレットに絞り出した。 出口のない世界。そう思っていた。 右も左も分からず、ただ零れ落ちていくのを待つだけの、底なしの穴。 けれど、目の前には選択肢が並んでいる。 このまま消えてしまうか、あるいは、この場所を滑走路にして飛び立つか。
深夜のラジオから、誰かが吐き出すようなラップが流れてくる。 「簡単に解ける罠、半端なおどける馬鹿……」 それはまるで、僕の現状を揶揄しているようでもあり、鼓舞しているようでもあった。 世の中の仕組みという罠に嵌まり、夢を追いかける自分をおどけた道化のように演じる毎日。 ILLなバース――病んだ、あるいは狂った言葉だと、誰かが嘲笑った僕の表現。けれど、それがいつか誰かの魂を震わせる日が来るだろうか。今はまだ、土の中で蠢く種に過ぎない。傷だらけの根が、暗闇の中で必死に水分を求めて伸ばされている。
残る道はわずかだ。 このまま散るか。 魂を殺して生きるか。 それとも、この傷を翼に変えて、飛ぶか。
答えは、最初から決まっていた。 僕は筆を執り、キャンバスの中央に鋭い一線を引いた。 それは、夜を裂くための、最初の傷跡だった。
キャンバスに引かれた黒い一線は、僕の肋骨の下で疼く痛みと呼応していた。 僕は呼吸を忘れて描き続けた。窓の外が白み始め、都会の冷たい朝の空気が隙間風となって入り込んでくる。 昨日の自分にサヨナラを告げる。 逃げるための言い訳は、もうこの部屋のゴミ箱に捨ててきた。 僕の感情が、今、猛烈に「生きたい」と叫んでいる。 このキャンバスが、僕の羽になる。 不格好で、傷だらけで、けれど何よりも重厚な「黒」の翼。 その瞬間、僕は気づいた。 期待しなけりゃ痛む場所もない。けれど、痛むということは、まだ僕が何かを、自分自身を期待している証拠なのだと。理想の自分を手放して、見ないふりに慣れてしまうのは簡単だ。けれど、そんなのは本当の僕じゃない。 過去の自分を救うために、僕は戦わなければならない。 閉じた目の裏に映るのは、絶望の続きじゃない。 新しく描く、夢の続きだ。
部屋を飛び出した僕を待っていたのは、早朝の刺すような冷気だった。 深夜に描いたキャンバスの感触が、まだ指先に残っている。黒い絵の具が乾ききらないうちに、僕はいてもたってもいられなくなったのだ。あの部屋にいては、自分の熱に浮かされて死んでしまうような気がした。
向かった先は、山手線のガード沿いにある古い雑居ビルだ。そこには、かつて僕が師と仰ぎ、そして僕の才能を完膚なきまでに否定した男、阿久津の個人アトリエがある。 阿久津は、現代美術界で「光の魔術師」と称えられる重鎮だ。彼の描く絵は、誰もが目を奪われるほど鮮やかで、希望に満ちている。三年前、僕が彼の門を叩いた時、彼は僕のスケッチを一瞥してこう言い放った。 「君の絵には、救いがない。その執拗なまでの『黒』は、観る者の心を閉ざすだけだ。期待していたんだがね。もっと明るい、大衆が求める光を描けるようにならなければ、君に未来はない」
その言葉は、当時の僕にとって死刑宣告に等しかった。それ以来、僕は彼に認められたくて、無理やり彩度の高い色を使い、心にもない「希望」を塗りたくってきた。けれど、描けば描くほど、僕の心は出口のない迷路に迷い込んでいったのだ。
ビルの前まで来ると、一台の高級車が止まっていた。 車から降りてきたのは、阿久津と、そしてあのSNSで眩しく輝いていた「彼」――かつての同門、瀬戸だった。 「先生、今回の個展も大成功ですね。僕の新作も、先生に教わった『光の構成』を意識してから、一気に評価が上がりました」 瀬戸の晴れやかな声が、コンクリートの壁に反響する。阿久津は満足そうに頷き、彼の肩を叩いた。 「いいよ、瀬戸。君は素直だ。時代の波を読み、自分が何色に染まるべきかを理解している。それがプロというものだ」
物陰に隠れた僕の胸に、鋭い痛みが走る。 期待しなけりゃ痛む場所もない。分かっている。けれど、あそこに並んで笑っているはずだった自分を想像してしまう。理想の自分を手放して、世間が望む「おどける馬鹿」を演じきれれば、今頃僕もあちら側にいたのかもしれない。 けれど、僕の心臓がそれを拒絶している。消えたいほど惨めでも、この「黒」だけは譲れないと叫んでいる。
