泣いて、恋をする。
流石に元恋人の指輪はつけてほしくないから。そう言って嵯峨がリングケースをくれた。どこで売っているのか、小さな宝箱に鎖が巻きついたデザインで、簡単には開きませんよという意味が込められているらしい。遊び心のあるデザインでも素材は高級品で、受け取るのを躊躇った。だが「これに入れて指輪を封印してほしい」と言われて従うことにした。今七輝が好きなのは嵯峨だ。それでも鈴木との過去を消し去ることはできないから、捨てろと言わない彼に感謝している。チタンの指輪よりずっと高価なリングケースを、そっとチェストの奥にしまい込む。
職場でもすっかり総務部副部長に落ち着いて、七輝もそんな彼の姿に慣れてしまった。七輝だけでなく、根本の隣でできる男の顔を見せる彼を悪く言う者はいない。無駄に敵を作らないオーラも彼の強みの一つなのだろう。
その彼とも話し合って、七輝の社員復帰はもう少し待とうということになった。心は随分回復したが、いつまた理事会の夜のようなことが起きるか分からない。迷惑を掛けたくないから、もう少し自身の経過観察をしていたい。
それにこれは打ち明けていないが、社員に戻るときは本社の総務部に配属されるとは限らないのだ。バイトの管理は根本だが、社員の管理は人事部の仕事だ。別の階の経サやシス管かもしれないし、離れた支店に回される可能性もある。今はもう少し根本と嵯峨の下で働いていたい。
「俺は副部長になったばかりなので、少なくても数年はここにいることになりますよね? 焦らなくても俺がいる間に社員復帰すればいいじゃないですか。彼のことはちゃんと気に掛けておきますから」
嵯峨が根本にそう言ってくれた。根本も七輝の今後を心配してくれているだけで、無理強いしたい訳ではないので、「それなら湯野のことは任せた」ということになった。どん底にいた頃は退職するつもりでいたのに、今はだいぶ前向きだ。二人には感謝してもしきれない。
そんな訳で、秘密の恋愛を抱えた職場生活は穏やかに続いていた。お互い舞い上がってミスをしたり、社内でバレるようなことをするタイプではないので、仕事にはなんの問題もない。だが職場に好きな男がいるというだけで景色が違って見えた。おはよ。お疲れ。擦れ違いざまにそう言われるだけで、厄介な仕事も頑張れそうな気がする。体力と精神力の消耗度合いが違う。恋は社会人の燃費をよくしてくれるものらしい。
ふとした瞬間に彼の仕事ぶりを眺めるのもいい息抜きになった。彼は七輝を綺麗と言ってくれるが、七輝にしてみれば彼の方が余程綺麗だ。いや、綺麗というより美丈夫という言葉がしっくりくる。部下が話しかけやすいようにいつも穏やかな顔をしているが、時々隠しきれずに現れる切れ者の顔が好きだ。同性だが素直に格好いいと思う。気づかれるから程々にしようと思うのに何度も見てしまう。そのうち叱られるかもしれないと、そんな心配が楽しくて仕方ない。
恋人になってからも彼はマメで、休日も二人で食事や美術館に行った。嵯峨は絵を描いているときに誰かが傍にいても気にならないタイプで、マンションのアトリエにしている一室にも躊躇いなく七輝を入れてくれる。
コンクールに出す絵はスクールに保管してあるらしく、その日も別のデッサンをする彼の傍で静かにしていた。キャンバスの前に座って鉛筆を動かす彼の姿を、部屋の隅の壁に寄りかかって眺める。七輝にとっては出掛けるのと同じくらい幸せな時間だ。
「一応デートなんだから、そこまで静かにしていなくていいよ。俺は喋りながら描けるし、今日はお家デートってやつだしね」
邪魔をしないように隅にいたのに、そう彼に笑われてしまった。
「そもそもそこで何をやっているの?」
キャンバスから離れた彼がやってきて、慌てて手にしていたものを背中に隠す。
「たいしたことではないです」
「じゃあ、なんで隠しているの? 七輝も絵を描いていたんじゃない? いいから見せて」
やや強引に手を引かれて、閉じていたメモ帳を開かれてしまう。
「……上手いじゃない。熊の特徴をよく掴んでいる」
「猫です」
「ああ、ごめん。猫ね」
そこで彼が堪えきれずに吹き出した。
「笑わなくてもいいでしょう?」
「ごめん。なんでもそつなく熟す七輝にも、苦手なことがあったんだなと思って」
「もう。そこまで酷くないのに」
嵯峨が絵を描いているから、自分も描いてみたくなって描いてみた。だが彼に言われるまでもなく、自分の才能のなさを自覚しただけで終わったのだ。頭でイメージした動物を描こうとするのに、どうしても脳が手におかしな指令を出してしまう。イメージ通りに描ける人間は凄いのだと、当たり前のことを再確認する。
