泣いて、恋をする。
鈴木が亡くなってから旅行なんて初めてで、自分が温泉で寛いでいるのが不思議な気がした。もう立ち直れないと思っていたのに、働いて、気になる人に出会って、こうして温泉に浸かっている。完全でなくても、少しずつ過去を乗り越えて時間は進んでいく。多くは望まない。七輝が平凡で幸せな生活を手に入れても鈴木が怒らなければいい。彼を想えばまだ胸が痛む。これからも死の真相を知ることはないし、お墓参りにも行けない。それを受け入れた上で前に進んでいけるだろうか。嵯峨のように綺麗に解決させることはできなくても、気持ちの折り合いをつけて、苦しむことのない日々を生きてもいいだろうか。
湯船で考えすぎてのぼせてしまった。脱衣所で着替えて扇風機に当たって、頭と身体を冷やして部屋に帰っていく。
そっと襖を開ければ、嵯峨はまだ絵を描いていた。ずっと暗い窓の外に何を見ているのだろう。彼の過去に決着をつけるための旅行で、費用も全て彼持ちだから文句は言えないが、それにしても、ついてこいと言っておきながら放置しすぎではないか。流石に不満が湧いてしまう。
脅かしてみたらどうだろうと、らしくもないことを考えた。そっと近づいて後ろから声を掛けてみよう。そう思って忍び足で近づいていく。
「……っ」
だが驚かされたのは彼ではなく七輝の方だった。
「お帰り」
とっくに七輝に気づいていたらしい彼に声を掛けられる。
「……景色なんて描いていないじゃないですか」
せめて目一杯不機嫌に言った。
「そのとき描きたいと思ったものを描くことにしているから」
平然と返す彼のスケッチブックに描かれていたのは七輝だった。浴衣姿の七輝が、誰が見ても分かるように幸せそうに笑っている。さっきから一心にこれを描いていたのかと思えば、恥ずかしくて彼を責めることもできない。
「俺はこんなに綺麗じゃない。美化しすぎです」
一応不満げに言ってやれば、漸く彼がスケッチブックを置いた。
「俺の力作に文句を言うとは偉くなったもんだね」
椅子から立ち上がって、距離を取ろうとしていた七輝の腕を引く。
「ちょっと、嵯峨さん……っ」
「肌が熱い」
「お風呂に言ってきたんだから当たり前です。わ……っ」
七輝がいない間に旅館スタッフが出していったのか、窓の傍に畳んだ布団が置いてあって、それに二人で倒れてしまう。
「自分がどれだけ人の目を引く容姿か自覚がないの?」
「馬鹿なことを……」
「馬鹿なこと? 女性陣に恨まれそうなほど白い肌をしているし、できる男なのに優しげな目っていうのも周りから惚れられそうで気が気じゃない。笑うと泣きそうになる顔も護ってやらなきゃって感じだし、とにかくまずい。そして本人はそのまずさに気づいていないところがまずすぎる。なんせ、この俺が惑わされているから」
「まずいが多いです」
いつもより少し言葉が砕けているのは、田上と話して緊張が解けたからだ。邪険に扱われるようなことはないと分かっていても、それなりに気は張っていたのだろう。素の彼を見せられていると思えばこちらも嬉しい。
「俺はごく普通の男です。絵を描きすぎておかしくなったんじゃないですか?」
酷い言い方だが彼は更に楽しげな顔になるだけだ。
「ううん。俺の目は確か。ついでに言うと、あの女神像は七輝に似ている」
「え?」
驚いた拍子に布団が崩れて、崩れたところに背中から倒れた。
「本人は気づかないものなんだろうね。特に目元がよく似ている。癪だから黙っているつもりだったけど」
七輝に覆い被さる形で真上に彼の顔。まっすぐ見下ろされてドキドキと胸が騒ぐ。その顔のどこにも嘘は感じない。
「前に、恋人に恨まれているんじゃないかって言ったね」
取って食われるかと思ったが、彼は七輝の手首を離して隣に横になった。崩れて広がる布団の上で、彼の声だけが耳に届く。七輝をからかいたい訳ではないらしいから、黙ってその横顔を見つめる。
「俺はそうは思わない。寧ろ七輝の言葉が嬉しかったんじゃないかって思う。珍しい花屋をオープンさせたら遊びに行くって言ったんでしょう?」
「……一緒についていくと言えなかった。だから制作に行き詰ったとき、自分に味方はいないと思って命を絶ってしまったんじゃないかって」
本音が零れる。あれだけ一緒にいながら、言外のものを読めなかった。だが嵯峨はそれにも首を振る。
「考えてもみなよ。七輝は保証会社の社員なんだよ。採算が取れなくて潰れるだろうと判断した企業には、初めから保証なんてしない。審査部の審査はシビア。経理部で働いていたって、そんなのは基礎中の基礎で七輝だってよく知っていたでしょう?」