「……阿久津先生」 気づけば、僕は声をかけていた。 二人が驚いたようにこちらを振り返る。瀬戸の目が、一瞬だけ蔑むように細められた。 「なんだ、お前か。まだそんな格好でうろついているのか」 阿久津の声には、もはや怒りすらなく、ただ深い失望だけが混じっていた。 「先生。僕は……僕はもう、あなたの教える光は描けません」 「今さら何を。才能がないと自覚したのなら、早く別の道を探すことだ。それが身のためだよ」 「違います。僕は、僕の傷を翼に変えることに決めたんです。何色にも染まらない、黒い羽で飛ぶことにしたんです」
阿久津は鼻で笑った。 「黒い羽だと? そんなものでどこへ行ける。闇に紛れて消えるのが関の山だ。瀬戸を見ろ。彼は光を目指して、着実に階段を上っている。お前にあるのは、ただの『悪あがき』だ」
悪あがきなんかじゃない。 僕は拳を握りしめた。 瀬戸の背後にある、出口のない世界――一見華やかだが、誰かの色に染まらなければ生き残れない、窒息しそうな正解。そこに零れ落ちていく前に、僕は自分だけの正解に辿り着かなければならない。 目の前にある選択肢は、今や明白だった。 彼らの認める「光」という罠に屈するか。 それとも、孤高の「黒」を貫き、自らの手で夜を裂くか。
「見ていてください。僕が、次の朝を迎えに行くのを」 僕はそれだけ言い残し、背を向けた。 背後で瀬戸が何かを嘲笑う声がしたが、もう気にならなかった。 不思議な感覚だった。胸の傷が、ズキズキと熱を帯びている。けれど、それは僕を蝕む痛みではなく、飛翔するためのエンジンの鼓動のように感じられた。
歩き出した僕の足取りは、いつの間にか駆け足に変わっていた。 冷たい雨が降り出したが、それさえも心地よかった。 不安や葛藤、そのすべてが力に変わっていく。 報われない努力を無駄だと嘆き、立ち止まって泣いた夜は昨日で終わりだ。 最低な自分にサヨナラを告げる。 アパートに戻った僕は、再びキャンバスに向かった。 まだ夜は明けていない。けれど、僕の視界には、闇が隠していた答えが、うっすらと照らされている。 それは未来への光。 閉じた目の裏に映るのは、新しく描く夢の続き。 僕は再び筆を手に取った。 いつか、僕と同じように暗闇の中で震えている誰かがいるのなら。 僕はその手を引いていけるような、そんな強さをこの黒の中に込めたい。 一歩、また一歩。 逸れないように、そっと。 僕は僕自身の手を引くように、キャンバスに魂を刻み込んでいった。
僕は、机の脇に積み上げられたスケッチブックと、書きかけの歌詞が散乱するノートに目をやった。そこには、僕が今日まで削り出してきた「僕自身」が詰まっているはずだった。けれど、世の中に溢れる「正解」とされる色彩と見比べた時、それらはあまりにも無力で、濁って見えた。 期待に応えようとすればするほど、自分という形が崩れていくのが分かった。親の期待、世間の目、そして何より「こうあるべきだ」と自分に課した理想。それらを追いかける足取りは、いつしか泥沼の中を歩くように重くなり、気づけば理想は手の届かない成層圏の向こう側へと離れてしまっていた。
僕は椅子から立ち上がり、狭い部屋を数歩歩いて窓の外を見た。 眠らない街、東京。遠くに見える高層ビルの明かりは、まるで届かない星屑のようだ。戻れやしない現実と、かつて描いた輝かしい未来。その落差を測るたびに、足元が崩れ落ちるような感覚に陥る。
ふと、十年前の記憶が蘇る。 初めて絵筆を握り、真っ白いキャンバスを前にした時、僕の心は純粋な喜びで満たされていた。あの日、僕は空を「空の色」に塗るのが嫌だった。もっと自由で、もっと激しい、自分だけの情熱をぶつけたかった。 「どうして青く塗らないの? 空は青いものだよ」 美術教師の無機質な言葉が、今でも耳に張り付いている。 大人が求める「正解」に応えるたびに、僕の中の何かが死んでいった。褒められるたびに、僕の個性が透明になっていくような恐怖。期待に応え、誰かの望む色彩に染まることが「正しい生き方」なのだと自分を騙し続けてきた。 けれど、その結果がこれだ。二十四歳、家賃滞納を目前にしたボロアパートの一室。世の中が求める色彩に自分を無理やり当てはめようとした末に、僕は自分の色を見失った。