「学校で絵の授業くらいあったでしょう?」
「俺の絵の知識は中学で止まっているんです」
聞かれて、何故か自慢げに答えてみせた。
「高校は?」
「違反高校だったもので」
「へぇ。今時珍しいね」
職場でもすっかり総務部副部長に落ち着いて、七輝もそんな彼の姿に慣れてしまった。七輝だけでなく、根本の隣でできる男の顔を見せる彼を悪く言う者はいない。無駄に敵を作らないオーラも彼の強みの一つなのだろう。
その彼とも話し合って、七輝の社員復帰はもう少し待とうということになった。心は随分回復したが、いつまた理事会の夜のようなことが起きるか分からない。迷惑を掛けたくないから、もう少し自身の経過観察をしていたい。
それにこれは打ち明けていないが、社員に戻るときは本社の総務部に配属されるとは限らないのだ。バイトの管理は根本だが、社員の管理は人事部の仕事だ。別の階の経サやシス管かもしれないし、離れた支店に回される可能性もある。今はもう少し根本と嵯峨の下で働いていたい。
「俺は副部長になったばかりなので、少なくても数年はここにいることになりますよね? 焦らなくても俺がいる間に社員復帰すればいいじゃないですか。彼のことはちゃんと気に掛けておきますから」
嵯峨が根本にそう言ってくれた。根本も七輝の今後を心配してくれているだけで、無理強いしたい訳ではないので、「それなら湯野のことは任せた」ということになった。どん底にいた頃は退職するつもりでいたのに、今はだいぶ前向きだ。二人には感謝してもしきれない。
そんな訳で、秘密の恋愛を抱えた職場生活は穏やかに続いていた。お互い舞い上がってミスをしたり、社内でバレるようなことをするタイプではないので、仕事にはなんの問題もない。だが職場に好きな男がいるというだけで景色が違って見えた。おはよ。お疲れ。擦れ違いざまにそう言われるだけで、厄介な仕事も頑張れそうな気がする。体力と精神力の消耗度合いが違う。恋は社会人の燃費をよくしてくれるものらしい。
ふとした瞬間に彼の仕事ぶりを眺めるのもいい息抜きになった。彼は七輝を綺麗と言ってくれるが、七輝にしてみれば彼の方が余程綺麗だ。いや、綺麗というより美丈夫という言葉がしっくりくる。部下が話しかけやすいようにいつも穏やかな顔をしているが、時々隠しきれずに現れる切れ者の顔が好きだ。同性だが素直に格好いいと思う。気づかれるから程々にしようと思うのに何度も見てしまう。そのうち叱られるかもしれないと、そんな心配が楽しくて仕方ない。
恋人になってからも彼はマメで、休日も二人で食事や美術館に行った。嵯峨は絵を描いているときに誰かが傍にいても気にならないタイプで、マンションのアトリエにしている一室にも躊躇いなく七輝を入れてくれる。
コンクールに出す絵はスクールに保管してあるらしく、その日も別のデッサンをする彼の傍で静かにしていた。キャンバスの前に座って鉛筆を動かす彼の姿を、部屋の隅の壁に寄りかかって眺める。七輝にとっては出掛けるのと同じくらい幸せな時間だ。
「一応デートなんだから、そこまで静かにしていなくていいよ。俺は喋りながら描けるし、今日はお家デートってやつだしね」
邪魔をしないように隅にいたのに、そう彼に笑われてしまった。
「そもそもそこで何をやっているの?」
キャンバスから離れた彼がやってきて、慌てて手にしていたものを背中に隠す。
「たいしたことではないです」
「じゃあ、なんで隠しているの? 七輝も絵を描いていたんじゃない? いいから見せて」
やや強引に手を引かれて、閉じていたメモ帳を開かれてしまう。
「……上手いじゃない。熊の特徴をよく掴んでいる」
「猫です」
「ああ、ごめん。猫ね」
そこで彼が堪えきれずに吹き出した。
「笑わなくてもいいでしょう?」
「ごめん。なんでもそつなく熟す七輝にも、苦手なことがあったんだなと思って」
「もう。そこまで酷くないのに」
嵯峨が絵を描いているから、自分も描いてみたくなって描いてみた。だが彼に言われるまでもなく、自分の才能のなさを自覚しただけで終わったのだ。頭でイメージした動物を描こうとするのに、どうしても脳が手におかしな指令を出してしまう。イメージ通りに描ける人間は凄いのだと、当たり前のことを再確認する。
「学校で絵の授業くらいあったでしょう?」
「俺の絵の知識は中学で止まっているんです」
聞かれて、何故か自慢げに答えてみせた。
「高校は?」
「違反高校だったもので」
「へぇ。今時珍しいね」
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