「もちろん」
「そんな七輝が否定しなかった。花の品種改良をやりたいと言ったとき、無理だと言わずに遊びに行くと言った。俺なら嬉しい。俺のやりたいことを受け入れてくれたって喜んでしまう」
湯船で考えすぎてのぼせてしまった。脱衣所で着替えて扇風機に当たって、頭と身体を冷やして部屋に帰っていく。
そっと襖を開ければ、嵯峨はまだ絵を描いていた。ずっと暗い窓の外に何を見ているのだろう。彼の過去に決着をつけるための旅行で、費用も全て彼持ちだから文句は言えないが、それにしても、ついてこいと言っておきながら放置しすぎではないか。流石に不満が湧いてしまう。
脅かしてみたらどうだろうと、らしくもないことを考えた。そっと近づいて後ろから声を掛けてみよう。そう思って忍び足で近づいていく。
「……っ」
だが驚かされたのは彼ではなく七輝の方だった。
「お帰り」
とっくに七輝に気づいていたらしい彼に声を掛けられる。
「……景色なんて描いていないじゃないですか」
せめて目一杯不機嫌に言った。
「そのとき描きたいと思ったものを描くことにしているから」
平然と返す彼のスケッチブックに描かれていたのは七輝だった。浴衣姿の七輝が、誰が見ても分かるように幸せそうに笑っている。さっきから一心にこれを描いていたのかと思えば、恥ずかしくて彼を責めることもできない。
「俺はこんなに綺麗じゃない。美化しすぎです」
一応不満げに言ってやれば、漸く彼がスケッチブックを置いた。
「俺の力作に文句を言うとは偉くなったもんだね」
椅子から立ち上がって、距離を取ろうとしていた七輝の腕を引く。
「ちょっと、嵯峨さん……っ」
「肌が熱い」
「お風呂に言ってきたんだから当たり前です。わ……っ」
七輝がいない間に旅館スタッフが出していったのか、窓の傍に畳んだ布団が置いてあって、それに二人で倒れてしまう。
「自分がどれだけ人の目を引く容姿か自覚がないの?」
「馬鹿なことを……」
「馬鹿なこと? 女性陣に恨まれそうなほど白い肌をしているし、できる男なのに優しげな目っていうのも周りから惚れられそうで気が気じゃない。笑うと泣きそうになる顔も護ってやらなきゃって感じだし、とにかくまずい。そして本人はそのまずさに気づいていないところがまずすぎる。なんせ、この俺が惑わされているから」
「まずいが多いです」
いつもより少し言葉が砕けているのは、田上と話して緊張が解けたからだ。邪険に扱われるようなことはないと分かっていても、それなりに気は張っていたのだろう。素の彼を見せられていると思えばこちらも嬉しい。
「俺はごく普通の男です。絵を描きすぎておかしくなったんじゃないですか?」
酷い言い方だが彼は更に楽しげな顔になるだけだ。
「ううん。俺の目は確か。ついでに言うと、あの女神像は七輝に似ている」
「え?」
驚いた拍子に布団が崩れて、崩れたところに背中から倒れた。
「本人は気づかないものなんだろうね。特に目元がよく似ている。癪だから黙っているつもりだったけど」
七輝に覆い被さる形で真上に彼の顔。まっすぐ見下ろされてドキドキと胸が騒ぐ。その顔のどこにも嘘は感じない。
「前に、恋人に恨まれているんじゃないかって言ったね」
取って食われるかと思ったが、彼は七輝の手首を離して隣に横になった。崩れて広がる布団の上で、彼の声だけが耳に届く。七輝をからかいたい訳ではないらしいから、黙ってその横顔を見つめる。
「俺はそうは思わない。寧ろ七輝の言葉が嬉しかったんじゃないかって思う。珍しい花屋をオープンさせたら遊びに行くって言ったんでしょう?」
「……一緒についていくと言えなかった。だから制作に行き詰ったとき、自分に味方はいないと思って命を絶ってしまったんじゃないかって」
本音が零れる。あれだけ一緒にいながら、言外のものを読めなかった。だが嵯峨はそれにも首を振る。
「考えてもみなよ。七輝は保証会社の社員なんだよ。採算が取れなくて潰れるだろうと判断した企業には、初めから保証なんてしない。審査部の審査はシビア。経理部で働いていたって、そんなのは基礎中の基礎で七輝だってよく知っていたでしょう?」
「もちろん」
「そんな七輝が否定しなかった。花の品種改良をやりたいと言ったとき、無理だと言わずに遊びに行くと言った。俺なら嬉しい。俺のやりたいことを受け入れてくれたって喜んでしまう」