「悪あがきなんかじゃない……」 自分に言い聞かせるように、もう一度呟いた。 誰かにとっては、僕の足掻きは滑稽に見えるかもしれない。「まだそんなことをやっているのか」「いい加減、現実を見たらどうだ」という声が、幻聴のように耳元で囁く。けれど、この燻る火を消してしまったら、僕という存在を証明するものは何も残らなくなってしまう。
後悔はしたくない。その一念だけが、僕をこの暗闇に繋ぎ止めていた。 世の中には、器用に自分を塗り替えられる人間がいる。流行の色に染まり、時代の波に乗り、誰からも愛される鮮やかな色で自分を飾れる人たち。かつては僕も、そんな風になりたいと願ったことがあった。赤や青や黄色、眩しい光を放つ何色かに染まれば、この孤独は消えるのではないかと。 けれど、何度筆を執っても、僕から溢れ出すのは、すべてを混ぜ合わせたような「黒」だった。 美しくない、救いようのない、夜の底のような黒。
ある時、僕は気づいたのだ。 黒とは、すべての色を飲み込んだ末に辿り着く終着点だということに。何色にも染まらないということは、最強であるということではないか。どんな光も飲み込み、何者にも干渉させない、純粋な意志。 「何色だって染まらずに……黒く羽ばたけ」
僕は震える手で、新しいキャンバスをイーゼルに立てた。 どんな運命からも逃げないと、あの日誓ったはずだ。胸を刺すような視線も、突き放された冷たさも、期待を裏切った時の絶望も。そのすべての傷を、僕は拒絶しない。むしろ、その傷痕の一つひとつを縫い合わせ、誰も見たことがないような巨大な漆黒の翼を編み上げてやる。 暗い夜は、まだ明ける気配を見せない。 けれど、いつか泣いていたこの夜さえも、朝を連れてくるための準備期間なのだと信じたかった。闇が深ければ深いほど、その先にある答えは鮮明に照らされるはずだ。未来への光は、外から与えられるものではなく、この闇を切り裂く意志の中に宿るものなのだから。
僕は黒い絵の具をパレットに絞り出した。 出口のない世界。そう思っていた。 右も左も分からず、ただ零れ落ちていくのを待つだけの、底なしの穴。 けれど、目の前には選択肢が並んでいる。 このまま消えてしまうか、あるいは、この場所を滑走路にして飛び立つか。
深夜のラジオから、誰かが吐き出すようなラップが流れてくる。 「簡単に解ける罠、半端なおどける馬鹿……」 それはまるで、僕の現状を揶揄しているようでもあり、鼓舞しているようでもあった。 世の中の仕組みという罠に嵌まり、夢を追いかける自分をおどけた道化のように演じる毎日。 ILLなバース――病んだ、あるいは狂った言葉だと、誰かが嘲笑った僕の表現。けれど、それがいつか誰かの魂を震わせる日が来るだろうか。今はまだ、土の中で蠢く種に過ぎない。傷だらけの根が、暗闇の中で必死に水分を求めて伸ばされている。
残る道はわずかだ。 このまま散るか。 魂を殺して生きるか。 それとも、この傷を翼に変えて、飛ぶか。
答えは、最初から決まっていた。 僕は筆を執り、キャンバスの中央に鋭い一線を引いた。 それは、夜を裂くための、最初の傷跡だった。
キャンバスに引かれた黒い一線は、僕の肋骨の下で疼く痛みと呼応していた。 僕は呼吸を忘れて描き続けた。窓の外が白み始め、都会の冷たい朝の空気が隙間風となって入り込んでくる。 昨日の自分にサヨナラを告げる。 逃げるための言い訳は、もうこの部屋のゴミ箱に捨ててきた。 僕の感情が、今、猛烈に「生きたい」と叫んでいる。 このキャンバスが、僕の羽になる。 不格好で、傷だらけで、けれど何よりも重厚な「黒」の翼。 その瞬間、僕は気づいた。 期待しなけりゃ痛む場所もない。けれど、痛むということは、まだ僕が何かを、自分自身を期待している証拠なのだと。理想の自分を手放して、見ないふりに慣れてしまうのは簡単だ。けれど、そんなのは本当の僕じゃない。 過去の自分を救うために、僕は戦わなければならない。 閉じた目の裏に映るのは、絶望の続きじゃない。 新しく描く、夢の続きだ。
部屋を飛び出した僕を待っていたのは、早朝の刺すような冷気だった。 深夜に描いたキャンバスの感触が、まだ指先に残っている。黒い絵の具が乾ききらないうちに、僕はいてもたってもいられなくなったのだ。あの部屋にいては、自分の熱に浮かされて死んでしまうような気がした。
