泣いて、恋をする。

 身体を綺麗にして布団に横になったところで、漸く二人とも冷静さを取り戻した。
「鍵も掛けないで、仲居さんが入ってきたらまずかったですね」
「だね」
 気恥ずかしくて、どうでもいいことを返してしまう。
「七輝」
 だが布団の中でぎゅっと手を握ってくれたのはやはり嵯峨の方だ。
「前の恋人のことを忘れろとは言わない。傷はゆっくり癒していけばいいから、俺の恋人になって」
 彼が身体を横向けて、ごく近い距離で目が合ってしまう。断る理由はない。多分『未完の希望』を目にしたときから、七輝は嵯峨に惹かれていた。
「俺も、嵯峨さんが好き」
 胸のところで彼の右手を握り直して告げる。どうやら自分は彼の手に触れているのが好きらしい。
「でも一つだけ条件があります」
「何?」
 不安のまま手を離そうとして、彼に指を絡めるようにして止められた。離してやらない。そう心の声が聞こえる気がするのが自惚れでないといい。
「俺に何も言わずにいなくならないでください」
 軽い調子で言う筈が、言葉にすれば込み上げるものがあった。
「嫌いになったら振ってくれていい。でも、黙っていなくなることだけは……っ」
 堪えて細かく震える身体を、彼が強く抱きしめてくれる。
「俺は大事な人間を一人になんてしない」
 なんて信頼できる言い方なんだと思った。
「こんな、本当はどうしようもなく弱い人間を、一人になんかできない」
「酷い」
「愛情表現でしょう?」
 言葉に安堵して、その胸に頬を寄せる。ああ、辛かったのだと自覚した。ずっと辛かった。突然一人にされて、自分を責めて、ずっとずっと辛かった。だがどうやらその辛さから逃れていいときが来たらしい。
「泣いていいよ」
 髪を撫でながら言われて首を横に振った。泣いて堪るか。今自分は幸せなのに、どこに泣く必要がある。そう強がっていないと、一晩中彼に甘えてしまいそうだった。せっかくの幸せな時間を無駄にしたくなくて、七輝もぎゅっと彼の背に腕を回す。
「俺はそんなにヤワじゃないです」
「強がりだね」
「そんな俺に惚れたんでしょう?」
「言うね」
 色気のない言葉の応酬が幸せだった。掛けものの中でじゃれ合って、またキスをして、彼の手に触れたまま眠りに落ちていく。
 恋人になってしまった。何もかも解決という訳ではないが、暗い場所で進めなくなっていた自分に、一つ灯りが差し出された。それも高性能で、ちょっとやそっとじゃ消えたりしない優れもの。
 俺は大事な人間を一人になんてしない。
 彼の寝顔を盗み見ながら、心にじんと染みるような言葉を反芻していた。
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