向かった先は、山手線のガード沿いにある古い雑居ビルだ。そこには、かつて僕が師と仰ぎ、そして僕の才能を完膚なきまでに否定した男、阿久津の個人アトリエがある。 阿久津は、現代美術界で「光の魔術師」と称えられる重鎮だ。彼の描く絵は、誰もが目を奪われるほど鮮やかで、希望に満ちている。三年前、僕が彼の門を叩いた時、彼は僕のスケッチを一瞥してこう言い放った。 「君の絵には、救いがない。その執拗なまでの『黒』は、観る者の心を閉ざすだけだ。期待していたんだがね。もっと明るい、大衆が求める光を描けるようにならなければ、君に未来はない」
その言葉は、当時の僕にとって死刑宣告に等しかった。それ以来、僕は彼に認められたくて、無理やり彩度の高い色を使い、心にもない「希望」を塗りたくってきた。けれど、描けば描くほど、僕の心は出口のない迷路に迷い込んでいったのだ。
ビルの前まで来ると、一台の高級車が止まっていた。 車から降りてきたのは、阿久津と、そしてあのSNSで眩しく輝いていた「彼」――かつての同門、瀬戸だった。 「先生、今回の個展も大成功ですね。僕の新作も、先生に教わった『光の構成』を意識してから、一気に評価が上がりました」 瀬戸の晴れやかな声が、コンクリートの壁に反響する。阿久津は満足そうに頷き、彼の肩を叩いた。 「いいよ、瀬戸。君は素直だ。時代の波を読み、自分が何色に染まるべきかを理解している。それがプロというものだ」
物陰に隠れた僕の胸に、鋭い痛みが走る。 期待しなけりゃ痛む場所もない。分かっている。けれど、あそこに並んで笑っているはずだった自分を想像してしまう。理想の自分を手放して、世間が望む「おどける馬鹿」を演じきれれば、今頃僕もあちら側にいたのかもしれない。 けれど、僕の心臓がそれを拒絶している。消えたいほど惨めでも、この「黒」だけは譲れないと叫んでいる。
「……阿久津先生」 気づけば、僕は声をかけていた。 二人が驚いたようにこちらを振り返る。瀬戸の目が、一瞬だけ蔑むように細められた。 「なんだ、お前か。まだそんな格好でうろついているのか」 阿久津の声には、もはや怒りすらなく、ただ深い失望だけが混じっていた。 「先生。僕は……僕はもう、あなたの教える光は描けません」 「今さら何を。才能がないと自覚したのなら、早く別の道を探すことだ。それが身のためだよ」 「違います。僕は、僕の傷を翼に変えることに決めたんです。何色にも染まらない、黒い羽で飛ぶことにしたんです」
阿久津は鼻で笑った。 「黒い羽だと? そんなものでどこへ行ける。闇に紛れて消えるのが関の山だ。瀬戸を見ろ。彼は光を目指して、着実に階段を上っている。お前にあるのは、ただの『悪あがき』だ」
悪あがきなんかじゃない。 僕は拳を握りしめた。 瀬戸の背後にある、出口のない世界――一見華やかだが、誰かの色に染まらなければ生き残れない、窒息しそうな正解。そこに零れ落ちていく前に、僕は自分だけの正解に辿り着かなければならない。 目の前にある選択肢は、今や明白だった。 彼らの認める「光」という罠に屈するか。 それとも、孤高の「黒」を貫き、自らの手で夜を裂くか。
「見ていてください。僕が、次の朝を迎えに行くのを」 僕はそれだけ言い残し、背を向けた。 背後で瀬戸が何かを嘲笑う声がしたが、もう気にならなかった。 不思議な感覚だった。胸の傷が、ズキズキと熱を帯びている。けれど、それは僕を蝕む痛みではなく、飛翔するためのエンジンの鼓動のように感じられた。
歩き出した僕の足取りは、いつの間にか駆け足に変わっていた。 冷たい雨が降り出したが、それさえも心地よかった。 不安や葛藤、そのすべてが力に変わっていく。 報われない努力を無駄だと嘆き、立ち止まって泣いた夜は昨日で終わりだ。 最低な自分にサヨナラを告げる。 アパートに戻った僕は、再びキャンバスに向かった。 まだ夜は明けていない。けれど、僕の視界には、闇が隠していた答えが、うっすらと照らされている。 それは未来への光。 閉じた目の裏に映るのは、新しく描く夢の続き。 僕は再び筆を手に取った。 いつか、僕と同じように暗闇の中で震えている誰かがいるのなら。 僕はその手を引いていけるような、そんな強さをこの黒の中に込めたい。 一歩、また一歩。 逸れないように、そっと。 僕は僕自身の手を引くように、キャンバスに魂を刻み込んでいった。